音声と文書:ヨハネの黙示録(29) 地上の教会の凱旋 11:7~13

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PDF文書:ヨハネの黙示録(29)

ヨハネの黙示録 11:7~13
11:7 そして彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。
11:8 彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。
11:9 もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめていて、その死体を墓に納めることを許さない。
11:10 また地に住む人々は、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を贈り合う。それは、このふたりの預言者が、地に住む人々を苦しめたからである。
11:11 しかし、三日半の後、神から出たいのちの息が、彼らに入り、彼らが足で立ち上がったので、それを見ていた人々は非常な恐怖に襲われた。
11:12 そのときふたりは、天から大きな声がして、「ここに上れ」と言うのを聞いた。そこで、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。
11:13 そのとき、大地震が起こって、都の十分の一が倒れた。この地震のため七千人が死に、生き残った人々は、恐怖に満たされ、天の神をあがめた。【新改訳改訂第3版】

上の写真は、オランダの地図作家、彫刻画家、出版家である Gerard de Jode (1509–1591) により1585年に描かれた「Two Witnesses(二人の証人)」(Icones Revelationum S Ihoannes Evangeliste in Pathmo[パトモスの伝道者ヨハネの黙示録のイコン]の一枚、Wikimedia commons より)


はじめに

この部分は少しややこしいところなので、注意深くお読みいただけるとよいと思います。
今日は「地上の教会の凱旋」というふうに書きましたけれども、凱旋の前に荒廃がある。
このところを読みますとね、現代がまさにその時代であると思うんですね。クリスチャンというのは名ばかりで、本当に信仰を持っている人はごくわずかしかいない。地上の教会は最後に天に挙げられていますけれども、天に挙げられる前に異端化したり、世俗化したり、そのぶざまな死体を大通りにさらけだしている、と書いてある。

これはちょうど現代の教会を表している。勇敢に活動しているのは異端ばかり。キリストの教会はかつての激しい福音宣教を怠っている。死んだかのようですね。そしてただ大きな会堂を大通りに横たえているばかり。中はがらんどう。そこで行われていることは、みんなキリストの福音ではなくて、世俗的なことばかりである、と言われている。

Ⅰ.7節を読みますと、二人の証人が証を終える後に、底知れぬところから獣が上がってきて、彼らと戦い、彼らを殺す。

1.ここをそのまま読みますとね、二人の証人が証を終えた時に、獣が彼らを殺したように書かれています。

けれども実際はそうではないだろう。二人の証人の証が中断されて、それで、殺された、というのが正当である、と思われるわけです。
なぜなら、二人の証人、これは地上の教会の代表ですからね、証を十分に終えた後で獣が出てきてもなんの意味もないわけですね。獣が戦いを挑んでくるのは、二人の証人の証が、それを聞いている人々の良心を責め苦しめているのを見て、耐えきれずに戦いを挑んできたわけです。だから中断させる。こんなのは私達もしばしば経験をします。

さて、この底知れぬところから上ってくる獣とは一体何なのか。
これは悪の霊の集結の象徴、悪の霊のかたまりだ、と言ってよいでしょう。ヨハネの時代にはこれは、ヨハネの頭の中ではローマ帝国がその姿を取っていたんだろうと。
しかし現代ではこれは、異端であるとか金銭欲であるとか、世俗化の姿をとっています。

2.残念なことに、この二人の証人の必死の証も、結局地上に住む人を苦しめただけで、キリストの福音を聞いて信じて回心して救われた者が起こされた、ということが記されていないんです。

この場所を見ますとね。非常に残念なことですけれどもね。聞いた人は苦しんだけれども、信じなかった。

9章20,21節当たりを見ますと、決して自分の罪を悔い改めようとしない人々が出てきますね。悔い改めないで、なおも偶像を拝み続けている。
福音を聞いて苦しんでいる。けれども自分の罪を認めようとしない。これが人間の姿なんです。悪いこととか、罪だとか、みんな知っているわけですね。でも悔い改めようとしない。
今もこのような人が多いですね。神の言葉によって良心が責められているのに、自分の罪を悔い改めようとはしない。キリストの福音を信じようとしない。これ、非常に多い。

3.しかし、教会を迫害するのは悔い改めない人々ではないんです。

彼らはキリストを無視するだけなんです。その結果、本人たちは滅んでいく。

しかし、教会、つまり二人の証人に戦いを挑んで彼らを殺したのは、獣、つまり悪の結集ですね。悪の勢力。
教会はキリストの福音を必死に語ったんですけれども、悪の力との戦いに敗れている。残念なことですけれどもね。
教会はキリストから油を受け続けることができないで、その燭台は光を放たなくなる。だんだんと世俗化していって、異端化していく。最初は必死になっているけれども、だんだん、この世の悪に押し切られてしまう。こういう教会の姿を描いている。

ちょうど七つの教会のところで出てきましたね。たとえば、初めの愛を離れたエペソの教会。エペソの教会は。最初は純粋な愛を持っていたけれども、終末期になってだんだんとその愛を離れていってしまう。もっとひどいのになりますと、サルデスの教会。彼らは表面的に生きているけれども、実は、死んでいる教会だと言われている。名前ばっかりは大きい教会はあるけれども、有名な教会でも中身は死んでいる。

実はこういう教会の事なんですね。現代の教会は、この世の繁栄の中でなすすべがない。本当に現代をみていますとね、クリスチャンと言えども安閑としていられない。みんな本当に信じているのかわからないような状況になりつつある。
ただ、死人のように横たわっているだけだ。かつて火を吐くようにキリストの福音を語っていた教会も、今はこの世の繁栄の流れの中にただ黙って押し流されているだけだ。
これは現代の姿を見てもそうですね。トラクトを配っても配っても効果がない。何をしても人は集まらない。だから、もうだんだんと何もやらなくなって、死んでしまっていく姿をみるわけです。火を吐いていない、ということですね。
これはキリスト教会という名前だけを残しているけれども、教会は死んでいる、ということですね。そういう教会が終末にどんどん増えて行きますよ、と聖書は警告しているわけですね。
これはヨハネが見た、終末における死んだ教会の強烈な描写なんです。
大きな会堂を持つ教会が急速に、こんなふうに死んでいっている。横浜なんかでも、観光ルートの中に載るような教会、拝観料なんかで教会を運営するようになる。恐ろしいかな、死んでおる。

しかし、このことは既にダニエルよって預言されていたんですね。ダニエル書を読んでみましょうかね。黙示文学、黙示の中にはダニエルの預言が非常に多く含まれています。

ダニ7:21 私が見ていると、その角は、聖徒たちに戦いをいどんで、彼らに打ち勝った。
7:22 しかし、それは年を経た方が来られるまでのことであって、いと高き方の聖徒たちのために、さばきが行われ、聖徒たちが国を受け継ぐ時が来た。

22節の方は、今お読みした黙示録の終わりの方を言っているわけです。21節の方は、教会が世俗化し、異端化し、死滅しているということですね。
これは、悪の力が聖徒たちに戦いを挑んで打ち勝ったと、預言しているでしょう。
ですからね、本当に聖書というのはね、よく読んでみるとその通りになっているなあと、現代を見てもその通りです。

しかし、やがて回復する時もあるとダニエルは預言しているわけですね。「年を経た方」というのは、老人のことではありません。神様のことですね。この方が「来られる時までのことであった」。いつまでも聖徒たちは戦いに敗れていたわけではない。やがて神の裁きが来て、聖徒たちはもう一度よみがえって国を受け継ぐことができる。こういう預言がされているんですね。最後は勝利を獲得するわけですけれどもね。しかし、ま、その間は大変な時代が続く。

教会が教会としての命を失っておる。塩気の塩を失っている時代がある。今はそんな時代である。ですから私たちも、本当にですね、福音というのは効果があるとか、ないとか、人が来るとか来ないとか、それだったら皆さん商売と同じじゃないですか。売れるとか売れないとか。
私も何冊か本を書きましたが、今考えてみると、世の中の書店は、売れる本しか置かないんです。売れるものとは、漫画です。漫画しか置かない。恐ろしい時代ですね。マーケットに行ってもそうでしょ、売れない物は置かない。売れる物しか置かないでしょ。必要なものでも、売れない物は置かない。こういう時代なんです。
教会も気を付けないとね、売れるものしかやらない、というふうになってしまうんです。それでは困るわけですよ。
うっかりすると聖書なんかもそうですよね。気にいらないところは読まない。難しいところは読まない。こういうふうになりがちなんです。これはやっぱり問題が起きていますね。

B.8節に目を留めていただきますと、

「彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。」

これはいったいなんのことを言っているのか、さっぱりわからないと思うんです。
まず、「大きな都」といった時にですね、これはヨハネの頭の中ではエルサレムのことなんですね。
しかし、この大きな都、これはね、大きいという意味ではありません。
日本語に訳するとね、大きいは、ラージとかビッグになるんでしょうが、これはグレートなんです。偉大な都。これはユダヤ人にとってはエルサレムしか考えられないわけです。
そのエルサレムが、霊的な意味ではソドムやエジプトと呼ばれている、というんです。そしてそこは、主が十字架につけられたところでもある、とも言われている。これはこんがらがってしまいますね。なんのことを言っているのか。この死体がさらされている場所です。

この表現はいったい何を意味しているんだろう。
ソドムというのはご存じの通り、神様が審判を下した第一の町です。ロトの時代ですね。
それから、エジプトというのは異教の世界の代名詞ですね。かつて神の民イスラエルが脱出してきた国である。もうそこに戻ってはならない、という国がエジプトです。
そして、主が十字架につけられたところ、というのは悪の勢力を強調している。かつては大いなる都、神の都でありましたがね、そこが悪の勢力の住処になっている。神の審判の対象となっている。そういう場所にさらされている、ということですね。

ですから、これらの描写というのは、二人の証人、すなわち教会に敵対するところの世界といってよろしい。
そして教会の死体は、彼らの大通りにさらされている。
普通、死体というのは埋葬しますね。ところが、埋葬しないで人目にさらすというのは、何を意味しているのかというと、ひどい侮辱を意味しているわけですよ。
ダビデの時代に、サウルとかヨナタンの首がさらされていますね。ヤベシュ・ギルアデの人たちが哀れんで、死体を引き取って葬った、という記事が出てくる。(Ⅰサムエル31:11)
さらす、ということはですね、激しい非常な侮辱を意味しているわけなんです。この世は教会を侮辱しているというんです。

かつて、教会は非常に強い力を持ち、世界のリーダーでした。
そういう時代があったわけですね。私も、そういう時代がもう一度来るように、この日本がクリスチャンのリーダーになるように夢見ている、といえば夢見ているのかもわかりませんが、教会にはそういう時代があったわけです。
最近のニュースを聞きますと、ソ連のゴルバチョフさんがソ連には宗教が必要だ、と言っている。そして自由社会の伝道者を招いている。
なぜか。それは、人間の心は、物とかでは満足させることができない。
ずいぶん前、イギリスのBBC放送だったか、ソ連の教会の回復のことについて放送していました。非常に世界の教会はですね、興味深かった。物置にさせられていたり、閉鎖されていたところに、もう一度礼拝が行われるようになったりしている。ゴルバチョフさんになってから門が開かれるようになった。それだけではなくて、自由世界からですね、伝道者を迎えるようになってきているんです。

教会は非常に力強いリーダーであった時代があった。
私は今、日本人の心は、霊的な飢え渇きがないなあと思いますね。死滅しておる。
そういう時代に、クリスチャンは神の真理をはっきりと語っていたわけです。リーダーである時、はっきりと神の真理を語っていた。
ところが現代は、クリスチャンは決して世界のリーダーではない。もう一度、私たちは世界のリーダーにならなくてはいけないと思う。クリスチャンは、無力な飼い猫のようにこの世の人から扱われている。
なぜこうなったかというと、クリスチャンがはっきりものを言わなくなったからです。生活の安定を求め、権力や金力を恐れて、はっきりと神の言葉を語らなくなったので、こういう状況が起きてきてしまった。残念ことです。
世界のリーダーの座を偶像の神々に明け渡してしまった。

9節の、三日半の間です。彼らの死体を眺めていた人々、そこには悪の世界の広場にいた人々ですがね、もろもろの民族、国語、国民に属する人、地上に住む人々のことですね、地上に住むあらゆる人々が、この悪の世界の広場にいるわけですよ。
そして教会の中を眺めている。今や教会は霊的に死んで、この世の人々からあざ笑われる集団に成り下がってしまっている。

そして10節を見ると、この世の人は教会が死ぬと大喜びしている、と書いてある。お祝いしている。互いに贈り物をしている。教会が死んだことでね。なぜか。
教会が神の言葉を伝えなくなると、自分達の良心を苦しめるものがいなくなるからなんです。平たく言えば目の上のタンコブがなくなるということですね。良心的に生きなくてはならない、ということがなくなってしまう。
日本の政治家の姿をみていてもね、本当の意味で死んでしまった人間の姿。いくら引き締めるといっても、死んでる者は引き締めようがないんです。
教会がね、もう一度息を吹き返さなくてはいけないなと思うんです。
人々は教会が堕落して、この世と同じようにしていることを、非常に喜んでいる。そして、この世の繁栄ぶりは勝利である。

日本は戦後立ち直ったというではありませんか。
でも本当は立ち直っていないんです。みんなガタガタなんです。そして教会が小さくて弱いことは、この世が勝った、と思っている。クリスチャンと呼ばれる人のほとんどがこのような考えを持っている。
しかし、教会の命はそんなところにはない。必ず、神の命によって復活される。これが約束されているんですね。ここに期待があります。
教会の火が消えて熱が冷めて、この世の人の罪を責めたり良心を苦しめなくなると、この世の人々は解放感を味わっているんです。
死んだ教会はこの世の霊的な悪に対して、なんの役目も果たしていませんね。地の塩の役目もないし、世の光の役目もない。教会からは命が失せてしまった。人々の良心を責めたり、苦しめたり、戒めたりする教会がなくなってしまった。もう野放し。
これが終末期における地上の教会の姿です。しかし、死んだ教会でも「キリスト教会」という名前だけは残しているので、人々には紛らわしくすべての教会は同じように思われてしまう。
ヨハネが見た終末期の教会は、ペンテコステの時代のあの生き生きとした燃え盛る命と力が失われている。こういう状況だった。
しかしイエス様はですね、マタイの16章18節で

マタ16:18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。

教会を建てるのは「わたし」。
「わたし」が「わたしの教会」を建てる。
ハデスの門、黄泉の門もそれには勝てない。

かつて、神のみ言葉を証していた教会は、獣との闘いで、バタバタと倒れていき、世俗化し、異端化していった。
けれどもキリストの教会は人が建てるのではなく、キリストが建てる、とおっしゃったんです。私たちがどんなにじたばたしても、どんなに力を尽くしても、キリストの教会は建てられないんです。キリストの教会はキリストしか建てられない。

アジアの七つの教会にあったように、地上の教会は多くの点で、弱点、欠点を持っている。この世の勢力に非常に弱い。だから次々と獣に倒されていく。これを人間の努力で生き返らせることはできない。

この間も、私のところにいろいろと注文が来るわけです。こういう本が欲しい、あういう本が欲しいから書いてくれっていうんですね。しかし、考えると限界を超えます。人間の力ではどうにもならない。信仰のない、神の命のない教会は、いくらお金をだして建物を建て上げても、あるいは、人材を入れ替えても生き返らせることができない。それができるのはイエス様だけです。イエス様は「わたしがわたしの教会を建てる」と言いました。人間が力を合わせて建てられるものではない。

ヨハネはこのような教会が次々と死んでいく幻を見ても、失望した様子が記されていないんです。私達ならたちまち失望するんですがね。
それは彼がアジアの教会を牧会して、実際にしばしば経験していたからかもしれない。彼が失望しなかった理由は、教会の働きに期待をしていたのではなくて、むしろヨハネはその期待を、10章で彼の手に渡されたあの「小さな巻物」に置いていたんですね。

教会の運命というのはまさにこの「巻物」を与えてくださったお方の上にある。
彼は教会の働きに期待しなかったんです。彼は神に期待したんです。
私たちはこの地上の教会の堕落ぶりを見るとき、失望したり、落胆しやすい。
けれども真の教会の運命と言うのは、人間が握っているんじゃなくて、キリストが握っている。だからイエス様を見上げていなくてはならない。

Ⅱ.ヨハネの期待は的中しています。

1.11節を見ますと

「しかし、三日半の後、神から出たいのちの息が、彼らに入り、彼らが足で立ち上がったので、それを見ていた人々は非常な恐怖に襲われた。」と書いてありますね。

ヨハネはね、いくつかのことを知っておりました。一つは、主イエス様が三日目に死人の中から甦ったこと。だから死というのは決定的なものではない、ということですね。だから教会がバタバタ倒れても、キリストのすべての教会が倒れてしまうんじゃない。やがて復活するときがあると。

2.あるいはヨハネは、エゼキエル書37章のあの枯骨の谷、干からびた骨、あれが甦(よみがえ)る預言も知っていたでしょうね。

ヨハネは死んでいた教会が神のいのちによって、新しいいのちに甦る幻を見たんです。
11節をみますとね、「神から出たいのちの息」が彼らに入った。
この時すべての教会が死んでいたわけではない。真実に生きている火が、リバイバルの火となって燃え上がり、再び生き返らされたわけですね。このリバイバルは、聖書からすると、教会の大荒廃の後に来る、ってことが考えられるんです。教会がほとんど死滅した後に来る。
教会がリバイブされるところの生き返らせる鍵は何かというと、「神から出たいのちの息が入る」、ということです。

人間が聖書を読みますとね、人間が生き返るときはいつもこのことが起きています。創世記2章7節を読んでみましょうか。

創2:7 神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。

エゼキエル書の37章もよんでみましょうか。

エゼ37:5 神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。

続けて9,10節も読んでみましょう。

エゼ37:9 そのとき、主は仰せられた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」
37:10 私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。

この息というのは神の御霊のこと、「いのちの息」、これが鍵になる。

教会がリバイブされるために必要なのは、神のいのちです。それはどうすれば得られるのかというと、御言葉と、聖霊と、信仰を要するんです。

今、クリスチャンといえども、生きてはいるが死んでいるような者で、豊かな命に満ちている者はごく僅かしかいない。

私たちは、お互いにどういう時代に住んでいるか。
聖書の言葉が本当に生きて心の中に通っている人が何人ぐらいいるでしょうか。
聖霊の恵みを毎日心に満たしている人は、何人ぐらいいるでしょうか。
信仰に堅く立っている人は何人ぐらいいるでしょうか。
ほとんどバタバタ死んでいる。

だからクリスチャンが、神の言葉を本気で、本当に食べ始める。
聖霊に本当に明け渡す。
そして信仰がはっきりしてくる。
そうすれば教会は息を吹き返す。これ以外に教会はいのちと力を見ることはできない。

さて、このいのちの息が吹きこまれる時に彼らは立ち上がった。
人々はどうしましたか。「非常な恐怖に襲われた」
なぜ恐怖に襲われたんでしょうかね。
彼らは教会を倒して勝った、勝ったと言っていたんですね。

イエス様を十字架にかけて殺した時、祭司長たち、律法学者たち、パリサイ人たちは勝ち誇っていた。これで始末はついたと。弟子たちは恐れていたんです。
しかし、イエス様は甦った。人々は恐れたんです。
教会が復活した。彼らは、自分たちを煩わせていた教会が絶滅したと思ったんです。歴史は確かに、この世の勢力が教会を絶滅させたかのように見えた迫害が、何度もありました。 もうこの地上に聖書が一冊も残らないのではないかと思われるほど、聖書が焼き払われた時もある。クリスチャンが一人も残らないんじゃないかと思われるほど殺害された時もある。しかし、そのたびに教会は息を吹き返してきた。
マルチン・ルターなんかの伝記をお読みなさると、そういうことがよくわかると思います。
明らかにこれは、神のいのちによる復活だということを、彼らが認めざるを得なかったわけです。神のいのちが働いた、と感じざるを得ないで彼らは恐れた。
私たちの教会もそうでありたいと思いますね。みんなが一所懸命にやったからできたというんじゃなくて、神のいのちが働いたから、生き返った。こうならなきゃならない。

また、教会の復活は、この世の勝利がいかに束の間のことであるか、短命であるかを示しています。この世がどんなに栄えても、日本も今、栄えに栄えているように見えますけれども、どうですか、何年ぐらい栄えているんですか。僅か10年かそこそこですね。10年か20年ぐらいのもので、また同じことを繰り返す。この世の勢力の繁栄は束の間で、ことごとく消えて行ってしまう、ということを悟らされる。

Ⅲ.12節でヨハネは、よみがえった教会がすぐにも昇天するように、幻を描いていますね。

A.

1.ヨハネにとっては、ローマの迫害の後にすぐに教会は天に招かれる、と考えていたんです。

それほどローマの迫害は、もう終わりを告げるほど激しかったんですね。教会はすぐに天に招かれるだろうと思って、それ以後の教会の福音宣教についてはあまり記さなかったわけです。
しかしよみがえった教会は、再び証を続けて回心者を獲得していったわけです。それが今続いているわけですけれども。
しかしなお、今死んでいる教会も多くある、いうことですね。
これを忘れてはならない。

2.滅びた教会が再び甦らせられ、昇天させられたのは、これは教会の働きゆえではない。

教会が、神の民であったからですね。このことを間違えないようにしたい。一所懸命に働いたから、天の御国に携え挙げられたのではない。

B.ここに、キリストの教会の地上の人々に対する影響力を見ることができますね。
1.まず、教会の力強い福音宣教は、人々の良心を責め、苦しめるということ。

人々は嫌がるかもしれないけれども、私たちは力強く福音宣教をしなくてはならない。

2.教会が霊的に死んでくると、この世の人達は快楽の暮らしにうつつをぬかすようになる。

遊び暮らすようになる、ということですね。

3.そして教会がよみがえると、この世の人々は恐怖に襲われる。

私たちの教会はこの地域で喜ばれるばかりではなくて、ある人には恐れられる教会、あそこは神様がいらっしゃる教会だと、恐れられるような教会になりたいですね。

4.最後には、これは恐ろしいことですが、教会がこの地上から取り去られると、地上はさらに荒廃するということですね。

13節をみますと、大地震が起こっている。これは神様の裁きの前ぶれですね。
都の十分の一が倒れた。七千人がみんな死んだ。これらはこの次に来る神の怒りの審判の大きさ、厳しさを暗示しているんです。

そして、「生き残った人々は、恐怖に満たされ、天の神をあがめた。」と書いてありますね。これは恐ろしさのために「罪を告白した」ということです。
9章の終わりで悔い改めなかった者がね、もう遅いんです。教会が携え挙げられた後に、彼らは罪を告白した。
彼らが救われて天の御国に入れられたかどうかは、聖書は記していません。
それにしても、罪を悔い改めるのが遅すぎる。

このヨハネの幻は、この地上の教会が辿る運命を現実的に描いています。そこにはひどい堕落が起こり、教会が死滅するほどになる、ということですね。
現代はそういう時代に来ている。そしてこの現実は、この二千年間たびたび起こりました。今も死んでいる教会が多い。眠っている教会が多い。

しかしこの可能性の期待は神にある。生ける教会を建てられるのはキリストにある。「わたしがわたしの教会を建てる」とおっしゃいました。私たちが努力して建てるんじゃない。
この二千年間、倒れても倒れても生ける教会を起こされ続けたんですね。教会は腐敗し、腐敗し、腐敗し続けました。異端化し、異端化し、異端化し続けました。世俗化し、世俗化し、世俗化し続けました。重ねてきたんです。
しかし、そのたびに神はいのちを持った教会を起こし続けたんです。教会の歴史を学んでみるとお分かりいただけます。これこそ、神のいのちが働いている証拠ですね。教会に神のいのちがある限り、ついには天に凱旋することを確信していてよろしい、ということです。
たとい、この世に笑い者にされても、生ける教会には十分に可能性がある。
それは教会の活動に可能性があるのではなくて、神にいのちがある、ということに注目しなければいけない。
私たちが一所懸命に働いているから、教会が安全なのではない。
神のいのちがあるから安全なんです。

盛んに活動している教会も倒れる。やがてしなびることがある。私もずうっと見てきました。人間がいつまでも熱心に続けることはない。緩むんです。
しかし神のいのちのある教会は倒れない。必ず天に召される。
どうか人の力でもっている教会ではなくて、神の力で支えられている教会にならせていただきたい。
私たちの教会が天に携え挙げられた時、どんな影響を与えられるか。
また教会が死滅すればこの世が喜ぶんだ、ということを忘れずに、私たちの生涯を辿らせていただきたい。

お祈り

恵みの深い天の父なる神さま、
『そのときふたりは、天から大きな声がして、「ここに上れ」と言うのを聞いた。そこで、彼らは雲に乗って天に上った。』とあります。
教会に本当に大きな力を与えてくれました。
しかし、教会が眠れば、死ねば、この世は歓楽の生活に遊びほうけてしまいます。今は全くそのような時代であります。
教会が神の言葉をまっすぐに語らなくなった。人々の心が嫌がることは差し控えて、喜ぶような話ばかりをします。その結果、教会は死んでしまう。この世の権力者の大通りに、晒されあざ笑われる。力がなく、弱々しく、そういうぶざまな姿を投げ出していることであります。
しかし、もうひとたび、神のいのちが吹き込まれる時、教会は生き返らせていただけます。あなたのいのちによって、もう一度堅く立たせてください。
あなたの招きの時に、天に凱旋できる約束をくださいましてありがとうございます。
人の力で支えているという教会ではなくて、神のいのちによって生かされている教会が、私たちの教会とさせてください。
また世界の教会が人の力でなく、神の力によって支えられている教会に、生まれ変わることができるように、どうか終末のこの時、神様がどうぞ働いてください。
尊いイエスキリストの御名によって祈ります。アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明