音声+文書:信仰の列伝(40) 「信頼されたダビデ」(サムエル記第一 25章)へブル人への手紙11章32~34節

フランスの画家James Tissot (1836–1902)による「Abigail Kneels before David(ダビデの前にひざまずくアビガイル)」(New YorkのJewish Museum蔵))


2017年5月21日 (日) 午前10時半
礼拝メッセージ  眞部 明牧師

へブル人への手紙11章32~34節

11:32 これ以上、何を言いましょうか。もし、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たちについても話すならば、時が足りないでしょう。
11:33 彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、
11:34 火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。
【新改訳改訂第3版】

はじめの祈り

「彼らは、信仰によって、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。」
恵みの深い天のお父様、この一週間の旅路をお守り下さり、こうして新しい週にイエス様を礼拝して始めることができますことを、感謝いたします。
今週もあなたが御心を示し、あなたの霊を与えて、私たちが行くべき道を祝してください。
また、私たちが接する方々にいのちの光が灯りますように、導いてください。
今日もみことばを祝して、新しい人とならせてください。
尊いキリストの御名によって、お祈りいたします。アーメン。


今日は「信頼されたダビデ」という題でお話しします。

ダビデのお話を続けておりますけれど、クリスチャンとして、そのことばや態度、行い、行状が、この世の人から信頼に値する者であることは、イエス様を証ししたり、福音宣教するために、不可欠な要素であります。そのためには、自分の感情と人格をコントロールできる分別力が必要です

それでは、自分の感情をコントロールする分別力は、どのようにして得られるのでしょうか。それは一日にして得られるものではありません。毎日の生活を、主と共にくびきを負うことによって、身についてきます。

ダビデは、勝利をもたらした時には非常な人気者になりました。国中の人々がダビデを褒め称えたわけです。
しかし、それから後、ダビデは、サウルからの逃亡の期間がだんだんと長くなってきました。すると、ダビデは逃亡者という印象が強くなって、悪い評判が立ちやすい状況になってきました。それで、ダビデに対して、王への反逆者とか、悪者としての扱いが出始めてきました。そういう時期のことをお話ししたいと思います。

第一サムエル記の25章10節をお読みしたいと思います。
Ⅰサム 25:10 ナバルはダビデの家来たちに答えて言った。「ダビデとは、いったい何者だ。エッサイの子とは、いったい何者だ。このごろは、主人のところを脱走する奴隷が多くなっている。」

ナバルはダビデを、脱走した奴隷だ、と言って罵っています。もちろん、そうではないのだけれども、このような悪意を持って見る人たちは、どこにもいるわけですね。悪意を抱いている人とか、偏見のある人とか、批判的な人とか、異教徒たちは、聖なる神のしもべを、悪人だ、と言ってしまうわけです。
今でも、この世の人々は、キリスト教や、教会や、クリスチャンを正しく理解していません。偏見の目で見ておりますから、私たちは彼らに迎合することなく、主の光を輝かせて、地の塩、世の光の証しを諦めずに、続けさせていただきたいと思います。

まず、私たちがなすべきことは、社会全般を変えようとするのではなくて、身近な家族や友人たちに、イエス様の真実な行いを持って、神の愛アガペーを現わさせていただきたい、ということです。その時に聖霊が働いてくださると、その神の愛の中にイエス様を見つけだす人が出てまいります。私たちが蒔いている種は、それから何十年かの後に芽を出すこともあります。

先日もある方からお電話をいただきましたが、「『福音入門』の本をいただいて、それから信仰を持っております。」ということでした。何十年か前に蒔いた種が実っている、という話は、しばしば起きていますね。ですから、私たちは神様を証しさせていただきたい。非常に大切なことであります。

神は愛だから、その愛の種を蒔くことが大事ですね。クリスチャンは互いに愛し合い、助け合うことによって、神がともにいてくださることを証しすることができるわけです。
互いに言い争えば、サタンが働いていることを表してしまいます。また、真実なクリスチャンが自分の力で隣人を愛しようとしたり、教えを早く理解してもらおうと思って、親切が押しつけになってしまうこともありますね。親切が、教え込むことになってしまって失敗する。自分のはやる気持ちを抑えることができないと、かえって拒否されてしまいます。

イエス様は、水を汲みに来たサマリヤの女の人に、永遠のいのちの水を与えられました。
盲人のバルテマイに、「何をしてほしいのか」と尋ねられました。
孤独で寂しかったザアカイに、「今日、あなたのところに泊まることにしているから」と言われました。
イエス様は何をされたのでしょうか。

イエス様は、人の心の中の、渇いて求めているものを与えました。人は渇いているものしか、受け入れないからですね。ですから、律法学者やパリサイ人には、何も与えませんでした。彼らには、渇きがなかったからです。
今、この日本の人達には、物が溢れています。便利な物が、興味がもてる物が、キラキラ輝いているような物が、溢れていますから、たましいに渇きがありません。ですから、みことばの恵みをお分かちしようとしても、彼らには求める気持ちがないのです。
すべての人は、神の愛アガペーを経験したことがありません。知らないから、求めることもしません。そこで、私たちクリスチャンを通して、アガペーを経験してもらう必要があります。
それが、地の塩、世の光の役割なのです。これは理屈を教えても、通じません。「地の塩」とはこういうものだとか、「世の光」とはこういう意味だとか、それをお話ししても通じないのです。心の経験を通して、味わい知ってもらうことから始めます。イエス様はそのことをなさいましたね。このことを私たちは、静かに悟る必要があると思います。

神様の愛、アガペーの愛は、キリストの十字架から受けられますけれども、アガペーがよく経験できるのは、受けることよってではなく、与えることによってであります。使徒の働き20章35節を読んでみましょう。
使 20:35 このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」

「万事につけ、あなたがたに示して来たのです」とパウロは言っていますから、パウロは、ことごとく、折あるごとくに、「受けるよりも与える方が幸いです」、労苦して弱い者を助けましょうと、話し続けてきたと言っています。
クリスチャンは、与えることを通してアガペーを受けることができる、そのことを体験している人であります。このことを通して未信者の人は、初めて、キリストの十字架の愛、アガペーに触れることができます。

当時のナバルとダビデを比べると、ナバルは羊三千頭、やぎ千頭をもつ、当時としては大実業家の一人で、裕福な財産家でありました。ナバル自身も自分を誇って、ダビデを見下げております。しかし、ナバルには神の愛、アガペーがありません。一方、ダビデは無一物の逃亡者でしたが、小さな町や遊牧民たちを、ミデヤンやペリシテの侵略隊、略奪隊たちから、守っていたのです。

ダビデには、神を畏れかしこむ信仰がありました。ナバルは、ダビデの数百倍の財産を持っていましたが、神の恵みも、神の御計画も何もありません。彼はご存知のように、まもなく、石のような頑なな心になって滅びてしまうのです。

ダビデはこのころ、神に召された王となるために、厳しい訓練の中にありました。ですから、ダビデは不当な罵りを受けても、自己卑下せず、劣等感に陥らず、今自分にできること、示されたなすべきことをやり遂げていったわけです。ここに信仰者として成長し、実を結ぶための重要な条件があります。それは、他人からの見下げられた評価や、罵り、批判、嘲り、に対して気を悪くしないことです。そういうことを言われた時に、イライラしたり、腹を立てたりしないことです。心の動揺を引きづらない事です。それに影響されないことです。そのためには、信仰を働かさなくてはなりません。ダビデがやっていたように、いつも「主を自分の前に置いた生活」をすることです。そうすることを通して、彼は信仰の訓練を受けておりました。

もう一つは、ナバルの財産と比べて、ダビデは無一物の自分を見て、落ち込まなかったことです。今日一日のなすべき使命を、着実にやり遂げていくことです。そうすることによって、確実に主の栄光を現わすことに近づいていったのですね。

全てのクリスチャンは、神の国で、キリストとともに王となるための訓練を受けているのです。しぼむことのない栄光の冠を受けるために、信仰の訓練を受けております。このことができれば、最初の訓練が完了します。ダビデはまだ最初の訓練中でありました。

私たちも、他人の批判や罵りで打撃を受けて、落ち込んでしまいやすい事ですけれども、それで自分の仕事も手につかなくなったり、いつまでも悪い感情に捕らわれていたりすると、自分を放棄してしまうことになります。逆に、人に褒められて、自分に誇りを持つことも危険であります。どちらに転んでも、神の御心から外れていってしまいます。へりくだっていて、主に用いられることだけが重要なんです。

ダビデはこのことを経験させられていったのです。彼は、神の王国を築いて主の栄光を現わし、主を証しするために、他人のことばや状況に動揺しない、信仰の基礎を、彼の人格のうちに強固に築いていったのです。これが神の王国の基礎になっています。

目先の状況や人のことばで惑わされる人は、虚しい生涯で終わってしまいます。箴言14章12節を読んでみましょう。
箴 14:12 人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。

自分の知恵で考えると、これは正しい、これは真っすぐだ、そう思える道がある、それを選択しやすいわけですけれども、人の知恵による判断では、死の道であると言っています。
自分の知恵に頼らず、他人の言葉に惑わされず、神の道を歩み続けるためには、神のみことばに深く信頼して、従っていくほかありません。ダビデはその訓練を毎日受けていたわけですね。
人の高い評判にものぼせないで、ナバルのような人の罵りにも動揺しないで、ただひたすら、主に従う訓練を受けております。

次に、ダビデの働きのおもな目的に、目を留めてみましょう。

ダビデは、十人の若者にメッセージを託して、カルメルのナバルのところに行かせました。第一サムエル記の25章5節~6節を読んでみましょう。
Ⅰサム25:5 それで、ダビデは十人の若者を遣わし、その若者たちに言った。「カルメルへ上って行って、ナバルのところに行き、私の名で彼に安否を尋ね、
25:6 わが同胞に、こうあいさつしなさい。『あなたに平安がありますように。あなたの家に平安がありますように。また、あなたのすべてのものに平安がありますように。

若者に、こうご挨拶をしなさい、と言っています。「平安」が何回出てきているでしょうか。誰に「平安」があるように、言っているでしょうか。
「あなたに平安がありますように。あなたの家に平安がありますように。また、あなたのすべてのものに平安がありますように。」と言っていますね。
これがダビデのメッセージであります。ダビデのメッセージは「平安」ですね。
ダビデは、最も平安に相応しくないナバルに、平安のメッセージを送りました。どうしてでしょうか。それは、ナバルが平安に相応しかったからではなくて、ダビデのメッセージだったからですね。ですから、ダビデによって、ナバルに平安を持つチャンスが訪れたわけですけれども、ナバルはそれを拒み、ダビデを罵りました。それゆえ、永遠に、平安はナバルから離れ去ってしまいました。
神の平安は、すぐ近くまで来ていても、信仰によって受け止めなければ、その人のものにはなりません。

ヘブル12章14節を読んでみましょう。
ヘブル 12:14 すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。

「すべての人との平和を追い求めなさい」ということですね。聖められることと同じ水準で、語られています。

ダビデがここで提案した「平安」は、三重の平安でした。
第一は、「あなたに平安」・・・個人的なたましいの平安ですね。
第二は、「あなたの家に平安」・・・祝福された家族の平安、家庭の平安であります。
第三は、「あなたのすべてのものに平安」・・・使用人から家畜に至るまで、すべてに至る平安です。

ダビデが提案している「平安」は、三重の平安、至る所に、至れり尽くせりの平安であります。このように、ダビデは他の人に平安を与えるために働きました。ですから、ダビデの生涯は、栄えたわけです。

マタイ5章9節を読んでみたいと思います。
マタイ5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。

平和をつくる者になりましょう。争いや、戦いや、批判をつくる者ではなくて、平和をつくる者、家庭でも教会でも、周りの人の間でも、争いや、議論や、分裂を起こす人にならないで、キリストの平安を与える人になってください。そうすれば、どんな困難があっても、必ず恵みが得られます。
今、平和をつくる人が少ないですね。争いや戦争の準備をする人は、たくさんいます。平和をつくる人は、神の子どもと呼ばれます。

コロサイ3章15節も読んでみましょう。
コロ 3:15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。

キリストの平和が心を支配するように、そのためにあなたがたは召されて一体となった。クリスチャン一人一人はこのことを目指しているでしょうか。
お互いに言い争って、どちらが正しいかを決めるために、召されているのではありません。議論するために召されているのではありません。
キリストの愛と平安と、キリストのみことばを心の糧として働かせていけば、全てのことが益に働いていくことは間違いありません。

パウロはこの平安の原理を教えています。ピリピ4章4節~7節をお読みしたいと思います。
ピリピ 4:4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
4:5 あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。
4:6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
4:7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

パウロは、神の平安が、私たちの心と思いを守ってくださる、と言っています。不安や、恐れ、怒り、悪い感情、思いに捕らわれることから守ってくださいます。
そのために、パウロはいくつかの条件を教えました。

第一に、「いつも主にあって喜ぶ」ことです。

「主にあって」とは、どんなことでもキリストのところに持っていく、という意味であります。
患難、苦難、侮辱、屈辱を受けた時、その霊的な意味と価値を悟って、喜んで受け止めて、イエス様のところに持っていって忍耐していけば、何が働くでしょうか。品性が訓練され、希望が与えられ、その希望が失われることがなく、聖霊によって私たちの心に神の愛が注がれる、とパウロはローマの5章で言っています。こうして、必ず主が善にしてくださると、主のみこころを喜ぶわけです。

詩篇119篇71節を読んでみましょう。
詩 119:71 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。

「私にとってしあわせでした」と言えるのは、苦しみを通して神さまのみこころをわきまえることができるようなったからですね。苦しみに会ったことをつぶやいたり、批判したり、非難したり、人のせいにしたりする人は幸せにはなれません。苦しみに会ったことを、自分にとって益とするには、その苦しみの意味を悟る必要があります。苦しみの意味を悟ることによって、喜ぶことができるのです。

パウロの第二の条件は、ピリピ4章5節であります。
ピリピ4:5 あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。

これはすべての人の前で、どんな課題に対しても寛容な態度を取りなさい、と言うことですが、では、「寛容」とは、なんでしょうか。
ガラテヤの5章22節では、「寛容」は御霊の実の一つだと言われています。
ガラ 5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。・・・・・

「御霊の実」であるということは、自分の努力や決心では身につかないということです。御霊を心の内にもつ事によって、寛容が与えられます。寛容とは、罪を大目に見逃すことではありません。「寛容」とは、自分の正義感で他人を裁かないこと、利己心がないこと、自己主張を控えて忍耐深い態度を示すこと、裁きを主にまかせること、です。「寛容」「柔和」と兄弟であります。主イエス様は柔和で寛容なお方ですから、イエス様とくびきを共に負っていくと、たましいに平安と寛容が与えられます。その寛容な心を現わしなさい、と言っているわけです。いろいろなことが起きた時、まず私たちの心に、寛容な心の状態が現れれば幸いです。その人は平和をつくる人ですね。

第三は、ピリピ4章6節です。
ピリピ4:6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

キリストの愛と平安を心に持っていることは、生活や働きや生涯を、喜びのあるものにします。キリストの愛と平安を、他の人に分かち与えることによって、自分にも、愛と平安とすべての良きものが与えられます。先ほど、使徒の働きを読みましたように、与えることを通して、私たちは受けるわけですね。「受けるよりも与える方が幸いである」と言うのは、そういう意味であります。ルカ6章38節をお読みしましょう。
ルカ 6:38 与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」

「押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。」と言いました。与えることを通して、恵みを受けることですね。
「人を量る量りで」と言うのは、人を裁く場合にも言われていることばです。マタイ7章2節でも、「人をさばく量りで、あなたも裁かれます」と言われました。

ダビデは、神の愛と平安を人々に分かち与えることを、本業としていたのです。確かに彼は、自衛集団のような働きをしていましたけれども、本当の意味は、神の愛と平安を人々に分け与えることを、本職にしていた人だと言ってよろしいでしょう。それは、ダビデが王様になってからしている事も同じです。そのことをこの時代に、彼は十分に訓練されていたわけです。
私たちは、何をするのが本職なんでしょうか。神の愛と平安を、周りの方々の心に灯すことが本職である、と言われたいものです。その間は、どんな危険からも守られ、勝利も与えられるわけで、そういう人が、たましいを救いに導きます。

ダビデはイスラエルの荒野の各地で、実際には、略奪集団から守る重要な護衛の働きをしていましたが、ダビデの働きがなかったら、イスラエルは、ペリシテ、アマレク、ミデヤンの略奪によって、ズタズタに引き裂かれていたでしょう。そのことをナバルは知らなくても、ナバルの家のしもべたちはよく知っていました。ナバルの家畜が繁栄したのも、ダビデの助けを受けていたからです。不信仰な人は、毎日、神の光を受けて、神の助けを受けて、神の恵みと憐みに包まれて生きていても、それを悟らないで、あたかも自分の力で生きているかのように言います。そこに滅びのしるしがあります。

しかし、しもべたちは、主人ナバルよりも賢かった。しもべたちは、ダビデの真実な人格をよく知っており、ダビデの信仰を知っておりました。ダビデは、今は、逃亡者の身ではあるけれども、やがて優れた指導者となる人物であることを知っていたのです。
Ⅰサムエル記25章15節~16節をお読みしたいと思います。
Ⅰサム25:15 あの人たちは私たちにたいへん良くしてくれたのです。私たちは恥ずかしい思いをさせられたこともなく、私たちが彼らと野でいっしょにいて行動を共にしていた間中、何もなくしませんでした。
25:16 私たちが彼らといっしょに羊を飼っている間は、昼も夜も、あの人たちは私たちのために城壁となってくれました。

ナバルの若者たちは、遊牧民にとって最も必要なことを、ダビデがしてくれた、と言っています。最も危険な、保護の働きをしてくれたと話しています。こういうダビデの保護がないと、ナバルの羊やヤギは、たちまちペリシテ人や近隣の掠奪隊に奪われていたのです。若者たちはそのことをよくわきまえていました。15節を見ると、ナバルの若い使用人たちは、野原で昼夜、ダビデたちといっしょに家畜を守る仕事をしていた、と言っています。ですから、ダビデのグループの真実さをよく知っていたわけです。

若者たちは、ダビデたちが「たいへん良くしてくれた」と言っています。「たいへん良くしてくれた」と言うのは、ただ親切にしてくれた、というのではなくて、ダビデが羊飼いの心を持ち、羊飼いの経験も豊かだったので、羊の養い方、扱い方、飼育の仕方、牧草の多い場所もよく知っていたので、それを教えることができたのです。略奪隊から守るだけではなくて、獅子や熊、野獣を追い払うことも教えました。それらのことは、ダビデが子どものころから、主の力を活用して実行してきたことです。信仰を実際に活用して、熟達していることは、他の人にも教えることに役立ちます。非常に具体的、実際的に教えることができます。

また、「恥ずかしい思いをさせられたこともなかった」と言っています。つまり、ダビデは、相手が使用人だからといって、ののしったり、さげすんだり、侮辱することばや態度とか、行動をとったことがなかった、ということです。相手の地位が低かったり、才能がないのを見ると、侮辱することばや態度に出る人がいます。大体の人がそういう態度を取りやすいのです。そういう人は、神のさばきを受ける滅びの人です。その実例がナバルです。

続けて、「何もなくしませんでした」と言っています。それは、ダビデたちが保護しているからと言って、無断で羊やヤギをほふって食べたり、盗んだり、奪ったりしなかったということです。略奪隊や野獣から逃げ出した家畜が奪われることもなかったのです。

ダビデは、真のよき羊飼いの姿を表しています。
ヨハネ福音書10章10節から14節をお読みしましょう。
ヨハ10:10 盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。
10:11 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
10:12 牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。
10:13 それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。
10:14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。

良い牧者と雇い人の違いが、はっきりしていますね。何も起きない時は、同じようなことをしているように見えますけれども、本当に羊のことを心に掛けているわけではない。羊も本当の羊飼いを知っている、と言っています。ですから、私たちは、そういう意味で、本当にイエス様を信じている人と、そうでない人とを見分ける必要があります。それは、良い羊飼いを知っているかどうか、ということです。聖書の知識も持っているし、儀式も守っているし、一生懸命奉仕にも参加しているけれども、大事なことは、本当に良い羊飼いを知っているかどうかであります。

さらに「城壁になってくれた」とも言っています。城壁とは、略奪隊の外敵からの保護をしてくれたことです。あらゆる危険や攻撃から守ってくれたことです。

ダビデは、信仰者として、こういった具体的な愛の行動をしていったことによって、ナバルのしもべたちの心に、証しとなって受けとめられていった。そのためにダビデは忍耐しているし、具体的に身に着けてきた信仰の行いを活用しております。彼が実際に行なってきたことですから、細かいところまでよく分かっていて、行き届いた助けができています。ですから、私たちは、人々を導こうとする時、先ほどお話ししたイエス様のように、渇いている者に与えることが必要であります。またダビデのように、信仰の行いの活用に熟達していることですね。そうすることによって、細かいところまで心が行き届くようになります。慎重に行っていますが、危険や敵の攻撃に勇敢に戦っています。

ダビデの信仰は、ことばや口先だけのものではなくて、実践的な行いの伴った信仰です。それが神様のみこころにかなったわけですね。もし、私たちが、更にみことばを自分のものとして活用していけば、それを自分の生活のためだけでなく、他の人の生活のためにも益となるように、他の人の徳を建てるために積極的に用いるなら、必ず主の御心は、なされていき、栄光を現わしてくださいます。

ここでもう一つ大事なことがあります。
ダビデは、最初は、主人のナバルに挨拶のメッセージを送りましたが、その後は、若者のしもべたちと交わっています。

ダビデの働きは、主人たちにしただけでなく、貧しいしもべたちにもしていたことが分かります。これによって、多くの一般の人たちが、ダビデの真実さを知るようになったのです。このことがやがて、イスラエルのすべての人が、ダビデに信頼するようになっていった。すべての人が、主に信頼する基礎を作っていったわけです。実業家の支配者だけでなく、使用人やしもべたち、一般の人々に神様の愛を示していったのですね。

ダビデは、主の恵みと愛の信仰を実践して、国の繁栄の基礎を築いていきました。そのために、一部の権力者や財産家に媚を売らずに、すべてのしもべたちの友となって、自分が裕福になることを求めず、まず、他の人に与えることを優先したわけです。その結果、主人のナバルがダビデをののしっても、しもべたちは、ダビデの真実さを評価してやまなかったのです。

そのしもべの一人が、ナバルの妻アビガイルにダビデのことを報告しました。
第一サムエル記25章17節を読んでみましょう。
Ⅰサム 25:17 今、あなたはどうすればよいか、よくわきまえてください。わざわいが私たちの主人と、その一家に及ぶことは、もう、はっきりしています。ご主人はよこしまな者ですから、だれも話したがらないのです。」

しもべたちは、もう間もなくダビデがやってきて、ナバルとその一家を滅ぼすことを知っていました。けれども、誰もナバルにそのことを知らせようとしなかったのです。しもべたちでさえ、ナバルを見捨てていた、と言うことです。かろうじて、一人のしもべが妻のアビガイルに知らせています。そうでなかったら、たちまち滅ぼされてしまったでしょう。このしもべたちの正しい評価と、アビガイルの正しい判断によって、ダビデは、愚か者の血を流すことを免れたのです。

第一サムエル記25章21節~22節を読んでみましょう。
Ⅰサム 25:21 ダビデは、こう言ったばかりであった。「私が荒野で、あの男が持っていた物をみな守ってやったので、その持ち物は何一つなくならなかったが、それは全くむだだった。あの男は善に代えて悪を返した。
25:22 もし私が、あしたの朝までに、あれのもののうちから小わっぱひとりでも残しておくなら、神がこのダビデを幾重にも罰せられるように。」

ダビデは、一時、このナバルの態度に腹を立てて、自分の仕事が無駄だったと言って、ナバルを襲撃しようとしています。しかし、アビガイルはダビデの目を、もう一度開かせたんですね。アビガイルは、実に神の知恵ある賢い婦人です。

第一に、アビガイルは、ダビデに愚か者への復讐を思いとどまらせました。25章26節を読んでみましょう。
Ⅰサム25:26 今、ご主人さま。あなたが血を流しに行かれるのをとどめ、ご自分の手を下して復讐なさることをとどめられた【主】は生きておられ、あなたのたましいも生きています。どうか、あなたの敵、ご主人さまに対して害を加えようとする者どもが、ナバルのようになりますように。

ダビデは、無益な血を流すことをとどめられた、と言っていますね。25章の31節も読んでみたいと思います。
Ⅰサム 25:31 むだに血を流したり、ご主人さま自身で復讐されたりしたことが、あなたのつまずきとなり、ご主人さまの心の妨げとなりませんように。【主】がご主人さまをしあわせにされたなら、このはしためを思い出してください。」

アビガイルは、ダビデが愚か者のナバルを殺して、不必要な血を流した王様だという汚名を受けることがないように配慮して、ダビデの従者たちへの贈り物を携えて、ダビデを迎えております。このアビガイルの高貴な配慮に、ダビデは大きく心を打たれたようです。

第二に、25章28節を読んでみたいと思います。
Ⅰサム25:28 どうか、このはしためのそむきの罪をお赦しください。【主】は必ずご主人さまのために、長く続く家をお建てになるでしょう。ご主人さまは【主】の戦いを戦っておられるのですから、一生の間、わざわいはあなたに起こりません。

ここで、アビガイルが、将来のダビデの王家の長期にわたる繁栄のことまで語っていることには驚かされます。このころのダビデは、荒野で羊飼いの保護を主な仕事にしていたのに、アビガイルは、「ご主人さまは、主の戦いを戦っておられるのですから」と言って、ダビデの心に高貴な信仰の精神を呼び起こしています。愚かな者から罵られると、怒りと憤りによって高貴な信仰を失ってしまいがちですけれども、心が乱されてしまいがちですけれども、このアビガイルのことばは、憤っていたダビデの心に「主の戦いを戦っている」動機を、思い起こさせてくれました。それだけで十分でありました。高貴な信仰を、もう一度取り戻すきっかけになったからです。

第三に、25章30節も読んでみたいと思います。
25:30【主】が、あなたについて約束されたすべての良いことを、ご主人さまに成し遂げ、あなたをイスラエルの君主に任じられたとき、

このアビガイルのことばは、ダビデが王として油注がれていたことを、思い起こさせたことでしょう。アビガイルは明らかに、ダビデはイスラエルの国王になることを、確信して語っています。ですから、アビガイルの信仰は、非常に優れたものであることが分かります。それゆえ、ダビデが、愚か者のナバルを殺害することによって、少しでもダビデに汚点がつかないように、つまづかないように、こう話したわけですね。後にダビデが、あんなつまらない人を殺害したと批判されてしまう、後悔したり良心が痛んだりすることがないように、深い配慮を示しました。

冷淡な人や罵る人が多い中で、真に深い理解や、とりなしの祈りをしてくれる人を持っていることは、大きな力です。こうして、ダビデは、苦難や罵りの中にも、深くダビデを信頼して力づけてくれる、とりなしの祈りをしてくれる人々によって力づけられました。

そのためには、
第一に、みことばで嵐にも勝つ、信仰の土台を築きましょう。
第二に、他の人に平安を与えることです。主から柔和や、忍耐や、寛容をいただきましょう。
第三に、キリストの香を放ちましょう。隣り人を愛することです。
第四に、愚かな行動をやめて、主の栄光を現わしましょう。愚かな人に対して、腹を立てたり、戦いを挑んだり、仕返しをすることをやめましょう。

やがて主イエスとともに王となる自分に目覚めて、高貴な信仰を取り戻させていただきたいと思います。

そして、互いに愛し合い、助け合い、徳を高め合って、消えることのない恵みを受けさせていただきましょう。

愚かな人たちの罵りや様々な批判を受ける状態でありますけれども、高貴な信仰を失わないで、神様の道を歩ませていただき、平安を与えることを本業とする証し人にならせていただきたいと思います。

お祈り

恵みの深い天のお父様、こうして、私たちの周りには、いろいろな批判が飛び交っている中で、深く信頼して、イエス様の素晴らしさを証しする人たちがいることも事実です。
私たちもいろいろな訓練を受けたりしますけれども、その中で、神様のみこころを行い、キリストの平安を持って証しすることができ、人々の心にキリストの平安を分かち与えることができる働きを今週もさせてください。
私たちの周りには、あなたの平安を必要としている人がたくさんおられますので、顧みてください。
尊いキリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明

<今週の活用聖句>

ビリピ人への手紙4章6~7節
「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」

地の塩港南キリスト教会
横浜市港南区上永谷5-22-2 TEL/FAX 045(844)8421


信仰の列伝の目次