音声+文書:信仰の列伝(37) 「愛され、疑われ、勝利を収めたダビデ」(サムエル記第一18章:1~30)へブル人への手紙11章32~34節

エルサレムにある「ダビデの町」(ダビデの宮殿の遺跡があるところ)の入口には、ダビデがいつも奏でていた琴のオブジェが飾られている。
2017年4月30日 (日) 午前10時半
礼拝メッセージ 眞部 明牧師
へブル人への手紙11章32~34節
11:32 これ以上、何を言いましょうか。もし、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たちについても話すならば、時が足りないでしょう。
11:33 彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、
11:34 火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。
【新改訳改訂第3版】
はじめの祈り
「弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。」
恵みの深い天のお父様、こうして寒い期間が過ぎて、春に近づいていますけれども、4カ月の間お守り下さり、いろいろな課題を乗り越えて、今日もイエス様を礼拝して、この一週間、また新しい月を歩ませていただけることを感謝いたします。
霊もたましいも健康も支えられて、健やかな霊を持って主に仕えることを、主とともに歩める生活を営ませてください。
豊かな恵みと平安の中で生活が営まれ、証しができますように、私たちも弱い者なのに強くされますように、イエス様の恵みを証しできますように、助けてください。
この時を主の御手にゆだねて、尊いキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
今日は、信仰の列伝37回目、「愛され、疑われ、勝利を収めたダビデ」という、少し長い題ですが、お話しさせていただきます。
少年ダビデは、ご存知のように、ペリシテの巨人ゴリヤテを倒したことによって、突然、パレスチナの全地域の諸氏族の間で、英雄として知られるようになりました。このことが、少年ダビデを、まだ彼が経験したことのない嫉妬や妬みを受ける人間関係の苦難の中に、陥れることになったのです。
若い少年が、大人の嫉妬や妬みの、悪い人間関係の中に、関わるようになってしまったわけです。この分野は、少年ダビデが経験したことのなかったことです。ここから、ダビデの忍耐が訓練される長い期間が始まることになりました。
私たちにとっても最高の訓練は、たとえ勝利しても高慢にならないこと、また、迫害や罵り、無視、冷淡、嫉妬、ねたみ、というような複雑な人間関係の中で、いかに忍耐して、そこを通り抜けるか、と言うことであります。
神様は、モーセを、イスラエルのリーダーとして用いるために40年間、ミデヤンの荒野で、徹底的に自己主張する自我に死に、ホレブの燃え尽きない柴で、きよめの経験をさせました。
ダビデは、サウルの妬みを受けて命を狙われ、長い逃亡生活を強いられました。人の妬みほど恐ろしいものはありません。しかも、ダビデは、なすすべもなく、ひたすら忍耐するだけの、非常にみじめな逃亡生活でありました。
このようなことが、ゴリヤテを倒して全国民が大勝利に湧き上がったすぐあとに起きるとは、ダビデは予想もしなかったことでしょう。お祭り騒ぎの後に、すぐに、このような悲劇が来る。これは、神の人が造られていくのに必要な「るつぼ」なのです。若いダビデは、この苦しい、長い訓練をやり遂げました。
第一ペテロの5:6をお読みしましょう。私たちに、大きな慰めを与えてくれることばです。
Ⅰペテロ5:6 ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。
神様は、ちょうど良い時に高くしてくださる、と言われています。私たちはなるべく早い方がいいと思うわけですけれども、調子が良くない時が続きます。しかし、必ず、神様はちょうど良い時に、高くしてくださる。私は、事がうまく進んだり、仕事がうまくいくと喜びます。しかし、そういう時は危険ですね。勝利の山を登ると、すぐに、次の苦難の谷が待ち構えているからです。
最近もニュースを見ると、春山で雪崩にあって、遭難事件が起きたりしていますけれども、人間関係においても、私たちの生涯においても、高い所に登ると、妬みや批判や攻撃の嵐が待ち受けている、ということが分かります。高い山というのは、風も強いし、すぐに嵐も起きます。下の世界が春でも、高い山ではまだ冬だ、と言う話があります。
それと同様に、私たちの生涯で物事がうまくいって喜んでいる時、そこに危険が忍び寄っていることを、心にとめておく必要があるでしょう。ですから、私たちは自分で気を付けるだけでは十分でないことが分かります。神様は、ご自分が用いようとする人には、特別な訓練を背負わせます。もっと大きな主の栄光を現わすために、ダビデには、別の訓練が始まりました。
ダビデは、神と人とに愛された人です。
第一サムエル記18:1をお読みしたいと思います。
Ⅰサム18:1 ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した。
3節も読んでみましょう。
Ⅰサム18:3 ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛したので、ダビデと契約を結んだ。
ちょっと気を付けていただきたいことばがありました。
1節で、「ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した」と書いてあります。
3節でも、「自分と同じほどにダビデを愛した」と書いてあります。
「心を尽くして主を愛し」、「自分を愛するように隣人を愛するように」とお話ししてきましたけれども、皆さんはそういう人ですね。
反対に今度は、自分が、「神と人とに愛される人物になる」というのは、どうでしょうか。これは自分の努力でできるものではありません。これは、神様の特別な恵みと祝福が必要であります。
第一サムエル記2章26節も読んでみたいと思います。
Ⅰサム 2:26 一方、少年サムエルはますます成長し、【主】にも、人にも愛された。
「主にも、人にも愛された」と書いてあります。
同じような内容のみことばを2、3読んでみましょう。
箴言3:4 神と人との前に好意と聡明を得よ。
使徒 2:47 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。
ローマ 14:18 このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。
神様にも喜ばれ、人々にも認められる。周りの人々が、信仰と敬意を持って愛してくださることは、求めて得られるものではありません。しかし、これは非常に大切なことですね。
ダビデは、神様に忠実に歩むことによって、神と人とに愛される人となりました。これは、有名な外国の神学大学を出ている先生とか、地位のある先生だからといって尊敬されているのとは違います。神の御霊が、その人の心に留まっていることのゆえに、分別のあるまわりの人が、愛してやまないようになる人のことです。
高い地位の指導者になることではありません。立派な聖徒だ、と言われている人が、実際は、自分の知恵と知識に凝り固まっている人であったりして、人間の指導者についていくと失望させられたりすることがあります。それは、人間の指導者についていった自分が間違っているんですね。とかく、そういう指導者を批判しがちですけれども、そういう人についていった自分に責任がある。そういうことに気づかなければならないと思います。とにかく、人に従ってついていくと必ず失望させられる、ということを、心に留めておいていただきたい。
しかし、「神と人とに愛されている人」には、いつも神様がともにいてくださり、同行してくださるので霊的な祝福があります。ですから、この人が導いている間は、神の恵みが絶えることがありません。
それでは、「神と人とに愛される」ためには何が必要なんでしょうか。それはすでに、ダビデが神に選ばれるところでお話ししました。もう一度お話ししましょう。
⓵ へりくだっていること。
② 毎日の、羊飼いの仕事に信仰を活用していること。獅子や熊と戦っていたこと。
信仰を毎日の生活で活用してください、と毎週お話ししていることですけれども、それがいかに大事なことか。毎日使えば上手になり、熟練してまいります。たまに使うと、手を切ったりするだけです。
③ ダビデは、兄弟と争わなかったこと。高慢とか、いろいろ批判された時も、争わなかった。
私たちも、家族や周りの人と争わないことです。いろいろと屈辱を味わうかもしれませんけど、それでも争わないことです。
④ 普段使っている石投げの、熟達した技術を持っていたこと。
毎日使っているものは、熟達してまいります。私たちは、聖書のことばをたくさんは知らないかもしれませんけれども、知っている聖書のことばをたくさん使うことによって、心に神様の恵みや平安を受け入れる熟達した信仰の技術を持つことができます。
⑤ 巨人ゴリヤテと戦うような困難にも恐れずに、神様の御名を用いたこと。
私たちも毎日、祈りの時にイエス様のお名前を使わせていただいておりますけれども、もっともっと信頼して、しばしばイエス様のお名前に、より頼むようにしたいものであります。
一言で言えば、主が喜ばれる信仰を持って毎日羊飼いの仕事をした、その信仰の実質が、自分の人格の性質の中で、生活や仕事や、さまざまな行いの内に現れてくるようになる時、神様は私たちを愛して用いるようになります。
第二テモテの2章20~21節を読んでみましょう。
Ⅱテモテ 2:20 大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。
2:21 ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。
よくよく読んでいただきたいと思います。学校で優秀な成績を取ってきたから、尊いことに使われる器になる、とは書いてありません。聖められたものが、主人にとって有益な、あらゆる良いわざに間に合うものになる、と言われています。
第二ペテロ1:5~8も読んでみましょう。私たちが、どうすれば神様に愛される器になることができるか、が書かれています。
Ⅱペテロ 1:5 こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、
1:6 知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、
1:7 敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。
1:8 これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。
私たちが、イエス様の役に立たない者とか、実を結ばない者になることはない、と書かれています。
時々、「自分を愛してくれる人は、誰もいない」という人がいますけれども、その人を慰めるために、「神様は愛してくださいますよ」と言うことがありますが、ここでは、そういう「愛」を扱っているのではありません。
神に愛される信仰を働かせている人、先ほどもお話しましたけれども、毎日の生活の中で、どんなことにも信仰を働かせている人、心が下にうつ向きそうになった時、イエス様のみことばを仰いで、天を仰ぎ、平安が与えられることを経験する人、そういう人は、神様と人とに愛されるようになります。
自分の信仰を働かせないで、理屈だけを言って神様の臨在を求めても、神の愛を受けることはできません。心を尽くして神様と隣り人を愛する人は、必ず、神と人から愛される人になります。
ダビデはヨナタンに愛されました。ヨナタンはサウル王の息子であり、次の王様になる人でした。それなのに、ヨナタンはダビデに会った瞬間から、神様が次の王様に選ばれたのは、自分ではなく、このダビデである、と悟っています。
サウル王の王子、このヨナタンにとって、英雄視されているダビデは敵対者のはずですけれども、霊的に優れたヨナタンは神のみこころを悟り、自分ではなくて、ダビデを愛したのです。
この時のヨナタンの愛の質について、旧約聖書ながら、人情的なフィレオではなくて、神から与えられた愛であることを、強調しています。
第一サムエル記18:1では、「ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した。」と書かれており、
同じく18:3で「ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛したので、ダビデと契約を結んだ。」と記され、
20:17でも「ヨナタンは、もう一度ダビデに誓った。ヨナタンは自分を愛するほどに、ダビデを愛していたからである。」と、ヨナタンのダビデに対する愛が書かれています。
ヨナタンの死に対して、ダビデが歌った哀歌は、ヨナタンの愛の本質を表しているでしょう。第二サムエル記の1章26節を読んでみましょう。ここに、ヨナタンが死んだ時に、ダビデが歌った哀歌があります。ヨナタンの愛の本質を表しております。
Ⅱサム 1:26 あなたのために私は悲しむ。私の兄弟ヨナタンよ。あなたは私を大いに喜ばせ、あなたの私への愛は、女の愛にもまさって、すばらしかった。
この言葉は、ヨナタンの愛が、神様から出ている愛だということを表しています。ダビデも、そのことが分かる人だったんです。
ちょっと第一サムエル記の18章4節も見てみたいと思います。ここで、ヨナタンがダビデに渡しているものがあります。
Ⅰサム18:4 ヨナタンは、着ていた上着を脱いで、それをダビデに与え、自分のよろいかぶと、さらに剣、弓、帯までも彼に与えた。
上着を与えることは、預言者エリヤの上着を弟子のエリシャが受け継いだように、ヨナタンが王位の相続権をダビデに渡したことを意味します。上着を与えるとは、そういう意味があります。
また、そのほかの武具を与えたことは、完全な献身を表しています。いやいや仕方なく、苦しんで、自己否定や自己犠牲をするのとは違った、あふれる愛による献身の姿ですね。これが神様に喜ばれる全き献身であります。
ダビデはこれから長い期間、サウルの嫉妬深い、命を狙われる追跡を受け、非常に苦しい、悩み続ける逃亡生活に入るわけです。
人間の人生の中には、悩み続ける期間がしばらく続く時があります。その直前に、心強い信仰の友を持ったことは、大事なことであります。悩みの日に、本当に自分のことを分かってくれ、助けてくれ、祈ってくれる信仰の友を持つことは、とても重要です。
もし、ヨナタンの愛を受けていなければ、ダビデは我慢しきれなくなって、自分の手か、あるいは部下の手を使って、サウル王を殺していたでしょう。そうすれば、問題が片付いたわけではなくて、サウル王出身のベニヤミン族から恨まれて反乱が起き、穏やかで平和なダビデ王国のスタートはできなかったでしょう。
もし、ヨナタンがもう少し長生きしてくれて、ダビデの「助け手」の友としていてくれたら、ダビデはもっと罪を犯さずに済んだでしょう。
新約聖書を二箇所読んでみたいと思います。
ヨハネの福音書15章14節 これは大切なことばであります。
ヨハネ 15:14 わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。
イエス様が、「あなたがたはわたしの友です。」と仰っているんですね。
ルカの福音書12章4節も読んでみましょう。
ルカ12:4 そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。
「わたしの友であるあなたがた」、これはただの信仰の仲間ではなくて、主イエス様を自分の友とすることの大切さです。
もし、私たちが、イエス様を毎日、自分の友としてみことばを受け、力と助けを受けていれば、ダビデのような様々な困難に出会っても、助けられるでしょう。人間を友にする時は、よくよくきよめの信仰を確かめて、期待しすぎないようにしたいものです。人に頼れば、必ず、失望させられることになるからです。
ところが、第一サムエル記の18章12節を見ると、サウル王はダビデを恐れています。
Ⅰサム 18:12 サウルはダビデを恐れた。【主】はダビデとともにおられ、サウルのところから去られたからである。
第一サムエル記の18章28節でもこう書いてあります。
Ⅰサム 18:28 こうして、サウルは、【主】がダビデとともにおられ、サウルの娘ミカルがダビデを愛していることを見、また、知った。
これらのみことばを読むと、神様が、不忠実なサウルから離れて、ダビデとともにおられるようになっていることが分かります。
サウル自身も、そのことが分かっていたようであります。神様がおられなくなったサウルは、ますます不安な状態に陥っています。不信仰、不忠実、自分の知恵に頼ることを続けていると、神様は離れていってしまうことが分かります。主がダビデとともにおられたこと、これがダビデの生涯を支えた主の愛に他なりません。
詩篇16篇8節~11節を読んでみたいと思います。この場所は、よく読まれる箇所ですけれども。これがダビデの信仰の神髄だと言ってもよいでしょう。
詩16:8 私はいつも、私の前に【主】を置いた。【主】が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
16:9 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。
16:10 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。
16:11 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。
物に満ち溢れた生活をしていながら、毎日の心は楽しくない、という生活を送られている方はたくさんいると思いますけれども、ダビデは「私はいつも、私の前に【主】を置いた。だから、ゆるぐことがなく、こころに喜びが、たましいに楽しみがある、体も安らかに住まおう。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」と言っています。
ダビデはこれから、長い苦難の生活に入っていくわけですけれども、彼を支え続けたのは、これらの愛であります。
これに対して、神から離れて神の愛を失ったサウルは、神の保護も憐みも、恵みも、主がともにいてくださることも失い、神がサウルのたましいから去ってしまわれ、生きる希望も目的も見失ってしまったのです。
私たちに必要なのは、自己中心の自己愛ではなくて、聖霊によって、心に神の愛アガペーが注がれていなくてはなりません。神の愛を持てば、互いに愛し合うことができるようになります。
サウルも神の愛を持てば、ダビデを愛することができたはずです。神様がサウルを離れてしまったことが、最大の問題点であります。どのような手筈をととのえても、サウルは回復することができません。
ところで、ダビデが神と人とに愛されるようになっても、すべてがうまくいったわけではありません。評判になったり、人気が出てくる人には、必ず、羨む人や妬む人、迫害する人、が周囲に現れてくるからです。
サウル王にとって、ダビデは、イスラエルをペリシテの巨人のゴリヤテから救ってくれた恩人ともいえる人です。ですから、最初はサウルもダビデを気に入って、イスラエルの戦士の長、最高司令官にしました。しかし、ダビデがペリシテ人を打って帰ってくると、イスラエルの女たちは、タンバリンや三弦の琴を持ってよろこび歌い、踊りながら迎えに出たのです。女たちは、「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」と繰り返し歌いました。こうして、ダビデの人気は急上昇し、サウル王の人気を越してしまいました。
自分中心のサウル王は、突然怒り出して、ダビデを疑いの目で見るようになりました。第一サムエル記の18章8,9節を見ると
Ⅰサム18:8 サウルは、このことばを聞いて、非常に怒り、不満に思って言った。「ダビデには万を当て、私には千を当てた。彼にないのは王位だけだ。」
18:9 その日以来、サウルはダビデを疑いの目で見るようになった。
と書かれています。
主の霊が離れてしまうと、心からの感謝や、喜びや平安が失われてしまい、その代わりに、妬み、怒り、不満、根拠なき疑いが、サタンによって吹き込まれてしまいます。そういうものに、苦しめられるようになったわけですね。
ですから、私たちも、いつまでも自分の知恵や考えを主張していないで、一刻も早くイエス様に信頼することをお勧めします。いろいろな理屈を持ち出して、議論するのはやめましょう。人の議論は、サタンに隙を与えるだけです。人の助けを求めても、十分に助けることができる人など、どこにもいません。
サウルは、ダビデがサウルの王位を狙っていると疑うようになりました。
「疑い」は、悪い霊の侵入を許してしまいます。「疑い」は、悪魔に私たちの心を開くようなものです。神の聖霊が去ってしまっているので、悪い霊を止めるものがなくなってしまっているんです。
神の霊が私たちの心にある時だけ、悪の霊を止めることができます。
マルコの福音書11章23節の中ほどに、「心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」と書いてあります。
ヤコブの手紙1章6節~7節も読んでみましょう。
ヤコブ 1:6 ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。
1:7 そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。
イエス様のみことばを疑うことは、サタンを受け入れることですから、決して疑ってはなりません。
サウルの心の中の疑いは、ダビデを殺す殺意に変わっています。最初は自分の知恵に頼ることによって、聖霊が神の愛アガペーを注いでくれなくなります。
それは、自分の内に恵みを失っただけに終わらないのです。心の中に自分の知恵に頼ろうとしたり、自分の考えを優先しようとする思いがあると、必ず、家族や隣り人に冷淡になっていきます。
信仰が崩れてくると、すべての状態が悪い方向へ悪化していくのが分かります。サウルは神の聖霊が去ると、心の状態が急速に破滅に転がって行きました。
サウルはサムエルに、見かけ上の助けを求めましたが、神様が見離していると、誰も助けることができません。預言者サムエルも、サウルを助けることができませんでした。
自分勝手な生活をやめないで、助けの祈りだけを求める人がいますけれど、大事なことは、早く主に忠実な生活に戻らないと、誰も助けられなくなります。
ダビデは、サウルの執拗な嫉妬の追跡を受けて、何度も危険な目に合いましたが、ダビデが滅びなかったのは、神様がダビデを守ってくださったからであります。神が愛されている人に害を加えると、自分を破滅させてしまいます。
ヨシュア記1章5節をお読みしましょう。
ヨシ1:5 あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。
神様は私といっしょにいてくださって、決して私を見捨てたり見離したりしない、と言ってくださる神様を、本当に心から信じて、毎日従わせていただきたいと思います。
ローマ8章31節では、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」と言っています。
神が私の味方になってくださるには、どうしたらいいでしょうか。
それは、私が神の味方になれば、簡単にできることであります。私が、神の側につくことであります。
ところがサウルは、第一サムエル記18書15節で、「ダビデが大勝利を収めるのを見て、サウルは彼を恐れた。」とあります。
もし、サウルに信仰があるなら、大いに喜ぶはずなのに、自分の家来が大勝利を収めているのに、それを恐れたわけです。ダビデによる大勝利を恐れたのです。自分中心の勝手な思い込みは、妬みや、嫉妬や、疑いが、恐怖に変わってしまいます。
私たちは、神様から愛されたり、人からも愛されると、妬まれたり、疑われたり、憎まれたり、敵意を持たれたり、恐れられたりすることがあります。クリスチャンが迫害されるのは、たいていそういう場合です。
ヨセフはお父さんのヤコブに愛されたことによって、兄たちに妬まれ、憎まれ、エジプトに奴隷に売られました。
父なる神様に愛されたイエス様も、人から妬まれ、憎まれました。
私たちも、神との愛の交わりの中にあるのに、苦難が続くことがありますが、不安に思ってはなりません。神と人とに愛されることは、多くの代価を払うことを意味するからです。私たちは、神の愛だけを受けることはできません。それとともに人から妬まれたり、憎まれたりすることが、ついてくるんです。
ピリピ1章29節を読んでみたいと思います。
ピリピ 1:29 あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。
私たちはキリストを信じる信仰で、愛と平安をいただいておりますけれども、それを見て妬まれたりすることがある、ということですね。
ピリピ4章14節も、読んでみたいと思います。
ピリ 4:14 それにしても、あなたがたは、よく私と困難を分け合ってくれました。
この時、この手紙を書いた獄中のパウロは、苦難をともに分け合った、と言いました。苦しみを分け合うことはいい事ですね。ローマ5章8節にもこう書いてあります。
ローマ 5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
イエス・キリストの十字架は、神の愛の自己犠牲だ、と言っています。しかし、パウロは、ガラテヤ5章6節の後半で、「愛によって働く信仰だけが大事なのです。」と言いました。
神の愛によって現わされた十字架は、自己犠牲、自己否定ですけれども、 それは神様に喜ばれる信仰の行いだ、ということであります。「信仰、信仰」と言っても、自分の欲ではなく愛によって働く信仰だけが大事だということです。
ですから、私たちはいつも心の中に、イエス様の「十字架」を仰いで、神の愛による信仰を働かせたいと思います。心に神の愛があれば、私たちは何をしても、祝福を受けることができます。
最後に、ダビデが危険な敵意の中で、次々と勝利を収めていったことをお話ししたいと思います。
ダビデが勝利を収めていったのは、ダビデが戦い方が上手だったからではありません。また、彼が、アヒトフェルのような優れた戦略家であったからでもありません。彼の強さは、詩篇16篇8節にあります。
詩16:8 私はいつも、私の前に【主】を置いた。【主】が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
この信仰の活用が、ダビデの真の強さを示しています。ダビデの強さは、主がいつもダビデの前に進んでおられることです。その体験が明確だったからです。旧約聖書のエノクも、ノアも、ヨブも、アブラハムも、ヤコブも、ヨセフも、モーセも、新約聖書のあらゆる聖徒も、その勝利と恵みの秘訣は、「主がともにいてくださること」は、明らかであります。
この勝利の秘訣は、今も同じです。ダビデはそれを、「私はいつも、私の前に主を置いた」と言いました。
私たちもそのことをさせていただきたいんです。毎日の生活の中で、いろいろな問題にぶつかると思います。気分がすぐれないこともあるかもしれません。その時にどうするのか。
「私はいつも、私の前に主を置いた。」
詩篇1篇2,3節を読んでみたいと思います。いつも私の前に主を置くとは、どうすることなのかが分かります。
詩 1:2 まことに、その人は【主】のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
1:3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。
これは証しですね。ですから私たちは、「主のおしえを昼も夜も口ずさむ。」
たくさんの聖書の言葉を覚えることは、できないかもしれませんが、いくつかの聖書のことばを口ずさむことはできるでしょう。そうすることによって、水路のそばに植わった木のように実がなり、何をしても栄える、と言っています。
どちらもしっかりと信仰に根ざして、日ごとに活用していることを表しています。恵みを経験している信仰者たちは、みな、この道を忍耐強く、後ろのものを忘れ、ひたすら前のものに向かって進み、一心に歩み続けている人たちです。
このことを、私はいつもお話しし続けていますけれども、主もまた、一人ひとりとともに歩んでくださいます。主の同行を妨げるものは、サウルのように自分の肉の欲を主張する性質と態度です。それが聖められて、みことばを信じて活用するなら、誰でも神様の同行を体験できます。
自分中心の性質が聖められた後の勝利が、どのようなものであるかは、ダビデが示しています。第一サムエル記の18章14節を読んでみましょう。
Ⅰサム 18:14 ダビデはその行く所、どこででも勝利を収めた。【主】が彼とともにおられた。
この勝利の秘訣は、もうお分かりの通り、「主が彼とともにおられた」からです。ヨシュア記1章8,9節でも同じことが書かれています。
9節の終わりのところに、「あなたの神、【主】が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」と言われています。この約束は、先ほどの、詩篇1篇2,3節と全く同じです。
箴言3章6節も読んでみましょう。これも有名なことばです。
箴3:6 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
毎日の生活において、どこにおいても、そこにイエス様がいてくださることを見つけなさい、と言っています。これは、みことばと信仰を活用することですね。非常に重要なみことばです。主の恵みと勝利は、そんなに遠いところにあるのではなくて、受けるのが難しいのでもなくて、これらのみことばを行うことの中にあるんです。
私たちが、なかなか見つからないのは、聖書のことばを活用していないからです。活用しないで、ただ見回しているだけだからです。自分の思い通りのことをしようとして、自分の知恵に従って生活しようとすると、神の栄光を現わすことはできません。
詩篇1篇3節では、「その人は、何をしても栄える」、すなわち、「何をしても神の栄光を現わす」と言っています。これらのことを悟らせていただきましょう。
第一サムエル記18章15節で、「ダビデが大勝利を収めるのを見て、サウルは彼を恐れた。」と書かれています。ダビデの勝利は、通常の勝利ではなくて、偉大に思えるほどの勝利だったからです。普通の勝利ではない。そのことで、サウルは余計にダビデを恐れたのです。
第一サムエル記18章30節では、「ペリシテ人の首長たちが出て来るときは、そのたびごとに、ダビデはサウルの家来たちのすべてにまさる戦果をあげた。それで彼の名は非常に尊ばれた。」と書かれています。
ダビデは、わずかの部下しか持っていなかったのですけれども、主がともに戦ってくださっていたので、サウル王が率いる大軍にまさる勝利を挙げたのです。
私も奉仕をさせていただく時、いつもマルコ6章20節を信じています。
マルコ 16:20 そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。
主が彼らとともに働く、主が、私と一緒に、あなたと一緒に、働いてくださる。そして、みことばを確かなものとされた。みことばを信じていなければ、確かなものにすることはできません。ですから、何となくではなく、聖書のことばをしっかり握って、掴んで、活用していただきたいと思います。主がともに働いて下さる祝福は、はかり知れないものがあります。
そのことを通して、私が確かなものとすべきことは何でしょうか。
それは、
・主とともにいること
・主のみことばを活用していること
・主とともに働いていること
です。
最後に、ダビデとサウルの違いをお話しておきましょう。
ダビデは、いつも主をわが前に置いていたこと、です。
サウルは、自分の知恵に従って、主から離れてしまったことです。
この違いが、永遠の祝福と滅亡、の違いになってしまったのです。
今日は三つのことをお話ししました。最後に、そのことをまとめてお話して、終わりたいと思います。
第一、 神と人とに愛されることです。
そのためには、みことばと聖霊によって、最初の救いときよめを明確にしましょう。なんとなくクリスチャンになった思いになるのではなくて、はっきりと、イエス様の十字架を仰いで、救いときよめを明確にすることです。入り口がはっきりしないと、その後の生涯もはっきりしないものになってしまいます。イエス様は、「わたしが門です。」と仰いました。イエス様の十字架からお入りいただきたいと思います。
第二、神様の愛を受けると、サタンの妬みと嫉妬や苦難を受けることです。
その時、「愛によって働く信仰だけが大事なのです」とガラテヤ5:6で言われました。
愛による自己否定、愛による自己犠牲でなければ益になりません。自分が我慢することではありません。我慢は恵みに変わらないので、やめていただきたいと思います。信仰は我慢することではありません。克己勉励することでもありません。これらは恵みに変わりませんから、やめてください。
第三、毎日、主とともに働き、奉仕すること、主とともに歩むことです。
イエス様とくびきをともにして生活をすること、そうすればその生活は、驚くべき神の栄光を現わします。神の栄光を現わすことは、私たちの心に喜びが満たされます。
この三つのことを活用していただきたいと思います。
恵みや勝利や祝福は、偶然には起きません。信仰が神様に受け入れられた時だけ与えられるものだということを、心にとめてください。ダビデが毎日「主を前に置いた生活」をしたように、私もまた、毎日イエス様を私の前にいつも置いて、イエス様にお尋ねしながら、生活をさせていただきたいと思います。
そして、お一人ひとりが、ご自分のイエス様を発見していただきたいと思います。
お祈り
恵みの深い天のお父様、いつも主がともに働いて下さり、私の前に主がともにいて、導いてくださることを感謝いたします。
この信仰をダビデも実践しましたし、他の聖徒たちもみな実践しました。
主がともにいてくださり、みことばを確かなものにしてくださることを感謝いたします。
お一人ひとりが、今週、その生活の場でこのことを体験なさって、行くところどこにおいても主を認めて、イエス様がともにいてくださる体験をして、そのことによる喜びを深めていただけるよう、顧みてください。
尊いキリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン。
地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明
<今週の活用聖句>
ガラテヤ人への手紙5章6節
「キリスト・イエスにあっては、…愛によって働く信仰だけが大事なのです。」
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