聖書の探求(294) サムエル記第一 17章31~58節 ダビデの戦いの準備、ゴリヤテとの対決と勝利

ベロッキオ作のダビデ像。イタリアのフィレンツェ市からエルサレム市に寄贈されたもののコピー。(イスラエルの「ダビデの塔エルサレムの歴史博物館」にて)


31~40節、ダビデの戦いの準備

Ⅰサム17:26 ダビデは、そばに立っている人たちに、こう言った。「このペリシテ人を打って、イスラエルのそしりをすすぐ者には、どうされるのですか。この割礼を受けていないペリシテ人は何者ですか。生ける神の陣をなぶるとは。」

31節、ダビデのこの勇気ある言葉は、すぐにサウルに知らされています。

Ⅰサム 17:31 ダビデが言ったことを人々が聞いて、それをサウルに知らせたので、サウルはダビデを呼び寄せた。

こんな羊飼いの少年の話までサウル王の耳に入れたということは、イスラエルが本当に窮地に陥っていたことを示しています。「わらをもつかむ」状態になっていたのです。

32節、ダビデは勇気ある言葉をもってサウルに答えました。

Ⅰサム 17:32 ダビデはサウルに言った。「あの男のために、だれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」

33節、サウルはダビデを見た時、まだほんの男の子の少年であったので、巨人ゴリヤテと戦うことはできないと反対しました。

Ⅰサム 17:33 サウルはダビデに言った。「あなたは、あのペリシテ人のところへ行って、あれと戦うことはできない。あなたはまだ若いし、あれは若い時から戦士だったのだから。」

「あなたはまだ若いし、あれは若い時から戦士だったのだから。」これは人の知恵と、人の力量による判断です。

主は若い預言者エレミヤに、次のように言っておられます。
「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。」(エレミヤ書1:7,8)

また、パウロも次のように言っています。
「兄弟たち。あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。」(コリント第一1:26~29)

34~35節、ダビデは、日常生活において自分の管理のもとに任されている羊の群れを守るために、群れの羊を襲って取って行く獅子や熊を打ち殺し、羊を救い出したことを話しています。

Ⅰサム 17:34 ダビデはサウルに言った。「しもべは、父のために羊の群れを飼っています。獅子や、熊が来て、群れの羊を取って行くと、
17:35 私はそのあとを追って出て、それを殺し、その口から羊を救い出します。それが私に襲いかかるときは、そのひげをつかんで打ち殺しています。

彼は「それが私に襲いかかるときは、そのひげをつかんで打ち殺しています。」と言っていますから、ダビデには勇気だけでなく、力もすぐれた技も与えられていたのです。しかし彼は自分の力を誇ることをせず、「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主」と言って、主に栄光を帰しています。

日頃、信仰を活用して、困難と戦い勝利を得る経験をしている人だけが、突然の大きな困難にも、あわてず、信仰の確信を持って対応できるのです。主がダビデを王として選ばれたのは、このような点をも、よく見ておられたことは間違いありません。

ここに記されている獅子は、アフリカのライオンとよく似ていると言われています。サムソンも若い獅子を引き裂いたと記されています(士師記14:6)。旧約聖書中、獅子については130回も記されていますから、旧約時代に獅子はパレスチナに普通にいたと思われます。

熊は、茶色系の一種であったと考えられています。熊の力は獅子よりも強く、予期できない行動をとるので、パレスチナでは獅子よりも恐れられていました。
冬になると、獅子も熊もエサが獲れなくて、家畜や子どもを襲ったりすることがあったのです。

36~37節、ダビデの勝利の確信は、羊飼いとしての働きの時よりもっと確かなものになっていました。

それは彼の強い信仰を土台にしていたからです。

Ⅰサム 17:36 このしもべは、獅子でも、熊でも打ち殺しました。あの割礼を受けていないペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をなぶったのですから。」
17:37 ついで、ダビデは言った。「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった【主】は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」サウルはダビデに言った。「行きなさい。【主】があなたとともにおられるように。」

ゴリヤテは彼の右に出る者がいないほど強い巨人の戦士でしたが、たといそうであっても、彼が「生ける神の陣をなぶった」ことが、彼の致命的敗北の原因となったのです。神の陣を侮辱することは、神ご自身を侮辱することになるのです。ですから、私たちも、みことばを取り次いでいる人や、教会のことを、ののしったり、言うべきでない悪口雑言を決して言ってはいけません。どの指導者も、どの教会も完璧なものは一つもありません。これを侮辱し、激しくののしったり、悪口や陰口を言うなら、それが事実であったとしても、神の陣をなぶる者が敗北するのです。なぶらず、ののしらず、ダビデがサウルに対して取った態度のように、静かに退き、さばきは神の御手にゆだねなさい。そうすれば、あなたは神の恵みを受けることができます。

「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』もし、あなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12:19~21)

神が召された人、神が立てられた人、神に仕えている人、神の教会をなじり、ののしり、批判したり、さばくことを決してしてはいけません。必ず主がその人をさばかれるからです。これは実際に現実に起きて来ますから。ゴリヤテが滅んだのも、この原因によるのです。ダビデは、ゴリヤテが神の陣をなぶったことによって、主が必ずゴリヤテを倒されると確信したのです。

ダビデは獅子や、熊の爪から救い出して下さった、その同じ主が、ゴリヤテの手からも救い出して下さると、その確信を語ったのです。これを聞いたサウルも、心を動かされたのでしょう。「行きなさい。主があなたとともにおられるように。」と、とても信仰のある言葉を言っています。サウル自身、このことを生涯続けていれば、どんなに幸いだったでしょうか。しかし、サウルは神から離れていても、信仰的な言葉を言うことだけはできたのです。実際に信仰がなく、信仰によって試練と戦う力がないのに、信仰的な最高の言葉を使うことは恐ろしいことです。

38~39節、サウルは戦うには、よろい、かぶとを着けることが必要だと思ったのでしょう。

Ⅰサム 17:38 サウルはダビデに自分のよろいかぶとを着させた。頭には青銅のかぶとをかぶらせ、身にはよろいを着けさせた。
17:39 ダビデは、そのよろいの上に、サウルの剣を帯び、思い切って歩いてみた。慣れていなかったからである。それから、ダビデはサウルに言った。「こんなものを着けては、歩くこともできません。慣れていないからです。」ダビデはそれを脱ぎ、

フランスの画家James Tissot (1836–1902)による「Saul puts his armor upon david(サウルは自分のよろいかぶとをダビデに着させる)」(New YorkのJewish Museum蔵)


彼は自分の大きな青銅のかぶとと、よろいを少年ダビデに着けさせています。既成概念は恐ろしいものです。自由な発想をさせずに、こうしなければいけないと、自分で思い込んでいることをさせてしまうのです。もしダビデがサウルのよろいを着けて、ゴリヤテと対決していたなら、ダビデが敗北していたでしょう。常識や既成概念がすべて悪いわけではありませんが、その人物と、時と、場面にふさわしい発想をすることを妨げてはなりません。

パウロは、エペソ人への手紙6章11節で、「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。」と言っています。しかし私たちは、自分自身の信仰で実際に用いることが出来ない、知識や、儀式や、自分の知恵と力をよろい、かぶとにして、この世とサタンとの戦いに出て行くので敗北してしまうのです。

ダビデはサウルのよろいを着て、サウルの剣を帯びて、思い切って歩いてみたとあります。最初から、見ただけでも、ダビデには合っていません。ダビデはすぐにそれを脱いでいます。

40節、ダビデには、信仰の確信と、日頃使って熟練している石投げさえあればよかったのです。

Ⅰサム 17:40 自分の杖を手に取り、川から五つのなめらかな石を選んできて、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にして、あのペリシテ人に近づいた。

大きなことだけに信仰を使おうとして、日常生活での小さいことに信仰を使わない傾向がありますが、これが敗北の原因なのです。

ダビデは日頃使っている杖を取り、谷川から五つのなめらかな石を自分の熟練した目で選んでいます。そのうちの一つでゴリヤテを倒したのです。もし、ゴリヤテを倒した後、四人の巨人が現われて来ても、ダビデには備えができていたのです。

エラの谷の枯れた川底にある石ころ(2013年イスラエルにて)


私たちも日頃から、よく使っているみことばを心に貯えておきたいものです。そして突然の患難が襲って来ても十分に勝つことのできる備えをしておきたいものです。

「石投げ」はヘブル語で「クェラ」で、羊飼いが日常に獣や鷲などを追い払う武器として使われていましたが、戦争の時にも使われていました(歴代誌第一12:2)。これは非常に正確なねらいが可能な武器であったとされています。小石を入れる袋に皮のひもがついており、その両方のひもを握って、頭の上で振り回して、一瞬のうちに一方の端を離して、恐るべき力で石を飛ばして敵に命中させる道具なのです。

41~54節、ゴリヤテとの対決と勝利

41~44節は、ゴリヤテがダビデに挑んで来る様子を描いています。

Ⅰサム 17:41 そのペリシテ人も盾持ちを先に立て、ダビデのほうにじりじりと進んで来た。
17:42 ペリシテ人はあたりを見おろして、ダビデに目を留めたとき、彼をさげすんだ。ダビデが若くて、紅顔の美少年だったからである。
17:43 ペリシテ人はダビデに言った。「おれは犬なのか。杖を持って向かって来るが。」ペリシテ人は自分の神々によってダビデをのろった。
17:44 ペリシテ人はダビデに言った。「さあ、来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」

彼は、盾持ちを先に立て、ダビデに向かって、じりじりと歩み寄っています。この時はまだ、少年ダビデがゴリヤテへの挑戦者であることに気づいていなかったのです。

42節で、「ペリシテ人はあたりを見おろして」とありますから、ゴリヤテはダビデよりも高い所に立っていたことが分かります。戦いでは、低い所にいるより高い所にいるほうが有利と考えられます。彼はここでイスラエルの一少年に目が留まり、自分に対する挑戦者として出て来ていることに気づいたのです。

彼は少年ダビデを見るなり、「さげすん」でいます。聖書は「ダビデが若くて、紅顔の美少年だったからである。」と言っています。これはダビデが戦いを熟練している戦士ではないことを表わしています。彼は血色のよい美しい少年だったのです。

イスラエルが代表戦士として、こんな少年を巨人ゴリヤテに差し向けたことに、怒りをむき出しにし、侮辱の言葉とののしりをダビデにあびせかけています。聖書は、「ペリシテ人は自分の神々によってダビデをのろった。」と記しています。これによって、彼の敗北は決定的になったのです。確かに偶像の神々によって、主のしもべをののしり、のろうことは、真の神をのろうことですから、神を敵にまわしてしまいます。しかしクリスチャンであっても、自分の救い主の御名を使って他人をののしったり、自分の信仰によって他人を批判すれば、神に敵対することになります。神の御名や信仰をそのように使うことは、主のみこころに逆らっているからです。主の御名や主を信じる信仰は、「隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるように」(ローマ15:2)使うべきだからです。決して、他人を懲らしめるためだとか、思い上がった気持ちになって使ってはいけません。

「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」(ペテロ第一5:5~6)

ゴリヤテの敗北の原因は、自分自身の内にあったのです。自分の強さに対する高慢、そして神のしもべを侮った高慢にあったのです。その高慢な思いが神を敵にまわしてしまったのです。

45~47節、これに対して少年ダビデは、武器によってではなく、ゴリヤテがなぶり侮辱した「イスラエルの先陣の神、万軍の主の御名によって」立ち向かったのです。

Ⅰサム 17:45 ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の【主】の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。
17:46 きょう、【主】はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。
17:47 この全集団も、【主】が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは【主】の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」

「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)

ダビデはその生涯、主の御名によって、信仰によって戦って勝つことを習った人でした。

ペテロも、主の御名によって、働いています。主の御名には神の権威と力があります。 「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」(使徒3:6)

使徒はみな、主をあかしするために主の御名によって戦ったのです。今日の私たちも、自分の知恵と力に頼って働くのではなくて、神の知恵と力によって働くことを習いたいものです。

「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。」(箴言3:5)

ダビデはここで主を「万軍の主」と呼んでいます。この主の呼び名はサムエル記第一、1章3節で使われましたが、やがて詩篇と預言書の中で、特にイザヤ書の中で使われるようになっています。それはダビデの長い戦いの生涯の中で、彼が主の御名によって戦った経験から生まれて来た呼び名であると思われます。その意味は、戦いに常に勝たれる主、常勝の主です。この思想は「万軍の主」という呼び名が使われる前から現われています。

「主は輝かしくも勝利を収められ、……主はいくさびと。その御名は主。」(出エジプト記15:1,3)

「主の軍の将」(ヨシュア記5:14,15)

「主の戦いの書」(民数記21:14)

ダビデは、万軍の主の御名によって勝利を収めることによって、「すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。」と言って、大いなる主をあかしすることを確信しています。

また「主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。」とも宣言しています。主は「すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)と言われました。主は福音によって救われ、勝利を与えられるのです。

また、ダビデは「この戦いは主の戦いだ。」と言っています。主ご自身が戦って下さる戦いなので、必ず主が勝利されることを確信したのです。

「あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。」(歴代誌第二20:15)

48~49節、戦いは一瞬の内に決着がついてしまいました。

Ⅰサム 17:48 そのペリシテ人は、立ち上がり、ダビデを迎え撃とうと近づいて来た。ダビデもすばやく戦場を走って行き、ペリシテ人に立ち向かった。
17:49 ダビデは袋の中に手を差し入れ、石を一つ取り、石投げでそれを放ち、ペリシテ人の額を打った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに倒れた。

ゴリヤテはダビデを撃つために、立ち上がっています。それまでは坐っていたのです。余裕を見せていたのです。ダビデは「すばやく戦場を走って行」っています。これはダビデの機敏さと、正確さと、一瞬の内に撃ち取る確信を示しています。ダビデは石投げの命中する距離まで近づくと、足場を決めて、袋の中の石の一つを取って、石投げにはさみ、勢いよくそれを振り回して放つと、その石はゴリヤテの額に命中し、額の中に食い込んでしまったのです。ゴリヤテの巨体は前のめりに、うつぶせに倒れました。一瞬の出来事です。神のみわざは一瞬の内に行なわれたのです。

フランスの画家James Tissot (1836–1902)による「Slings the Stone(石を投げる)」(New YorkのJewish Museum蔵)


50節、ダビデの宣言の通り、主は剣や槍を使わずに救われたのです。

Ⅰサム 17:50 こうしてダビデは、石投げと一つの石で、このペリシテ人に勝った。ダビデの手には、一振りの剣もなかったが、このペリシテ人を打ち殺してしまった。

サムエル記の記者は、「ダビデの手には、一振りの剣もなかったが、このペリシテ人を打ち殺してしまった。」と記しています。

51節、少年ダビデはゴリヤテが倒れると、すかさず走って行って、巨人の上にまたがり、ゴリヤテの剣を取って、ゴリヤテのとどめを刺し、首をはねています。

Ⅰサム 17:51 ダビデは走って行って、このペリシテ人の上にまたがり、彼の剣を奪って、さやから抜き、とどめを刺して首をはねた。ペリシテ人たちは、彼らの勇士が死んだのを見て逃げた。

フランスの画家James Tissot (1836–1902)による「David Cuts Off the Head of Goliath(ダビデはゴリアテの首をはねる)」(New YorkのJewish Museum蔵)


こうして、敵のペリシテの軍隊たちにも、彼らの代表戦士が死んだことを明らかに示したのです。それで、彼らは恐れて逃げたのです。

52節、ダビデが巨人ゴリヤテを倒したのを見たイスラエル軍は、急に勇気を取り戻し、ペリシテ人をガテ(ヘブル語で「ガイ」谷という意味)に至るまで、すなわち、ソコとアゼカの西、ユダの低地の中にあるシャアライムの町を通り、ペリシテ人の主要な町ガテとエクロンの門まで、多くのペリシテ人を殺しながら追撃しています。

Ⅰサム 17:52 イスラエルとユダの人々は立ち上がり、ときの声をあげて、ペリシテ人をガテに至るまで、エクロンの門まで追った。それでペリシテ人は、シャアライムからガテとエクロンに至る途上で刺し殺されて倒れた。

53節、イスラエル人は帰路にペリシテ人の陣営に立ち寄り、彼らが逃げる時に残して行った物を略奪しています。

Ⅰサム 17:53 イスラエル人はペリシテ人追撃から引き返して、ペリシテ人の陣営を略奪した。

54節、ダビデは巨人ゴリヤテの首をエルサレムに持って行っていますが、ゴリヤテの武具はダビデの天幕に置いていたと、あります。ダビデに与えられたのでしょう。

Ⅰサム 17:54 ダビデは、あのペリシテ人の首を取って、エルサレムに持ち帰った。武具は彼の天幕に置いた。

しかしサムエル記第一21章9節ではゴリヤテの剣がノブの祭司アヒメレクの所にありました。

Ⅰサム 21:9 祭司は言った。「あなたがエラの谷で打ち殺したペリシテ人ゴリヤテの剣が、ご覧なさい、エポデのうしろに布に包んであります。よろしければ、持って行ってください。ここには、それしかありませんから。」ダビデは言った。「それは何よりです。私に下さい。」

55~58節、ダビデ、サウルの前に出る

55節では、サウルも将軍アブネルも、ゴリヤテと戦ったダビデを見ても、だれであるか分からなかったと記されています。

Ⅰサム 17:55 サウルは、ダビデがあのペリシテ人に立ち向かって出て行くのを見たとき、将軍アブネルに言った。「アブネル。あの若者はだれの子だ。」アブネルは言った。「王さま。私はあなたに誓います。私は存じません。」

これは16章でダビデが立琴を弾いた時から、相当の期間が経っていたことを示しています。人は子どもから若者に成長すると、一見して見分けがつかないほど変わってしまうことがあります。

56節、「少年」はヘブル語の「エレム」で、「若者」を意味しています。

Ⅰサム 17:56 すると王は命じた。「あなたは、あの少年がだれの子か尋ねなさい。」

57節、アブネルがダビデをサウルの前に連れて行っています。ダビデを勇敢な戦士として迎えるためです。

Ⅰサム 17:57 ダビデが、あのペリシテ人を打って帰って来たとき、アブネルは彼をサウルの前に連れて行った。ダビデはペリシテ人の首を手にしていた。

その時、ダビデの手にはゴリヤテの首がありました。これこそ勝利の証拠だったからです。

58節、サウルはダビデに「あなたはだれの子か。」と尋ね、ダビデは「私は、あなたのしもべベツレヘム人エッサイの子です。」と答えただけで、記事は終わっています。

Ⅰサム 17:58 サウルはダビデに言った。「若者。あなたはだれの子か。」ダビデは言った。「私は、あなたのしもべ、ベツレヘム人エッサイの子です。」

これも、この後のダビデの生涯への説明だったのでしょう。

この章においては、勝つ見込みがないばかりか、完全敗北しかなく、全イスラエルがペリシテ人の奴隷にされる運命がほぼ確定していた時に、最も若いダビデによって、神の御名の信仰と小さい石によって、その勝敗と運命は一瞬の内に逆転してしまったことを示しています。これを過去の物語として知っているだけでなく、ダビデの神は私たちの神でもあります。周りで伝道は困難、だれも救われない、祈っても答えられないと、不信仰な失望の声ばかりが聞こえてくる中で、ダビデの如く、巨大な困難を目の前にして、万軍の主の御名を確信して、そして川原の小石のような日常の生活を通して生ける神の信仰を使わせていただきましょう。

ヨブは言いました。「あなたには、すべてのことができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。」(ヨブ記42:2)

エリサベツは言いました。「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」(ルカ1:45)

イエス様は言われました。「信じる者には、どんなことでもできるのです。」(マルコ9:23)

パウロは次のように言っています。「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」(ローマ8:37)

「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)

しかし、これらの聖句によって力づけられ、心が励まされているだけでは、何も勝利は得られません。ダビデが巨人ゴリヤテに挑戦していったように、私たちも、困難に実際に挑戦していくことが必要です。

主が私たちに与えてくださったものは、「おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」(テモテ第二1:7)

あとがき

「いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」(ルカ12:15)
死の床にある経営者たちに人生を振り返ってもらうと「もっと仕事をすればよかった。」と言った人はいません。だれもが「家族や自分のために時間を使いたかった。」と言います。
どんなに成功しても、「働く意味」を見い出せないと、幸せになれません。経済学者ケインズは「生きるために働く必要がなくなった時、人は人生の目的を真剣に考えなければならなくなる。」と言っています。
物質的に豊かになった日本人の半数がウツ病、ある会社では六〇パーセント以上と言われています。自殺者が年間三万人を越えています。あなたにとって生きる意味は何ですか。

(まなべあきら 2008.8.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)


「聖書の探求」の目次