音声と文書:ヨハネの黙示録(20) 解かれる封印(3) 6:12~17 第六の封印

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PDF文書:ヨハネの黙示録(20)

ヨハネの黙示録 6:12~17
6:12 私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。
6:13 そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。
6:14 天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。
6:15 地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、
6:16 山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。
6:17 御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」【新改訳改訂第3版】

上の写真は、Douce Apocalypse(Douceによる絵解き黙示録の写本)の挿絵「Sixth seal – earthquake(第6の封印-地震)」、1265-70年頃のもの。(イギリス、作者不明、オックスフォード大学のBodleian Libraries蔵、Wikimedia Commonsより)

はじめに

1.今日は、第六の封印が解かれるところですね。

この部分は少しまた、変わっているわけですが、第五の封印が解かれるときもそうでしたけれども、第六、第七の封印を解くときには、生き物による「来なさい」という言葉が、もう消えている、ということなんです。
第一から第四までは、封印を解く前に必ず生き物が「来なさい」という命令を発しているのに対して、第五からはそれがないということなんです。
何気なく読んで入いると気づかないわけですが、このことは、第五、第六、第七の封印は、第四の封印に続いて、自ら開かれていくことを示している。これはいかなる力をもってしても、もはや、とどめることができない審判である、ということを示している。
ですから第四までは、もし人間がそれらの審判が行われる前に悔い改めれば、その後の審判はとどめることができる。しかし、もう第五まで来ると、とどめられないということですね。お分かりいただけるでしょうかね。

2.それと関連することですけれども、もう一つ注目しておきたいことは何か、というと、第一から第四までの封印は、人を用いて神様が審判を下しているということですね。

人間の仕業を用いてですから、留めようと思えば留まるわけです。けれども第六の封印では、もう人は使われていないんです。
ここには天地の大異変が用いられている。ここに来ると、人はもうどうにもならない。後でも学びますが、現代はもう第六の封印のところまで来てしまっているということなんです。
神様が、人を審判の器に用いている間は、神様に敵対する者たちは反撃をしたり、逃げたりすることができたわけなんです。けれども神様が、この大宇宙を含む天地の大異変を用い始める時に、もう人間は、逃れることも反撃することもできなくなってしまった。

これはエジプトの王、パロの時と同じなんです。神は一回だけで、すべてを裁かれてしまわないんですね。何回も何回も警告をされる。警告的審判というのがはじめに伴うわけなんです。
普通の生活でもそうですね。もう体が大分悪いから注意したほうがいいですよ、と言われても、あまり気にしないでどんどんやっていると、取返しがつかなくなってしまうんですね。最初のころですと、まあ、治る段階の時と、もうお前はだめだ、手遅れだ、という時があるわけなんです。賢い人というのは、最初の段階で気づいて、そこで悔い改めて、神に従うということなんですね。
パロの場合も、エジプトに対して神様は十の災いを下した。最初の災いは、はなはだ軽いものであったんです。蛙とか、ブヨとか、これも大変と言えば大変ですけれども、ま、それは大きな致命的な被害を与える、というものではなかった。
ですから、パロがこの程度の時に、自分の罪を悔い改めて神に従っていたならば、これは、神の栄光を現わす人物になった。おそらくモーセと並んで、栄光を現わす人物になっていったと思うんですね。今日までも名を残す人物になった。
彼は今日も名前を残していますけどね、あんまりいい意味で残していないわけです。ローマ人への手紙でも、そんなことが書いてありますけれども、今日は省略しますけれども・・・・
これらの神の軽い警告的審判に対して、心の頑な者というのは、反撃しやすい。あるいは逃げ出すんです。バカにするといいますかね、こういうことが起きやすい。逃げたり、反撃したりできるものですからね。まだ自分に元気があると思っていますからね。しかし、その結果何が起きたか。パロとその軍隊は避けることができない大自然を用いた審判、すなわち紅海の水の中に沈んでしまったわけです。

私達もね、ようく考えなきゃいけませんよ。神に逆らい続けると、もう引き返せなくなっちゃう。
パロが引き返そうとしているわけですね。でも、地面がですね、紅海の底が非常にぬかるんで引き返すことができなかった、と記されているわけです。
この天地の異変を用いられる神の審判というのは、人が逃げることも、反撃することもできない、不可抗的審判を意味しています。逆らうことができない審判を意味しているわけですね。
人間というのは、愚かにもですね、こういう逆らうことができない審判に会うまで、神を認めようとしない。手遅れになるまで続けるということなんです。これが人間の愚かさ    ですね。現代でも自分の命が危うくなるまで、酒を飲み続ける。遊び続ける。あるいは自己主張し続ける。それが少なくないわけです。これが最大の愚かとしか言いようがない。手遅れになってしまう。

Ⅰ.天変地異の第一に見られるものは、12節に「大きな地震が起こった」と書いてある。

A.大地震がどんなに恐ろしいか、ということは、20世紀の終わりに起きたいくつかの大地震をみても、誰でも頷かれると思います。

最近もアルメニヤ地方の地震が報じられていました。皆さんもニュースをご覧になったと思うんですが、大惨事。あれを見ると、大変だなあ、と思います。日本でも、日本列島が静岡県当たりで、まっぷたつに割れる可能性だってあるわけです。予測によるとですね。あのあたり、毎年、何センチか沈むといわれていますよ。そのうち、新しい北本州と南本州ができて、まっぷたつに割れることだってある。そうしたらまた、新しい橋なんか架けなくちゃならなくなるんでしょうけどね。

私は、起きないとは限らないと思いますよ。もちろん、起きたらいいって考えているわけではありませんけどね。しかし、イエス様がおいでになるときも、大いなる地震がある。
旧約聖書のゼカリヤ書をちょっと読んでみましょうかね。14章4,5節です。そこにそれらの事が預言されているんですが、ゼカリヤはキリストの再臨を預言しているんですね。
これはイエス様の再臨の時のことをいっているんです。

ゼカ 14:4 その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。
14:5 山々の谷がアツァルにまで達するので、あなたがたは、わたしの山々の谷に逃げよう。ユダの王ウジヤの時、地震を避けて逃げたように、あなたがたは逃げよう。私の神
【主】が来られる。すべての聖徒たちも主とともに来る。

これはイエス様が再臨されて、オリーブ山に立たれるときのことですね。その時に、このオリーブ山はまっぷたつに裂けて、大きな谷ができるだけではなくて、裂けたところの山の半分が、北と南に移動していますね。これは地震によるところの移動です。
皆さんもご存じだと思います。地震が起きて、地割れがして、裂けて、そこに新しい谷が生じて、地面が動く。地震の時って恐ろしいですね。こんなに大地はしっかりしているように見えますけれども、砂のように、すべるように動いていってしまう。
ゼカリヤはこのことを預言している。5節をみますと、ゼカリヤは「ユダの王ウジヤの時、地震を避けて逃げたように、あなたがたは逃げよう。」って言っていますから、ウジヤの時にも大地震があったということですね。
アモスの1章1節でも、ウジヤの時のこの大地震を言っているんですね。

アモ1:1 テコアの牧者のひとりであったアモスのことば。これはユダの王ウジヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代、地震の二年前に、イスラエルについて彼が見たものである。

ここには、ウジヤの大地震の2年前に、このアモスの預言が与えられている。ですから、アモスの預言をイスラエルの人たちは聞いたわけです。それで、悔い改めなかったわけでしょうね。
これは大変なことだと思うんです。しかも、アモスもゼカリヤも、この時の大地震を歴史を考える上で、重要な事件として取り扱っているところに、注目したいんです。
特にゼカリヤは、主イエス様の再臨の時と関して、このことを述べているんです。
ですから、私達は、この恐るべき大地震、地震予知だとかいろいろな問題がありますが、予知の仕方ばかりに関心を持たないで、これらのニュースを聞く時に、ああ、主の再臨が起こるかもわからない。まさにこの日本がどうなるか分かりませんけれども、確かに世界的な地震は起きる。

イエス様ご自身も世の終わりの時に、地震が起きると預言なさいました。
そしてヨハネの黙示録の6章12節で、第六の封印が解かれた時、大地震が生じると言われているんですね。
ですから現実に今の世界を見ると、この数年間、アルメニヤだけではありません。地中海地方でも、大地震が起きましたね。イタリヤでも起きました。メキシコでも起きました。日本でも起きましたね。大地震はね、次々、次々と起きている。大惨事なんです。これらの事を見るだけでも、私達は相当、終末の果てに生きていることを自覚せざるを得ないんです。

私達はこの体を持って、この地上に生きている間に、あるいはキリストが、あるいはイエス様がおいでになる可能性はある。これ、十分にあると言ってよろしいわけです。ですから私達は、よく心して生活を営んでいかなければならない。世の終末というのはずうっと先のことじゃなくて、まさに今はその終末の果てに近い、封印は七つあるんですけれども、もう六つ目の始まりまで来ているということでしょうねえ。

B.さてその次に、地上の大地震に次いで今度は天の大異変が生じる。

地上の大異変から、天の大異変。
「太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。そして天の星が地上に落ちた。」と書いてありますね。
これはね、ヨエルという預言者がいるんですが、ヨエル書の2章30節から32節まで、小預言書ですが、ちょっと読んでみたいと思いますね。

ヨエ2:30 わたしは天と地に、不思議なしるしを現す。血と火と煙の柱である。
2:31 【主】の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。
2:32 しかし、【主】の名を呼ぶ者はみな救われる。【主】が仰せられたように、シオンの山、エルサレムに、のがれる者があるからだ。その生き残った者のうちに、【主】が呼ばれる者がいる。

この預言はペテロをはじめ、全ての初代のクリスチャンたちにようく知られていたんです。イエス様もこのことについては、はっきりと語っておられるんですね。マタイの24章29節から31節で、イエス様もそう仰っているんですね。

マタ 24:29 だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。
24:30 そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。
24:31 人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。

このヨエルの預言、黙示録の預言は、キリストの再臨の時に現れるのです。ペテロもこのことを言っているんですが、ペテロはもっと辛らつに書かれているんですね。
第二ペテロ3章10節から13節あたり、ここはとても重要なところですので、覚えておいていただきたいところですが、

Ⅱペテ3:10 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。
3:11 このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。
3:12 そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
3:13 しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。

ペテロもヨハネもヨエルも、天文学者ではないんです。また、原子物理学者でもない。それなのに彼らは、今日の科学者の知識の領域を遥かに超えて、知っているわけですね。
ここでペテロをみますと、「天の万象」と彼が言った時は「天の諸元素」という意味が含まれているんですね。つまり彼は、この宇宙というのを、あまり芸術的にはみていないですね。むしろ元素による構成という感覚で話しています。このあたりをみますと、非常に異変が起きるということを、彼はまっすぐに語っている。

ヨハネの方は、天体について、羊飼いとか農夫のような表現をしていますね、この黙示録の方を見ますと。

・太陽は、黒い羊の毛で織った荒布ように黒く、と言っていますが、イスラエルの国には黒い羊もいるわけなんです。その黒い羊の毛で織った布、と言った方が、当時の人には   よくわかったのかもわからない。

・それから月は、全面が血のように赤くなった。この血というのは、生け贄の羊の血のことをさしているんでしょうね。そのごとくに真っ赤に染まった。祭壇なんか見ますと、羊の血で真っ赤に染まっている。そういうことを表しているんでしょう。

・天の星々は、イチジクが大風に揺られて青い実を振り落とすようであった。

こういうふうに言われています。

私達は今日、大地震が世界のどこにでも起きている。そしてどんなに起きても、自分にはあまり関係のないものとしてみている。どこかで噴火が起きてもこれも、自分とはあんまり関係ない。2,3年前に大島の噴火がありましたけれどもね、大騒ぎになった。しかし、何が起きても、この世の終わりが近いということに気づいていない、ということなんです。これが危険なんですね。
おそらく神はこれらの事を通して、人類に警告を発しておられると思いますよ。これらが決して、世の終わりの警告として受け止められていないところに、問題が残っているわけですね。
噴火が収まるかどうかということよりも、もっとそこに大きなことが含まれている。病気になれば、それが治ればいいってものではない。その先のことを考えなくてはならない。
なにを私達に意味されているのか。その背後にある神の御手を知らなくてはいけない。イエス様はそのこともちゃんと預言されているんです。
マタイの福音書の24章、37、38、39節を見ますと、今の時代の人が何をするか、噴火をしようと、地震があろうと、人々はあまり関心を持たないってことを仰っていますね。

マタ24:37 人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。
24:38 洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。
24:39 そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。

ここに「彼らはわからなかったのです」とありますが、知らなかったでは済まないわけです。この、「わからなかった」「知らなかった」、もっと言えば、気づこうとしなかった、とキリストは言われている。
神様は大地震を起こしたじゃないの、大噴火を起こして警告を発したじゃないの。でも彼らは、それがこの世の終わりが来ている、キリストが来る時の警告である、ということをわからなかったと、イエス様は仰っていますね。
さあ、これが大事なこと。私達は聖書からこうして教えられていますが、いちおう知っています。でも本当に知っているということではないんです。
知っている、とは何か。
「知る」とは、いつも主のおいで、終末の日に備えて生きている、ということです。イエス様がおいでになる日を計算に入れた生活をすること、これを「知る」、ということができる。私達がこの地上で得た財産も地位もすべては、置いていくんです。それらは何の役にも立たない。なんの価値にもならない。

私は、三原山が噴火した時にね、ニュースを見ていた時に、ちょっとぐらい煙を上げている時は、三原山は観光地として価値があるように見えるでしょ。
ぶわーっと吹き始めたら、価値がありますか?誰も来ない。心配している。そういうものなんです。価値がなくなっちゃたと、つくづく思いましたね。
もし私達がね、明日イエス様がおいでになると知っていたら、今日は何をして過ごすだろうか、と考える必要があるんです。
明日、主が来られるとしたら、この地上で財産を残すことにあくせくしないでしょうね。あるいは、明日イエス様が来られると知っていたら、自分が直面している苦しみに悲観的にならないでしょうね。

しかし多くのクリスチャンは、自分の財産は永遠に自分の手に握っているつもりになっていますし、ある人々は、自分の苦しみが永遠に続くがごとく思って、悩んでいるんです。この地上で起きることは、永遠には続かないんです。一時的、借り物なんです。
ビリー・グラハムという有名な伝道者がいます。彼は絶対に自分の、あるいは団体の財産をつくらないわけですね。
ビリー・グラハムのところにある物は、みんな借りている物、借り物です。彼は残さないんですね。それも一つ大事な点かなあと思います。

詩篇49章5節~20節をちょっとご覧いただきましょうかね。ここに、この世の終末を計算に入れない人の姿が書いてあるんです。これは、この世の終末を計算に入れないで、この世の生活が永遠に続く、そう思っている人達の姿です。

詩49:5 どうして私は、わざわいの日に、恐れなければならないのか。私を取り囲んで中傷する者の悪意を。
49:6 おのれの財産に信頼する者どもや、豊かな富を誇る者どもを。
49:7 人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。自分の身代金を神に払うことはできない。
49:8 ──たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない──
49:9 人はとこしえまでも生きながらえるであろうか。墓を見ないであろうか。
49:10 彼は見る。知恵のある者たちが死に、愚か者もまぬけ者もひとしく滅び、自分の財産を他人に残すのを。
49:11 彼らは、心の中で、彼らの家は永遠に続き、その住まいは代々にまで及ぶと思い、自分たちの土地に、自分たちの名をつける。
49:12 しかし人は、その栄華のうちにとどまれない。人は滅びうせる獣に等しい。
49:13 これが愚か者どもの道、彼らに従い、彼らの言うことを受け入れる者どもの道である。 セラ
49:14 彼らは羊のようによみに定められ、死が彼らの羊飼いとなる。朝は、直ぐな者が彼らを支配する。彼らのかたちはなくなり、よみがその住む所となる。
49:15 しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される。神が私を受け入れてくださるからだ。 セラ
49:16 恐れるな。人が富を得ても、その人の家の栄誉が増し加わっても。
49:17 人は、死ぬとき、何一つ持って行くことができず、その栄誉も彼に従って下っては行かないのだ。
49:18 彼が生きている間、自分を祝福できても、また、あなたが幸いな暮らしをしているために、人々があなたをほめたたえても。
49:19 あなたは、自分の先祖の世代に行き、彼らは決して光を見ないであろう。
49:20 人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい。

こう言って警告されているんですね。20節は、かなりはっきり言っているんですね。栄華、栄誉を極めている者であっても、今ここに記されている悟りがなければ、滅んでしまう獣と等しいではないか。今の夢は、夢のまた夢、という辞世の句を残して秀吉は死んでいったといいますが、何も秀吉だけじゃありませんよ。私達も、気をつけなければいけない。永遠に自分の家は続き、財産は受け継ぐんだって思っている人に、こういうのを読ませてあげるのがいいでしょうねえ。

そして19節の所では、「彼は決して光を見ないであろう。」、絶望ですねえ。
光りを見ることはない、というのはおそらく地獄だと思うんです。どんなに生きている間に祝福されて、幸いな暮らしをしても、人々から羨ましがられても、ここに行く。この世の生活が永遠に続く、それが全てだと思っている人の姿が、ここに記されていますね。
幸いなことに、15節を見ると、「しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される。神が私を受け入れてくださるからだ。」
こういう道もまたある、ということですね。ああ、どうか願わくは、私達は、富とか、そういうものによっては解決できないところのものがあるということを、ようく悟らせていただかなくてはならない。

これに対して、イエス様はこう仰っている。マタイの福音書の6章34節をご覧いただきましょうかね。これはあまりにも有名な言葉ですけれども、もう一度ここを読んでみたいです。

マタ6:34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

ですから、悩む必要はないということですね。
ただ、私達がよく考えなくてはいけないことは、詩篇49篇のように本当に光の無い世界に行ってしまう、それを知らないで、永遠に自分の財産、自分の地位が続くかのように生きている人間はいないだろうか。こういうことだけを心配していればよい、ということなんです。これがこの世を計算している人と、計算に入れていない人の違いです。

Ⅱ.さて、黙示録の方に帰らなければなりませんけれども、14節ではこの世が過ぎ去っていく時の様子を語っているんですね。

「天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。」
これは、今の世が過行くときの様を話しているんですね。イザヤという人はね、これを預言しているんですね。イザヤ書の34章4節。あっちここっち聖書をみているようですけれども、これはみんな、預言されている。ヨハネの黙示録なんて、何か特別な書物のように思いますけれども、決してそうじゃないんです。そこを見るとイザヤはすでに預言している。

イザ 34:4 天の万象は朽ち果て、天は巻き物のように巻かれる。その万象は、枯れ落ちる。ぶどうの木から葉が枯れ落ちるように。いちじくの木から葉が枯れ落ちるように。

イザヤは、「天は巻物のように巻かれる」と、このことが預言されているんですね。
イエス様もマタイの福音書24章34、35節で同じようなことを言っているんですね。

「これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。」「この時代」
イザヤは「天は巻物のように巻かれる」と言いましたが、イエス様は「この時代(generation)は過ぎ去りません」「天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」と。

「この時代」「天地は滅びる」、この言葉に注目したいんです。これ非常に大事なことなんです。

さて、ヨハネの黙示録の方でも、それが語られているんですね。ヨハネの黙示録の20章11節をご覧いただきましょうか。11節の終わりのところですね。

黙20:11地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。

ここの言い方は非常に面白いですね。天地が畏れおののいて、神の前から自ら逃げ去っていくような姿が書いてあります。
それから、黙示録の21章1節の終わりのところ、

黙21:1以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

これらは、時代の交代とか、権力者の交代を意味するのではないですね。日本の総理大臣が代わったとか、アメリカの大統領が代わったとか、それだけではない。
全宇宙的、変換の時が伺えますね。確かにそこには新しい支配権が、はっきりと表れているんです。ですから6章14節で、「天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり」といっていますが、これはいったい何を言っているのか。

つまりこれは人間の努力によって、手直し、手直ししていくようなものじゃないということです。自然環境を手直ししていくようなことではない、つぎはぎするみたいにですね。
向うの森林を切り倒してからまた、松林をはやせるとかですね、どぶ川が増えたからそこを開発して綺麗な水を流して、そこにまた魚が泳げるようにしようとか、そういったことではない、ということですね。
「天は巻物が巻かれるように」と言っていますから、いっぺんに、さあっと巻かれちゃうということですね。つまり、神の成し遂げられるところの、異変である、ということなんですね。そしてそこに「新しい天と新しい地」が出現する。
この「新しい天新しい地」については、すでにイザヤが預言しているんです。なんていうことでしょうね。イザヤという人は本当に素晴らしい預言をしています。
イザヤの65章17節をご覧いただきましょうか。イザヤは二回もこのことを言っていますね。

イザ 65:17 見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。

面白いですね。
私達がね、本当に神様を信じて、イエス様を信じて天国に行ったら、かつてこの地上で「いやあなこと」があっても、いっさい思い出さないっていうんです。ありがたいことですね。天国にいってからまだ、地上にあったイヤなことをいっぱい抱え込んでいたら、うんざりすると思うんですが。天国に行ったら、「先の事は思い出すことも、心に上ることもない。」天国に行ったら、イヤなこともない。嬉しいことですね。
イザヤの66章の22節、イザヤは66章で終わりですが、ここをご一緒に読んでみましょうか。

イザ66:22 「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように、──【主】の御告げ──あなたがたの子孫と、あなたがたの名もいつまでも続く

神が御造りになる「新しい天と新しい地」
イザヤという人は、イエス様の降誕について詳しく預言しているんですね。これはイエス様がお生まれになる約700年前です。彼はイエス様が乙女から生まれること、そしてその主権やその国の性質がどういうものであるかを預言したんです。そしてそれが全部正確に成就していることを、私達は知ってるわけですね。
その同じイザヤが、ヨハネの黙示録の21章1節に約束されているところの、「新しい天と新しい地」についても預言している。

黙21:1 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

ですから、これらのこの世の終末における様々な天変地異は、自然に偶然に起きるんじゃなくて、旧約以来、確実に預言されているところのことだ、ということです。
ですからね、イエス様の降誕が確実に成就したように、新しい天と新しい地は確実に成就する、どの一つも外れることはないんです。私達はこれを確信してよろしいんです。確かに神の審判の御業として起こるものです。
私達は第一に封印からずうっと学んできたように、すでに世の審判が始まっている、そういう時代に生きている。

Ⅲ.ヨハネの黙示録に戻りますが、6章15節をみますと、

A.大宇宙の審判は地上の人を震え上がらせていますね。

ここに書かれている人物を見ると、いろいろなことがわかります。

「地上の王」、「高官」、「千人隊長」、これは、人の上に権力を振るっている人の姿です。神の裁きの時には、この世の権力が全く役にたたない、ということですね。

・その次に「金持ち」。お金の力、金力ですね。今はこのお金の力がないと選挙に当選できないそうですけれども、天の御国にはお金があっても入れない。

・それから、「勇者」って書いてあります。人間的な勇気でも耐えられない。

・そのあとに、「奴隷と自由人」、と書いてありますね。

これは、神の裁きの前では、地上の地位や身分にかかわりなく、等しく裁かれることをいっているんです。

B.16節では、彼らは面白いではありませんか。

自分の地位や、権力、富、力、にすがって助かろうとしていないんです。山や岩に向かって、私達を助けてくれと叫んでいる。
彼らは自分の神々、地位とか権力とか、富とかというものに頼れないと、この時初めて悟ったのでしょう。そして洞穴の中に逃げ込んで、山や岩に向かって自分たちを「かくまってくれ」と叫んでいる。なんと情けないことでしょうかね。
これはいつも神を拒み、自らの力を誇っている者の行きつくところの姿ですね。

C.さて、私達は彼らの叫びの中に、一つの真理を見出します。それは何か。

「御座にある方の御顔と、小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。」と、ここでは「小羊の怒り」と書いてありますね。人々がさげすみ、軽んじ、バカにしている小羊の怒りです。
彼らが恐れて叫んだのは、「ユダの獅子」ではなくて、小羊の姿、神の小羊。この小羊は私達の罪のために十字架に架かってくださったキリストなんですね。
この小羊は神の最大の愛を示しているんです。
ところがこの愛を拒む者に対して、小羊は最も激しい怒りを表した。
小羊は柔和と憐みの象徴です。それは地上を歩まれたキリストの姿でもあるんです。けれどもここを見ますと、その怒りはどんなに激しいか。この地上のあらゆる権力者を恐れさせる。ということは、小羊というのは、決して弱さを表していないということです。弱くない。つまり、柔和も憐みも愛も、決して弱いものではない、ということですね。
それを拒み逆らう者にとっては、まあ、ねえ、逃げ場がない、逆らうことができない、怒りとなって現れるということですね。

17節はそのことを言っているんです。
神の小羊なるキリストを拒む者に対しては、誰も耐えることのできない大いなる怒りをもって裁きが臨むと、おっしゃったんですね。
ですからこの大いなる裁きの日のまえに、全ての者はキリストのみ救いにあずかる。聖くされて、御前に立つに相応しい者になっていないといけない。
第六の封印、これは誰も逃れることも、逆らうこともできないところの審判なわけですね。今私達はこの審判の時に臨むところである、ということを心に留めないといけない。今私達が住んでいる時代は、第六の封印まで来ている、ということです。
これから第七章のほうにですね、入っていくことですが、これからいったい何が起きてくるのか。
主の再臨の手前まで来ている、ということをお互いによく心に留めて、自分の生涯を歩ませていただきたいと思うことであります。

お祈り

「御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう」
恵みの深い天の神様、私達が知ると知らずにかかわらず、主のおいでの日が一日一日と近づいていることを覚えます。
そしてまずはこの裁きのことを考えますが、周りを見まわせば、大きな地震は次々と起き、人の心は冷ややかになる。
そして恐るべき時が身に迫っていることを心に覚えて、主よどうか、あなたの御怒りの日が来る前に、主の大いなる贖いにあずかって、詩篇49篇にもありましたが、あなたはこの黄泉(よみ)から携え上げてくださる、その恵みに預かっていることができるように。
これを知らなかったならば、この地上のすべての財産、地位、名誉が永遠に自分のものであるが如く愚かな生涯を送る。そうであるならば最も盛んな時ですら、滅び失せるところの獣のように愚かだと、詩篇は教えていました。真にそうでございます。光のない国に行くことになってしまいます。
どうか願わくは、主よ、あなたの真理が、深く分かる事ができるように、またこの大いなる恐るべき日が臨む前に、多くの人々が主を知ることができるように。小羊の怒りは決して小さくないことを知りました。イエス様どうか主のみ助けを与えて導いてください。
この時を感謝して、尊いイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明