音声:信仰の列伝(41) 「ダビデの逃避の危険」(サムエル記第一、27:1~12、29:1~30:6)へブル人への手紙11章32~34節

2017年5月28日 (日) 午前10時半
礼拝メッセージ  眞部 明 牧師

へブル人への手紙11章32~34節
11:32 これ以上、何を言いましょうか。もし、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たちについても話すならば、時が足りないでしょう。
11:33 彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、
11:34 火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。
【新改訳改訂第3版】

<インフォメーション>

ダビデの訓練も、決して短い、楽なものではありません。

「ダビデは心の中で言った。『私はいつか、今に、サウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地にのがれるよりほかに道はない。そうすれば、サウルは、私をイスラエルの領土内で、くまなく捜すのをあきらめるであろう。こうして私は彼の手からのがれよう。』」(サムエル第一、27:1)

ここでは、ダビデは長く続くサウル王からの逃亡生活で、肉体的にも、精神的にも、疲れを覚え、信仰が弱ってきて、自分の知恵で、ふと、逃げ出すことを考えたのです。私は、どんな時に逃げ出すことを考えるでしようか。当初、必死にサウルから逃げ回っている間は、ペリシテの地に逃げることなど、脳裏に浮かんでも来ませんでした。

しかし、次の二つのことが起きて来ると、逃げ出したい気分になるのです。

第一に、荒野での逃亡生活が長く続いて、疲れが出て来た時です。先に明かりが、なかなか見えて来ない時です。

もう一つは、26章25節で、サウルが自分の家に帰って行って、ダビデにほっと一息ついて、何かを考える余裕が出来た時です。

精神的疲れがたまったり、ほっと一息つく余裕が出来た時、心が重くなった時、安易に楽になる、逃避を考えるのです。このことは、サウルの投げ槍を受けるよりも恐ろしいことであることに、ダビデは気づいていなかったのです。

27章1節では、ダビデは、主の保護を信じる確信を失っていました。現実にサウルの大軍の追跡に会うと、ダビデはアビガイルの励ましのことばも、彼の心から消え去り、気持ちがひどく落胆して、最悪のことしか考えられなかったのです。

ダビデは、2回も「のがれる」と言っています。

この時、ダビデの思いの中には、サウルの執拗な追跡から逃れることだけで、いっぱいになっていたのです。ダビデは、サウルの手から逃れれば、自由になれるという、思い込みの妄想に捕われていたのです。

ペリシテの所に逃れて行けば、ペリシテからの圧迫が起きることは当然、考えられます。ダビデがそのことに気づかないはずがないですが、サウルの恐れに捕われてしまうと、他のことが見えなくなってしまったのです。愚か者と同じように自分の知恵に頼ってしまっています。

私が逃げ腰になると、後ろのものが特に怖くなり、気になります。そして、ロトの妻のように、後ろを振り返って、滅びてしまう危険があります。信仰によって前に向かって進む人は、パウロのように、後ろのものを忘れ、前のものに向かって、ひたすら一心に走らなければなりません。

「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」(ビリピ3:13~14)

天の故郷、神の都を目ざしている人は、後ろのものを忘れなければなりません。この世で得したとか、地位を得たとか、あの人がこんな意地悪をしたとか、ののしったとか、後ろのものにいつまでもこだわっていてはなりません。目の前のものに向かって、目標を目ざして、心を尽くして主を愛し、隣人を愛する生活に向かって、一心に歩むべきです。

<今週の活用聖句>
箴言3章5節
「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。」

上の写真は、フランスの画家James Tissot (1836–1902)による「アキシュのところへ帰るダビデ」(New YorkのJewish Museum蔵)

地の塩港南キリスト教会
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