音声と文書:ヨハネの黙示録(07) スミルナにある教会へ 2:8~11

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PDF文書:ヨハネの黙示録(7)

ヨハネの黙示録 2:8~11
2:8 また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。『初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。
2:9 「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。──しかしあなたは実際は富んでいる──またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。
2:10 あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。
2:11 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。」』【新改訳改訂第3版】

上の写真は、トルコの西岸、イズミール市街にある古代スミルナの遺跡。ローマ時代のアゴラ(広場)。背後の山頂にはギリシャ時代のアクロポリスがある。(「聖書の世界 使徒行伝編」ミルトス刊より)。

ヨハネの黙示録(7) スミルナにある教会へ 2章8節~11節

はじめに

今日はスミルナにある教会、この教会に当てて書かれた手紙を学ぼうと思っているわけです。
皆さんのお宅にも手紙が送られると思うのですが、手紙の背後に書かれている意味っていうのはたくさんあるわけなので、これを読み取るというのは大変なことなんですね。

まずこのスミルナの町っていうのは、どのあたりにあるかというと、これもエーゲ海に面している港町なんですね。エペソの町の真北にあるわけなんです。ここは非常に美しい港町で、ここからの見晴らしは絶景だと言われています。
スミルナの町は古い町で、紀元前1000年ごろギリシャの植民地として建設された町であります。非常に古いんですね。
紀元前600年ころ、ルデヤ人という、東の方にある氏族に、滅ぼされたわけです。
それから300年くらいたち、紀元前300年ころ、再びギルシャ人によって再建されているわけです。
で、このスミルナは、東に強力なルデヤとかフルギヤから絶えず攻撃を受けていたわけです。このスミルナは貿易港としても、しかも風光明媚としても優れた町でありますから、いつも戦争を仕掛けられてはひどい目にあっていた。
スミルナの歴史というのはいつも存亡の危機、いつ倒れてしまうかわからないという、そういう危機に見舞われ続けているということだったんですね。

ですから、ギリシャによって紀元前300年ごろに再建されるまでは、スミルナの人々は町が滅ぼされてしまいましたので、谷とか丘とかに村落を作って散在していたわけです。
村落集団として国が造れなかったわけです。
非常に苦労をしている、苦しんでいるところの町である。ま、逃げ回っていたわけです。
ギリシャによって再び再建されてから、スミルナは急激に発達していった。
ローマとの海上貿易が急に発展していった。

スミルナの特徴は、ローマに対して強い忠誠心を示したということなんです。
スミルナはエペソやペルガモより先に、ローマ皇帝ティベリウスのために、BC26年に寺院を建てているんです。歴史に残っているんですけれども。
これほどスミルナというのはローマに忠誠を示した。
ローマが迫害を加えている時も、スミルナは忠誠心を変えなかったと、言われています。
ですからスミルナの一つの特徴は非常に忠誠心があった。
だから10節で「忠実でありなさい」と言われていますが、スミルナは「忠実」ということがどういうことかよく分かっている人々であった。
イエス様は、忠誠心が分かるところには「忠実でありなさい」とお教えになった。
こういうことが背景にあるということですね。

Ⅰ. そしてスミルナに書かれている手紙を見ると、七つの手紙のなかで最も短いわけです。しかもそこにはエペソのように「非難することがある」と書かれていないんですね。

非難することがないのはこのスミルナの教会とフィラデルフィアの教会の二つだけなんです。
ここでは 賞賛だけが書かれてある。しかもこの手紙は、みなぎるような愛情に溢れているといってもよろしいと思います。

A.ここでイエス様はどういう姿で現れているかというと、「初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。」として現れています。

1.「初めであり、終わりである方」という言い方は、1章8節のあたりに出てきた「アルファであり、オメガである」という言い方と同じですね。アルファ、オメガというのはギリシャ語で最初と最後の文字で、これは永遠の支配者であるキリストということを表しているわけです。

なぜイエス様はスミルナに永遠の支配者として現れたのか。
これは後々学んでいくと分かるわけですが。

2. もう一つは「死んでまた生きた方」という言い方ですが、
これは、なかなか難しい言い方をしていると思うんです。
なぜなら、この言葉の持っている意味は、死んで、また、生きた、というような寝返りを打ったような言い方をしていますけれども、中身はそうじゃないんですね。
命が死の中にあっても、死を通過して存在し続けるところのお方、という意味なんです。
キリストは死んでいなくなって、また現れたお方ではないと。
肉体の死を経験しておられた時も生きておられた。

スミルナの教会にはこのことが非常に大事なことなんです。
お分かりいただけると思いますが、スミルナというのは紀元前1000年ころから絶えず迫害にあい続けているんですね。だから、死の中を何度もくぐり抜けていながら、それでもなお命を保ち続けている。
これまでのスミルナの歴史とキリストの復活が、似ていると言ってはおかしいんですけれども、よく分かる、ということです。
だからイエス様は、スミルナの人が、死の中にあってもなお命が存続し続けるという意味がですね、キリストの十字架と復活の意味を、スミルナの人にはよく分かるんじゃないか、と。

それ以外の理由もありますけれども、それで、ここでイエス様はこういう意味で名乗られている。
スミルナの人が受けた苦しい長い歴史と、現在も将来もさらにもっと厳しい迫害がこのスミルナに臨もうとしている。イエス様はこういう意味で現われた。
だから、現われ方にも意味があると思います。これらの事はこの部分だけを読んでも分かりにくいですが、スミルナの人たちが過去にどういう歴史をもっていたか、将来もどういう生き方をしようとしているのか、ということを考え合わすと、
なるほどキリストは、こういう幻の方として現れなさったということが理解できます。

Ⅱ. さて、ここでも、主はスミルナの教会に二つの事を「知っている」と言われました。

A. 9節の前半で「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている」と言われました。

1.先ほどもお話しましたが、スミルナはルデヤに破壊されました。都市としての価値を失ったわけですね。そして谷間とか丘に村落国家をつくって、生活していたわけです。

ギリシャの都市国家として再建されると、勢いを盛り返して、自ら法律を定めて行政官も選挙で選ぶ歴史もあるんです。そして国家の運営もしているんですね。
こういうような状況であった。彼らは、何度も絶望的な運命を辿らされてきているけれども諦めなかった。

エペソの教会の監督はヨハネであったようですね。
スミルナの教会の監督はヨハネの友人、あるいは弟子のポリカルポス、ポリカープとも呼ばれていますが、この人がスミルナの教会を指導していたようです。
ポリカープはこの時に殺されているわけですね。
ポリカープは、「お前がキリストを拒めば、許してやる」といわれて、「私は子供のころからずっとイエス様に従ってきて、イエス様は何一つ悪いことをなさらなかった、今からこの年寄りがキリストに背を向けることはできない、どうぞ命をお取りください。」と言って死んでいったというんですね。
ま、さすがだなあと思いますね。命を取られる心配がない時は、そんなことは簡単に言えますがね。
そういってポリカープは地上を去っていった。
それほど極度の苦しみと貧しさを、スミルナの教会は味わっているんですね。
イエス様はそういうことを知っておられる。
ですから、彼らは自分達の町の教会の歴史を考えるとき、キリストの死と復活というのをですね、身近に感じられたんです。

2. こういうような苦しみと貧しさを知っていたスミルナの教会に対して、
主は「しかしあなたは実際は富んでいる」と評価された。
極貧の中にいる人にとって「実際は富んでいる」というイエス様の評価は、深く考えさせられるものですね。
極度の貧しさの中にあったのに、本当は富んでいる、と言われたんです。

このことを日本に当てはめて考えたらどうかなあ、と思うんですね。
イエス様がこの日本に対して仰られるとしたら、どういう言い方をなさるだろうか。
「日本人のあなた方は富んでいるけれども、実際は貧しい」と言われるかもしれない。

私達は、日ごろ難民というと、パキスタンとかアフガニスタンとかインドとかアフリカとか思っていますけれども、実際はそうじゃないんですね。
私は、自分の貧しさに気づかない難民というのが、東京にも横浜にもいっぱいいるんじゃないだろうか。しかも助け手なしに滅びるのを待つばかり。
こういう風に思いますね。

今も中国のクリスチャンたちは極度の貧しさの中にあるわけです。
しかし、喜びと力に溢れている。

日本のクリスチャンは、どうだろうかなあ、と思うんです。
日本は物にあふれて窒息しそうなんです。

ずいぶん前ですがね、あるお母さんがですね、子供たちになんでも欲しい物を食べさせる。ケーキが欲しいと言えばケーキを食べさせる。そして、またケーキを食べたいというと、また食べさせる。もうお腹がいっぱいになって食べられなくなると、吐かせて、また食べさせる。
そういう食べさせ方があるのかなあ、と思ったんですけどね。

いったいどちらが富んでいて、どちらが貧しいのか、人間というのはよく考えないとわからなくなってしまいますね。
本当の意味で私達は富んでいるのか、貧しいのか。
富んでいるというのはいったいどういうような事なのか。
これをひとつ、聖書から調べてみたいと思うんです。

Ⅱコリ 8:2 苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。
8:3 私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、
8:4 聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。
8:5 そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。

もう一つ読んでみましょうか。7節と9節。

Ⅱコリ8:7 あなたがたは、すべてのことに、すなわち、信仰にも、ことばにも、知識にも、あらゆる熱心にも、私たちから出てあなたがたの間にある愛にも富んでいるように、この恵みのわざにも富むようになってください。

8:9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

ここに、マケドニヤの教会、これはスミルナのエーゲ海を超えた反対側にあって、ヨーロッパ側にあるのがマケドニヤ地方と呼んでいるわけですが、ルデヤさんがいたピリピとかコリントとかですね、彼らは極度の貧しさにあったわけですけれども、それにも拘わらず、満ち溢れる喜びに満ちている豊かさは、どこに原因があるかというと、9節でしょうね。
キリストの貧しさ、つまり、キリストが全てを私達に与えてくださった、それによって彼らは本当に富む者になったと、こういう風にいっているんです。

ここに、人間が本当に富む者、豊かなものとはどういうことなのか。
お金がある人が本当に富んでいるのか。
健康な人とは、身体が健康ならば必ず健康なのか。
そうではないと思いますね。

貧しい人というのは「受ける人」の事をいうようですね。
富んでいる人っていうのは与える人のことを言うようですね。

イエス様が言われた言葉にですね、大事な事が書いてあって、
私もよくこれを思い起こすんですが、使徒20章35節を読んでみましょうか。

使20:35 このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」

ここにイエス様が語られた言葉があります。
「受けるより与える方が幸いである。」

これは本当に素晴らしいことですね。
受けることを望んでいるか、与えることを望んでいるかによって、その人が貧しい人か、富んでいる人かが決まるということですね。
だから、いくらぐらい持っているかによらないということです。
聖書は、与えようとしているか、もらおうとしているか、これだって言っているんですね。

マザーテレサがですね、こんな事を言ったことがありますね。
飢えた人々はカルカッタだけではなくて、ニューヨークにもロンドンにもいると言っていますね。彼女の働きは東京でも始まっているんですが、70か国に370のハウスを持っているという。うっかりすると、国連の働きを超えてしまう。
彼女は、病にある人、飢えた人をいかに多く救うかではない、と言っています。
いかに多くキリストの愛を与えるかが問題なのであると。
彼女はカトリックですけれども、言うことはすごくプロテスタント的、福音的ですね。

肉体にはパンを与えれば済む、お腹が空いている人にはパンを与えれば済む。
しか人間にとって最も悲しいことは、病気でも飢えでもないって言ってんです。
それは何かというと、
自分はこの世にとって不必要な人間である、無用な存在であると思って、孤独になってしまうということだと、言っているんです。
孤独は最も深い飢えなのです。
こうマザーテレサは言うんです。

人間の最も深い飢えは、お腹ではなさそうですね。
孤独だと言っています。
これは何もマザーテレサが言ったから、重要な言葉だっていうわけではなくて、これは誰でもすでに知っていることです。ただ真剣に取り組もうとしていないだけなんです。彼女はそれを真剣に取り組んできただけです。すべてを投げうってね。

聖書はこのようにイエス様の御心を示していますね。
マタイ9章36節を読んでみましょう。
マタ 9:36 また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。

私達日本人は、世界でもトップクラスの経済大国であることを自認している。けれども物は満ち溢れていますが、日本人は孤独な人が非常に多いですよ。
生きる望みを失っている人が非常に多い。弱り果てて倒れこんでいる人を大勢見かけますね。

日本はスミルナとは逆ですね。スミルナは物に欠乏していたんですが、日本は物に溢れている。見掛けは富んでいるけれども、中身は富んでいない。
このことに気づかないといけない。
真剣に取り組んでいかないと大変な事になる。

この事を教えられているんじゃないかなあと思います。

イエス様はスミルナの教会の人に、あなたは苦しさと貧しさの中にあるけれども、実際は富んでいます、と仰いました。
私達もどうか外側のことじゃなくてね、内側が富む者となりたい。

神がいない文明は何をするかってことですね。
争って人を殺すだけです。スミルナの教会の人を見ると、私達は深い反省を促されますね。
これが、スミルナに対してイエス様が「知っている」と仰った一番目のことです。

B. 第二番目に「知っている」と言われた意味は、
「またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。」

1.ここで「ユダヤ人」と言われているのは、ユダヤ民族のことではないんです。
霊的意味での神の民ということです。
すなわち、「真のユダヤ人」というのは当時の言い方ですが、キリストを受け入れてキリストに従っている人を「ユダヤ人」といったんです。
ユダヤ人というのは旧約時代の選ばれた民でありました。それ以外の人は民族的にはユダヤ人ですけれども、偽のユダヤ人として扱われているんですね。
このことはローマ人への手紙でもいわれているんですね。パウロが見掛けだけのユダヤ人と、そうでないユダヤ人について語っているんですね。

ロマ 2:28 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。
2:29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。 

民族的なユダヤ人が、ユダヤ人ではないって、いっているんです。
人目に隠れたユダヤ人、心にキリストを宿している人が、真のユダヤ人、神の民としてのユダヤ人である。
ですからここに書かれている「ユダヤ人」というのは、「神の民」として書かれたユダヤ人であるということを知っておいていただきたい。

ここでは「自称ユダヤ人」という言葉がでてきていますね。お気づきになっておられると思いますが、2章2節では「自称使徒」、ここでは「自称ユダヤ人」となっているわけですが、「自称ユダヤ人」は、律法的で儀式的な事ばかり主張している。
これはクリスチャンに対して、最も悪質な敵対者となっていったわけです。ですからキリストは彼らを「サタンの会衆」、サタンの側につく民と呼んでいます。
自らは神の民だと自称していますが、実際は悪魔の民であると呼んでいますね。

2.ここで、エペソの教会とスミルナの教会が直面していた課題を比べてみますと、少し違うことにお気づきと思います。
エペソでは「自称使徒」が教会の内部に現れた。
それに対して、スミルナでは「自称ユダヤ人」が外部から迫害を加えてきた。
どちらもクリスチャンをだまそうという企みがあったんですが、エペソの教会はその原因が教会の内部にあったということに根の深さが感じられますね。
スミルナの教会は内部的な腐敗はなかったわけですが、教会の外側から攻撃が加えられた。

ですから、スミルナの教会に対しては、キリストは非難をされていないわけですね。
ただ、サタンとの戦いに非常に厳しさを極めていたんですね。
エペソの教会では同信、かつての仲間や友がですね、だんだんとこの偽りの説に惑わされて「自称使徒」に変わっていったわけですから、内部的葛藤というのを経験した。内側の痛みというのを知っている。

スミルナの方は内側に問題がありません。
外側からの攻撃でありましたから、同信の友は、信仰に確信を持ち、結集して交わることができた。
やはり教会はこうでなきゃいけない。
スミルナの教会は外側の上着は引き裂かれましたけれども、内部はさらに恵みが強められていった。ますますキリストに対して忠実であり、迫害の故にエペソの教会のように初めの愛から離れることはなかった。

これは重要なことだと思うんです。
内部に不純な問題、あるいは不信仰な課題をかかえこんでいれば、教会は非常に信仰が弱くなるし、消滅していく危険があるわけですね。
しかしスミルナの教会のように内側に恵みが満ちているなら、外側に激しいサタンの風が吹いても、クリスチャンの信仰は強くなる一方だと、こういってよろしい。

今、中国の教会を見ますと、スミルナの教会のように激しい嵐の中にいる。
しかしそこで救われる者が起きている。

これに比べると、エペソの教会は、どうも日本の教会のような感じがするんです。
外側からの嵐は吹かないのに、教会の内部でもめてもめて、自ら潰れるって感じですね。
内部が潔められて結束していくなら、主は待っていてくださり、迫害にも耐えさせてくださいます。

Ⅲ.次に10節に移りたいと思いますけれども、ここは非難の言葉ではなくて激励の言葉になっていますね。

「あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない」「苦しみを恐れてはいけない」は、スミルナの合言葉になっていたようですね。彼らは非常に激しい迫害にありましたのでね、みんながお互いに会うと、「恐れてはいけない」という言葉を掛け合っていたようですね。

教会によっては、いろんな言葉を掛け合う所もあるようですね。教会に来ると「ただいま」、教会を去るとき「行ってきます」、ある人は「イエス様おはようございます」、「ハレルヤ」というのが合言葉になっている教会もあるそうですね。スミルナでは「恐れてはいけない」というのが合言葉になっていたそうです。それほど迫害が激しかったということでしょう。

A.さらにイエス様はもっと激しい迫害が臨もうとしている事を暗示しているようです。

「見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。」
ここを見ますと、悪魔がスミルナの教会の人達の信仰を試す、というのが目的であったことが分かります。

① 聖書を見ますと、サタンは必ず信仰者の信仰を試す、と言われます。
旧約聖書ではヨブがその信仰を試されていますね。ヨブ記の1章を見ますと何度もそれが出てきます。ずっと読めばいいんですけれども時間がありませんから「抜き読み」をさせて頂きたいと思うんですね。1章6節から12節あたりを見ますと、サタンがヨブの信仰を試そうと思って、神様に許可をもらっている。最初の方は飛ばして9節から12節を読んでみましょう。

ヨブ 1:9 サタンは【主】に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。
1:10 あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。
1:11 しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」
1:12 【主】はサタンに仰せられた。「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンは【主】の前から出て行った。

2章1節から7節あたりにもあるんですが、4節から読んでみましょう。

ヨブ 2:4 サタンは【主】に答えて言った。「皮の代わりには皮をもってします。人は自分のいのちの代わりには、すべての持ち物を与えるものです。
2:5 しかし、今あなたの手を伸べ、彼の骨と肉とを打ってください。彼はきっと、あなたをのろうに違いありません。」
2:6 【主】はサタンに仰せられた。「では、彼をおまえの手に任せる。ただ彼のいのちには触れるな。」
2:7 サタンは【主】の前から出て行き、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で彼を打った

このようにですね、サタンはヨブの信仰を本当に厳しく試みている。その故にヨブは非常に苦しみを味わっているんですね。サタンの一つの大きな仕事は何かというと、クリスチャンの信仰を試すことである。

② このほかにもありますね。イエス様の信仰も試みられていますね。マタイ4章1節から11節にですね、試みられるものに試みられた。40日間試みられた。あの有名な荒野の試みですね。

マタ4:1 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
4:2 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」
4:5 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、
4:6 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」
4:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」
4:8 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
4:9 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
4:10 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」
4:11 すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。

③ これと同じサタンが、スミルナを初め世々の教会のクリスチャンを試みてきたわけですね。今も多くのクリスチャンが試みにあっています。

④ 中国のクリスチャンもそうです。そして私達もサタンの試みに会うわけです。サタンの働きは信仰を試みるということです。

スミルナの教会に対する試みが過激になるということを、イエス様は預言しているんですね。

① ある者たち、おそらくスミルナの教会の指導者たちでしょうね、その中にはポリカープのような人達もいたわけです。牢に投げ込まれようとしている。

② 「十日間の間苦しみを受ける。」
この十日というは日数の十日ではないんです。信仰が厳しく試されるのに十分な期間、という意味です。ですから本当の信仰を持っていない偽のクリスチャンだったら、必ず耐えきれないということが、はっきりする長い期間の事をいいます。

③ それから、これは「死に至るまで忠実でありなさい」
とイエス様は語られましたから、彼らの多くの者は殉教死していくということでしょうね。ですから相当激しい迫害がこのスミルナを覆うのではないか。
そして この時にポリカープも殉教していったんですね。

B.私達の信仰生活でも、しばしば恐れることがありますね。

「恐れるな」と書いてあるのは恐れることがあるからです。
不慮の危険や病。経済的な不安とか、あるいは自分を取り巻く不信仰な力に対して、もう今の状態を続けていけないのではないか、もう耐えきれない、と思う時があります。

1.もっとも大きな不安とは何か。

それは未知のもの、未来に対する不安ですね。
起きること、起きないことも含めて、予感されるあらゆる未知のものに人間は恐れを感じるわけです。
聖書をみますと、このスミルナの教会のクリスチャンに言われたと同じように、何度も「恐れるな」と書かれているんですね。いくつか見てみましょうかね。
四つの福音書にみな書かれているんですが、全部読むことはできませんが一つ一つ読んでみましょうかね。

マタ10:28 からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

マル6:50 というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。

ルカ1:13 御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。

ルカ1:30 すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。

ヨハ14:1 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。

ヨハ14:27 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。

このように四つの福音書には「恐れてはならない」「怖がってはならない」「心を騒がしてはならない」と、こういう言葉に満ちているんですね。
ですからどうか、私達の合言葉も「恐れてはならない」。この言葉は非常に大事な言葉であることを心に留めたいと思いますね。

2. サタンもサタンの会衆も大きな誤算をしていたわけです。それは何かといいますと、これぐらいやればスミルナの教会は全滅するだろう、と、こう計算したわけですね。
ヒットラーだってそうです。これぐらい迫害すればユダヤ人は抹殺できるだろう。
大きな誤算だったわけです。
教会の中に迫害の風がどっと吹いてきたわけです。これぐらいやれば、聖書をみんな焼いててしまえば、クリスチャンの信仰を抹殺できるだろう、とね。

神の恵みが留まっている神の民の勇気は、死を乗り越えさせるものである、ってことを知らなかったわけですね。彼らは、クリスチャンから体の命を奪うことができても、信仰の命、永遠の命を奪うことは出来ない、ということを知らなかった。
サタンとサタンの会衆がクリスチャンを苦しめることができる限界は、肉体の死、までです。それ以上苦しめることができない。それを超えてクリスチャンを苦しめることは出来ない、ってことだったんですね。それに気付かなかった。

3. スミルナのクリスチャンの苦しみがどのように解放されたかは、明確にされていないんですね。
この世の権威者の命令によって終わりになるのか。
ローマの迫害はコンスタンチヌス皇帝が改宗することで終わったわけですが、あるいは特別な神さまの解放によったのか、それとも死によったのか。

とにかくクリスチャンは、必ず解放の時が来ることは真実ですね。
しかしクリスチャンでなければ、その苦しみは永遠の苦しみである。永遠の苦しみが待っているだけだということです。そしてこの苦しみから解放されることがない。

私達はこの違いをよく悟っておく必要があると思います。うっかりするとクリスチャンも、しばらくの苦しみのために、永遠の苦しみを背負い込むことになりかねません。
ですからクリスチャンは、どこまでキリストに忠実であればよいのかと問われるならば、イエス様は「死に至るまで忠実でありなさい」と答えられたんですね。

「死」というのはサタンの迫害の限界であるとともに、私達がこの地上で主に忠実であろうとする限界だといっても良いだろうと思うんですね。それ以上の「死」を超えた主への忠実もあると思いますが、これは永遠の世界に通じる忠実さですね。
私達はその意味で、「死に至るまで忠実でありなさい」と言われたイエス様の言葉に深い恵みを感じますね。

第二次世界大戦の最中にですね、ソ連のある婦人が傷着いた敵兵をかくまったことがあるんですね。
これは歴史に残っているんですが、ソ連の当局に知られると、この婦人は命を奪われてしまう。負傷した兵隊がこの婦人に聞いたっていうんです。
「あなたはなぜ敵兵を助けるんですか」。
この婦人は一言答えた。
「私はクリスチャンです」
それだけ言ったっていうんです。つまりこの婦人は、死に至るまで忠実であったということでしょうね。この婦人が捕まって殺されたどうかはわかりませんが、それが死に至るまで忠実である。彼女の答えは一つである。
「私はクリスチャンです」。
この方は命の冠を頂いたんだと思いますね。

Ⅳ.ここで素晴らしいことを語られた。「そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう」と書いてあります。

「死」は人間の全てではない、最後ではないということです。最後だったらその後の言葉はないわけですからね。ですから「死」は人間の全てでもなければ、最後でもない。

1.エペソの教会では、何を与えようと仰ったかというと、神のパラダイスにある「いのちの木の実を食べさせよう」でした。
スミルナの方では「いのちの冠を与えよう」と。

質的にはは同じような事を言っていると思いますが、少し違いが見られる。
① 「いのちの木の実を食べる」というのは、栄養を取って養うことです。
② しかし、「いのちの冠を与えよう」といった場合は、完全な凱旋を意味していると思います。

スミルナはギルシャの都市でありますね。ギルシャの競技の勝者には、栄光の冠が与えられたわけです。最近オリンピックは冠ではなさそうですね。メダルみたいなものでね。
スミルナの人達はですね、勝つ者には冠が与えられることを知っていたわけですね。
そこでキリストは「いのちの冠を与える」と仰った。
これは大きな印象を与えたと思いますね。勝利者としての印象が強かったと思います。

11節には解説が成されているんですね。
「いのちの冠」というのはどういうものなのか。
それは、たとえサタンとサタンの会衆によって死をもたらされることになっても、「いのち」は全うされるということなんですね。
「勝利を得る者は、決して第二の死によって損なわれることはない」って書いてあります。これは「いのちの冠」の意味ですね。

2.第二の死とは何か。

黙20:6 この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。」

黙20:12 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。
20:13 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。
20:14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。
20:15 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

黙21:8 しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」

第一の死というのは、肉体の死のことなのか分かりません。
あるいは霊的死のことか分かりません。
けれども第二の死というのは、少なくても永遠の滅亡、地獄の事を意味している、ということはお分かりいただけると思います。
クリスチャンはこの地獄を、仏教でいう勧善懲悪のため、つまり、良いことを行わせ、悪いことを行わせないための思想ではない、ということです。
現実のものとして語られているわけです。

日本人はね、このことがいい加減になっているんです。どんな事をしても、結局亡くなると成仏すると、仏にしてしまうんですね。
だから生きている間に真面目にと言いますかね、本当に真理を追究しないんです。
私達の最後に待っているものは、天の御国か、永遠の滅亡しかないということを明確に教える必要があると思いますよ。これをうやむやにするときに、人間はいい加減な生き方をするようになるんです。

聖書は明らかに永遠の滅亡は現実のものだと語っているんですね。たとえでもなければ教えでもない。人間の評価とか勝利は、この地上の見えるところで行われます。
けれども本当の評価は神の前で行われ、神によって決められるということです。

どうか私達はこのスミルナの教会をよく見つめたいと思うんです。そして私達は二つの事を学ぶべきだと思いますね。
① 内側に、不純なものを持たないことである。これは勝利を得るためにはどうしても必要なことです。
②、もう一つは外側からの迫害に対して、「死に至るまで忠実な信仰」を持つことです。

そしてこの二つが必ず、勝利が与えられる鍵だということですね。
私達はこの地上で生きている間に、勝敗は決定しないということですね。
人間は生きている間に、立派であったか立派でなかったかと人は評価しますけれども、決してそうではないということです。第二の死にどうかかわっているか、ということを良く悟らせていただきたい。
スミルナのクリスチャンは大きな迫害を受けていましたが、彼らは信仰によって勝利に到達していた。

〔お祈り〕

天の神様、あなたが私達にいのちの冠を約束下さり、ありがとうございます。
スミルナの教会のごとく、内側には固い信仰があり、外側には死に至るまで忠実なところの信仰をもってこれを耐え抜くことができまるようにと、イエス様は教えてくださいました。そこにいのちの冠の勝利をお与えくださるとあなたは教えてくださり、感謝を申し上げます。
この約束は今も変わりがありません。どうか私達の道を整えて、あなたへとまっすぐに歩む道を与えてください。
私たちの待っているところは天の御国か、それとも第二の死か、この二つであります。
願わくはすべての人の目が開かれて、このことを知るなら、誰でも天の御国を選ぶはずです。そこに気づかせ、その道を選ばせてくださいますように、心からお願いいたします。
感謝をして尊いイエス様の御名によって祈ります。アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
まなべ あきら

スミルナ(現在のイズミール)の場所は、下の地図を参照。(「聖書の世界 使徒行伝編」ミルトス刊より)。