週報No.2138 涙の預言エレミヤ書(48)「正しい若枝」エレミヤ書23:1~8

2018年7月22日 (日) 午前10時半

礼拝メッセージ  眞部 明 牧師

涙の預言エレミヤ書(48)「正しい若枝」エレミヤ書23:1~8

エレミヤ書22章13~17節
23:1 「ああ。わたしの牧場の群れを滅ぼし散らす牧者たち。──【主】の御告げ──」
23:2 それゆえ、イスラエルの神、【主】は、この民を牧する牧者たちについて、こう仰せられる。「あなたがたは、わたしの群れを散らし、これを追い散らして顧みなかった。見よ。わたしは、あなたがたの悪い行いを罰する。──【主】の御告げ──
23:3 しかし、わたしは、わたしの群れの残りの者を、わたしが追い散らしたすべての国から集め、もとの牧場に帰らせる。彼らは多くの子を生んでふえよう。
23:4 わたしは彼らの上に牧者たちを立て、彼らを牧させる。彼らは二度と恐れることなく、おののくことなく、失われることもない。──【主】の御告げ──
23:5 見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行う。
23:6 その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、『【主】は私たちの正義』と呼ばれよう。
23:7 それゆえ、見よ、このような日が来る。──【主】の御告げ──その日には、彼らは、『イスラエルの子らをエジプトの国から上らせた【主】は生きておられる』とはもう言わないで、
23:8 『イスラエルの家のすえを北の国や、彼らの散らされたすべての地方から上らせた【主】は生きておられる』と言って、自分たちの土地に住むようになる。」
【新改訳改訂第3版】

<礼拝メッセージの要点>
  
 エレミヤ書中には、次のようなキリストの姿を見ることができます。

1、2:13「湧き水の泉であるわたし」生ける水の源としてのキリスト

2、8:22「医者はそこにいないのか。 ‥・私の民の娘の傷はいやされなかったのか。」大いなる医者としてのキリスト

3、23:4「わたしは彼らの上に牧者たちを立て、彼らを牧させる。31:10「イスラエルを散らした者がこれを集め、牧者が群れを飼うように、これを守る。」良い牧者としてのキリスト

4、23:5「その日、わたしはダビデに一つの正しい若枝を起こす。」正しい若枝としてのキリスト

5、23:6「その王の名は、『主は私たちの正義』と呼ばれよう。」私たちの正義としてのキリスト

6、30:9「彼らは彼らの神、主とわたしが彼らのために立てる彼らの王ダビデに仕えよう。」王なるダビデとしてのキリスト

7、50:34「彼らを贖う方は強く、その名は、万軍の主。」贖う方としてのキリスト

 新約聖書の啓示は、この若枝をイエス・キリストの霊的支配として、表わしています。

ルカ1:32~33「その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」

 ヨハネの黙示録5:5「すると長老のひとりが、私に言った。『泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。』」

 ヨハネの黙示録22:16「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」

 23:6「その日、ユダは救われ」 「その日」即ち、解放の日について、エレミヤは十六回も書いていますが、ほかには五回しか使われていません。それほど、エレミヤは神の民の解放の日を望んでいたかが分かります。

 エレミヤは、若枝の名によって、王の支配から、霊的な救いへと、移っています。

 「救われ」も「イスラエルは安らかに住む」も、どちらも、イエス・キリストのカルバリの十字架の贖い(身代わりの死)で、完全に成就したのです。

 これは、メシヤの救いの霊的祝福のことを、述べています。「その王の名は、『主は私たちの正義』と呼ばれよう。」この預言は、メシヤであるイエス・キリストにおいて、成就されました。

 この方にあって、ユダヤ人だけでなく、異邦人の救いも、完成されたのです。

 コリント第一、1:30「しかしあなたがたは、神のよってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」

 私たちが、内なるキリストを経験しないで、教理的知識の理解として、キリストの完全な義を考えて求めていると、そこに届かない自分に失望し、気落ちし、信仰が沈み始めます。これはキリストの完全な、理想的義に対して、自分の欠けだらけの姿を、重ねて見るからです。これは知識上の重ね合わせであって、キリストご自身を受け入れる信仰ではありませんから、恵みに満たされる経験が味わえないのです。これではいけません。

 もし、キリストご自身が自分の内に満たされる経験をすれば、どんなに足りないと自覚する人でも、満ち溢れる恵みを味わいます。

 すべての人の内に、生まれながらの腐敗性や、堕落性や、罪の性質があることは事実ですが、それは聖潔の知織で解決できるものではありません。また私の決心と努力で解決できるものではありません。私の内にみことばと、キリストの血と、御霊を受け入れる信仰によって、キリストの義を私の内に受けて、経験できるのです。

<今週の活用聖句>

コリント人への手紙第一、1章30節
「‥キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」

<集会案内>

◇7月25日(水)聖別会  午前10時半
    聖潔とは何か(11)
    「中世と近代の証人たち(1)」

地の塩港南キリスト教会
横浜市港南区上永谷5-22-2 TEL/FAX 045(844)8421