音声+文書:信仰の列伝(41) 「ダビデの逃避の危険」(サムエル記第一、27:1~12、29:1~30:6)へブル人への手紙11章32~34節

フランスの画家James Tissot (1836–1902)による「David Returns to Achish(ダビデはアキシュのところへ帰る」(New YorkのJewish Museum蔵)


2017年5月28日 (日) 午前10時半
礼拝メッセージ  眞部 明 牧師

へブル人への手紙11章32~34節
11:32 これ以上、何を言いましょうか。もし、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たちについても話すならば、時が足りないでしょう。
11:33 彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、
11:34 火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。
【新改訳改訂第3版】

はじめの祈り

「彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。」
恵みの深い天のお父様、こうして恵みの中で今年も、すでに5カ月支えられて歩ませていただきましたことを感謝いたします。
御霊が働いて、私たちの霊肉が支えられて、主の証し人としてお用いくださることを感謝いたします。
今日もみことばを祝して下さり、私たちの生涯は様々な危険に遭遇しますけれども、そのたびごとに、あなたの助けと恵みと導きと光を与えられますことを感謝をいたします。
今日もみことばを祝し、真理を体験させてください。また私たちの行くべき道に光を与えてください。
これからの時を主の御手にゆだねて、尊いキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


今日は、「ダビデの逃避の危険」という題でお話しさせていただきたいと思います。

苦難も、短期間であるなら、容易に耐えられることでしょう。しかし、それでは神様の十分なご訓練にはなりません。神様が、本当にご自分の器を造られるためには、神学校にいる期間だけでは十分ではありません。
聖書によると、神様はヨセフを、13年の長きにわたって苦難の中で訓練されました。モーセは40年間、ミデヤンの荒野につかわされて、そこで徹底的に自分中心に死ぬことだけを、経験させました。それから、ホレブの山で燃える柴の経験をして、その後の40年間も、荒野でイスラエル人のつぶやきと、不信仰に悩まされ続けました。そういう、激しい苦難に満ちた生涯でありました。

ダビデの訓練も、決して短い、楽なものではありません。今日はそのことをお話しして、そこに潜んでいる危険を、私たちも学びたいと思うことであります。

第一サムエル記の27章1節をお読みしましょう。これから少し、長いお話をしますので、途中で息が切れますので、聖書を読むときは少し細かく切りながら、息継ぎしながら、ご一緒に読んでまいりたいと思います。ご協力をお願いいたします。

Ⅰサム27:1 ダビデは心の中で言った。「私はいつか、いまに、サウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地にのがれるよりほかに道はない。そうすれば、サウルは、私をイスラエルの領土内で、くまなく捜すのをあきらめるであろう。こうして私は彼の手からのがれよう。」

ダビデは、長く続くサウル王からの逃亡生活で、肉体的にも精神的にも疲れを覚え、信仰が弱ってきて、ふと、自分の知恵で逃げ出すことを考えたのです。
私は、どんな時に逃げ出すことを考えるでしょうか。当初、ダビデが必死にサウルから逃げ回っている間は、まさか、自分がペリシテ人の地に逃げ出すことなど、脳裏に浮かんでも来ないことでした。しかし、これからお話する二つのことが起きてくると、逃げ出したい気分になってしまいました。

第一に、荒野での逃亡生活が長く続いて、疲れが出てきた時であります。先行き、希望が見えてこない、明りが見えてこない、なかなか見えてこない、そういう時が逃亡を考える、逃避を考える気分になる時であります。

もう一つあります。それは26章25節で、サウルが自分の家に帰っていって、ダビデがほっとひと息ついて、何かを考える余裕が出た時でありました。精神的な疲れがたまったり、ほっと一息つく余裕ができたり、心が重くなった時に、安易に楽になる方法、逃避を考えるわけであります。これは、サウル王が投げる投げ槍よりも、恐ろしい事であり危険ですが、ダビデは、逃避したくなる気持ちの危険性に気が付かなかったようであります。

ですから、27章1節では、ダビデは、主の保護を信じる確信を失っていました。信仰が揺らいでいたわけですね。揺らいでいたというより、薄くなっていました。
現実にサウルの大軍の追跡に会うと、ダビデは、アビガイルの励ましの言葉も、彼の心から消えてしまい、気持ちがひどく落胆して、最悪のことしか考えられなかったのです。ですから、ダビデは、27章1節で2回も「のがれる」という言葉を使っております。この時のダビデの思いの中には、サウル王の執拗な追跡から逃れるという思いで、いっぱいになっていました。「サウルの手からのがれれば、自由になれる」という、思い込みの妄想に捕らわれてしまっています。目の前の困難、課題、苦しみから逃れれば、自由になれる、解放される、という捕らわれに陥っております。

そこで、ペリシテのところに逃げていけば、ペリシテから圧迫を受けることは当然考えられることですのに、また、ダビデがそのことに気づかないはずがありません。それなのに、サウルへの恐れに捕らわれてしまうと、ペリシテのことが見えなくなってしまった。愚か者と同じように、ダビデも自分の知恵に頼ってしまったのです。

私が逃げ腰になる時、特に後ろのものが気になります。自分の心に不安があったり、やましいものがあったり、恐れがあったりすると、自分の足音にも驚いてしまいます。ロトの妻のように、後ろを振り返って滅びてしまう、そういう危険に陥ってしまいます。誰も追いかけてこないのに、追われているように四六時中思うわけです。こういう事は現代でも起きていますね。何もダビデの時代の事だけではありません。
信仰によって前に進む人は、パウロのようにうしろのものを忘れます。前のものに向かって一心に走ります。信仰の人の特徴は、うしろのものを忘れ、前のものに向かってひたすら走るところにあります。

ピリピ3章13節~14節を読んでみましょう。ここに、パウロの、信仰によって歩む姿が見られます。

ピリピ 3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

ヘブル人への手紙でもお話ししましたけれども、天の都を本気で目指しているアブラハムたちの姿をお話ししました。天の故郷、神の都を目指している人は、パウロと同じように、うしろのものを忘れなければなりません。うしろのものを捨てて、前のものに向かって真っすぐ進まなければなりません。

私たちは毎日、うしろのものができてくるわけですね。この世で得をしたとか損をしたとか、地位を得たとか失ったとか、あの人がいじわるしたとか罵ったとか、うしろのものにたくさん悩まされるわけです。そういううしろのものに、いつまでも毎日こだわっていてはならない、ということであります。

目の前のものに向かって、目標をめざし、心をつくして主を愛し、隣り人を愛する生活に向かって一心に走る、そういう生活をすべきということですね。ですから私の生涯は、このことに尽きるでしょう。迷ったり疑ったりしてはなりません。

ご存知のように、ペテロは、水の上のイエス様のところに行く時に、イエスさまから目を離してわき見をし、風と波を見て恐れて水の中に沈みかかりました。私たちもそういう危険があるわけですね。うしろのものに、心が引かれているとそういう危険があります。

ダビデもこの危険に引っ掛かってしまいました。逃げ腰になったり、恐れや不安があると、一方的な見方しかできなくなってしまいます。ダビデは、ペリシテ人の地に行けば、サウルの手から逃れられる、としか考えられなかったのです。そのあと、ペリシテの地で、どんな苦難が待っているか考える余裕がなかった。余裕というか、そういうことに考えも及ばなかったわけです。

このことについて、箴言の29章25節では、「人を恐れるとわなにかかる。しかし【主】に信頼する者は守られる。」と言っています。

「人を恐れるとわなにかかる」、様々なわなが仕掛けられています。ペリシテに行けば、サウル王から自由になれる、と勝手にそう思ったわけですけれども、わなにかかっておりますね。
サウル王を恐れた時、ダビデは胸の中で次のような計算をしたのです。
ペリシテ人は、イスラエル人の宿敵でした。そのペリシテ人のところにダビデが逃げ込んでいけば、ダビデはイスラエルの反逆者とみなされ、ダビデがイスラエルと戦うというなら、ペリシテの王はダビデを受け入れて信用してくれる、という勝手な計算をしたのです。このような自分の知恵による愚かな考えが、ダビデの胸中に思い浮かんだのです。

先には、神様を畏れかしこんでいた時のダビデは、サウル王の着物の裾を切り取っただけでも心を痛めていたのに、人を恐れて自分の知恵に従い、人に助けを求めると、神の御霊が離れていってしまいます。そして敵のペリシテ軍に加わってでも神様から油注がれたサウル王と戦う、ということさえ考えていたんですね。まるで別人のダビデのような気がします。恐れの心を抱くと、霊の力が失われることが立証されております。

自分の知恵に頼ると、神の御霊が去ってしまって、神の道が分からなくなってしまいます。自分の知恵で考えると、弟子たちはイエス様が分からなくなって、「父を見せてください。」と言いました。ダビデは、敵にさえ助けを求めていってしまうのです。

ヨハネの14章1節を読んでみたいと思います。
ヨハ14:1 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」

「心を騒がす」いろいろな理由があると思いますけれども、恐れたり、不安になったり、逃避したくなってくる時、危険だということですね。何が必要なんでしょうか。
「神を信じ、またわたしを信じなさい。」ということです。

ヘブル12章2節も読んでみましょう。
ヘブル12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

ダビデの信仰の特徴は、自分の前に主を置くことでした。けれども、恐れと不安に取り囲まれて、サウル王からなんとか逃げたいと思い始めた時、自分の前に主を置くことを忘れました。そして、恐れと、不安と、心配と、思い煩いと、恐怖心に襲われたからですね。心に信仰を働かせない状態、隙をつくると、サタンが侵入します。心が神様から離れた時に考えることは、神のいのちの道からはずれています。見当違いで、愚かになってしまっています。自分の前に主を置くことを忘れ、しなくなってしまった時、非常に危険な状態になっていることが分かります。

ダビデは、この逃避行によって、彼自身が考えもしなかったわざわいに陥っていきました。そのことは第一サムエル記30章1節~2節に書いてあります。

Ⅰサム30:1 ダビデとその部下が、三日目にツィケラグに帰ってみると、アマレク人がネゲブとツィケラグを襲ったあとだった。彼らはツィケラグを攻撃して、これを火で焼き払い、
30:2 そこにいた女たちを、子どももおとなもみな、とりこにし、ひとりも殺さず、自分たちの所に連れて去った。

実際にダビデを苦しめたのは、サウルではなくアマレク人だったということですね。計算していなかったことが起きるわけです。私たちの生涯でも、明日はこうなるだろう、といろいろな計算をしますけれども、本当に私たちを苦しめるのは、自分が計算していないことであります。
ダビデの場合も、サウルではなくアマレクでありました。ダビデとその部下たちが、ペリシテ人の領主と行動を共にしている間に、その留守を狙って、ダビデたちの居留地、ツィケラグが襲われたのです。しかも、そのわざわいは、ダビデだけでなく、ダビデの部下とその家族全員が捕虜に連れ去られたという、非常に大変な出来事が起きてしまいました。

第一サムエル記の30章3節から6節もお読みしましょう。

Ⅰサム 30:3 ダビデとその部下が、この町に着いたとき、町は火で焼かれており、彼らの妻も、息子も、娘たちも連れ去られていた。
30:4 ダビデも、彼といっしょにいた者たちも、声をあげて泣き、ついには泣く力もなくなった。
30:5 ダビデのふたりの妻、イズレエル人アヒノアムも、ナバルの妻であったカルメル人アビガイルも連れ去られていた。
30:6 ダビデは非常に悩んだ。民がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩まし、ダビデを石で打ち殺そうと言いだしたからである。しかし、ダビデは彼の神、【主】によって奮い立った。

この事件によって、ダビデの部下たちは、ダビデを殺そうとした、と言っています。こういう態度は、今まで見られなかったことです。つまり部下たちは、ダビデがサウルを恐れたあまりに、ペリシテ人に助けを求め、ペリシテ軍のもとで働いた結果、自分たちの家族さえ守れなかった。そういうことに対する怒りをダビデにぶつけています。主の道から外れたダビデの指導力が、失われ始めています。長く続く苦難の訓練には、このような深刻な危機が伴います。

最近は、地震や津波や水害の訓練がよくありますけれども、それは本当に津波や地震が起きているわけではありません。本当の意味において、訓練というのはそういうものではないということですね。苦難の訓練には、実際の深刻な危険がともないます。つまり模擬テストをしているのではありません。本番なんだ、ということです。

ダビデは自分が取った愚かな行動を非常に悩みました。しかし、このことに気づいたダビデの行動は、非常に早かったんです。なぜなら実害が生じているわけですからね、放っておくと部下や部下の家族たちも殺されてしまうかもしれない。そういう危険が臨んでいたからです。ですから、ダビデの行動は早かった。自分の愚かな知恵で行動したことを悔い改め、主に信頼して従うほかに道がないことを悟ったんです。ダビデの良い点は、自分の罪が示されるとすぐに心が砕かれて、主に立ち返ったことです。

私たちにも、もちろん、弱さや欠点もあるし、サタンの誘惑も受けていますから、人を恐れたり、自分の知恵に従ったりして、過ちを犯すことがたくさんあります。目先の苦しみから逃れようとして、手を打とうとする時が最も危険な時と言えるでしょう。ですから、ダビデや他の人を批判することはできません。

ダビデは自らの愚かさのゆえに招いた苦難は、悩んだ末、行きつくところは神以外にはなかったのです。ダビデは自分の神に立ち返って、主にあって力を得て奮い立った、とあります。

そのあと、30章8節で、「ダビデは主に伺って言った」とあります。ここで本来のダビデの姿を取り戻していますね。主に尋ねることを取り戻しています。これによってダビデ自身の心も、部下たちの心も生活も、主の平安を回復しています。

普段何気なく礼拝を守り、聖書を読み、祈り、平安な生活をさせていただいておりますけれども、そのことがいかに重要なことかを、私たちはもう一度自覚させていただきたいと思います。
艱難に打ち勝つとは、目の前の苦しみがなくなることではありません。目の前の苦難から逃避すれば、さらに難しい苦難を引き起こし、複雑にしてしまいます。
「すでに世に勝ってくださった」イエス様を心に持つ人は、平安と勝利を得ます。事実ダビデは、主によってサウルからの攻撃から完全に守られています。

このことは、神様の約束ですから、ダビデもそれを信じ続ければよかったわけですけれども、現実の生活の中で、命を狙われる日々が続くと、逃げ回っている日々を続けていると、その恐れは一様のものではなくなります。自分の心の中で、「信仰と忍耐を保ちきれないのではないか」という不安と怖れに襲われる。それはどうして起きたんでしょうか。

それは、サウルがどんな大軍をもってダビデを追跡しても、今日一日、主がお守りくださることで平安を得て、信仰の決済をすることをしないで、何十日、何カ月、何年もの苦難が今日来てしまうのではないかと、今日やられてしまうのではないかと思うと、逃避したくなるのです。立ち上がれなくなってしまいます。現状の苦しみから逃げたい、投げ出したい、もう耐えられない、と思うのは同情はしますけれども、その焦りほど危険なものはありません。

主から目を離さず、主は必ず救い出してくださることを信じて留まるなら、戦いは一つで済みますけれど、そこから逃げ出そうとして、他人の助けを求めて逃げ回ったり、批判したりすると、たちまち争いが広がり、わざわいが増えてしまいます。
ダビデは、ペリシテに逃げ込んだものの、自分の部下たちの怒りを受けただけで、再度、神から力をいただく以外に道がないことを悟りました。傷は深かったですけれども、早く気付いたのはたいしたものですね。ここからズルズルと落ち込まなかった。

次に、逃避の危険な内容を、お話ししておかなければなりません。

第一サムエル記の27章4節をご一緒に読んでみたいと思います。
Ⅰサム27:4 ダビデがガテへ逃げたことが、サウルに知らされると、サウルは二度とダビデを追おうとはしなかった。

ダビデが、ペリシテ人の族長の一人で、ガテの王アキシュのところに逃げて行ったとき、サウルはダビデを追うことを諦めています。この成功体験が、ダビデの判断を狂わせてしまいました。不信仰な逃避をしても、それがうまくいくように見える時があります。

ご存知のように預言者のヨナは、神様のご命令から逃れてヨッパの港に着いた時、ちょうど出航しようとしているタルシシュ行きの船を見つけました。ヨナは、「神の御心だ」とは言っていませんが、あたかも神さまがヨナの逃亡のために備えられた船であるかのように、ためらわずに乗り込んでいます。その後のお話はご存知の通りですけれども、ヨナは嵐の海に投げ出され、大きな魚に飲み込まれ、三日三晩地獄のような苦しみを経験した後、陸地に吐き出されて、イエス様の復活を予表するような預言者となっています。 ここには、目先が良くても取り返しのつかない誤算があることを示しています。

箴言14書12節を読んでみましょう。
箴14:12 人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。

目先が良くても、それが神のみわざという保証になりません。つまり騙されないようにしましょうということです。ダビデはペリシテに逃亡することによって、本当に自由を得たのかというと、さらに複雑な手の混んだ策略をして、ガテのアキシュを騙さなければなりませんでした。さらに複雑なわなに入り込んでしまったのです。

第一サムエル記の27章7節から11節まで、少し長いですけれども、そこも読んでみたいと思います。ダビデが、どんな罠にかかっていくかが分かります。

Ⅰサム 27:7 ダビデがペリシテ人の地に住んだ日数は一年四か月であった。
27:8 ダビデは部下とともに上って行って、ゲシュル人、ゲゼル人、アマレク人を襲った。彼らは昔から、シュルのほうエジプトの国に及ぶ地域に住んでいた。
27:9 ダビデは、これらの地方を打つと、男も女も生かしておかず、羊、牛、ろば、らくだ、それに着物などを奪って、いつもアキシュのところに帰って来ていた。
27:10 アキシュが、「きょうは、どこを襲ったのか」と尋ねると、ダビデはいつも、ユダのネゲブとか、エラフメエル人のネゲブとか、ケニ人のネゲブとか答えていた。
27:11 ダビデは男も女も生かしておかず、ガテにひとりも連れて来なかった。彼らが、「ダビデはこういうことをした」と言って、自分たちのことを告げるといけない、と思ったからである。ダビデはペリシテ人の地に住んでいる間、いつも、このようなやり方をしていた。

手の込んだやり方をしていますね。嘘をついていることが漏れないように、一人も連れてこなかった、ということです。生かしておかなかった。ネゲブというのは南の方ですけれども、こちらの方に行っている、とこう言っていますね。ユダ地方の南の方のことをいっているわけです。

ガテの王アキシュは、ダビデに騙されて、すっかりダビデを信用してしまいました。ダビデは、自分の恐れのために、不本意なことまでしてアキシュの信用を買い取っていたのです。それでもダビデは、自分の知恵を尽くして巧みに策略を実行し、ガテの王アキシュの信頼も得て、サウルの追跡も止んで、この逃避行は一応成功を収めた、と思っていたことでしょう。

ところが、いつまでもこんなごまかしでは済まされない時がきました。それは、ペリシテの全軍が、イスラエルと全面対決するときが来たからです。第一サムエル記の28章1節を読んでみたいと思います。

Ⅰサム28:1 そのころ、ペリシテ人はイスラエルと戦おうとして、軍隊を召集した。アキシュはダビデに言った。「あなたと、あなたの部下は、私といっしょに出陣することになっているのを、よく承知していてもらいたい。」

このまま進んでいくと、ダビデは今まで決してしなかった、神の油注がれたサウル王に刃(やいば)を向けることになります。この時、ダビデの信仰が鋭敏に保たれていたとしたら、非常に深い葛藤があったはずですが、そのことについては聖書は何も記していません。ダビデは、表面上は積極的に、ペリシテとイスラエルの戦いに参戦するとアキシュに語っています。

こういうような状況の中でも、ダビデの本心を知り尽くしておられる神様は、深い憐みを示しておられます。この時、アキシュ以外のペリシテの首長たちは、ペリシテの全軍の中にダビデガいるのを見つけて、「一緒に連れて行けない。」と言い出しております。これは神の深い憐みによるものです。29章3節~5節を読んでみましょう。ペリシテの首長たちが文句を言っているところが記されています。

Ⅰサム 29:3 すると、ペリシテ人の首長たちは言った。「このヘブル人は何者ですか。」アキシュはペリシテ人の首長たちに言った。「確かにこれは、イスラエルの王サウルの家来ダビデであるが、この一、二年、私のところにいて、彼が私のところに落ちのびて来て以来、今日まで、私は彼に何のあやまちも見つけなかった。」
29:4 しかし、ペリシテ人の首長たちはアキシュに対して腹を立てた。ペリシテ人の首長たちは彼に言った。「この男を帰らせてください。あなたが指定した場所に帰し、私たちといっしょに戦いに行かせないでください。戦いの最中に、私たちを裏切るといけませんから。この男は、どんなことをして、主君の好意を得ようとするでしょうか。ここにいる人々の首を使わないでしょうか。
29:5 この男は、みなが踊りながら、『サウルは千を打ち、ダビデは万を打った』と言って歌っていたダビデではありませんか。

ペリシテの首長たちはアキシュの説得に対しても、ダビデを連れていくことに強固に反対しました。この反対の背後には、ダビデが、主の油注がれた王に刃を向けることがないように配慮された神様の憐みがあります。そしてもう間もなく、イスラエルの王に任命されるダビデが、イスラエル軍と戦うことにならないように、神様が深く配慮されたことは間違いがありません。非常に危険な状態になっておりますね。こうして、ダビデは、ペリシテに逃避することによってさらに神様を悩ませています。

ローマ8章26節~28節を読んでみましょう。私たちは知らないところで、神様の深いとりなしや配慮があることを、言っておりますね。

ローマ 8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
8:27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

こうしてダビデたちは、イスラエルとの戦いは避けられましたが、すでにお話ししましたように、彼らが戦わないでツィケラグに戻ってみると、ひどいことが起きていたわけですね。アマレク軍が留守を狙って、ダビデの部下の家族もろとも全員連れ去っていたのです。ですから、逃避は真の解決を与えなかったのです。

最後に、このダビデの逃避行から私たちが学ぶべきことをあげて、今日からの信仰に活用したいと思います。

第一は、神のご訓練中の苦難からは、逃避してはならない、ということです。
では、どういう苦難なら逃避してもいいのか、と聞かれれば、すぐに答えが見つかりませんが、明らかに自分の罪が原因で苦しみに会っている場合は、罪を悔い改めて主に立ち返ることです。主に立ち返ること以外に、どんなに善行に励んでも神の恵みは回復しません。信仰生活の中で、神の摂理によって苦難にあったなら、必ず苦難から解放してくださいますから、その時まで逃避しないでください。逃げないでください。

不信仰な自分の知恵に頼って逃避すると、何重にも別の苦しみを生み出してしまいます。迷い込んだ災いは、ますます深くなって蜘蛛の巣に捕まったように、なかなか抜け出せなくなります。神の憐みがなければ、おそらく周りの多くの人の心を傷つけて、すっきり解決できなくなります。

苦難は逃げ出さずに、すでに世に勝ってくださったイエス様を心に持って、忍耐強く乗り越えていくことです。信仰によって乗り越えていくことだけが、神のご訓練とご計画を実らせる唯一の道です。

主は、モーセや、ヨシュアや、さばき司たちや、ダビデを見捨てなかったように、主は必ず私とともにいて、力を与え、助け出してくださいます。このことを実際の生活で経験することが、神の訓練であります。ですから、信仰を知っているだけで毎日活用していなければ、ことばや口先だけになって神の訓練にはなりません。

ちょっと聖書をお読みします。

ヨシュア記1章5節、
ヨシ1:5 あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。

続けてヨシュア記1章8節9節も読んでみます。
ヨシ 1:8 この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行うためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。
1:9 わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、【主】が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」

もう一つ、ヨハネ14章18節も読んでみましょう。
ヨハ14:18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。

聖霊として戻ってくることを、言っていますね。苦難に会うと、主の訓練の本質を見失ってしまいがちです。見捨てられてしまった、と思いがちであります。
ダビデにとって、サウルから逃げることが主の訓練ではありません。人の疑いや、誤解や、ねたみや嫉妬、怒り、争いの中で、いかに主に信頼して、主のみこころを行い続けるかが、主の訓練の本質であります。逃げ方が上手になることではありません。

第二に学ぶべき事は、心身共に疲れを覚えた時、緊張と忍耐が長く続いた時は、突然恐怖がピークに達したかのように、打ちのめされそうになります。その時も危険ですが、もう一つの危険のタイプは、先ほどもお話ししましたが、問題が解決してほっと一息つく時、物事を考える余裕ができた時です。緊張がほぐれる、ということはいいのですが、自分の肉の知恵に頼りやすくなる、その時をサタンが狙っているわけです。ですから箴言3章5節にあるように、
箴3:5 心を尽くして【主】に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。

心に隙間を作らずに、「主に拠り頼み、自分の悟りにたよるな」、ということですね。エルサレムのペンテコステ教会が、信者の数が増えて、やもめさんたちのパンの配給が忙しくなって心に隙間ができた時、祈りとみことばに仕えることがおろそかになり、パンの配給でいさかいが起きております。教会の人数が増えて盛んになって繁栄しているのに、恵みがなくなっている。教会とクリスチャンたちが、みことばと、聖霊と、祈りと、賛美が形骸化して、霊のいのちを失い始めると、人の知恵が働き始めて、争いが始まります。

パウロはエペソ6章で、神の武具を身に着けるように言っていますけれども、
ダビデは、詩篇16篇8節で、「私はいつも、私の前に主を置いた。」と証ししています。彼はこれを忘れてしまいました。やらなくなっていたんです。するとその時、自分の知恵に頼って道をさ迷いました。彼はその危険を犯してしまいました。

第一ヨハネの1章7節を読んでみましょう。
Ⅰヨハ1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

イエス様が十字架の血を仰ぎなさい、と言うのは、罪を犯した時だけの話ではありません。毎日いつも、主イエスの血を仰ぎ、みことばと聖霊によって足の灯とし、道の光とし、いのちの光としてたましいを輝かせてください。そのための信仰であります。

第三に学ぶべきことは、逃避しようとする時、都合の良い誘いや、道が開かれたかのように見えることが起きたり、うまくいきそうな場面に出会っても、それに乗らないことです。先ほどのヨナの話のように、ヨナがヨッパの港に着くと、タルシシュ行きの船が用意されている。ヨナはそれに飛び乗っています。それは災いでありましたね。

第四は、ダビデのように明らかに道をそれているなら、そのことが分かると直ちに神に立ち返ることです。そうしないと、自分だけではなくて、周りの人も家族も主の恵みを失ってしまいます。私たちは弱い人間であり、苦難に会うとすぐに逃げ出したくなる、そういう人間であることを、十分に悟っていなければなりません。どんな理由があっても、逃げ出して実を結ぶ訓練はありません。自分の知恵に頼って進めば滅びに至り、主に信頼すればいのちに至ることを確信して、新たな信仰を活用して主の道を歩ませていただきたいと思います。

最後に詩篇121篇1節~8節を読んで、今日の話を閉じたいと思います。
ここに記されていることは、神様は私にとってどのようなお方か、ということであります。

詩121:1 私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。
121:2 私の助けは、天地を造られた【主】から来る。
121:3 主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。
121:4 見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。
121:5 【主】は、あなたを守る方。【主】は、あなたの右の手をおおう陰。
121:6 昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。
121:7 【主】は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。
121:8 【主】は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。

神様は私にとってどんなお方なのか、「助け」だ、と言っていますね。「守る方」、「右の手をおおう陰」、「すべてのわざわいから守る」、「あなたのいのちを守られる」、「とこしえまでも守られる」。ダビデは、このことをやがて経験することですけれども。ですから、そこから逃げ出すことは最も危険なことだということですね。

今日は、ダビデの逃避の危険をお話ししましたけれども、私たちは、すでに世に勝ってくださったイエス様をいただいて、これから出会う様々な艱難を乗り越えさせていただき、主の証しができるように導いていただきたいと思います。

お祈り

「主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。」
恵みの深い天のお父様、いろんな困難や課題は尽きないことでありますけれども、それが日ごとの課題であったり、大きな問題であったにしても、恐れてそこから逃げ出そうとすると、それが大きな課題を次々と引きづってしまいます。思いがけないところにアマレクが出てきたリして、大変な目に会う。ダビデはそういうことをいやというほど経験して、再び主に立ち返る生活に戻りましたが、私たちの信仰もズレやすいものでありますので、もう一度信仰をしっかりとイエス様に繋がって進めることができますように、顧みてください。
尊いキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明

<今週の活用聖句>
箴言3章5節
「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。」

地の塩港南キリスト教会
横浜市港南区上永谷5-22-2 TEL/FAX 045(844)8421


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