聖書の探求(330) サムエル記第二 23章 ダビデの最後のことば、ダビデの勇士たちとその功績

フランスの画家James Tissot (1836–1902)による「Three of David’s Captains(ダビデの三勇士)」(New YorkのJewish Museum蔵)


この章の最初に「これはダビデの最後のことばである。」という言葉で始まっています。そして後半は、ダビデの勇士たちとその功績を記しています。

23章の分解

1~7節、ダビデの最後のことば
8~23節、ダビデの勇士たちとその功績
24~39節、三十人の勇士たちのリスト

1~7節、ダビデの最後のことば

Ⅱサム23:1 これはダビデの最後のことばである。エッサイの子ダビデの告げたことば。高くあげられた者、ヤコブの神に油そそがれた者の告げたことば。イスラエルの麗しい歌。

1節、ここでは、ダビデ自身を、「高くあげられた者」「ヤコブの神に油そそがれた者」として語っています。これはダビデがベツレヘムの羊飼いからイスラエルの王位に上げられただけでなく、神の召命と任命を受け、神のしもべとして用いられた人であることを意味しています。それ故、「告げたことば」の「告げた」は、神の霊感を受けたことばを意味しています。他の箇所ではこのへブル語はいつも神の霊感を意味して使われています。「最後のことば」は、ダビデに与えられた「最後の霊感を受けたことば」を意味しているように思われます。

Ⅱサム 23:2 「【主】の霊は、私を通して語り、そのことばは、私の舌の上にある。

2節、「主の霊は、私を通して語り」主の霊がダビデによって語られた事実は、詩篇の中に非常に多く見られ、確かに立証されています。

「そのことばは、私の舌の上にある。」ダビデは神が自分を用いて語っておられることを、彼自身、自覚していました。神の啓示は、今はすでに完了していますが、主の御霊による照明は今も続いています。私たちが聖書を読んでいる時、聖霊が働いて下さると、そのみことばを通して主が自分に語りかけて下さっていることを経験することができます。

Ⅱサム 23:3 イスラエルの神は仰せられた。イスラエルの岩は私に語られた。『義をもって人を治める者、神を恐れて治める者は、
23:4 太陽の上る朝の光、雲一つない朝の光のようだ。雨の後に、地の若草を照らすようだ。』

3節、王の資格について主が語られる時、主は「イスラエルの岩」として語られています。「岩」はイスラエル人の信仰の土台、イスラエル人の保護者としての岩が、ダビデを諭されたのです。神の民を治める王は、義を持って治め、神を畏れて治める者でなければならないことです。政治的手腕だけでなく、その心に神の義を持ち、神を畏れかしこむ敬虔な信仰者でなければならないと、仰せられたのです。

4節、王はイスラエルの民の上に輝く「太陽の上る朝の光、雲一つない朝の光のように」民の心に光を与え、希望を与え、平和を与える者でなければなりません。

「雨の後に、地の若草を照らすようだ。」朝の光が雨の後、若草の露をキラキラ照らしているようだとは、肥えた土に植えられている若草が、朝日の光を浴びて、生き生きと繁栄していく姿を表わしています。これはダビデの働きを通して、イスラエルの民が恵みを受け、繁栄していく姿を描いています。

Ⅱサム 23:5 まことにわが家は、このように神とともにある。とこしえの契約が私に立てられているからだ。このすべては備えられ、また守られる。まことに神は、私の救いと願いとを、すべて、育て上げてくださる。

5節の欽定訳は、新改訳とは反対に「わが家は、そのように神とともにあったわけではないけれども」となっています。これは5節のことばの背後に含まれているダビデの気持ちを表わしています。すなわち、ダビデは彼自身、神の啓示の通りの理想には届かなかったことを認めなければならないけれど、神がダビデと結んでくださった確かな「とこしえの契約」があったので、「このすべては備えられ、また守られる。まことに神は、私の救いと願いとを、すべて、育て上げてくださる。」と言ったのです。ダビデに対する主の豊かなあわれみを喜んだのです。私たちの信仰生活も、理想的にはいかないかも知れませんが、イエス様の約束のみことばを堅く信じて、放さないでいれば、主は必ず、豊かな恵みとあわれみを与えてくださいます。

「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたととこしえの契約、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ。」(イザヤ書55:3)

「神がイエスを死者の中からよみがえらせて、もはや朽ちることのない方とされたことについては、『わたしはダビデに約束した聖なる確かな祝福を、あなたがたに与える。』というように言われていました。」(使徒13:34)

Ⅱサム 23:6 よこしまな者はいばらのように、みな投げ捨てられる。手で取る値うちがないからだ。
23:7 これに触れる者はだれでも、鉄や槍の柄でこれを集め、その場で、これらはことごとく火で焼かれてしまう。」

6,7節、ダビデに対する神のあわれみに対して「よこしまな者(神に対して真直ぐでない者、邪悪な者という意味です。)」は、火に投げ込まれるいばらのように投げ捨てられます。これは神の審判を表わしています。

8~23節、ダビデの勇士たちとその功績

この箇所の勇士たちのリストは、歴代誌第一 11章11~25節と記事が並行しています。この双方には、教理的に重要な違いは全くありませんが、幾分かの違いが見られます。それは歴代誌の記者がサムエル記から書き写す時に間違えたのか、それとも、サムエル記の記者が、別の第三の資料から書き写す時に間違えたものと思われます。

たとえば、サムエル記第二 23章8~12節には、ハクモニの子ヤショブアムとアホアハ人ドドの子エルアザルとハラル人アゲの子シャマの三人を記していますが、歴代誌第一 11章11~14節では、最初の二人の名前は記されていますが、三人目のシャマは記されていません。

この三人はダビデの三勇士と呼ばれ、この章の後半に記されている「三十人の勇士」と呼ばれている三十七人の勇士たちとともに、ダビデの王位の確立と王国の繁栄のために重要な働きをした人たちでした。

Ⅱサム 23:8 ダビデの勇士たちの名は次のとおりであった。補佐官のかしら、ハクモニの子ヤショブアム。彼は槍をふるって一度に八百人を刺し殺した。

8節、最初の三勇士の長は、ダビデの補佐官のかしらであったヤショブアムです。彼は槍をふるって一度に八百人を刺し殺したと記されています。歴代誌第一 11章11節では「三百人を刺し殺した」となっています。どちらが正しいのかは判明しませんが、これも書き記す時の間違いでしょう。

Ⅱサム 23:9 彼の次は、アホアハ人ドドの子エルアザル。ダビデにつく三勇士のひとりであった。彼がペリシテ人の間でそしったとき、ペリシテ人は戦うためにそこに集まった。そこで、イスラエル人は攻め上った。
23:10 彼は立ち上がり、自分の手が疲れて、手が剣について離れなくなるまでペリシテ人を打ち殺した。【主】はその日、大勝利をもたらされ、兵士たちが彼のところに引き返して来たのは、ただ、はぎ取るためであった。

9節、彼に次ぐ三勇士の一人はエルアザルです。彼はペリシテ人との戦いの時、立ち上がり、自分の手が疲れきって、手が剣について離れなくなるまで(手と剣が一体になったかのように思われるまで)ペリシテ人を打ち殺し、主はその日、大勝利をもたらしています。主はエルアザルとともに戦って下さったのです。主は人を用いて働かれることを示しています。

「主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。」(マルコ16:20)

「私たちは神の協力者であり、」(コリント第一 3:9)

「私たちは神とともに働く者として、」(コリント第二 6:1)

10節、「兵士たちが彼のところに引き返して来たのは、」イスラエルの兵士たちは、ペリシテ人を恐れて逃げてしまっていたのでしょう。彼らはエルアザルの勝利を見て、はぎ取るために帰って来たのです。このエルアザルの雄々しい勇気は主が与えたものだったのです。

Ⅱサム 23:11 彼の次はハラル人アゲの子シャマ。ペリシテ人が隊をなして集まったとき、そこにはレンズ豆の密生した一つの畑があり、民はペリシテ人の前から逃げたが、
23:12 彼はその畑の真ん中に踏みとどまって、これを救い、ペリシテ人を打ち殺した。こうして、【主】は大勝利をもたらされた。

11,12節、第三の人物はシャマです。彼もまた、ペリシテ人が「隊をなして」(へブル語では「レヒニ」と読み替えることもできます。)集まって来た時、その戦いの勢いの流れを変えた人です。そこには「レンズ豆の密生した一つの畑があり」とは、本書の記者が、この出来事を目撃した人であることを表わしている証拠です。イスラエルは再び、ペリシテ人を恐れて逃げてしまっています。その時、シャマはその畑の真ん中に踏みとどまって、イスラエルを救い、ペリシテ人を打ち殺しています。

「こうして、主は大勝利をもたらされた。」これらの三勇士の活躍がありましたが、勝利は主によるものであったことを証ししています。主が力を与え、勇気を与え、勝たせて下さったのです。主がともにいて下さり、ともに働いて下さることが、大勝利の秘訣であることを、私たちは経験して悟らせていただきましょう。

Ⅱサム 23:13 三十人のうちのこの三人は、刈り入れのころ、アドラムのほら穴にいるダビデのところに下って来た。ペリシテ人の一隊は、レファイムの谷に陣を敷いていた。
23:14 そのとき、ダビデは要害におり、ペリシテ人の先陣はそのとき、ベツレヘムにあった。
23:15 ダビデはしきりに望んで言った。「だれか、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらなあ。」
23:16 すると三人の勇士は、ペリシテ人の陣営を突き抜けて、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持って来た。ダビデは、それを飲もうとはせず、それを注いで【主】にささげて、
23:17 言った。「【主】よ。私がこれを飲むなど、絶対にできません。いのちをかけて行った人たちの血ではありませんか。」彼は、それを飲もうとはしなかった。三勇士は、このようなことをしたのである。

13~17節、三十人の中の三人(ヤショブアムとエルアザルとシャマ)は、サムエル記第一 22章1節で、ダビデがアドラムのほら穴にいた時、ダビデの所に下って来て、加わった、極く初期からの人々の中にいました。記者は、その時の出来事をここに記しているのです。その時、ベツレヘムはペリシテ人の先陣に支配されていました。ダビデはしきりに望んで、「だれか、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらなあ。」と言いました。ダビデはベツレヘム出身なので、その井戸はよく知っていたのです。なぜ、ダビデがこのように言ったのかは定かではありませんが、ただ単純にその井戸の水が飲みたかったとするのは、危険が大きすぎますので、おそらく勇士たちの忠誠心を試したのだと思われます。

すると、先の三人の勇士たちは、敵のペリシテの陣営を突き破って、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それをダビデの所に運んで来ました。これは命がけの忠誠心を表わしています。ダビデは自分のために、命を危険にさらしても、彼の願いを成し遂げてくれたことに深く感動して、その水を飲むことができず、神への注ぎのささげものとして主にささげたのです。ダビデは主がこのように勇敢で、命がけの忠実な勇士を与えてくださったことに、感謝の祈りをささげています。

「主よ。私がこれを飲むなど、絶対にできません。いのちをかけて行った人たちの血ではありませんか。」

主イエス様は私のために、ご自身のいのちをお捨てくださいました。私は何をもって主にお答えすればよいでしょうか。

Ⅱサム 23:18 ツェルヤの子ヨアブの兄弟アビシャイ、彼は三人のかしらであった。彼は槍をふるって三百人を刺し殺し、あの三人とともに名をあげた。
23:19 彼は三人の中で最も誉れが高かった。そこで彼らの長になった。しかし、あの三人には及ばなかった。
23:20 エホヤダの子ベナヤは、カブツェエルの出で、多くのてがらを立てた力ある人であった。彼は、モアブのふたりの英雄を打ち殺した。また、ある雪の日に、ほら穴の中に降りて行って雄獅子を打ち殺した。
23:21 彼はまた、あの堂々としたエジプト人を打ち殺した。このエジプト人は、手に槍を持っていた。彼は杖を持ってその男のところに下って行き、エジプト人の手から槍をもぎ取って、その槍で彼を殺した。
23:22 エホヤダの子ベナヤは、これらのことをして、三勇士とともに名をあげた。
23:23 彼はあの三十人の中で最も誉れが高かったが、あの三人には及ばなかった。ダビデは彼を自分の護衛長にした。

18~23節には、第二の三人の勇士たちがいたことを記しています。ここにはアビシャイ(18節)とベナヤ(20節)の二人の名前が記されていますが、三人目の名前は記されていません。三人目はアマサだったのかもしれません。アマサは20章でヨアブに殺されていますので、その名が記されなかったのかもしれません。あるいはアマサがアブシャロムの反乱の時アブシャロムの側についたことによって(17:25)その名が記されなかったのかもしれません。

アビシャイは二番目の三勇士のかしらで、槍をふるって三百人を刺し殺して名をあげています。しかし一番目の三勇士には及ばなかったのです。

ベナヤはカブツェエル出身で、多くの手柄を立てた力ある人でした。モアブの二人の英雄を打ち殺し、雪の日、ほら穴にいた雄獅子を打ち殺し、エジプト人が持っていた槍をもぎ取って、その槍で彼を殺しています。彼らはみな、大いにダビデの働きを助けた人々でした。

24~39節、三十人の勇士たちのリスト

Ⅱサム 23:24 あの三十人の中には次の者がいた。ヨアブの兄弟アサエル。ベツレヘムの出のドドの子エルハナン。
23:25 ハロデ人シャマ。ハロデ人エリカ。
23:26 ペレテ人ヘレツ。テコア人イケシュの子イラ。
23:27 アナトテ人アビエゼル。フシャ人メブナイ。
23:28 アホアハ人ツァルモン。ネトファ人マフライ。
23:29 ネトファ人バアナの子ヘレブ。ギブアの出のベニヤミン族リバイの子イタイ。
23:30 ピルアトン人ベナヤ。ガアシュの谷の出のヒダイ。
23:31 アラバ人アビ・アルボン。バルフム人アズマベテ。
23:32 シャアルビム人エルヤフバ。ヤシェンの子ら。ヨナタン。
23:33 ハラル人シャマ。アラル人シャラルの子アヒアム。
23:34 マアカ人アハスバイの子エリフェレテ。ギロ人アヒトフェルの子エリアム。
23:35 カルメル人ヘツライ。アラブ人パアライ。
23:36 ツォバの出のナタンの子イグアル。ガド人バニ。
23:37 アモン人ツェレク。ツェルヤの子ヨアブの道具持ちベエロテ人ナフライ。
23:38 エテル人イラ。エテル人ガレブ。
23:39 ヘテ人ウリヤ。全部で三十七人である。

三十人のリストは、歴代誌第一 11章26~47節にも記されていますが、記されている順序と名前の違いは、この三十人の勇士の精鋭隊のメンバーが時々変わったからであると思われます。また「ヨアブの兄弟アサエル(24節)」「ヘテ人ウリヤ」のような何人かの名前は他の箇所にも、その名が記されていますが、その他の者はこのリストにのみ名が記されています。

39節に「全部で三十七人」とあるのは、ここに記されている人物のほかに、先の二組の三勇士を加えた人数であると思われます。総司令官としてヨアブも加えられていたかもしれません。

ダビデ王国の勇士たちは、ダビデがサウル王を避けて逃げていた頃に、ダビデを頼って集まって来た者たちでした。彼らには、律法を破った罪人たちもいましたが、ダビデの指導のもとで、ダビデに似た命がけで忠誠を尽くす勇敢な勇士となったのです。

「困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。こうして、約四百人の者が彼とともにいるようになった。」(サムエル記第一 22:2)

イエス様のもとに集まって来た人々も、また同じでした。

「イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。」(マタイ9:10、ルカ15:1,2)

私たちに神から委託されている神のみことばは、栄光ある福音であって、これは人に棄てられ、世の人々からあなどられ、さげすまれている人々への歓喜の音信です。これは、最大の罪人にも救いと希望を与える福音です。イエス・キリストの十字架の恵みは、福音が宣べ伝えられる所では、どこでも人々の人生が変えられていくのです。これは歴史も証明しているところです。

あとがき

十数年ぶりに神論のノートを整理してプリントにしました。久し振りにまとまった学びをしましたが、神様が今も生きて働いて下さっていることを再確認しました。
日頃、目に見えない神様を信じて生活しているのですが、主が偉大なみわざを行なっていて下さることをみことばの光を通して見ると、世の中の出来事がはっきりと見えて来ます。ますます、イエス様に従って、心にいのちの光を持って、周りの人々の心を照らし、主の再臨の足音が聞こえて来る時、主のあかしを少しでもさせていただきたいと願っています。
「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(へブル11:1)

目に見えない神を、見えるような足取りで歩みたいものです。

(まなべあきら 2011.9.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)


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