音声+文書:信仰の列伝(39) 「主にゆだねたダビデ」(サムエル記第一、24章)へブル人への手紙11章32~34節

フランスの画家James Tissot (1836–1902)による「David and Saul in the Cave(洞穴でのダビデとサウル)」(New YorkのJewish Museum蔵))


2017年5月14日(日) 午前10時半
礼拝メッセージ  眞部 明 牧師

へブル人への手紙11章32~34節
11:32 これ以上、何を言いましょうか。もし、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たちについても話すならば、時が足りないでしょう。
11:33 彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、
11:34 火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。
【新改訳改訂第3版】

はじめの祈り

「彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。」
恵みの深い天のお父様、私たちも、サタンの支配するこの国の中で、信仰の戦いをしておりますけれども、あなたは、弱い者なのに強くされて、イエス様の勇士として用いてくださることを感謝いたします
今日もみことばを祝して下さり、ダビデの信仰の中から、私たちにも使えるものがあるはずです。みことばと聖霊がそのことを悟らせてくださり、私たちも弱い者なのに強くされて、主の証し人とならせてください。
これからの時を導いてください。
尊いキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


今日は「主にゆだねたダビデ」という題でお話しさせていただきます。

「自分で復讐しない」、とはどういうことを意味しているか。
「神様を畏れかしこむ」、とはどういうことなのか。
「主にゆだねる」、とはどういうことなのか。

ダビデが実際にしたことを通して、今の私たちの立場でどうすることなのかを教えられたいと思います。そして、それを生かす、ということですね。

ダビデは、神様のお役にたつ「主のしもべ」になるために、信仰が成長し、「主の器」となるために、苦難の訓練の道を取らされております。
私の信仰も、実際に主のお役に立つためには、これまでも訓練を受けさせていただきましたけれども、これから先も、主のご訓練は続くことになると思います。このことは生涯続くことでしょう。そのことを喜んで、神の道を辿らせていただきたいと思います。

この訓練は、特に、みことばと聖霊を、毎日活用することから始まります。
信仰の訓練とは、何も苦難ばかりではなくて、みことばと聖霊を毎日活用することが基本ですね。
他方では、自分の知恵と悟りに頼ることをやめて、ことごとくダビデがやってきたように、主のみこころを祈り求めることです。主に尋ね、問うことであります。そして主のみこころを行いつつ、忍耐することを身に着けていきます。

ローマの5章にあるように、患難をも信仰によって受け入れ、それによって忍耐を活用することを訓練されます。患難を信仰によって喜んで受け入れることは、訓練の重要な要素であることがわかります。
その忍耐強い信仰が、私たちの人格の内に、イエス様のご人格を植え付けてくれるようになります。これは単なる自己高揚のための訓練ではなくて、信仰によって行うことによって、キリストのご人格が私の魂、人格の内に植え付けて下さる、そういう意味合いがあるわけですね。

そのために、神は聖霊によって、神の愛アガペーを私の心の内に注いでくださると、約束してくださったわけであります。
聖霊と、神の愛アガペーと、キリストのご人格とは、同じお方です。呼び方は違っておりますけれども、みな同一のお方ですね。このお方を内に持って生活することが、訓練の本質、秘訣であります。

訓練と言うと、何か鍛錬することを考えるかもしれませんが、信仰の訓練とは、聖霊と、神の愛アガペーと、キリストのご人格を自分の内に持って生活することです。
そのお方の恵みと力とご人格を、毎日の日常生活の中で活用して生活することが、訓練の本質であります。そうすることによって、たましいが成長し成熟するわけですね。主を証しして、主の栄光を現わすようになります。栄光から栄光へと変えられていって、主のみ姿へと変えられて行きます。

信仰が、実際の困難の中で有益に役立つためには、ダビデが羊飼いの生活の中で、獅子や熊を倒したり、石で猛禽を追い払ったりしたように、日常生活で信仰を活用することが不可欠です。聖書のことばを覚えて暗誦して、理解して納得しているだけでは、少しの訓練にもなりません。実際の生活の中で活用することを通していく中で、訓練になるんです。

ダビデが、河原に行って丸い石を拾い集めて、どんなに練習を重ねても、実際の働きの中で活用しなければ訓練になりません。大事なことは命中することではなくて、信仰を使うことです。
私たちは、上手にできたかどうかに気を取られがちですけれども、大事なことは、神様のみ名を通して、イエス様のみ名を使ったか、みことばを使ったか、信仰を活用したか、ということが不可欠であります。

第一ヨハネの3章18節をご一緒に読んでみましょう。
Ⅰヨハネ3:18 子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。

「ことばや口先だけで愛する」と言うと、何か侮蔑するように聞こえますけれども、つまりは、もうちょっと上品な言い方をしても同じことなんです。
知識や納得や理解だけで愛することをせず、と言っても同じことであります。いろいろ議論して立派なことを言っても、実際の生活の中で活用していなければ、神の愛を使っていることにならない。

私のメッセージを聞かれた方が、こんなことを言いました。「先生の話は、各々自分で信仰を行うように、と言うから嫌だ。」と言われました。
しかし、みことばを行いなさい、と言っているのは、私が言っているのではありません。聖書がそう言っているんです。
イエス様がそう言っているし、ヤコブも命じておられます。私が言ったから嫌なら、やらなくても構わないのです。イエス様が言っておられること、ヤコブもそう命じておられることを、私たちは、イエス様が言っているから嫌だと言うのでしょうか。こういうような発想をする人は、信仰が分かっていないのです。「先生が言っているから・・」という聞き方しかできない人は、神のことばを聞いていると言えるでしょうか。

マタイ7章24節~27節をお読みしましょう。ここでイエス様は何と仰っているでしょうか。
マタイ7:24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
7:25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
7:26 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
7:27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」

私たちはイエス様のことばを聞いたら、それをどうしたらよいと勧められているのでしょうか。それは、「行う者」であります。
種が落ちた話がありますね。茨に落ちた種、道ばたに落ちた種、岩に落ちた種は実を結んでおりません。聞いてすぐに忘れてしまう。サタンがやってきてみな奪ってしまう。聖書の話を聞いて、家に帰るころには、もうすっかり忘れてしまう人がたくさんおられるようです。そういう人が、岩の上に家を建てた賢い人と言えるでしょうか。それとも、それらのことを聞いて、行わない人になるのでしょうか。

わざわいの時は、ひどい倒れ方でした、と言う話でした。これはイエス様がおっしゃったことで、わたしが言っていることではありません。

ヤコブは、どう言っているか見てみたいと思います。ヤコブ1章22節で、ヤコブはもっとはっきり言っています。
ヤコブ 1:22 また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。

みことばを、聞いて学んで理解するだけでなく、実行する人になりなさい、と言っています。聞くだけの人は、自分を欺いている、と言っていますね。欺いているというのは、自己満足している。これでいいんだと思い込んでいる、自分はそれで信仰者だと思い込んでいる、そういう者であってはいけない、と言っています。
みことばを毎日使っている、ということは非常に大事なことです。

ヤコブ2章14節も読んでみましょう。
ヤコブ2:14 私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。

「信仰があると言っても」、と言っていますね。別の言い方をすれば、「洗礼を受けていても」、「教会に行っていても」、その人に「行い」がないなら、その人を救うことができるでしょうか、と言っています。

もう一つ、ヤコブ2章26節も読んでみましょう。
ヤコブ 2:26 たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。

たくさん聖書のことばを知っていながら、何もしない、使わない、という人よりも、一つか二つしか聖書のことばを知らないかもしれませんけれども、それを真実に自分の生活の中で生かしていく、行っていく人の方が、神様は喜んでくださいます。信仰の訓練を悟って、患難も喜んで、積極的に受け止めたいものだと思います。

いろいろな問題が、私たちの生涯には、次々とやってきますけれども、その時どうすればいいのか。信仰によって避けられなければ、信仰によって受け止めるしかない。その時、うまくできるかできないかが問題ではなくて、失敗しても構わない。イエス様は、上手にできたかどうかを、言っていません。「信仰を使ってください。」と言っています。うまくいかなくても、信仰を活用する人を喜んでくださいます。ですから、是非、信仰を活用していただきたいんです。
そうすれば、神のみわざを経験できるようになります。学んで理解しているだけの人ではない。必ず神の栄光を現わすようになりますので、そのことを、この朝は特に、心に留めていただきたいと思います。

ダビデに、すべてのことを主にゆだねる経験をする機会がやってまいりました。ダビデがエン・ゲディの荒野のほら穴の中にいた時に、ダビデの命を狙っているサウル王を殺す絶好のチャンスが訪れた時です。ダビデの部下たちは、ダビデに勧めました。

第一サムエル記24章4節を読んでみたいと思います。
Ⅰサム 24:4 ダビデの部下はダビデに言った。「今こそ、【主】があなたに、『見よ。わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたのよいと思うようにせよ』と言われた、その時です。」そこでダビデは立ち上がり、サウルの上着のすそを、こっそり切り取った。

このことばは、ダビデの心の微妙な動きを表しています。この時を逃せば、二度と来ないかもしれない絶好のチャンスだと誰もが思ったでしょう。罪もなく命を狙われて、追い掛け回されているダビデに、神様が与えてくださった解放のチャンスだと思ったとしても、誰も疑問に思わないでしょう。

人にはまさか、そのような機会が与えられるとは思ってもないような時が来るんです。ダビデの深い心の性質を、神様が探っておられるとは、考えられないでしょう。事実、神様はそんなふうにしてダビデを試みたとは、聖書は書いていません。ですから、ダビデは神が求めておられる「主を愛して畏れている信仰」を現したんですね。

この信仰は、アブラハムが、イサクをモリヤの山で全焼のいけにえとして捧げたのに匹敵するような、愛の信仰、敬虔の奥義を現した信仰であります。信仰はここまで行くものだ、と思わされます。信仰の深さは無限でありますけれど、私たちが経験できるものでも、ここまでは行くことができます。

この時、ダビデ自身も部下たちも、サウルの追跡の危機と不安に疲れ果てていました。もう、気持ちの余裕が無くなってしまっておりました。そういう時はありますね。何重にもいろいろな問題が起きると、気持ちの上で余裕がなくなってしまう、追い詰められてしまう。一分でも早く解放されて、安らぎを味わいたい。
ところが、それを実現できるチャンスが目の前に現れた。それを、みすみす見逃す手はない、と誰もが思うでしょう。その時に、サウル王を一突きして殺せば、一挙にして、ダビデがイスラエルの王になるチャンスが来ることも事実です。
ですから、聖書は「その時です。」と言っています。「その時」とは、時は過ぎていくもの、動いていくものですから、その一瞬を生かさないと、次の時は、自分が危険になるのです。

誰もが、この時は、神がダビデに与えてくださった特別な時だと思ったはずです。ダビデもそう思ったでしょう。「そこでダビデは立ち上がり、」とありますから、ダビデも、部下たちの勧めの言葉に、一時、その気になったことは確かです。この時を逃したらもうない、そう思ったはずです。

しかし、ダビデの心に突然、きわどい聖霊の急ブレーキがかかってしまいました。サウル王を打つことを思いとどまり、サウルの王の上着のすそを、こっそり切り取っただけで止めたのです。
もし、この時、ダビデがサウルを倒してイスラエルの王位についていたら、それは、神の油注ぎによって王になったのではなくて、クーデターによって王国を乗っ取ったことになってしまいます。
今も、みなさんニュースで聞いてご存知と思いますが、世界中のあちらこちらで戦いが起きています。みんな神様のみこころによって治めるのではなくて、クーデターによって乗っ取ろうとしているわけです。そういう国が滅びるのは間違いありません。

一時的にサウル王の追跡から解放されても、ダビデは、サウルの側近たちや家族、サウルの同族のベニヤミン人から命を狙われて、ダビデの王国は争いと混乱が続き、歴史が記しているような平和で、繁栄した、安定したダビデ王国を築くことはできなかったでしょう。

方法は何でもいいから、国を安定させればいいんだ、王国を造ればいいんだ、というのではない。神様のご計画は、サウルを倒すクーデターによってではなく、神の約束の成就として、実現として、ダビデが王となることによってだけ、安定して、その力を発揮することができます。
私たちの生涯においても同じです。方法はどうであってもいい、自分が安定して繁栄すればいい、というのではなくて、神の約束の成就として、安定して繁栄した生活を営むことができるようになることが重要であります。

政治的権力者を倒して王位に就けば、ますます激しい争いの中に巻き込まれてしまいます。ですから、目の前に訪れた格好のチャンスに見えるものも、実はその中に多くの罠が仕掛けられていることを、わきまえなければなりません。魚の前に好物の餌がぶら下がってきたら、そこには一番大きな危険や罠が仕掛けられていることを、わきまえなければならない。喰いついていったらダメなんです。ダビデは、そこまで分かっていなかったかもしれませんが、彼は神様を第一に畏れることによって、この重大な危機から免れました。

私が、一時の怒りや憎しみの感情で、自分で復讐したり仕返ししたりするなら、必ず、混乱を激しくしてしまいます。私たちの性質には、自分の気に入らないことは、争ってでも跳ね除けようとしがちですけれども、パウロはこう言いました。ローマ12章19節~21節を読んでみましょう。

ローマ12:19 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」
12:20 もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。
12:21 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。

ダビデは、神様を畏れることによって、いつも「主をわが前に置く」ということによって、人の力ではできないことを信仰で成し遂げた人です。
私たちも、自分で頑張って我慢して乗り越えようとすると、とてもできないことでありますけれども、不思議なことですけれど、イエス様を愛して信仰によってする時に、成し遂げることができるのです。人の力ではできなかったことが、できるようになる経験をします。これは、日常生活で活用していなければわかりません。理解して納得しているだけでは、できるようにはなりません。

もし、この時、ダビデがサウルを倒して、イスラエルの王様になっていれば、彼は十分に成長しないまま指導者の地位に就いて、国民の心も分からないまま、国の政治を行わなければなりませんでした。
今私たちが住んでいる国でも、アメリカでも、ヨーロッパでも、世界中で、そういう問題が山積しているではありませんか。バラバラの状態になってきていて、世界中がメチャクチャな状態になりつつあることが手に取るように分かります。

ダビデは、そこに巻き込まれそうになったわけですね。この時、ダビデはこれらのことが十分に認識できず、わきまえていなかったと思われます。
ですから、彼はへりくだって神の御手にゆだねて、神が王座に引き上げてくださるまでは、神の御手の中で訓練を受ける必要がありました。

私も、25歳の時から49年間、主に仕えてきて分かることは、困難や苦難から一時でも早く逃れたいと思ったり、忍耐から解き放たれたいと願ってみたり、早く自分の思い通りのことができるようにと求めやすいものです。
しかし、「神の時」より早くそうなることが、決して良い事ではないことも知っています。結局、第一ペテロ5章6節に従って平安を受けるのです。
Ⅰペテ 5:6 ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。

「ちょうど良い時に」とは一体いつの時なのでしょうか。いつでも、私のちょうど良い時と神様のちょうど良い時が、違っています。私たちは自分中心ですから、ちょうど良い時をいつも、早め早めに考えてしまいますけれども、神様のちょうど良い時が、最も一番良い時であると言っているんですね。

旧約聖書の哀歌3章25節~32節を読んでみましょう。
哀3:25 【主】はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。
3:26 【主】の救いを黙って待つのは良い。
3:27 人が、若い時に、くびきを負うのは良い。
3:28 それを負わされたなら、ひとり黙ってすわっているがよい。
3:29 口をちりにつけよ。もしや希望があるかもしれない。
3:30 自分を打つ者に頬を与え、十分そしりを受けよ。
3:31 主は、いつまでも見放してはおられない。
3:32 たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる

確かにいろいろな苦難に出会いますね。
「黙って待つのは良い」と書いてあるし、「くびきを負うのは良い」とも書いてあるし、とにかく、いろいろぐちゃぐちゃ言わないで「黙ってすわっている」というのは大変なことなんだ、ということが分かります。

ここには、イエス様の苦難のことが預言されているわけですけれども、その豊かな恵みによって憐れんでくださるようになりました。神の御手にゆだねて、神の時を待つことが、その後の生涯の働きと主の栄光を現わすことに、大きな力を示していくようになります。
ですから、非常に大事なことですね。「黙って待つ」ということは非常に大事なことであります。神の時が来るからです。必ず来ます。

ダビデは、目の前に突然訪れた絶好のチャンスに、心が一瞬動きました。この時を逃したら、もう来ないのではないかと、誰しもが思うわけです。期待して待っていた時が来た。周囲の部下たちも賛成しました。
しかし、聖霊が彼にブレーキをかけたんです。急ブレーキですね。彼の信仰は少しも揺るがず、惑わされず、目もくらまされず、でした。
そのことが、神の試みであり、ご訓練であることを十分に悟って、主のみこころを第一にして、この絶好のチャンスに手を出さなかった。主に従ったのです。これは人の力でできることではありません。

この時点では、ダビデは、勝利を逃したように思ったかもしれません。彼はまだ、なんの勝利の結果も掴んでおりませんけれども、苦難の事態は少しも変わっていませんけれども、彼は本当の意味での勝利を掴んでいたんです。
自分中心の知恵と欲に打ち勝つこと、そのことが、いかに重要な勝利であるかを、彼は後に悟るようになります。これが、まもなく神のご計画によって始まるダビデ王国の最善の基礎を築くことになりました。彼は、目には見えないけれども、平和な神の王国には欠かすことができない神の臨在を獲得しました。

私たちも毎日、いろいろな課題や問題を抱えて生活しておりますけれども、それらに、なんの結果も出てこないと、失望や落胆を繰り返します。
けれども、そうではなくて、その中で自分中心の知恵と欲とに打ち勝つ勝利を獲得する、そのことが、後の私たちの生涯の非常に重要な部分を成していく、主が私とともにいてくださる恵みを獲得することになります。これが、永遠の真の勝利を受けるための秘訣ですね。
実際には、何も変わったことがなかったように見えますけれども、本当の勝利を受け取る秘訣であります。そのことを体験できる人は幸いです。信仰が生きております。

次に、ダビデが、なぜこの時にサウルを打たなかったかについて、彼自身が語っています。一言でいうなら、主なる神様を畏れかしこんだからです。
もし、ダビデが主を畏れかしこむ心が弱く、少しでも王位を求める野心のある人だったら、ダビデの方から罠を仕掛けて侵略し、このチャンスを決して見逃さなかったでしょう。ですから、この出来事は、ダビデの本心が、主を畏れかしこむ人であったことを、証明しています。

第一サムエル記24章6節~7節を読んでみましょう。
Ⅰサム24:6 彼は部下に言った。「私が、主に逆らって、【主】に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、【主】の前に絶対にできないことだ。彼は【主】に油そそがれた方だから。」
24:7 ダビデはこう言って部下を説き伏せ、彼らがサウルに襲いかかるのを許さなかった。サウルは、ほら穴から出て道を歩いて行った。

ここでのダビデと部下たちの話も大事ですけれども、もっと重大さを示しているものがあります。それは、何も悟ることなく、「サウルは、ほら穴を出て道を歩いて行った。」その姿であります。自分の周りにどんなわざわいが、どんな神様の計画が行われているか全然気づいていない。自分の罪を悔い改めて、主に立ち返らない人の無念さを感じます。こういう人が、たくさんいるわけです。無数にいるわけです。

私たちは、毎日、なんでもなく生きているのではなく、主の憐みを受けて生きているわけです。決して自分で勝手に生きているわけではありません。ダビデはそのことをよく悟って、サウルが主に立ち返ってくれることを願っております。

ダビデは、神様に油注がれたサウル王に手を下すことは、主に逆らうことであり、絶対にできないことだ、と言っています。確かに、サウルはダビデの命を狙っていました。しかし、サウルは主に油注がれて王に任命された人です。主から油注がれた人に手を下すことは、サウル個人への復讐にとどまらず、神様への反逆になってしまうと信じたんです。主に反逆すれば、どんな言い訳も通用しなくなります。ダビデに与えられた約束も失うことになります。この判断はダビデの知恵から出たものではありません。神と交わる生活の中から与えられた、神のご性質から出たものです。

第二ペテロ1章5節後半には「神のご性質にあずかる者となるためです。」と書かれています。

第二コリント3章18節を読んでみましょう。
Ⅱコリ 3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

自分の知恵から出る悟りもあるかもしれませんけれども、ダビデのこの判断は、神のご性質から出たものです。御霊なる主の働きによるものですね。
ダビデの心の性質が、主を愛し、主に忠実でありたいという、主を畏れかしこむ性質に変えられていたことが分かります。

このダビデの思いは、平和の神ご自身のいのちの御霊(みたま)の原理であります。御霊の働きですね。御霊によっていのちと平安が与えられる、そういう原理であります。私たちの心の中に、キリストのいのち、キリストの平安を経験できるようになるのは、神の御霊によってであります。
そしてこの原理は、敵対者サウルに対する原理でもありました。敵対する人に対して、自分の怒りや罵りや恨みや、そういう思いで接するのではなくて、心にキリストの平安を持って接することができるようになれば幸いですね。そして、これはすべての人との真の対人関係の原理でもあります。ダビデが、これから統治するようになるダビデ王国の民を導く原理ともなります。

イエス様はこのことを、こう仰いました。マタイ5章44節を読んでみましょう。
マタ 5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

そんなに敵がいるわけではないかもしれませんが、「自分の周りの人達のために祈りなさい、迫害する者のために祈りなさい」、と言っていますね。

マタイ5章46節~48節も読んでみましょう。
マタイ5:46 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。
5:47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。
5:48 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。

日本人は、親切にしてくれるとすぐにお返しをするという考えになっているようですけれども、これは異邦人でもしているではありませんか。同じことをしても何の役に立つか、と言っていますね。これは個人的な利害感情を超えた、信仰の原理を指しています。

「天の父が完全なように、完全でありなさい。」とは、天の父が愛の完全をお持ちになるように、あなた方も愛の完全を持ちなさい、ということです。

・相手が自分に親切にしてくれるから、親切にするのではなく、
・相手が自分に意地悪をするから、仕返しするというのでもなく、
・自分が豊かだから、貧しい人を助けるというのでもなく、
「心を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神、主を愛し、その愛をもって自分を愛するように、隣人を愛しなさい」と言われたイエス様のいのちの御霊の原理を、ダビデは働かせました。

もし、どんな親切をしても、どんな助けをしても、主に対するようにではなく自分中心の動機でするなら、必ず、歪みを引き起こし、そこから恨みや争いが生じてしまいます。
どんな善行も、自分中心の性質がきよめられていないと、問題を引き起こします。家族の中でも、問題を引き起こすようになります。

ダビデは、主によってイスラエルの王に任命される前に、サウル王という難解な人物を通して、徹底的に心の中がきよめられました。神様を愛する動機によってだけ、神様を畏れかしこむという動機によってだけ、サウルという難しい人に仕え働くという人格を、身につけていったのです。一番難しい問題を突き付けられました。
自分中心の性質を持っている間は、決して神に用いられることはありません。平和な恵みをいただいた生活ができないんです。
きよめの訓練を受けた者だけが、地の塩、世の光としての効力を発揮します。

第一サムエル記の24章7節で、「ダビデはこう言って部下を説き伏せた」とあります。
ダビデの「主を畏れかしこむ」というはっきりした態度を示すことによって、部下たちへの鮮明な証しとなり、模範となり、重要な訓練になったのです。ダビデがどういう原理で、どういう心の性質を持ってやっているか、ということが、部下たちに分かるようになったのです。

もし皆さんが、神様を心から愛して、それを活用する生活を営まれると、ご家族や周りの人達が、心の中の大事な原理を知るようになります。
ダビデにとっては、後々、王国を建設していく時の信仰の精神として働くようになりました。国の大事な中心の柱になっていったわけです。そのことを、ダビデの直属の部下たちも、少しづつ悟り始めました。今日、ここまでの信仰の実質を持っている信仰者が、どれだけいるでしょうか。

サムエル記24章10節~12節を読んでみましょう。
Ⅰサム24:10 実はきょう、いましがた、【主】があのほら穴で私の手にあなたをお渡しになったのを、あなたはご覧になったのです。ある者はあなたを殺そうと言ったのですが、私は、あなたを思って、『私の主君に手を下すまい。あの方は【主】に油そそがれた方だから』と申しました。
24:11 わが父よ。どうか、私の手にあるあなたの上着のすそをよくご覧ください。私はあなたの上着のすそを切り取りましたが、あなたを殺しはしませんでした。それによって私に悪いこともそむきの罪もないことを、確かに認めてください。私はあなたに罪を犯さなかったのに、あなたは私のいのちを取ろうとつけねらっておられます。
24:12 どうか、【主】が、私とあなたの間をさばき、【主】が私の仇を、あなたに報いられますように。私はあなたを手にかけることはしません。

このダビデの告白からすると、このほら穴でのチャンスは神様から与えられたものだと、ダビデは確信しています。それでもダビデは、サウルに手を下しませんでした。それは、主がダビデを試みておられることが、分かったからですね。
こういう事は、自分の知恵で注意深くしていても分かるものではありません。これができたのは、ダビデが、主とともにくびきを負う生活をすることによって、分かるようになってきたんですね。
もちろんダビデは、早くサウルの追跡から解放されたいと思っていたに違いありません。早く自由になりたかった、早く平安な生活をしたかったでしょう。
しかし敢えて、そうしませんでした。サウルの運命を、神の裁きにゆだねました。神様は、放置しておかれるお方ではありません。

第一サムエル記24章5節には、「こうして後、ダビデは、サウルの上着のすそを切り取ったことについて心を痛めた。」と書いてあります。
心の動きが、だんだん繊細になっていますね。ダビデは、主に油を注がれた方を殺さなかっただけではなくて、主に刃を向けて上着のすそを切ったことによっても、心を痛めています。
「それは考えすぎだ」と仰る方もおられると思いますが、ダビデの神を畏れかしこむ霊的感覚が、それほど鋭くなっていたことが分かります。

霊の神を知ることは、聖書を知識として学んでも、研究しても、聖なる霊の神を体験することはできません。
洗礼を受けても、戒めを守っても、儀式を守っても、霊的体験として神を知ることはできません。
みことばと聖霊を受け入れて、日常生活の中で従うことによってのみ、私たちの行くところ、どこにおいても神を体験できます。

しかし、なぜダビデは、わが身の危険を犯してまで、ほら穴の出来事をサウルに知らせたのでしょうか。

それは第一に、ダビデ自身の潔白とやましい野心がないことを、サウルに証明したかったからです。サウルは、ダビデがイスラエルの王位を奪おうと狙っている、と思い込んでいたからです。これに対して、ダビデはサウルを殺す絶好のチャンスがあったにもかかわらず、手を下さなかったし、これからも下さない、と宣言しています。ダビデは、サウルの王国を乗っ取ろうとする野心が全くないことを、サウルにも彼の部下たちにも、周知させたかったのです。ダビデの身の潔白を証明したかったのです。

また、ダビデには、もう一つの目的がありました。それはサウルへの警告であります。もしサウルが、今のようなことを続けていれば、早晩、神の裁きを受けて滅びることは間違いありません。それを警告したんです。
ダビデは、自分には王座を奪う野心がないことと、サウルに手をかけることは全くしないことを知らせて、サウルの心の中から、不安、嫉妬、怖れ、を取り除いて、安心を与え、サウルが主に立ち返ることを望んだのです。
この目的は、一時は達成したかのように見えましたけれども、サウルは嫉妬と妬みから生じた、不安と恐怖と怒りに心がネジ曲げられてしまっていて、一時冷静な判断をしたくらいでは、平安なたましいの状態を回復することができませんでした。

私たちも、肉の欲求や、怒り、憎しみなど悪い気持ちを持ち続けていると、その感情の支配から抜け出せなくなる危険があります。サウルは、そこまで行ってしまっていたんですね。サウルは神の御霊が去ってしまわれるほどの、危険区域を超える状態になっていたのです。
ですから、自分の過ちに早く気付いて、勇気を出して、間を置かずにできるだけ早く、神様に立ち返ることが大切です。はっきりとした信仰に立って、自分で言い訳の理屈をつけて自己主張していないで、主に立ち返ることが必要であります。
サウルにも、この一瞬の回復の時に、勇気を出して信仰を回復していれば、滅びずに恵みを受けることができたのですけれども、しかし、この危険区域を越えてしまうと、真理が示されても、最後まで拒む者は滅びます。
人は、神様に心が向いている時は、それを逃してはならないのです。

最後に、ダビデはこのサウルの問題を、主の御手にゆだねています。第一サムエル記の24章15節をご一緒に読んでみましょう。さすがにダビデも、手に負えないことが分かったわけですね。
Ⅰサム 24:15 どうか【主】が、さばき人となり、私とあなたの間をさばき、私の訴えを取り上げて、これを弁護し、正しいさばきであなたの手から私を救ってくださいますように。」

ダビデは実際に、主が自分とサウルの間を裁いて、解決してくださると信じました。いろいろな人と問題を引き起こした時、神様が間に入って正しく裁いてくださると信じて、任せることが大切です。罵り倒すんじゃなくて、争い倒すんじゃなくて、自分で裁くのではなくて、ですね。イエス様もそのように言っておられます。

ルカ18章7節を読んでみましょう。神様は必ず働いてくださいます。
ルカ18:7 まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。

聖書の中で、神の裁きが下った例は、たくさんあります。堕落したアダムとエバにも、カインにも、ノアの時代の不信仰な人々にも、バベルの塔を作った人々にも、モーセとアロンに逆らった人々にも、ミリアムに、エジプトに、アッシリヤに、バビロンに、ペルシャに、ギリシャに、ローマ帝国に、イエスを十字架につけたユダヤ人にも、イスカリオテのユダにも下りました。

主イエス様の十字架を信じること以外に、神の裁きを逃れる道はありません。キリストの身代わりの、十字架の血潮の外に出ては行けないのです。
神様を拒む者に、神に逆らう者の上に、神の裁きが下らないで済む、ということは一回もありませんでした。

しかし、正義感が強くて高慢な人は、自分が神様に代わって、隣り人を裁こうとします。主は、マタイ7章1節で、「さばいてはいけません。さばかれないためです。」と教えました。
非常に多くの人が、他人をさばいたために、神のさばきを受けています。人をさばくのは、神の主権によってだけです。
私に与えられている使命は、人を救いに導くことだけです。主を拒む人は、主にゆだねるだけです。私の内に神の愛、アガペーがないとできません。
これができるかできないかは、私の信仰の実質がテストされるわけです。自ら怒って、他人を過度に非難したり罵ったり、仕返ししたりするなら、主のさばきを受けることになります。

エペソ4章26節~27節を読んでみましょう。きっとお役に立つと思います。
エペソ4:26 怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。
4:27 悪魔に機会を与えないようにしなさい。

怒り、憤り、妬み、嫉妬など、そういうものが、いつまでも心の中に捕らわれていないこと、早く悪い感情から解放されて、キリストの平安を取り戻せることは、きよめの実の証拠です。
パウロは、「怒ることがあっても日が暮れるまでに、解決しておきなさい」、と言いました。悪い感情はその日の内に、主の憐みをいただいて、解決しておきましょう。なぜなら、長引くとサタンが入り込んで、平安が回復しにくくなり、こじれやすくなるからです。
ダビデは、神様は必ず自分の訴えを取り上げて自分を弁護して下さる正しいさばき主で、サウルの手から救い出してくださると確信して、手を出さず、さばきを神に任せました。

最後に、第一ヨハネ2章1節の後半を読んでみたいと思います。
Ⅰヨハ2:1「・・・私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。」
そのお方に任せましょう。

今週もいろんなことがあると思いますが、自分が怒りの先頭に立つのではなくて、お任せしましょう。
ダビデはこの時、最高のチャンスを逃したかに見えました。けれども、決してそうではなかったのです。最高に重要な、霊的訓練を受けていたのです。
私たちも、自分が損をするかのように見える訓練を受けることがあるでしょう。しかし、このラインを超えましょう。天地を分けるほどの霊的差ができてしまうからです。
神様は、私たちのことを一人ひとり見ていてくださいます。そして弁護してくださるお方ですので、このお方にお任せして、この一週間を歩ませていただきたいと思います。
このことを通して、私たちは最高の訓練と、最も大事な勝利を獲得できるようになりますので、この一週間も恵みをいただきたいと思います。

お祈り

恵みの深い天のお父様、私たちには、み父の前で弁護してくださる方があります。それは義なるイエス・キリストです。
今週も私たちを導いて下さり、いろんな問題の中を通過すると思いますが、その時、自分が先頭に立たないで、主に先頭に立っていただいて、このことを通して、私たちは、最も重要なへりくだりや、忍耐や、そして神様が働いてくださる体験を、いたるところでさせていただくことができますように、あなたの行くところどこにおいても、信仰を働かせて体験できますように、お願いいたします。
尊いキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明

<今週の活用聖句>

ペテロ第一、5章6節
「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」


現在のエン・ゲディの様子です。崖の壁面には、たくさんのほら穴がありますが、このうちのどれかにダビデがいたのでしょうか。


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