聖書の探求(295) サムエル記第一 18章1~9節 ダビデとヨナタンの愛、女たちの歌とサウル王の嫉妬

アメリカのAdolf Hult(1869-1943)により、1919年に出版された教会学校用の聖書入門書旧約編の挿絵「Jonathan loves David(ヨナタンはダビデを愛する)」( Wikimedia Commonsより)


18~20章は、ダビデとヨナタンの間の偉大な親密な関係が描かれています。これは男女の愛をはるかに越えており、親友という友情をもはるかに越えています。この二人の親密な関係は、契約によって結ばれており、命がけの献身と、主による信仰と、そして長く継続した愛の関係です。

【ダビデとヨナタン】

ヨナタンもイエス・キリストを予表する型です。彼は私たちの友となってくださったイエス様の愛を示しています。

「滅びに至らせる友人たちもあれば、兄弟よりも親密な者もいる。」(箴言18:24)

「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。」(箴言17:17)

「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」(ヨハネ15:13~15)

ヨナタンは王子でありながら、青年の羊飼いダビデを友と呼ぶことを恥じなかったのです。主イエス様も罪深い私たちを兄弟と呼ぶことを恥とされません。

「聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。」(ヘブル2:11)

「ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した。」(サムエル記第一18:1)

「世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」(ヨハネ13:1)

ヨナタンはダビデと永久の契約を結びました。

「ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛したので、ダビデと契約を結んだ。ヨナタンは、着ていた上着を脱いで、それをダビデに与え、自分のよろいかぶと、さらに剣、弓、帯までも彼に与えた。」(サムエル記第一18:3,4)

「あなたの恵みをとこしえに私の家から断たないでください。主がダビデの敵を地の面からひとり残らず断ち滅ぼすときも。こうしてヨナタンはダビデの家と契約を結んだ。『主がダビデの敵に血の責めを問われるように。』ヨナタンは、もう一度ダビデに誓った。ヨナタンは自分を愛するほどに、ダビデを愛していたからである。」(サムエル記第一20:15~17)

「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」(マタイ22:37~40)

ヨナタンが自分の王子としての上着と、剣や武具をダビデに与えたのは、次に王となる特権がダビデに与えられていることを表わしたのです。ヨナタンは、世襲として王になることを拒み、神が王として油そそがれたダビデこそ王になるべきことを示したのです。これはヨナタンの信仰と謙遜がいかにすばらしいものであったかを表わしています。

主イエス様も、ご自身の栄光を脱ぎ、ご自身の義の衣を私たちに着せ、また戦いのために私たちを強め、さらに神の武具を与えて武装させて下さったのです。

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」(ピリピ2:6~8)

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。」(エペソ6:11)

「サウルの子ヨナタンは、ホレシュのダビデのところに来て、神の御名によってダビデを力づけた。」(サムエル記第一23:16)とありますが、主は私たち信仰者に、「わたしの恵みは、あなたに十分である。わたしの力は、弱さの中に完全に現われるからである。」(コリント第二12:9)と約束して下さっています。

ヨナタンは自分の命をかけて、父のサウル王をダビデに和らがせようとしましたが(サムエル記第一20:32,33)、イエス・キリストは、父なる神を私たちに和らがしめる必要はありません。しかし私たちを父なる神との和解の信仰に導く必要があったのです。それだけでなく、私たちが父なる神と和解した後、イエス・キリストご自身と一緒に栄光の御座に着かせるために、神の御子であられるイエス様が十字架にかかって、命を捨てて下さったのです。

「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」(ローマ5:1)

「もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」(ローマ5:10~11)

「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」(ローマ8:17)

18章は、ダビデの躍進を記していますが、その中には、ダビデに集まる愛と、それに対するサウルの激しい嫉妬が描かれています。

18章の分解

1~5節、ダビデとヨナタンの愛
6~9節、女たちの歌とサウル王の嫉妬
10~16節、ダビデを恐れるサウル
17~25節、ダビデ殺害の策略
26~29節、策略を越えたミカルとの結婚
30節、ダビデの功績と名誉

1~5節、ダビデとヨナタンの愛

ダビデとヨナタンの愛は、人間の間で結ばれた最も偉大な愛の友情ということができるでしょう。しかもそれがダビデにとっては、自分の命を狙っている敵の息子との愛の友情であり、ヨナタンにとっては自分が継ぐはずである王座に着くことが神によって決められている者との間の愛の友情なのです。このような関係は、少しでも自己中心の欲や思いがあり、打算が混じっている心の持ち主の間では決して起きないものです。
彼ら二人は全く恐れを知らない勇敢な若者であり、全く利己心のない稀に見る心の持ち主です。

1節、ヨナタンは、ダビデがサウル王に報告している、その話を聞いていて、主がダビデを用いておられることを悟り、次の王にダビデを主が選んでおられることを悟ったのです。

Ⅰサム 18:1 ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した。

そしてヨナタンの心に神の愛が注がれ(ローマ5:5)、ヨナタンの心はダビデの心に深く、強く結びついたのです。この二人の愛の心は、どんな事情が生じても、決して切れることのないものとなったのです。

「愛は決して絶えることがありません。」(コリント第一13:8)

「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているものは愛です。」(コリント第一13:13)

神の愛による関係は決して崩れることも、変わることもありません。しかしアガペでない、フィレオの愛は、ペテロが「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」(マタイ26:35)という堅い決心を守れなかったように、必ず崩れていくのです。事情が変わると、態度を変える人の愛は、神の愛ではありません。イエス様の愛はイスカリオテのユダが裏切っても、イエス様のユダに対する態度が変わらなかったのです。ユダが裏切りの口づけをした時も、主はユダに「友よ。何のために来たのですか。」(マタイ26:49,50)と言って、ユダを「友よ。」と呼んでくださり、彼にもう一度、信仰に立ち戻る機会を与えてくださっています。

2節、しかし、サウルはダビデを愛したからではなく、ダビデの強さにひかれて、自分の家来の内の勇士の一人に召し抱えたのです。

Ⅰサム 18:2 サウルはその日、ダビデを召しかかえ、父の家に帰らせなかった。

このことがすぐに、サウルの嫉妬心をかき立てるわざわいへと繋がっていったのです。ダビデの強さが示されれば示されるほど、今度は、サウル自身が自分の王座をダビデが狙うのではないかと恐れ、心から不安が去らなくなってしまったのです。自分の欲でかかえ込むと、その欲が自分を滅ぼすようになります。愛から出ていないものはすべて、滅びに陥る罪なのです。

3節、ヨナタンのダビデに対する愛は、サウルと全く異なります。親子であっても、信仰の本質が全く異なっています。

Ⅰサム 18:3 ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛したので、ダビデと契約を結んだ。

親が真実なクリスチャンだから、子どもも真実なクリスチャンであるという保証にはなりません。逆に、親が駄目でも、子どもが忠誠を尽くす神の人となることもあります。霊魂の信仰は、血筋によってでもなく、肉の欲求や人の意欲によってでもないことが明らかです。(ヨハネ1:13)

サムエル記の記者は、ダビデに対するヨナタンの愛が「自分と同じほどにダビデを愛した。」(1,3節)と、繰り返して記しています。これはヨナタンの愛が神から出たものであることを強調しています。

「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。」(レビ記19:18)

3節の「契約を結んだ。」の「契約」は、ヘブル語の「ベリテ」で、それは、それまで全く関わりのなかった二人の間に、自発的に義務を守ることが伴う同意が交わされたことを意味しています。これは、神が神の民と結ばれた神の契約と同じ語です。
4節、「上着(ヘブル語のメイル)」をダビデに与えたことは、次の王位がダビデに与えられていることを示しています。

Ⅰサム 18:4 ヨナタンは、着ていた上着を脱いで、それをダビデに与え、自分のよろいかぶと、さらに剣、弓、帯までも彼に与えた。

ヤコブはヨセフに、そでつきの長服を与えています(創世記37:3)。

エジプトの王パロはヨセフに、自分の指輪と亜麻布の衣服と、金の首飾りを与えています(創世記41:42)。

エリシャはエリヤの身から落ちた外套を受け取っています(列王記第二2:13,14)。

モルデカイは王服を着せられています(エステル記6:10,11)。

主は私たちに、新しい人を着せてくださるのです。
「またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」(エペソ4:23,24)

「あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」(コロサイ3:10)

ヨナタンが自分の上着ばかりでなく、剣も弓も、すべての武具をダビデに与えたことは、ダビデへの愛と尊敬だけでなく、ヨナタン自身、王子としての王となる権利を放棄し、主から油注がれているダビデこそ王となるべき器であることを、公に示したのです。

5節、ダビデはサウルの命令に忠実に従い、サウルの遣わす所へはどこにでも出て行って、勝利を収めています。

Ⅰサム 18:5 ダビデは、どこでもサウルが遣わす所に出て行って、勝利を収めたので、サウルは彼を戦士たちの長とした。このことは、すべての民にも、サウルの家来たちにも喜ばれた。

ダビデは事実上、サウルの軍隊の全権を行使する指揮官となっています。こうしてダビデの勇気と思慮深さとは、宮廷の官僚から軍人、そして一般民衆や女たちの間にまで知れ渡って有名になり、喜ばれるようになったのです。これが後に、サウルのダビデに対する嫉妬と殺意へと変わっていくのです。人が人気になり、評判になり、その強さを表わしてくると、必ず、嫉妬する者、敵対する者が表われてくるのです。ダビデの場合、それが自分を召抱えてくれた王であり、自分の妻ミカルの父であり、最も愛していた友人ヨナタンの父であったことが、悲劇中の悲劇となったのです。

6~9節、女たちの歌とサウル王の嫉妬

ダビデがゴリヤテを倒した直後は、まだサウルはダビデに敵意を抱いていませんでした。むしろ、イスラエルを救出してくれたことに感謝していたでしょう。しかし残念ながら、ヨナタンのような信仰深い霊性がなく、その勝利も主が与えてくださったものであり、主がダビデを次の王に選んでおられると悟ることができなかったのです。ですから、後にダビデが次々と勝利を重ね、女たちまでがサウルよりもダビデをほめ歌うようになった時、サウルは一般民衆がサウルよりもダビデを喜び、愛していることを知るようになったのです。それはサウルの喜びとならず、嫉妬となり、殺意へと変わっていったのです。この嫉妬によってサウルは果てしない苦悩に陥り、そこから抜け出せなくなり、今で言う絶望的なウツ状態に陥ったのです。こうして彼の嫉妬が彼を自己破滅させてしまったのです。

6節、ダビデがゴリヤテを倒して後、数々の戦いがあったことを示しています。

Ⅰサム 18:6 ダビデがあのペリシテ人を打って帰って来たとき、みなが戻ったが、女たちはイスラエルのすべての町々から出て来て、タンバリン、喜びの歌、三弦の琴をもって、歌い、喜び踊りながら、サウル王を迎えた。

そしてサウル王とイスラエルの兵士たちは町々から出て来た女たちによって、歌と踊りで迎えられたのです。旧約聖書では、タンバリンは、喜びを表わす時に用いられています(出エジプト記15:20,21、士師記11:34、詩篇68:25、同149:3)。おそらくヘブル語のシャロシュという音楽を演奏しながら、歌い、踊って迎えたものと思われます。

7節、「くり返してこう歌った。」は「代わる代わる呼応して歌った。」という意味です。

Ⅰサム 18:7 女たちは、笑いながら、くり返してこう歌った。「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」

すなわち、第一のグループが「サウルは千を打ち、」と歌うと、そのすぐ後に第二のグループが「ダビデは万を打った。」と続けたのです。

8節、「サウルは、このことばを聞いて、非常に怒り、不満に思って言った。

Ⅰサム 18:8 サウルは、このことばを聞いて、非常に怒り、不満に思って言った。「ダビデには万を当て、私には千を当てた。彼にないのは王位だけだ。」

『ダビデに万を当て、私には千を当てた。彼にないのは王位だけだ。』」サウルは、自分が衰えて行くように評価され、若いダビデがこれから名声を勝ち取っていくと思って怒ったのです。自分中心で、他人の評価を気にしている人は、いつも同じような怒りと嫉妬心に苦しめられるのです。

「彼にないのは王位だけだ。」と言ったのは、実際上、民の心はサウルからダビデに移っており、実力はダビデにあると、サウルが思ったことを表わしています。

9節、「疑いの目で見るようになった。」は、「ねたみをもって見るようになった。」ことです。

Ⅰサム 18:9 その日以来、サウルはダビデを疑いの目で見るようになった。

一度、ねたみや疑いの心が入ってしまうと、それを消すことは人の努力ではできません。主が真理の御霊によって目を醒ましてくださるまで、取り除くことができません。しかしそのねたみや疑いの心は、サタンから出ているのです。

あとがき

最近、初めて聞いた言葉に、「事故米」というのがあります。一見、それは良質な米と全く同じに見えますが、有毒な農薬やカビなどが含まれています。それが赤飯や給食やアラレなどにして食べられていたというのですから、恐ろしい。こういう事故米を政府が民間の業者に売り渡していたのですから、恐ろしい。
ところで私たちが毎日、いのちの糧として食べている真理のみことばには、有毒な農薬やカビのようなものが侵入していないでしょうか。神のことばとして語られていても、その中に、人間の知恵や欲や、勝手な正義感や道徳観が混入していて、一所懸命守ろうとするのだけれど、愛も平安も経験できないでいることはないでしょうか。人の知恵や考えほど恐ろしく害を与えるものはありません。

(まなべあきら 2008.10.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)


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