音声と文書:ヨハネの黙示録(30) 第七のラッパ 11:14~19

 

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PDF文書:ヨハネの黙示録(30)

ヨハネの黙示録 11:14~19
11:14 第二のわざわいは過ぎ去った。見よ。第三のわざわいがすぐに来る。
11:15 第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」
11:16 それから、神の御前で自分たちの座に着いている二十四人の長老たちも、地にひれ伏し、神を礼拝して、
11:17 言った。「万物の支配者、今いまし、昔います神である主。あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられたことを感謝します。
11:18 諸国の民は怒りました。しかし、あなたの御怒りの日が来ました。死者のさばかれる時、あなたのしもべである預言者たち、聖徒たち、また小さい者も大きい者もすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時、地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時です。」
11:19 それから、天にある、神の神殿が開かれた。神殿の中に、契約の箱が見えた。また、いなずま、声、雷鳴、地震が起こり、大きな雹が降った。【新改訳改訂第3版】

上の写真は、Douce Apocalypse(Douceによる絵解き黙示録の写本)1265-70
年頃のもの。(イギリス、作者不明、オックスフォード大学ボドリアン図書館 Bodleian Library蔵、Wikimedia Commonsより)


はじめに

ヨハネの黙示録をずっと学んできたわけですけれども、霊的な意味を考えると難渋なところもありますけれども、まず書かれてある言葉が、霊的に一体なんのことを言っているのかをよく理解していかないと、全然わからなくなってしまいますし、変なところに飛んで行ってしまう。こういうことがありますので、注意深く学んでいく必要があるわけですね。

ラッパの災いも第七のラッパが鳴り、ついに最後のラッパのところに来ました。このシリーズではクライマックスに到達したわけですね。よく見ますと、この第七のラッパは二段階になっています。第一の段階は15節~18節の二十四人の長老たちの礼拝、それから、第二の段階は19節にあり、天にある神の神殿が開かれておる。その鮮明な幻、この二つの幻に分けられるなあと、読んでみると分かるわけです。

Ⅰ.

A.14節に、この二つの災いの後に、「第三の災いがすぐに来る。」と言っています。

すぐに来るとは言っているんですが、実際は教会の世俗化とか、異端化とかそういう時期があって、再び教会が復活して宣教の働きをする期間があるわけなんですね。
けれどもこの幻を見ますとね、それらのことを長い期間として見ていないんですんね。すぐに来る、とね。これはヘブル的預言の特徴なんです。
聖書全体ではですね、イエス様の再臨の勝利は今すぐにでも起きるような緊迫感をもって、書かれているわけですね。「すぐ来る、すぐ来る」って書いてあるんです。
初代のクリスチャンたちはみな、緊張感をもって待ち望んでいたわけです。それで迫害を耐え抜いていたんですね。

けれどもイエス様の再臨は今日まで延びているわけです。神様にとって「すぐ」という期間でも、人間にとっては長い期間に感じられる。初代のクリスチャンたちは緊張感をもってイエス様を待っていたんですが、100年、200年、1000年と過ぎていきますと、クリスチャンはだんだんとキリストの再臨に緊張感を失ってきたわけです。その反動として怠惰な生活を送るようになってしまった。

これはイエス様も警告しています。いくつか聖書を開きたいと思います。

マタ24:44 だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。

Ⅱペテ3:8 しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。
3:9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
3:10 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。

みんなイエス様がくるのが遅い遅いと思っていますが、イエス様は遅らせているのではない。遅らせておられるのは、一人でも滅びる者がないように望んでおられるからだ、とおっしゃっていますが、「主の日は盗人のようにやってきます」と書いてあるんですね。

マタイの方では「思いがけない時」、Ⅱペテロでは「主の日は盗人のように」、といっていますが、盗人のようにというのはどういう日なんでしょうかね。今日盗人が来るといったら、錠前をいくつもつけると思うんです。

この間、川崎のカトリック教会に泥棒が入って殺された、ってね。それから、私も寝る前にね、鍵をカチャっとかけるだけですけれども、鎖でもつけたらどうかなと、毎晩布団に入ってから鎖をかけたかなどうだったかなと、思ったりしてね。世の中が神経質になってきて、牧師まで神経質になっていやだなあ、と思ったりします。

盗人はいつ来るか分からない。思いがけない時に来る、ということですね。
ヨハネの黙示録を二つほど読んでみたいんですが、

黙3:3 だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。

なんで分からないんでしょうかね。もし分かっていたらどうでしょうか。
もし何年の何月何日何時って分かっていたら、それまではいいかげんな生活をしていて、今日来るぞと分かったら、大掃除して、心の中で「主よあなたを信じます」と言って、「聖書も読んで、膝まづいてお祈りしてます」と言って間に合うわけでしょ。その日だけ。
だからいつ来るか分からないというのは、ミソなんです。神様って知恵があるなあと、思いますね。

子供たちからよく聞きます。「おばあちゃんが来る、おばあちゃんが来る」ってね。
「今日、来る。今日、来る」ってね。
おばあちゃんがいつ来るか分かっていたら、「きれいにしておかないとお土産をもっていきませんよ」って言われたら、きれいにしておくと思うんですがね。

神様は、知恵深いなあと思いますね。いつか分かりませんよ、あなた方には。しかし、盗人のように来る。必ず来る。

もう一つ、同じようなことが書かれているんですが、見てみましょう。何度もこういうことが言われているということは、これが強調されているということなんですね。

黙16:15 ──見よ。わたしは盗人のように来る。目をさまして、身に着物を着け、裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである──

ここで「裸で歩く」というのは、着物を着ないで歩くということではなくて、不道徳というか、真面目な生き方をしてないということを言っているわけですね。
だから、怠惰な生活をしていてはいけません、ということではないでしょうかね。
現代のクリスチャンもだんだんとですね、イエス様がおいでになるということに対して、再臨に対して緊張感を失っている。緊張感を失うと怠慢になる、怠惰になる。そして、議論の明け暮れをするようになる。

けれども聖書のこれらの言葉を決して忘れてはならない。必ずイエス様はおいでになるんですね。盗人のように来る。
いつ来るか分からない。あなたは分からないのだ、とおっしゃっています。あるいは今日の夜であるかもわからない。明日であるかもわかりませんし、10年後であるかも私にもわかりません。

しかしイエス様は、必ず来るっておっしゃった。すぐに来るとおっしゃった。聖書全体はすぐに来るって言っているんですね。これはやはり、いつも私たちは緊張感をもって、いつでもイエス様をお迎えできる心の備え、これはやはり、心清められた生活である。
いつイエス様がおいでになられても、お迎えするのにふさわしい心を持つ、という態度を持っているということが大事ではないでしょうか。

B.さて幻の前置きが少し長くなってしまいましたが、15節を見ますと、第七のラッパが吹き鳴らされますと、天でそれに呼応するように、次々と大きな声が起きた、と書いてあります。

第七の封印のときにはですね、天では半時の間、静けさがあったと書いてあります。息をのんだ注目の静けさがあったと。それは何かというと、次に起きる、裁き、に注目したわけですね。
第七のラッパではすぐに大きな声があったとありますから、これは第七の封印の時とは大きな違いがあるわけです。それは、勝利に対する歓声、だということです。ここに大きな違いがあります。

1.その大きな大声は何を言ったのか?

「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」

この言葉に十分注目したいと思います。
これは、イエス様は、この世を捨ててしまった、とは言っていないということです。この世の国が、イエス様のものになった、と言っているんです。
この宇宙は神様が創造されたものですね。神はこの宇宙を再創造されるが、捨ててしまう、とは言っていないんです。これに注目したい。

この世の国はキリストのものになる。
それまでの支配者たちは滅ぼされる。

人間によって汚され、破壊されたこの宇宙は、神の再創造によって新しい天と新しい地にされる。
今日本では、河川とか湖をきれいにしようとかいろいろやっていますけれども、なかなかきれいになりませんね。琵琶湖も赤潮だとかがはびこっていますけれども、なかなかきれいにならない。最終的には神の再創造によるしかない。

イエス様は、すべての国の上に絶対的な、永遠的な支配権を持っておいでになる。クリスチャンは、このイエス様の支配というものを理解しないと、分かっていないと、この地上の支配者と妥協してしまう、傾向があるわけですね。
イエス様は最終の支配権を持って来る、ということです。

しかし、イエス様は最後に支配するだけではない。

① イエス様の支配の仕方というのはですね、旧約の時代には戒めを与えました。大きく言えば十戒。これに背くと確実に審判が加えられたということですね。
最大の審判はユダの捕囚、これは警告的な裁きですね。これによって神の民イスラエルは、偶像礼拝がいかに恐ろしいかを知った。
旧約の時代は警告を与えて、これによって審判を与える。こういう支配の仕方であったわけです。これは、ま、人間でいえば、旧約時代というのは子供の時代なんです。子供はね、よくわかりませんからお尻を叩くとかしてね、教えなければならないわけです。

② しかしイエス様は新約の時代になると、同じ支配権をもっておられるわけですけれども、その支配の仕方が少し変わっているわけですね。十戒みたいにお尻をたたくというような警告的審判ではなくて、旧約の時代は規則というものに支配されましたけれども、新約の時代は規則はごく僅かになったんです。
それは「愛」と「信仰」だけになりましたね。しかも日常生活の微細にわたるまでのものではないわけです。各々がイエス様を信じて自らを訓練して、み言葉に従った生活をするようにと教えられているわけなんですね。

だから旧約の時代ですとね、親の乳で子の肉を煮てはならない、とか細かいことが言われたんですが、新約ではそんなことは書いていないでしょ。ごく僅かな範囲での厳しい審判と言うのがありますけれども、その他のほとんどでは、矯正、懲らしめの指導が与えられるわけですね。だから指導である。
旧約の審判がなくなったわけではありません。けれども多くは審判ではなくて、矯正、正される、ということですね。神様は忍耐強く私たちが神の道に立ち返り、忠実に歩むことを待っている。それは先ほどペテロの第二の手紙でも出てきた通りですね。
ところが私たちはそれをよいことにしてね、神様はもう審判なんて出さないんだあ、なんていう考えをもってしまう。そうすると怠惰な生活に陥ってしまう危険がある。

③ 最後のキリストの支配は、永遠の支配であります。この最後の支配は旧約の時のような警告的審判でもなく、新約の今の時代の矯正的懲らしめでもなく、永遠の滅亡を意味する審判です。これは非常に厳しいものですね。

これは甦った教会が天に携え挙げられた時、イエス様の永遠の支配がはじまります。主が永遠に支配される、という時はですね、旧約的な意味の支配、新約的な意味の支配、最終的な意味の支配、みな含まれているわけです。ですから今もイエス様のお力が働いているわけですね。

Ⅱ.さて、16節に二十四人の長老たちが地にひれ伏して神様を礼拝している。

この二十四人の長老というのは誰か、というのはこの前お話しましたが、11章の11節でいうならば、甦った教会ですね。二十四人の長老というのは旧約の聖徒たちの代表と新約の聖徒たちの代表であると、前にお話しさせていただきました。そして教会が堕落し、異端化していた。

しかし、11章11節では再び甦った教会、この教会は天に携え挙げられた後、神の御座の前で自分たちの座についていたということが、16節でわかる。そしてこの世の国がキリストのものとなった。そしてイエス様が永遠の支配を始めると、地にひれ伏して礼拝した、と書いてあるんです。
彼らの礼拝は二つのことを意味していますね。

A.一つは、17節に、王となられたイエス様に感謝している。

三つの面から感謝していると思いますよ。

1.イエス様が万物の支配者であられる。私たちはこの被造物の世界、物質の世界に生きていますから、自分でなんでもできるかのように思っているわけです。それでイエス様が万物の支配者であることを忘れやすいんです。
けれどもイエス様は万物の支配者であって、創造者であり支配者であることをやめたことは一度もない。

昨日もちょっと子供たちと話をしました。「今も神様は星とかを造っているの?」「なんで造っているの?」とか、話をしたんです。
神様は今も働いているんです。今は人間は神様から委託されたもの、任されている物を使っているわけなんです。ところが自分がそれらのものを支配しているかのように錯覚すると、これは思い上がりになるということですね。神様が委託されたものを、自分が支配しているんだというふうに思ってはならない。

車はハンドルがついているでしょ。地球にハンドルがついていますか?
地球を回している人は誰もいないんです。地球はガソリン入れてアクセルを踏んでいるんですか? 違いますよね。南極と北極で誰かが地軸を回しているんでしょうか。うっかりすると私たちは、車のハンドルを回しているように、地球まで自分で回しているように思ってしまいやすいんですね。恐ろしいことだなあと思う。これほどの思い上がりはないと思う。

2.次を見ますと「今いまし、昔います神」

イエス様を永遠の神として賛美していますね。
神様の臨在を見失った人間は、見えない神様はいないもの、従わなくていいものだと考えてしまった。これが堕落の原因ですね。人間は見えると、あ、危ない、お巡りさんが近づくとみんなギクッとして、行ってしまうとホッとするんですね。
イエス様は昇天以来見えなくなってしまった。見えなくなってもいなくなったことは一度もない。彼は永遠からいつもおいでになられる。

今はこの方を信仰によってでしか体験できない。しかし先ほど賛美しましたが、イエス様とお会いする勝利の日には、顔と顔をあわせてイエス様とお会いする日が来る。ここを見ますと、地にひれ伏して礼拝している。信仰は私たちがこの地上にいるときだけなんですね。天に帰った時はもう信仰はいらないんですね。
誰でもわかる。素晴らしいその時がまもなく来る。

3.第3番目の感謝の意味は、「その偉大な力を働かせて、王となられたこと。」

イエス様の地上の生涯は、しもべの姿でしょ。
十字架においても、人々に敗北者だと思われました。
教会の時代も力ないものと思われた。

けれどもイエス様は、力がなかったときは一度もなかった。彼は偉大な力を働かせて、全人類の王となられた。この偉大な力とは何か。

これはお金の力でもない、
物の力でもない、
地位の力でもない、
権力の力でもない。

キリストの力は霊の力である。それは、

・死に打ち勝つ力
・罪に勝つ力
・人を神の道に歩ませる力
・悪に対して裁きを下す力
・新しい天と新しい地を創造する力
・神の民を携え挙げる力
・すべての人を支配する力

これは偉大な力、霊の力ですね。
今あげたことはお金でもできないでしょ、権力でもできないでしょ、地位でもできない。
あの弱々しく思われたイエス様が、全人類が一度も持ったことのない偉大な力をもっておられる。

ですから私たちは、もっともっとキリストの力を頂いて、勝利を得なければならないと思いますね。
キリストには偉大な力があり、イエス様は他から力を借りてくる必要がなかった。

B.さて、もう一つのことは何かというと、18節で、教会は、地上で経験したことを報告しています。
1.そこに「諸国の民」と書いてありますね。この世の民のことです。

この世の民は教会に対して激しい迫害を与えた。怒りました。
キリスト教会の歴史は、二千年間ずっと迫害の歴史です。迫害がなかった世紀は一度もなかったんです。二十世紀までどの世紀をとっても、迫害が一度もなかった時代というのはない。二千年のすべてが迫害の歴史ですね。

私も歴史を学んでみますとね、その時代、その人達の生涯がよく分かるだけではなくて、自分たちの歴史っていうのもよく分かるような気がします。
神の怒りが迫害者に現わされたということが書いてありますね。神に逆らったすべての者の上に怒りが現れた。教会に対してなされた怒りは、必ず神の怒りによって報復されます。
ですからね、私たちもあんまり心配しないでいいかと思うんですね。自分たちの上に加えられるところの迫害というものがあれば、それに対して自分でやることはない、神さまが怒りを下されることに任せればよろしい。

2.「死者のさばかれる時、あなたのしもべである預言者たち、聖徒たち、また小さい者も大きい者もすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時、地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時です。」

ここには3つの「時」が記されています。

① 第一は「死者が裁かれる時」
これは黙示録の20章12~15節に記されていることが分かりますね。これは最後の永遠の裁きの時です。

この裁きは二つの報いを与えていますでしょ。それが残りの二つの「時」に記されているんですが、

② 第二の「時」はどんな「時」かといいますと、神様のお名前を恐れかしこむ者たちに報いを与えられる時、ご褒美をもらう時。
みんなご褒美好きですね。でも早々と、ちょこっとご褒美をもらって、大切なご褒美を受けそこなうんですね。

この間もね、神戸の方から毎日ぐらいにお電話がかかってきてね、このご褒美のことでね。『この地上でご褒美をもらったら、天国では本当にご褒美をくれないんですか。ルカの福音書から。』ってね。

私たちもこの地上であんまりご褒美を欲しがると、最後の時、何にもご褒美がなくなっちゃうんです。だから気を付けたいですね。最後の時にちゃんとご褒美をいただきたかったら、今のこの世でね、あまりこの世で贅沢三昧の生活を求めないのがよろしい。

ここには細かく、神の報いを受けるリストが書いてあります。

第一は「あなたのしもべである預言者たち」。これはおそらく、旧約時代の神のしもべを表しているんだと思います。
その次に「聖徒たち」。これは新約時代、神に忠実に歩んだクリスチャンたちを意味しているんじゃないかと思われます。
さらに「小さい者も大きい者もすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たち」と付け加えているのに注目したい。

これは業績、手柄があった者、有名になった者、大きな教会を建てた者、そういうことを言ってんじゃなくて、いかなる者も、主に忠実だった者は報いから漏れることはない、ということを表しているんですね。マタイの10章42節を読んでみたいと思います。そこに素晴らしいことが書いてあります。これなら、私にももらえるかな、ってことが書いてある。イエス様の言葉ですからね。

マタ10:42 わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。

随分前ですよ、子供たちにこのお話をしたんです。
水一杯でも飲ませるなら、主の報いに漏れることはありません。
だから私たちもね、大きいことはいろんなことをやるかもしれませんが、大事なことは、小さいことっていうのはおろそかにしやすいわけでしょ、マタイの25章でも「小さいことに忠実に」と言われていますから、このことをよく悟って、今のうちに小さいことにおいて、神の御心を行い、愛のわざを行いたいものだなあと思うんですね。あまり水ばっかり飲まされても困りますけどね。

③ 第三の時はどういう時かっていいますと、この地を滅ぼした者が滅ぼされる時である。
神様の裁きの時は二つのものをもたらしますね。神を恐れて忠実に従った者には驚くべき報酬が、神に逆らって不信仰の道を歩む者には滅びしかありません。

あっちこっち開くようで申し訳ありませんがね、ルカの福音書の16章25節を読んでみましょう。私はいつも、このことを覚えるんですね。

16:25 アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。

ラザロは生きている間、悪いものを受けた、しかしあなたは良いものを受けた、贅沢三昧したではありませんか、といったわけですね。
私たちもこの地上の生涯、あまり良いものを得ようとして、焦らない方が大切じゃないかと思うんです。この地上の生涯、贅沢し楽しく暮らすということが、永遠では苦しいことでありますよ、とイエス様は直接語っておられるんですね。この地上でよいものを食い尽くしたら、もうあとは何もない。

ですから、この地上では私たちは辛抱しなくてはならないことがあるかもわかりませんね。しかしそれは、楽しいところの永遠を与えるところのものである。この地上では窮屈であるかもしれませんが、神様の恵みを信じて最終的な喜びをいただきたい。この地上で悪いものを受けていれば、神様の身元では慰めを受けることができる。これが約束されている。これはイエス様は直接お話になった。素晴らしいことです。これが第一の幻でありました。

Ⅲ.次に第二段階の幻に移っていきましょう。

これは僅か19節だけなんですが、これは言葉として書かれていますがね、実際はヨハネは幻として見たわけで、そのことを心に留めてていただきたいと思います。

まずヨハネはこう言っています。

「それから、天にある、神の神殿が開かれた。」

聖書の中に「天が開かれた」とは何度か書いてあるんです。

たとえば、マルコの福音書1章の10節で、これはイエス様がバプテスマを受けられて、水から上がってこられた時です。そこには「天が裂けた」と書いてあります。そして鳩のような御霊がご自分の上に下られるのを御覧になった。

マタイの3章16節では同じ光景ですが「天が開け」と書いてあります。

エゼキエル書の1章1節も見てみましょうか。天が開かれるところを見ているわけですが、

エゼ1:1 第三十年の第四の月の五日、私がケバル川のほとりで、捕囚の民とともにいたとき、天が開け、私は神々しい幻を見た。

今、旧約聖書を見ましたけれども、新約聖書も見てみたい。

使徒の働き7章56節、ここでも天が開けています。誰が見たんでしょうか。ステパノですね。こういう経験は本当にすばらしいなあと、思いますね。こういうのを見ると心が開かれますね。

使7:56 こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」

「人の子」というのはイエス様ですね。ステパノが殉教する直前のことですね。
なんで立っておられたんでしょうね。おそらくステパノが殉教する姿を、イエス様はじっと見守られていたんでしょうね。

黙示録の方に帰りますが、黙示録では「天にある神の神殿が開かれた」と書いてある。ちょっと違うわけですね。さらに、その神殿の中に契約の箱が見えました。
この幻の中では、これはですね、ヨハネの旧約の知識が多く用いられていると思うんです。ちょっと比較してもらうとわかるんですが、ヨハネは、第七の封印の時には、8章の3節、5節を見ますとね、祭壇と香炉について語っています。

しかし第七のラッパの時は、神殿と契約の箱が見えた、と言っている。
もちろんこれは象徴的な幻ですけれども、ヨハネは、紀元70年、ローマ軍によって神の神殿が崩壊されてしまったあと、神殿と契約の箱が気になっていたと思うんです。

この神殿と契約の箱の象徴的な意味は何か。これは非常に大事なことを言っていると思います。
それは、神の神殿は大祭司によって贖(あがな)いの血を注ぐところです。だから、偉大な大祭司であるイエス様は、この天の神殿の至聖所において、ご自分の血を注いでいることを示しているわけです。彼が見たのはそういう意味です。契約の箱の蓋(ふた)は、その血を注ぐ場所であったわけです。これが見えた。幻として見えた、ということですね。
キリストの贖いが完成しているということを表していますね。

それからまた、この場所は、キリストの贖いによって近づくことのできる神の聖臨在、神の聖い臨在を意味しているわけです。
今日私たちは、これを霊的経験として、神の聖い臨在を経験することができるわけですが、しかし、この臨在に入りたいと願っていながら、経験できない人が大勢いるとはなぜだろうか。これは非常に大事なことです。

この19節はその秘訣を教えていると思いますよ。
それはね、キリストの贖いの血をもって、神に近づかないからです。この19節はそれを言っています。キリストの贖いの血への全き信頼が、この聖臨在の扉を開く鍵なわけです。 鍵がなくてドンドン扉をたたいても、開かれない。キリストの血なしに、キリストの血潮なしにいくら祈っても、神の臨在の中には入っていけません。キリストの血潮への信頼なしにいくら聖書を読んでも、天の神殿は開かれない。ね、いいでしょうかね。

鍵は何かというと、それはキリストの血潮です。それに信頼することです。
そして聖書を読み、祈ることです。
キリストの血潮への信頼がなければ、その人の信仰生活は虚しいものになってしまう。どんなに一所懸命にやっても虚しい。19節の幻が表されているのは、これなんです。

そしてヨハネはそのあとで、「いなずま、声、雷鳴、地震が起こり、大きな雹が降った」と記しています。これは神様の聖い臨在が現わされたことの、神の尊厳と力が示されているわけですね。

こういうふうにしてですね、この幻の素晴らしさというものを、私たちは少しですけれども、知ることができました。
ヨハネの黙示録を学びながら、私たちは一歩一歩、キリストの国が成就する日に向かって、どうか霊的経験を深めさせていただきたい。
どうすれば神様の臨在の中に入っていけるか。一所懸命に聖書を読むことも大事です。お祈りすることも大事。しかし根本的にイエス様の血に対する信頼、イエス様の血を携えていけば自然と扉は開くんです。神様にお会いできる。鍵があれば簡単に開くんです。

多くのクリスチャンたちは一所懸命に、神さまにお会いしたい、臨在を経験したいと思うんです。しかし、血潮を忘れていってしまうんですね。この血潮をもっていけば、どうしたら開かれるのか、どうしたらこの経験に入れるのか、という質問はなくなってしまう。キリストの血潮を携えれば臨在の扉はスーッと開くはずですね。
あのペテロが、牢屋が開いていくとき、御使いが第一の門、第二の門、第三の門と開いていったようにですね、キリストの血を携えていくならば、キリストの血潮をもって祈るなら、キリストの血潮をもってみ言葉を読むならば、神の臨在にスーッと入っていく。自然に入っていける。楽に入っていける。キリストの血潮は神の臨在の扉を開ける鍵だからですね。
なぜ、旧約の時代に大祭司が、わざわざ血潮を携えていったのか、というのはそこに見える。私たちに対する、信仰に対する教えだと、この幻をヨハネは見たわけですね。素晴らしいと思いますね。

どうか私たちもみ言葉を学びつつ、イエス様の血潮に信頼して、神様を愛する生活を営ませていただきたいと思います。

お祈り

「それから天にある神殿が開かれた。神殿の中に契約の箱が見えた。」
天の神様、私たちがあなたに近づくこの時を与えてくださり、ありがとうございます。
イエス様、あなたの血潮がいかに素晴らしいものであるか、今日も知らせていただきました。私たちは一所懸命にあなたに近づこうと努力をしました。主よ、あなたの血潮がなければ一歩も近づくことができません。
しかしイエス様の血潮があれば、私たちはスムーズに、神に恐れなく近づくことができますから感謝をいたします。いつも心にイエス様の血潮をいただいた、信頼した生活を営ませてください。
どうぞその時に聖霊が働いて下さり、祈りに力を与え、また、み言葉の悟りを与え、心にあなたの臨在を覚えることができますから、感謝をいたします。
どうぞヨハネが見た幻が私たちの心の経験とならしてくださいますように、心からお願いいたします。
この時を感謝して、尊いイエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明