聖書の探求(338) 列王記第一 3章16~28節、主の知恵によるソロモンの裁判

フランスの画家James Tissot (1836–1902)による「The Wisdom of Solomon(ソロモンの知恵)」(New YorkのJewish Museum蔵、Wikimedia Commonsより)


3章と4章は、ソロモンの知恵と偉大さを記しています。これらの章に用いられている内容と型はかなり多様です。それは記者が資料として使った主な出典である「ソロモンの業績の書」(11:41)から抜粋したものだからです。ここでの記者の目的は、ソロモンが賢人であり、彼の知恵が神からの祝福の賜物であることを明白に表わそうとしていることです。

3章の分解

1節、エジプトとの同盟(ソロモンの外交)
2,3節、高い所での礼拝(ソロモンの宗教)
4~15節、ソロモンの知恵(ギブオンでの主の顕現)
16~28節、主の知恵によるソロモンの裁判

16~28節、主の知恵によるソロモンの裁判

ここにおけるソロモンの裁判は、ソロモンの知恵が実際問題において、いかに賢く正確に活用されたかを証明しており、また彼が、知恵に満ちた賢人の王として、いかに広く彼の評判が広がって行ったかを示しています。

これは古くから近東の多くの宮廷で、王が直接、一般人、特に貧しい者や、孤児たち、圧迫されている者の訴えを裁いていた慣習を示しています。このような慣習があったことは、ラス・シャラムで発見されたウガリット文書のクルトとハキットの中にも記されています。これは主が民のために、王に求められた社会的正義によるものでした。

「みなしごや、やもめのためにさばきを行ない、在留異国人を愛してこれに食物と着物を与えられる。」(申命記10:18)

この弱き者を守るための社会的正義は、預言者たちによって擁護されており、この正義がないがしろにされていた時には非難されています。

「善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。…おまえのつかさたちは反逆者、盗人の仲間。み
な、わいろを愛し、報酬を追い求める。みなしごのために正しいさばきをせず、やもめの訴えも彼らは取り上げない。」(イザヤ書1:17,23)

「万軍の主はこう仰せられる。『正しいさばきを行ない、互いに誠実を尽くし、あわれみ合え。やもめ、みなしご、在留異国人、貧しい者をしいたげるな。互いに心の中で悪をたくらむな。』」(ゼカリヤ書7:9,10)

「わたしは、さばきのため、あなたがたのところに近づく。わたしは、ためらうことなく証人となり、呪術者、姦淫を行なう者、偽って誓う者、不正な賃金で雇い人をしいたげ、やもめやみなしごを苦しめる者、在留異国人を押しのけて、わたしを恐れない者たちに、向かう。―万軍の主は仰せられる。―」(マラキ書3:5)

16節の「遊女」は、今日の人が考える商業的遊女ではなく、古代近東で行なわれていた一夫多妻主義の社会の一部としての妻たちのことです。イスラエル人は以前からこの時まで、このような妻たちを持つ権利のある人として受け入れていました。

Ⅰ列王 3:16 そのころ、ふたりの遊女が王のところに来て、その前に立った。

創世記38章12~19節では、夫が死んだ妻のタマルは遊女の姿をしてユダと関係を持っています。この時の遊女の姿は商売的な遊女のイメージだったのかもしれません。

ヨシュア記2章では、ヨシュアが派遣した二人の偵察員はエリコの遊女ラハブによって助けられています。

これらの遊女が良いわけではありませんが、聖書はこれについても善し悪しの判定をせず、このユダとタマルの間に生まれたペレツが、イエス・キリストの先祖に加わっている事実や、遊女ラハブによってイスラエルに勝利が与えられたことと、このラハブからボアズが生まれ、ダビデの先祖となり、イエス・キリストの先祖になったことを忠実に記しています。

これらの遊女の記録は、各々の時代を反映していると言えるでしょう。

この二人の女たちの争いは、一人の女の産んだ子が死んでしまったことに対することでした。

Ⅰ列王 3:17 ひとりの女が言った。「わが君。私とこの女とは同じ家に住んでおります。私はこの女といっしょに家にいるとき子どもを産みました。
3:18 ところが、私が子どもを産んで三日たつと、この女も子どもを産みました。家には私たちのほか、だれもいっしょにいた者はなく、家にはただ私たちふたりだけでした。
3:19 ところが、夜の間に、この女の産んだ子が死にました。この女が自分の子の上に伏したからです。
3:20 この女は夜中に起きて、はしためが眠っている間に、私のそばから私の子を取って、自分のふところに抱いて寝かせ、自分の死んだ子を私のふところに寝かせたのです。
3:21 朝、私が子どもに乳を飲ませようとして起きてみると、どうでしょう、子どもは死んでいるではありませんか。朝、その子をよく見てみると、まあ、その子は私が産んだ子ではないのです。」
3:22 すると、もうひとりの女が言った。「いいえ、生きているのが私の子で、死んでいるのはあなたの子です。」先の女は言った。「いいえ、死んだのがあなたの子で、生きているのが私の子です。」こうして、女たちは王の前で言い合った。

19節では、その子を産んだ母親が誤ってその子の上におおいかぶさって死なせてしまい、もう一人の女が眠っている間に、その女の子と死んだ子をすり替えてしまったという訴えです。これには客観的証拠がありません。今のようにDNA鑑定ができれば、どちらの女の子どもかすぐに分かるのですが、当時はどちらの証言が本当かを見抜くしかなかったのです。どちらの女も、「死んだのがあなたの子で、生きているのが私の子です。」と、ソロモンの前で言い張りました。ここには自分中心で肉的な人の性質がよく表わされています。自分中心の肉的な性質は、自己主張によく表わされます。

ソロモンはこのような愚かで自分中心な者に対して、本当の親を判別するために、剣で「生きている子どもを二つに断ち切り、半分をこちらに、半分をそちらに与えなさい。」と命じました。

Ⅰ列王 3:23 そこで王は言った。「ひとりは『生きているのが私の子で、死んでいるのはあなたの子だ』と言い、また、もうひとりは『いや、死んだのがあなたの子で、生きているのが私の子だ』と言う。」
3:24 そして、王は、「剣をここに持って来なさい」と命じた。剣が王の前に持って来られると、
3:25 王は言った。「生きている子どもを二つに断ち切り、半分をこちらに、半分をそちらに与えなさい。」

このような判決が行なわれることは通常は考えられません。当時の王制国家では、こういうことも通用したのだと思われます。母親がこの命令をまともに受け止めているのを見ると、ソロモンが本気で子どもを二つに断ち切る雰囲気が伝わっていたのでしょう。

26節、生きている子の母親は、自分の子を哀れに思って胸が熱くなり、王に申し立てています。「わが君。どうか、その生きている子をあの女にあげてください。決してその子を殺さないでください。」と。

Ⅰ列王 3:26 すると、生きている子の母親は、自分の子を哀れに思って胸が熱くなり、王に申し立てて言った。「わが君。どうか、その生きている子をあの女にあげてください。決してその子を殺さないでください。」しかし、もうひとりの女は、「それを私のものにも、あなたのものにもしないで、断ち切ってください」と言った。

本当の母親は自己犠牲の愛を示しています。わが子が剣で殺されるのなら、「あの女にあげてください。」と言っています。口先の言葉や激しい熱心さにだまされないで、真実な方はどちらかを判別するしるしは、自己犠牲の愛を示しているかどうかです。「神は愛だからです。」(ヨハネ第一 4:8)自己犠牲の愛のあるところに神はおられます。

しかし、もう一人の女は、「それを私のものにも、あなたのものにもしないで、断ち切ってください。」と言っています。

冷淡は偽りです。自分の不幸の故に他人の幸福が我慢できなくなるのは罪の性質です。どんなに話の筋が通っているように見えても、冷淡の中に神はおられません。他人の不幸を願い、わざわいや悲しみに陥れようとする企ての中には神はおられません。

27節、ソロモンは自己犠牲の愛がどちらの女にあるかによって、本当の母親を判別したのです。

Ⅰ列王 3:27 そこで王は宣告を下して言った。「生きている子どもを初めの女に与えなさい。決してその子を殺してはならない。彼女がその子の母親なのだ。」

この判別方法は、聖書全体を通して貫かれている神の愛によっています。私たちも神の愛によって生きるなら、ソロモンと同じ神の知恵を受けることができます。生きる道を迷うことがなくなります。

「キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、」(コリント第一 1:30)

28節、王のこのさばきを聞いて、イスラエルの人々はみな、王に畏敬を示したのです。

Ⅰ列王 3:28 イスラエル人はみな、王が下したさばきを聞いて、王を恐れた。神の知恵が彼のうちにあって、さばきをするのを見たからである。

今の世の中に平和な生活を取り戻すためには、私たちが神の愛を示すことが必要です。

あとがき

最近、本の著者の私に会いに来た人がいました。人は、神よりも人間が気になるようです。また、ボロクソに言うために私に会いに来る人もいます。パウロは私たちを「土の器」(コリント第二 4:7)だと言いました。確かに神は土地のちりで人を形造られていますから(創世記2:7)、土の器です。ところが土の器の中に宝を入れていて、測り知れない神の知恵、神のことば、神の光が出ている者がいます。反対に、自分の知恵、自分中心の自我、高慢があふれ出ている器もあります。土の器の中に自分中心の自我が満ちていれば、その上に神の宝であるイエス様を入れることはできません。器の中身を捨てて、空にすることによって、毎日新しい宝を受け入れることができるのです。

(まなべあきら 2012.5.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)


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