音声+文書:信仰の列伝(38) 「主に伺ったダビデ」(サムエル記第一、23章:1~14) へブル人への手紙11章32~34節

フランスの画家James Tissot (1836–1902)による「David in the Wilderness of Ziph(ジフの荒野にいるダビデ)」(New YorkのJewish Museum蔵)
2017年5月7日 (日) 午前10時半
礼拝メッセージ 眞部 明牧師
へブル人への手紙11章32~34節
11:32 これ以上、何を言いましょうか。もし、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たちについても話すならば、時が足りないでしょう。
11:33 彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、
11:34 火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。
【新改訳改訂第3版】
はじめの祈り
「彼らは、信仰によって、約束のものを得、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。」
恵みの深い天のお父様、こうして一週間の旅路を終えて、再びイエス様を礼拝して、新しい一週間を迎え、新しい月を迎えましたけれども、第一の聖日を主が祝して下さり感謝いたします。
私たちが、いつも主とともに歩む信仰の幸いを、深く心に経験しつつ、一日一日を送らせていただけることを感謝いたします。
今日もみことばを祝してください。聖霊が私たちのたましいの目を開いて、主とお会いできますよう助けてください。
尊いキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
ダビデが勇士として知られるようになったのは、ペリシテの巨人ゴリヤテを倒してからであります。それからのダビデは、勇士として戦って勝利の連続でありました。また彼は、多くの人から愛され、高い評価を受けております。ですが、これですべてがうまくいくかと思うと、決してうまくはいかなかったわけです。仕事が大成功したりすると、すべてがうまくいったかのように見えますけれども、そこから大きな問題がおきてくるわけです。
ダビデも、誰もが喜ぶような大勝利を連続していましたが、彼の周辺は複雑に問題化していきました。ご存知のように、ダビデは少年の時に、サムエルから主の油を注がれた人ですから、神様から特別な使命を賜っている人です。ですから、必ず、特別な訓練を受けるはずです。その訓練は厳しいもので、並み大抵なものではないはずです。その苦難は、彼の連続の大勝利と大評判が引き起こしてくるものです。はじめは人気者の姿を取っているかもしれませんけれども、それが姿を変えて牙をむいて、人の妬みや恨みになってくるわけですね。苦難は、大勝利を収めたダビデの足元から起きてきています。
神様は、モーセにもヨシュアにも、「あなたの立っている地は、聖なる地である。」と言われました。ですから、靴を足から脱いで、主に忠実に従うしもべになることを求められたのは、ご存知の通りです。
ダビデの足元は、大勝利と大評判で賑わっていました。その中で、ダビデは足の靴を脱いで、主に忠実なしもべになる訓練を受けることになります。
モーセは、ホレブの山でありました。ヨシュアもエリコの近くでありましたが、ダビデは、それとは違って、大勝利と大評判の中で、足の靴を脱ぐ、主の忠実なしもべになる訓練を受けました。状況は違いますけれども、神様の訓練のなさり方は同じでした。
才能のある人、能力のある人、お金のある人、働きの成功者、大人気のある人、こういう人たちを、心砕かれた、謙遜な、忠実な、従順な神のしもべに造り変えることは、神様以外にはできません。至難の業です。ダビデはその訓練を受けることになるのです。
ダビデの受ける苦難は、仕事でもなく、ペリシテ人ででもなく、貧困でもなく、病でもありません。もはや逃れられなくなっている状況であり、状態です。
その苦難の原因は、自分が仕えている国王であり、妻ミカルの父でもある、乱心したサウルから命を狙われる執拗な追跡でした。
これはダビデ自身に原因があったわけではなくて、サウルの妬み、嫉妬、疑い、怒り、怖れによるもので、その原因は、神の聖霊がサウルから離れることによって、サタンの悪の霊がサウルに入ったことによって生じたのです。
ですから、これは、なかなか人間の努力や決意で解決できるものではありません。逃げられない、非常に困難な闘いが待っていたわけです。
イスカリオテのユダの場合も、サタンがユダに働いて滅んでいます。主から離れることは、最も危険なことですね。
人のことばに惑わされないで、主から離れないようにしましょう。
第一ペテロ2章19~20節を読んでみましょう。
Ⅰペテロ2:19 人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。
2:20 罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。
書いてあることには励ましを受けますけれども、実際に自分がやることになると大変なことですね。私の人格が陶冶(とうや)されるのは、この理由なき不当な仕打ちを受ける時であります。この時、私たちの人格は訓練を受けます。それを、神の訓練として受け止められるかどうか、です。
この時パウロは、ローマ5章3節で、「患難をも喜ぶ」、と言っていますが、これは、神のしもべとしての訓練を受けた人だけが、言えることばです。
ローマ5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
患難を受けた時、どんな心の反応を示すか、どんな態度をとるか。それによって、信仰の実質が試されます。
この時、自分の良いところを見せようとして頑張っても、意味がありません。ありのままを主に差し出して、取り扱っていただくのが、一番良いと思います。
大抵、誰でも駄目な点が出てくるものです。駄目なところが出てきたからといって、神様はそれを叱ったりはしません。みことばと聖霊をもって、力づけてくださいます。
こうして私たちは、主の恵みを心に味わいながら、パウロが第二コリントで言ったように、栄光から栄光へと、主に似た者に霊的性質が変えられていきます。
ヨセフの時もダビデの時も、このことが訓練されていったわけですね。ですから、ヨセフは、お兄さんたちを赦しました。ダビデも、自分の手でサウルを殺しませんでした。
いくつか聖書を読んでみたいと思います。
創世記50:20をお読みしましょう。有名なことばですけれども、ヨセフが言っていることばです。
創 50:20 あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。
人は悪を働いたけれども、神はそれを、良いことのための計らいとされた。
詩篇119:71を読んでみましょう。
詩 119:71 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。
聖書の中に、いくつか学ぶ方法が書いてありますね。「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」とイエス様は仰いました。ここでは、苦難に会うことを通しておきてを学ぶ、みことばを学ぶ、これがしあわせだった、と書いてあります。
マタイ 11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
人間は、好き勝手なことをなんでもできて、わがまま放題にやっている時に、何かを学ぶことができるでしょうか。どんなに有名な優れた学校を卒業したからと言って、何を学ぶことができるでしょうか。聖書は、苦しみに会ったことは多くのおきてを学ぶことができた、と言っています。
ローマ8章28節を読んでみましょう。これらはみな、信仰の戦いをした人の話です。経験から出てきたことばですね。
ローマ 8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
神を愛する人々、神様のご計画に従って召されている人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる、それを私たちは経験しています、と言っています。
もう一つ、ローマ12章20節を読んでみましょう。
ローマ 12:20 もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。
苦難の時、愛をもって接することがどんなに重要な学びになるか、ということであります。ダビデの信仰の優れている点はここにあります。不当な仕打ちを受けた時、理由もなく命を狙われた時、それをサウルに投げ返して、仕返しをしていないことです。やられたからやり返す、というやり方をしなかったことですね。
その課題をすぐに神様のところに持っていって、神に訴えたことです。すぐに神に持っていって神に訴えることは、ダビデの信仰の特徴であります。非常に優れている点です。ここでは、ダビデは四回神様に伺いを立てております。その結果、神様はダビデを守ってくださいました。
第一サムエル記23章14節も読んでみましょう。神様が、ダビデを守ってくださったことが書いてあります。
Ⅰサム 23:14 ダビデは荒野や要害に宿ったり、ジフの荒野の山地に宿ったりした。サウルはいつもダビデを追ったが、神はダビデをサウルの手に渡さなかった。
追跡し続けたサウルの手から、神様がダビデを守り続けてくださったことが書いてあります。その秘訣は何であったのか。
23章2節では「そこでダビデは、主に伺って言った」と書いてあります。
23章4節では「ダビデはもう一度、主に伺った。」と書いてあります
短いことばですけれども、非常に大切なことばですね。ダビデはことごとく、いちいち主に伺っております。自分の知恵で判断しておりません。「前はこうだったから、今度もこうに違いない。」という判断をしていません。一回一回、面倒がらずに主に尋ねています。
大きなこと、大変なことは主に尋ねるけれども、小さな日常のことは主に尋ねるのは申し訳ないと言って、自分の考えでやってしまう人がいますが、謙遜そうに見えるけれども、本質は、自分中心の自分の知恵に頼ることから抜けだしていません。非常に危険なことですね。主は、小さなことを主に尋ねる人を、喜んでくださいます。
マタイ25章21節をお読みしましょう。
マタイ 25:21 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
「わずかな物に忠実だったから」これは大事なことばではないでしょうか。
私とダビデは、ことごとく違っているわけではありません。おおむね同じかもしれない。しかし私は、大きいことは主に尋ねます。小さいことは自分の知恵でやる。しかし、ダビデは、大きいことも小さいことも、ことごとく主に尋ねています。ここに違いがありますね。
ヨシュアはギブオン人が尋ねてきた時、主に尋ねずに、自分の知恵で判断したことによってギブオン人に欺かれてしまいました。
箴言3章5節に、「心を尽くして【主】に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。」と書いてあります。
大きなことと小さなこととを分けて扱おうとするところに、自分の知恵が働いていることが分かりますね。大事なことは、小さいことにも心を尽くして、全面的に主に明け渡し、信頼して従うことです。
「主に従う」と言っても、どうすることなのか分からない人もいるかもしれません。「主に従う」というのは、主と心を一つにして行うこと、を言っています。
「主に不服従」というのは、同じことをしていても、肉の欲と自分中心の自我が先に立っているから、不服従だと分かります。
ですから、見たところ同じことをしていても、主に従っている人と、主に逆らっている人がいるわけです。同じことをしているのに中身が違っている。その結果の違いは、ダビデとサウルに現れてきます。
信仰とは、聖書を読んで教会に行っていることだけではありません。心が主を愛し、まったく信頼していることこそが大事なんです。パウロがガラテヤで言ったように、愛によって働く信仰が大事なんです。その信仰を、毎日の生活の中で活用することですね。これを怠ると、必ず自分中心の知恵、力、肉の欲に頼ってしまいます。これが罪の原因になっていくのです。
そのころ、ダビデとその部下たちは、イスラエルの民の間で、警備隊のような働きをしていました。近隣の部族たちは、隙を見つけると、油断すればすぐに侵略と略奪を繰り返していたからです。
現代でも、国と国の間で、隙を見つければ、略奪や、ミサイルを飛ばしてみたり、銃撃戦をしてみたり、また、企業と企業の間でも、技術の盗みあいとか、偽物が売られているとか、まさに戦場が続いています。ですから、気を付けないと、うっかりしていなくても、食い尽くされてしまいます。すべてのものが盗まれてしまう。これは単なる競争ではなくて、もはや、略奪と戦争であります。そういう状況の中に、私たちは毎日生活していることに、気づかなくてはなりません。
こういう状況の中で、ダビデのもとにニュースが入ってきたわけですね。ペリシテ人が、ユダ部族の低地ケイラを攻めて、穀物の打ち場を略奪している知らせが入ったのです。ダビデはユダの人でしたが、すぐに出動せず、「私が行って、このペリシテ人を打つべきでしょうか。」と主に尋ねています。
こうして、一回一回、主の御心を確かめていけば、それが連続の勝利につながっていくわけですね。
日ごろ、慣れた仕事だからといって主に問うことをせずに取り掛かると、思わぬ事故にあうことがあります。どこにサタンがわざわいを仕掛けているか分かりません。
ですから、毎日している慣れた仕事でも、ちょっと立ち止まって、主のみこころを確かめる信仰を働かせたいですね。ちょっとしたことを見逃すと、そこに罠が仕掛けられていることがある。買い物をする時でも、契約をする時でも、イエス様の平安を確かめたり、主のGOサインを確かめる、そういう信仰を働かせたいものです。
あまり神経質になりすぎて、道を間違える時があるかもしれませんけれども、それ以上に、自分の欲と自分中心の考えで行くと、大きく道を誤ってしまいます。それが取り返しのつかないほどの大きな誤りになってしまいます。人のことばに付いて行ってしまうと危険な目に会います。
主はダビデにすぐに答えられました。「行け、ペリシテ人を打ち、ケイラを救え。」と教えました。ところが、ダビデの部下たちの反応は、反対でした。
第一サムエル記23章3節をご一緒に読んでみたいと思います。
Ⅰサム 23:3 しかし、ダビデの部下は彼に言った。「ご覧のとおり、私たちは、ここユダにいてさえ、恐れているのに、ケイラのペリシテ人の陣地に向かって行けるでしょうか。」
これは常識的な判断ですね。間違いではありません。彼らは、ユダにいてさえサウルに追いかけられているのに、ケイラに出かけていって、ペリシテ人とサウルの軍隊に挟み撃ちにされたら、大変なことになると、恐れたわけです。部下たちは恐れのゆえに、主のご命令に従って出動することに反対しました。
ダビデは、部下たちのもっともな反対意見にも、すぐに従いませんでした。
第一サムエル記23章4節では、「ダビデはもう一度、主に伺った。」とあります。
Ⅰサム 23:4 ダビデはもう一度、【主】に伺った。すると【主】は答えて言われた。「さあ、ケイラに下って行け。わたしがペリシテ人をあなたの手に渡すから。」
そして主のみこころを確かめて後、部下たちも確信を持って、ケイラに行きました。これは部下たちを納得させるためではなく、戦う者たちの信仰が確かな信仰になっていなければ、主がともに働いて下さらないからです。
みんなが同じ気持ちになっているからいいんだ、ということではありません。同じ信仰の確信を握っていないと、主が働いて下さらないからですね。
イスラエルの人々がエジプトから出てきた時、つぶやきました。つぶやきながら働く者がいれば、主がともに働いてくださいません。それは嫌と言うほど経験してきたことです。
ここに他人の反対にあう時の、処理の仕方が教えられています。他人の反対意見に対してダビデは、自分の考えを述べていません。賛成も反対も言わない。もう一度主のみこころを尋ねて、確かめたのです。こうした後、部下たちの誰一人、恐れたり反対する者は出ていません。戦いですから、危険がなかったわけではありません。しかし、ダビデのグループは一致した信仰を持ったわけです。分かれ争っている者たちは立ち行かなくなります。こうしてダビデたちは、主とともに働き、大勝利を得て、ケイラの住民を侵略者ペリシテ人から救うことができたのです。
このように、戦いの前には、危険や不安の材料がたくさん見えてきますから、つぶやいたり、恐れたり、疑ったりしやすいのです。
私たちは、自分個人の働きをしているわけではありませんから、主のみこころを尋ねることが大事であります。
言い争っていれば、必ず滅びます。困難、苦難、課題、敵の多さが問題なのではありません。分かれて言い争っていれば、主がともに戦ってくださいません。そのことが敗北の唯一の原因となります。
戦いの前にも、働きの前にも、必ず、信仰の確信が必要です。主に尋ねることが大事ですね。人の恐れや、議論や、疑いに振り回されてはいけません。
ダビデの場合は、幸いにも部下たちの全員が確信を持ったのですが、一方サウルは、サウル自身も部下たちも主から離れていましたから、本当は恐れるに足らなかったわけです。ダビデの部下たちは、サウルの軍隊の多さを見たんでしょうけれども、敵の数が多いから恐れるのではなくて、主から離れている、ということが最大の原因です。
しかし実際には、全員が信仰の確信を持っていないことが多いでしょう。信仰の確信を持つ者が多いほど、勝利は容易になります。ですから、戦いの前にダビデが祈ったことは、重要なことですね。主のみこころを確かめて、主のみこころがはっきりしたならば、一人一人の信仰がしっかりしてきたんです。それが勝利につながっています。
23章6節をお読みしたいと思います。
Ⅰサム 23:6 アヒメレクの子エブヤタルがケイラのダビデのもとに逃げて来たとき、彼はエポデを携えていた。
この時に、祭司アヒメレクの子エブヤタルが、ケイラにいるダビデのもとに逃げてきていたことが書かれています。エブヤタルのお父さんのアヒメレクは、逃亡中のダビデに、ダビデがゴリヤテを倒した時の剣と供えのパンを与えたという理由で、サウル王の命令で、殺されていたんですね。
それゆえ、ダビデがケイラに行ったことは、エブヤタルに逃亡のチャンスを与えたことになりました。こういう事は、ダビデの考えにはなかったことです。
しかし、ダビデの行動はいつも主に尋ねたものですから、すべてに神のみこころが次々と行われていきます。神のご計画に従うと、自分の思ってもいなかったことが次々と起こってまいります。そういうことを、私たちもしばしば経験することですね。思いがけない出来事がおこり、神さまが働いてくださっていることがわかります。
しかし、もう一方で、ダビデの部下が恐れていたことが起きています。
23章7~8節では、ダビデがケイラに入った事が、すぐにサウル王に知らされました。サウルは喜びました。なぜなら、ケイラの町は城壁に囲まれており、扉とかんぬきのある町だったからです。サウルは、大軍を送ってダビデをこのケイラに閉じ込めてしまえば、ダビデは逃げ場を失うと考えました。サウルは自分の知恵を使って、最大の策略を立てます。ですから、神のみこころの仕事をしているからと言って、油断してはいけません。不注意になってもいけません。この世は抜け目のないサタンが働いているからです。
23章9節で、「ダビデはサウルが自分に害を加えようとしているのを知り、祭司エブヤタルに言った。『エポデを持って来なさい。』」と言っています。
今度は、祭司エブヤタルにエポデを持って来させて、祈ってもらっています。
祭司が着ているエポデには、十二の宝石が着けられていて、この十二の宝石は、イスラエルの十二の部族をさしているのは、ご存知の通りです。祭司はこのエポデを着て、心に十二部族を抱いて、神の前にとりなしをしていたのです。
ダビデが、祭司エブヤタルにエポデを持って来させたのは、祭司エブヤタルにも、とりなしの祈りをしてもらうためです。ダビデは、自分で祈るだけではなく、祭司にも祈ってもらう必要を強く感じていました。
それまでのダビデと神様との関係は、「わたしとあなた」という個人的な関係でしたが、23章10,11節では、「イスラエルの神、主よ。」となっています。
もはや、ダビデ個人の問題ではなく、ダビデは、イスラエルの国王になるという意識を持って祈っていることが分かります。
ですから、そのころのダビデの心の中では、国王となる重荷がのしかかっていたのでしょう。23章17節では、ヨナタンは、すでにそのことを自覚していて、ダビデにその自覚を持つことを促しています。
Ⅰサム 23:17 彼はダビデに言った。「恐れることはありません。私の父サウルの手があなたの身に及ぶことはないからです。あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者となるでしょう。私の父サウルもまた、そうなることを確かに知っているのです。」
非常に複雑なことばですけれども、ヨナタンは、「次の王様はあなたなんですよ。そういう自覚を持っていてくださいね。」と言っているわけですね。「私の父サウルも追いかけているものの、全部知っているんですよ、分かっているんですよ。」と、そう言っているわけですね。
こうして、今回の危機の時も、ダビデは主に問うことを忘れませんでした。
23章10~12節もご一緒に読んでみたいと思います。
Ⅰサム 23:10 そしてダビデは言った。「イスラエルの神、【主】よ。あなたのしもべは、サウルがケイラに来て、私のことで、この町を破壊しようとしていることを確かに聞きました。
23:11 ケイラの者たちは私を彼の手に引き渡すでしょうか。サウルは、あなたのしもべが聞いたとおり下って来るでしょうか。イスラエルの神、【主】よ。どうか、あなたのしもべにお告げください。」【主】は仰せられた。「彼は下って来る。」
23:12 ダビデは言った。「ケイラの者たちは、私と私の部下をサウルの手に引き渡すでしょうか。」【主】は仰せられた。「彼らは引き渡す。」
ダビデは、ケイラの人々をペリシテ人の侵略と略奪から救ったので、彼らはそれを恩義に思って、サウルがケイラを攻めてきても、ダビデを引き渡したりしないで守ってくれるだろう、というような安易な計算をしませんでした。
人に親切にしてあげたんだから、きっと親切にしてくれるだろうと思いやすいものですが、決してそうではありません。ダビデは、人の心というのは、自分中心の最悪な状態にあることを自覚していました。
ケイラの人達は、ダビデによって、ペリシテの侵略から救われても、ダビデをかばえば、サウルからどんな仕打ちを受けるかもしれないと恐れたんですね。
人はどんなに助けを受けても、いざという時、自分中心の決断を下しやすいのです。そのことをダビデは心配していたわけです。
ダビデは、ペリシテに勝っても油断しませんでした。本当に心の性質がきよめられていない人には、ケイラの人のように、救いの恵みを忘れたり、自分中心の態度を取る人が出てきます。これは現実の生活におきてくるわけです。ダビデはそのことに気づいていて、ケイラの人の心の性質を主に尋ねたのです。
ですから、本当にきよめられた人を友としていただきたいと思います。
ここで、第二テモテの2章22節をお読みしましょう。
Ⅱテモ 2:22 それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。
ここでダビデが神に祈ったことは、自分たちが勝つか負けるかではなくて、サウルが本当にケイラまで攻めてくるかどうかでした。サウルの悪意、殺意、執念の強さを確かめることでした。
主のお答えは、「彼は下ってくる。」でした。サウルの妬みと嫉妬と殺意は、ますますサタンに支配された執拗なものになっていることが、明らかになりました。
もう一つは、すでにお話ししたように、ダビデがペリシテ人の侵略から助けたケイラの人たちが、恩人であるダビデをサウルの手に渡すかどうかでした。ダビデが、「ケイラの人たちは、自分たちを救ってくれたのだから、まさか裏切って、自分をサウルの手に渡すことはあるまい。」と自分の判断に頼って、扉とかんぬきのあるケイラに留まっていたら、ケイラの門が封鎖されると、ダビデたちは逃げられなくなってしまいます。ダビデたちは、ケイラの人々の心根が明らかになる前に、気づかれずにケイラを出ていったのです。非常に危険な目にあっているわけです。
このことを覚えておくと、私たちの人生のどこかで、きっと役に立つことがあるでしょう。人は自分に危害や損害が及んでも、あくまで主に忠実な態度や行動をとれる人は稀だということです。ほとんどいません。ほとんどの人は、自分に都合の良い行動をとります。このことをわきまえておくと、過度に人に信頼しなくなるし、主にいちいち尋ねるようになります。
サウルが来ない間、つまり何事もない間は、ケイラの人たちはダビデたちに感謝して、ペリシテ人からの護衛隊として、いつまでもケイラにとどまって、ダビデたちがいてくれることを願ったでしょう。
しかし、ダビデはそういうもてなしに惑わされなかった。サウルの大軍がやってきて、ダビデを引き渡さなければケイラを滅ぼす、と言われたら、ケイラの人達はダビデを裏切って渡す、と主は警告されたのです。
イスカリオテのユダは、悪魔が入り、主イエスを裏切る者となりました。
ペテロや他の弟子たちも、マタイ26章35節で、「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」と言ったとあります。
それから数時間後、その日の夜、鶏が鳴く前に三度、ペテロは主を知らないと否定してしまいました。他の弟子たちも、主イエス様お一人を残して、逃げてしまいました。悪意がないにしても、彼らが迫害を恐れず、主イエスを証しするようになるには、ペンテコステの日に聖霊に満たされてからです。
ですから、私たちは、自分の頑張りや、努力や、決心で、主に従うのではなくて、「クリスチャンだから、こうあらねばならない」のでもなく、「律法を守っているから大丈夫」でもなく、「洗礼を受けているから天国に行ける」のでもなく、ダビデのように、いつも自分の前に主を置いて、毎日みことばを足のともしびとして、いつも光として、生活をさせていただきたいものです。
聖霊に満たされて、心にアガペーを注いでいただいて、主の栄光を現わす生活をさせていただく、これが大事なことですね。
こういう事を通して、ダビデはいろいろな危険な目にあったことを通して、患難の中でも主に従うことを訓練されていったのです。非常にきわどい事です。訓練というのは、模擬的なことではないんです。実践的なことですね。
私達は、訓練と言うと、本当のことではないと思いがちですけれども、そうではないんです。神様の訓練は本物なんです。本当の戦いの中で訓練されるんです。疑似的なことなら、なんの役にも立たないんです。本当の時にはそんなものではないわけです。模擬的なものは、模擬試験と同じで、どんないい点を取っても合格にはなりません。神様の訓練は実践の中で行われます。
ダビデの生涯の中で、ダビデは旧約の人でしたけれども、彼は主に導かれて、羊飼いの生活の中から、一歩一歩、一つ一つ、幼いころから、信仰の本質を身につけていったんです。ですから、彼は神学校に行って学んだものではないんです。手足を動かして、いろいろな困難課題の中を経験し、通過することを通して、身に付けていったのです。
ダビデの生涯の中で、第一に取り扱われていることは、神は人のうわべを見るお方ではなく、心の本質を見るお方であるということを叩きこまれています。
ケイラのことでもそうでした。人のうわべを見るのではなく、心の本質を見なければならないんだということを、ダビデは知っていたわけです。
ですから、ダビデは一回一回神様に尋ねたわけです。ダビデは徹底的に、自分の知恵と考えと悟りに頼ることをせずに、事あるごとに、主に祈って、尋ねています。このことが、主が、ダビデをあらゆる悪意によって仕組まれた危険から、守り通してくださったのです。
詩篇68篇19~20節をお読みしたいと思います。
68:19 ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。
68:20 神は私たちにとって救いの神。死を免れるのは、私の主、神による。
これは、本当にこのことを経験した人のことばですね。ダビデの場合、もし彼が一度でも主に問うことをやめて、自分の考えに頼って行動していれば、そこでダビデの生涯は終わってしまっていたことでありましょう。それほど危険なことなんです。私の生涯も、たとい生活は続いていても、自分の知恵に頼るなら、私の信仰は死んでしまい、失われてしまうでしょう。
ヘブル10章20~23節をお読みしてみましょう。
ヘブル 10:20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。
10:21 また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。
10:22 そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。
10:23 約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。
ですから、自分の知恵に頼ることは非常に危険ですね。ダビデは、主のお答えを聞くと、自分であれこれと悩んでいません。第一サムエル記23章13節を読んでみましょう。
Ⅰサム 23:13 そこでダビデとその部下およそ六百人はすぐに、ケイラから出て行き、そこここと、さまよった。ダビデがケイラからのがれたことがサウルに告げられると、サウルは討伐をやめた。
ケイラの人達は、ダビデが逃げていったことにすぐに気が付いて、慌てたでしょうね。「なぜ、出て行ったんだろう。」と思ったかもしれません。自分の心の中のことを、考えてみないからですね。
ここに、「すぐに・・・出て行き、」と書いてあります。主のみことばがあると、即刻に従った。後で従ったのでは、従ったことにならない。サウルが攻めてきて門が閉じられ、ケイラの人が渡すような状況になってから逃げだそうとしても、もう間に合いません。即刻従ったのですね。
自分の判断でぐずぐずしていると、救われる機会を失ってしまいます。長い間、ユダの荒野で戦いを続けてきたダビデたちにとって、ペリシテに勝利してしばらくケイラでゆっくり休みたいと思うのも、当然でしょう。しかし、彼らはケイラを出て、再びさまよい歩かねばなりませんでした。
これは、神のしもべとなる訓練が、まだまだ終わっていなかったことを示します。ここまでくればいいんじゃないかと思いますが、まだ、終わっていない。
主は途中で腰を降ろすことを、許されなかったわけです。
最後にヘブル10章35~36節を読んでみましょう。
ヘブル10:35 ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。
10:36 あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
神様が、ダビデをサウルの手に渡さなかったのは、ダビデがことごとく神に問いかけて動いたからです。このことは平凡なことですけれども、誰でもできることですけれども、ダビデの信仰の優れている点です。優れた信仰とは、特別な才能があることではありません。平凡な毎日の生活に、信仰を活用していることなんです。いつもお話している通りです。
それが優れた信仰なんだということに気付いていただきたい。優れた信仰とは特別な才能があることではなくて、平凡な毎日の生活に信仰を活用していることだということを心に留めてください。
もう一つは、自分の知恵と悟りに頼らず、ことごとく主のみこころを尋ね求めたことです。そして、神のみことばがあれば、迷わず、間を置かず、すぐに従ったことです。これを行うには特別な才能を必要としません。忍耐強く、根気よく、怠らずにこれを行う人を、主は導いて守ってくださいます。
今日は、ダビデが、ことごとく主に伺ったことをお話ししましたけれども、私たちの信仰に生かすことができることは、多いと思います。
神様のみわざがなされますようにお祈りをして、閉じたいと思います。
お祈り
恵みの深い天のお父様、今日もこうしてダビデの信仰を通して、私たちもまた活用できるものがたくさんありますし、時代が違っても同じようなことが世界中で起きています。
私たちの身近でも起きていることを教えて下さり、感謝いたします。
人の心の中の問題も、神様がダビデにことごとく教えているように、私たちもそのことを通して深く学んで、神の器になる者としてください。
イエス様におゆだねしながら、また、イエス様のおことばをいただいたなら、すぐに従っていく信仰を、毎日活用させていただけますように。
特別な能力がなくても、毎日信仰を働かせることは、最も優れた信仰だということを、経験として知らせていただけますように顧みてください。
尊いキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明
<今週の活用聖句>
詩篇16章8節
「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」

ダビデは、ケイラを出て、サウルから逃れるため荒野を転々とした後、エン・ゲディの要害に住んだ、と書かれています。(サムエル記第一、23:29) この写真は、エン・ゲディにある通称『ダビデの滝』。このあたりの崖には、あちこちに洞穴がありますが、これらのどこかにダビデが住んでいたものと思われます。
地の塩港南キリスト教会
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