聖書の探求 002b 聖書の中のタイプ(予型) 旧約聖書中のタイプ (2)歴史的タイプ

②歴史的タイプ
これはイスラエル民族が経験した歴史上の事実で、しかも神のみわざと導きを示すものです。その重要なものをいくつか挙げてみましょう。

過越(出エジプト記12章)

キリストの十字架の血による救い(ヨハネ1:29、コリント第一5:7)
ヨハ1:29 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
Ⅰコリ5:7 新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。

過越には神の怒りと刑罰からのがれるという意味が強調されています。そのために小羊の血が要求されたのです。罪が赦されるためには、血が必要なのです。キリストの十字架も、私たちが受けるべき神の怒りと刑罰をキリストが代わりに受けてくださったことがその中心です。なぜキリストが身代りとして神の怒りを受けられたかというと、そこに神の愛があるのです。この真理を単純化してみますと、キリストは神であられますから、神は神ご自身を私たちの代わりに罰して、私たちをお救いくださったのです。これが神の愛です。

エジプトからの救出(出エジプト記13章~14章)

罪からの救出 (使徒7:34~36)
使7:34 わたしは、確かにエジプトにいるわたしの民の苦難を見、そのうめき声を聞いたので、彼らを救い出すために下って来た。さあ、行きなさい。わたしはあなたをエジプトに遣わそう。』7:35 『だれがあなたを支配者や裁判官にしたのか』と言って人々が拒んだこのモーセを、神は柴の中で彼に現れた御使いの手によって、支配者また解放者としてお遣わしになったのです。7:36 この人が、彼らを導き出し、エジプトの地で、紅海で、また四十年間荒野で、不思議なわざとしるしを行いました。

イスラエル民族はエジプトにおいて奴隷の生活を強いられていました。それは逃れるに逃れられない苦しい生活でした。自分たちの努力では決して解放されないものでした。この状態は、神を知らない私たちの罪の生活を表わしています。この状態をパウロは、「罪の奴隷」(ローマ6:16~23)と呼んでいます。
ロマ6:16 あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。 6:17 神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、6:18 罪から解放されて、義の奴隷となったのです。6:19 あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。6:20 罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。6:21 その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。6:22 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。6:23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

しかし神はイスラエルの人々が苦しみ叫ぶ声を聞かれて、モーセをエジプトに遣わし、民をエジプトの奴隷の中から救出されたのです。このとき初めて、イスラエルの民は新しい神の支配される国を建設するようになったのです。彼らには神の約束された地力ナンが待っていました。これこそ、救い主イエス・キリストが私たち罪人を罪の奴隷から解放し、神の家族に加えてくださり、神の国の一員としてくださることのタイプなのです。そして彼を信じる者には天国が約束されているのです。

シナイの荒野の四十年の放浪生活(民数記)

聖化の恵みに至るまでのさまよった信仰生活 (ヘブル3;7~19)
ヘブル3:7 ですから、聖霊が言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、3:8 荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。3:9 あなたがたの父祖たちは、そこでわたしを試みて証拠を求め、四十年の間、わたしのわざを見た。3:10 だから、わたしはその時代を憤って言った。彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。3:11 わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。」3:12 兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。3:13 「きょう」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。3:14 もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。3:15 「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。3:16 聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。3:17 神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。3:18 また、わたしの安息に入らせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。3:19 それゆえ、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。

イスラエルの民は、奴隷の地エジプトから脱出したときは、紅海を渡るという劇的経験をして感動にわきましたが、その後、熱さのための渇き、空腹、そして旅路の困難さの故に、不平不満のつぶやきを言い続け、ついに約束の地力ナンの人口であるカデシュに着いたとき、不信仰な心になってしまったのです。
その結果、神はカナンを偵察した四十日間の一日を一年に計算して、四十年間民を荒野にさまよわせることにしたのです。この四十年の間にエジプトを脱出したとき成人だった者は、カレブとヨシュアを除いて全員、荒野で死んでしまったのです。これはクリスチャンに対する大きな警戒です。救われたら、躊躇せず、まっすぐに自分のすべてを主に明け渡し、聖化の恵みにあずかり、神の安息に入ることが大切です。低空飛行は墜落のもと。躊躇、不平不満は不信仰のもと、わざわいのもと、滅びのもとになります。

ヨルダン川を渡る(ヨシュア記3~4章)

信仰による安息(聖化の恵み)に入ること (ヘブル4:1~11)
ヘブル4:1 こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。4:2 福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。4:3 信じた私たちは安息に入るのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。4:4 というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた」と言われました。4:5 そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息に入らせない」と言われたのです。4:6 こういうわけで、その安息に入る人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえに入れなかったのですから、4:7 神は再びある日を「きょう」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。4:8 もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。4:9 したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。4:10 神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。4:11 ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。

カデシュから神の約束の地力ナンに入ることに失敗したイスラエルの民は、それから四十年後、モーセの後継者ヨシュアに率いられてヨルダン川を渡り、ついにカナンに入国したのです。しかしその時期は春の雪解けシーズンで、冷い水が川岸まで一杯にあふれていました。普段なら川幅の狭いヨルダン川も、この時期にはゴウゴウと流れていたのです。神はわざわざこの時期を選んで渡らせなさいました。それは民が信仰によって渡ることを学ぶためでした。カデシュで不信仰になって失敗した民に、もう一度チャンスが与えられたのです。私たちは失敗しないほうがいいですが、失敗しても失望する必要はありません。
今回は、見事にヨルダン川を渡りました。これによって、長い間の信仰の放浪生活は終わり、神の安息の生活に入ったのです。このヨルダン川を渡ることは、クリスチャンの聖化の経験のタイプとして用いられています。イスラエルの民がエジプトを脱出して紅海を渡り、再びここでヨルダン川を渡って約束の地に入ったという二つの転機的経験は、私たちが罪の生活から救われることと、その後に受ける聖化の恵みを表わすものです。ここに非常に大切な二つのタイプが示されています。

カナンの地における戦い (ヨシュア記5;13~12章)

信仰生活の戦い (エペソ6:10~18)
エペ 6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。 6:11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。 6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。 6:13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。 6:14 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、 6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。 6:16 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。 6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。 6:18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

イスラエルの民は、神の約束の地力ナンに入国しましたならば、すべての戦いは終わったのでしょうか。いいえ、そうではありません。その時から本当の戦いが始まったのです。ヨルダン川を渡るまでは、自らの内にある不信仰と戦わなければなりませんでした。不平、不満、愚痴のつぶやきをつくり出す内的罪と戦わなければなりませんでした。つまり自分の内側に住む敵と戦っていたわけです。しかし信仰によってヨルダン川を渡り、全く神に信頼して神の安息を得た今は、内なる敵との戦いは終わっています。これからの戦いは、外側から来る敵との戦いです。すなわちサタンの攻撃、‥誘惑そして困難との戦いです。しかしこの戦いにはいつも、主の軍の将であるイエス・キリストが戦ってくださいますから、勝つことができるのです。ところがヨルダン川を渡る前は、自分の内側にサタンに味方する敵(罪の性質)がいますから私たちは内と外のはさみうちに会って、大抵負けてしまうのです。しかしカナンに入った今は、敵は外だけです。しかもイエス・キリストが戦ってくださいますから常に勝利することができます。しかしこれは条件付です。すなわち私たちが自分のすべてを主におまかせし、全面的に信頼している時には勝利できる、ということです。

旧約聖書が分からなければ、新約聖書は分からないとよく言われますが、それは旧約の歴史そのものが新約において、重要な意味をもつタイプとして使用されているからです。

 


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