音声:使徒の働き(027) 讃美喜踊 3:6~8
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使徒の働き
3:6 すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、
3:7 彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
3:8 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。【新改訳改訂第3版】
(たけさんの一口まとめ)
前回は、美しの門の下で物乞いをしていた足の不自由な男が、ペテロの「ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」という言葉によってたちまち歩けるようになり、神を賛美しつつ宮に入って行った、という奇跡のお話しでした。
この奇跡は、どのようにして起きたのでしょうか。三つのポイントが挙げられます。
1. 求めの内容は施しだったが、聖霊に満たされた神の人(ペテロとヨハネ)に求めたと言うこと。
求めている内容はともかく、誰に問題を持って行ったかというのが大変重要です。間違った人に尋ねれば、間違ったところに連れていかれてしまいます。内容にかかわらず、誰に求めるかが重要です。神様のいのちを分かち合える人、聖霊に満たされた人に求めなければいけません。
2. ペテロとヨハネが、イエス・キリストの名によって命じたこと。
つまり、神の権威を使ったことです。金銭を与えるだけでは、奇跡は起きません。親切にすることは大切ですが、一番大事なことは、ナザレのイエス・キリストのお名前の権威を使うことです。
3. この男が、ペテロの差し述べた手を振り払わずに、自分の手を伸ばして従順に従ったこと。
自分からの積極的な信仰はなくても、このように従順に従うことが大切です。それによって、驚くべき神のみわざが働かれ、美しの門に飾られた金銀に勝る恵みを経験しました。
ペテロとヨハネは、何故このようなことができたのでしょうか。
それは、ペンテコステの聖霊体験以来、いつも聖霊に満たされていて、いつでもどこでも神の栄光の富を分かち合う準備ができていたからです。通りがかりに出会ったこの男にも瞬時に対応できました。
この足の不自由な男の喜びは、ただ歩けるようになり、皆と同じ生活ができるようになったから喜んでいるだけではありません。魂が変えられ、神を賛美し、ペテロとヨハネと一緒になって、祈りのために宮に入っていくほどでした。彼は、それまで毎日、神殿の門の下に座っていましたが、一度も宮の中に入ったことはなく、まして、宮で祈った経験もありませんでした。
一般的な日本人も、この男と同じではないでしょうか。殆どの人が、教会に行ったことがなく、教会で祈ったこともありません。
この男は、生まれて初めて神を賛美し祈りました。それまでは、生まれたことを呪い、悔やんできた40年でしたが、イエスのお名前によって、彼の魂、人生、将来、永遠までも、すべてが新しくされました。他人の手で運ばれるのではなく、自分の足で確信を持って歩く人生が始まりました。イエス様を心に宿し、喜びに満ち、心から神を賛美せずにはいられない心を持つようになりました。最初は施しを求めましたが、神は、それをはるかに超える富を与えられました。
これが、キリストによる救いです。
イエス・キリストの喜びと平安が、この足の不自由な男の内に流れ込みました。ペテロは、イエス様からこの喜びをもらいましたが、その喜びをこの男に流し与えたのです。
私たちも、この喜びを経験させて頂き、ペテロのように、イエス・キリストのみ名によって、周りの人々に分かち与えさせて頂きましょう。
上の写真は、フランスの画家ポール・ギュスターヴ・ドレ(Paul Gustave Doré, 1832–1883)による版画「St. Peter and St. John at the Beautiful Gate(美しの門でのペテロとヨハネ)」
「美しの門」というのは、エルサレム神殿の「婦人の庭」から「イスラエルの庭」に入るための「ニカノルの門」ではないかと言われています。下の写真は、イスラエル博物館にある50分の1模型におけるニカノルの門の写真です。