音声と文書:ヨハネの黙示録(19) 解かれる封印(2) 6:7~11 第四の封印と第五の封印

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PDF文書:ヨハネの黙示録(19)

ヨハネの黙示録 6:7~11
6:7 小羊が第四の封印を解いたとき、私は、第四の生き物の声が、「来なさい」と言うのを聞いた。
6:8 私は見た。見よ。青ざめた馬であった。これに乗っている者の名は死といい、そのあとにはハデスがつき従った。彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威が与えられた。
6:9 小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。
6:10 彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」
6:11 すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、「あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい」と言い渡された。【新改訳改訂第3版】

上の絵画は、Douce Apocalypse(Douceによる絵解き黙示録の写本)の挿絵「Receiving white robes(白い衣を受け取る)」、1265-70年頃のもの。(イギリス、作者不明、オックスフォード大学のBodleian Libraries蔵、Wikimedia Commonsより)

はじめに

今日は、第四の封印を解くところと、第五の封印を解くところを学びたいと思います。
前回は第三の封印が解かれるところまで、お話しました。

この封印が解かれた記事をみますと、なんとそれが今日、私達の時代の有り様を物語っている、ということですね。ヨハネの黙示録は、決して将来のことばかりでなく、現在のことも語っている。もし私達がこのみ言葉を知らないで、各々の生活を送っているならば、どうなっただろうか。堕落した社会の波に呑みこまれてしまうんです。だから、聖書を知ると知らないでは、大きな差をもたらしてしまいます。

紀元70年のエルサレムの住民たち、その時、聖書を知っている人と知らない人では全然違っていた。紀元70年は、将軍のティトスという人が攻めてきて、エルサレムを包囲して火を放って、エルサレムの町が炎上したわけなんです。
その時に、イエス様は預言をされているわけなんですね。聖書をよく知っていた人は、そのことがすぐにわかりましたからね、ティトスが来る前に山に逃れたんです。だからエルサレムの大火にあわなかったんですね。そのことを全然知らなかった人は滅びてしまった。
聖書を知る、知らないは大きなことである。

今日、わたしたちは二度目の裁きの時が近づいているわけですね。ヨハネの黙示録を知っている人と知らない人とでは、また、差が出てくる。偉大な差がでてくるのではないかと思われる。
AD70年の聖書を知っていた人と同じように、私達に及んでくる裁きは、聖書をよく知り、信じ、従っている人が助けられるということですね。どうか心に留めていただきたいと思うんですね。

今日のクリスチャンというのは、どうも安易にものを考えているんじゃないかなと思うんですね。教会に行っているということで安心しているとか、洗礼を受けたということで安心しているとか、罪を犯さないだけで安心しているとか。罪を犯さないのは猫だって犬だってそうなんだから、何も罪を犯さないからって、偉いわけじゃない。もっとプラスの側もできないといけないわけですね。
聖書を見るならば、決して人間はそれだけで安心できない。裁きの時が及んでくる。全ての人にとって最も重要なことは、聖書を知る、信じる、そして従っていくことなんですね。もう一度今の時代に、聖書というものが、人々の心の奥深くに入っていくように。

ある人がですね、英語を話す世界の人は、やはり聖書をよく知っている、というんですね。それは家庭の中でよく聖書を語っている、教えていたということがいえる。これは非常に大事なことだと思うんですね。
一生涯のうちに、聖書を100回ぐらい読むように言っているわけですが、100回なんて、そんなに難しいことではないんですね。一年に2回ずつ読んで50年で100回になりますからね。日本人がね、みんな聖書を100回くらい読んだら、変わっていくと思いますよ。

Ⅰ.さて、今日は、第四の封印が解かれるところから学んでみたいと思うわけですが、ここに現れたのは「青ざめた馬」に乗った騎士。

この「青ざめた馬」というのは、あまりにも乗っている人の性質を表しすぎていると思いますね。私はまだ青ざめた馬というのを見た事はないんです。皆さんどうでしょうかね。だいたい馬なんて青ざめているかどうかわからないんです。
ですからこれは本当の馬のことを言っているんじゃなくて、象徴的なものであることがわかりますね。つまりこの「青ざめた馬」は、死にかけている、滅びかけている、ということを表しているんですね。

A.この馬に乗っている人の名前は「死」であると書いてあります。

「死」と訳されている「サナトス」は、死の病、死病、あるいは疫病と訳されているんです。
ギルシャ語の70人訳聖書というのがあるんですが、これは一番先に翻訳された聖書なんですがね、旧約聖書をギリシャ語に訳した。
いくつか聖書をご紹介したいと思いますが、エレミヤの21章7節。ここで同じ言葉が使われているんですが、疫病ですね。

エレ21:7 そのあとで、──【主】の御告げ── わたしはユダの王ゼデキヤと、その家来と、その民と、この町で、疫病や剣やききんからのがれて生き残った者たちとを、バビロンの王ネブカデレザルの手、敵の手、いのちをねらう者たちの手に渡す。彼は彼らを剣の刃で打ち、彼らを惜しまず、容赦せず、あわれまない。』」

青ざめた馬ですから、まだ死んではいないわけですね。死が間近い疫病である。

他にもあるんですね。エゼキエル書の5章12~17節。ここも大事なところなんですね。実はヨハネという人は、この辺のことを念頭に置いて話していることが分かります。

エゼ 5:12 あなたの三分の一はあなたのうちで疫病で死ぬか、あるいは、ききんで滅び、三分の一はあなたの回りで剣に倒れ、残りの三分の一を、わたしは四方に散らし、剣を抜いて彼らのあとを追う。
5:13 わたしの怒りが全うされると、わたしは彼らに対するわたしの憤りを静めて満足する。わたしが彼らに対する憤りを全うするとき、彼らは、【主】であるわたしが熱心に語ったことを知ろう。
5:14 わたしは、あなたの回りの諸国の民の中で、通り過ぎるすべての者の目の前で、あなたを廃墟とし、そしりとする。
5:15 わたしが怒りと憤りと譴責とをもって、あなたにさばきを下すとき、あなたは回りの諸国の民のそしりとなり、ののしりとなり、戒め、恐れとなる。【主】であるわたしがこれを告げる。
5:16 わたしがひどいききんの矢をあなたがたに放つとき、あなたがたは滅びてしまおう。わたしがそれを放つのは、ききんをいっそうひどくして、あなたがたのパンのたくわえをなくし、あなたがたを滅ぼすためである。
5:17 わたしはあなたがたにききんと、悪い獣を送る。彼らはあなたに子を失わせる。疫病と虐殺とがあなたのうちに起こる。わたしはあなたに剣を臨ませる。【主】であるわたしがこれを告げる。」

ここに、「剣」とか、「ききんの矢」って書いてあります。
これはヨハネの黙示録にしばしば出てくる。これは「死」というものの内容ですね。
エゼキエルの33章27節にもそのことが書いてあるわけです。
こういうわざわいは、明らかにヨハネが、エゼキエルの裁きの預言に関係してこれを語っている、ということがお分かりいただけると思うんです。
もっと詳しくはですね、エゼキエルの14章12節~23節当たりをみますとね、明らかにこのことが言われているということが分かるわけなんです。今日は全部を読む時間がありませんから、省略させていただきますが、

14章12節当たりには、確かに神の裁きがくる。剣を送る、あるいは獣、死の病、こういうものが、いきかうようになる。
ノアとダニエルとヨブの三人がいても、彼らがとりなしても、神の裁きをとどめることができない、ということを記しているんです。これは恐ろし裁きである、ということだけではなくて、確実に下る、下ったならば避けられない裁きである、ということなんです。
ですから私達は、これをよく気を付けなくてはいけない。
14章の21節を見ますと、

エゼ14:21 まことに、神である主はこう仰せられる。人間や獣を断ち滅ぼすために、わたしが剣とききんと悪い獣と疫病との四つのひどい刑罰をエルサレムに送るとき、

この四つのものは、黙示録の6章8節に出てきましたね。
ですから私達は、いかに忠実な信仰生活を送るべきか、ということなんですね。人間はどうしても、この神の刑罰というのがないと、おろそかになっちゃうんですかねえ。本当の信仰っていうのは、そういうものじゃないんです。本当の信仰っていうのは、刑罰があるからきちんとするって、そういうのはよくないわけですね。
両方に剣を持ってね、天国を振り払い、地獄を振り払い、つまり、天国に入れてくれるから神様を信じるんじゃない。地獄に行くのが怖いから神様を信じるんじゃない。イエス様は神様であって、私を愛してくれるから信じる。これが本当の信仰だと思うんです。
ペテロはこういうことを言っていますが、こういう裁きに対して、私達はいかに敬虔でなくてはならないか、ということを語っているんです。第二ペテロ3章11節から読んでみましょうかね。

Ⅱペテ3:11 このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。

少し跳びまして、14節も読んでみましょうか。

Ⅱペテ3:14 そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。

11節では、「どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。」
14節では、「しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。」

神様の御前に出る時、平安に出られるなんて、大変なことですね。しみや傷の一つがあっても、震えながらでる、おののきながら出なくちゃならない。しかし、ペテロは平安をもって出られるようにと、こういうふうに言っているんですね。
さて私達はこういう神の裁きにあうとするならば、いかなる信仰生活を送ればよいか、ということを考えさせられますね。

B.この「死」という名の騎士は、「地上の四分の一人を殺す権威が与えられている」と書いてありますね。

現在の人口を50億人とすると、その四分の一は12億5千万人です。
中国の人口が10憶人と言われていますから、日本の人口は1億3千万人くらいだと、ちょうど足したくらいの人口になりますね。中国と日本の人口を合わせたぐらいを、青ざめた馬に乗った人があっという間に、滅ぼしちゃうというんですね。それは大変なことだと思う。
この騎士は、人を殺す四つの権威が与えられています。「剣とききんと死病と地上の獣」
「剣」は、やはり戦争なんでしょうね。
「飢饉」、これは第三のところでも見ましたが、戦争の結果起きるところの飢饉でしょう。今、この地球上の三分の二の人々は飢饉に悩まされている。食料不足に悩まされている。苦しんでいる。これは恐ろしいことなんですね。
それから「死の病」、疫病もですね、戦争地域では甚だ悪い状態。今でも疫病は大変な問題になっているんですね。
それから、「地上の獣」というのは、実際の獣なのか、あるいは独裁政治家なのか、あるいはテロリストなのか、ファシズムなのか。地上の獣という時、決定することは難しいですね。これはね、どうも、ライオンとか虎を意味しているんじゃなさそうですね。

これらの四つはですね、第一の封印から、第三の封印までの当然の結果として起きてきている。
世界の広い地域で戦争が起きていますね。
それから、戦争が起きていないところでも、忌まわしい死の病が広がりつつある。人類は天然痘で悩まされた時代があり、結核で悩まされた時代があるし、らい病で悩まされた時代もある。これら一つひとつを克服してきまして、今は癌がピークなんだそうですけれども、その次にはエイズとかいう無気味な病気が待っていますね。ある学者たちによると、これが人類を滅ぼすところの疫病かもしれないと言っています。
考えてみますと、よくぞこれほど、次から次へと難病が出てくるものだと思う。

つまりこれらは一体何を言っているのか、というと、とにかく私達は、人間は死と隣合わせに生きているんだ、ということなんですね。

C.この騎士はあっという間に人を殺してしまう、恐るべき騎士である。

よく読んでいただきますと、この「青ざめた騎士」は、人を殺すだけでなくて、殺した人の魂を呑みこむハデスを従えている。何か大きな袋のようなものを持って歩いているようですね。このハデスに入れてしまう。非常に恐ろしい。「これに乗っている者」というのは、本当の人ではないんですけれども。
このハデスについては、私が書きました「聖書が答える死と未来」という本に詳しく書いてありますので、読んでいただきたいのですが、簡単にお話しますと、ハデスというのは、死者の霊が、死んだ人の魂が、最後の大いなる御座で裁きを受けるまで、留まっている中間状態である、ということですね。
ここでは既に、キリストにあって罪が赦され、聖められた人も、贖(あがな)いを自分のものとしていない人もいるわけですが、その間が、永遠に分け隔たれている。
イエス様もこのことをお話なさっているんですね。ルカの福音書16章22節から読んでみましょう。31節まで。ここにハデスのことが書いてあります。クリスチャンはですね、死んでからどこに行くのか、どうなるのかよく知っている必要があると思います。

ルカ 16:22 さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
16:23 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。
16:24 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』
16:25 アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。
16:26 そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』
16:27 彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。
16:28 私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
6:29 しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』
16:30 彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』
16:31 アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」

こう言ったんですね。ここでは、ハデスの苦しみを知る者と知らない者の、二つの姿が記されています。ハデスの苦しみを知らないところの金持ちは、日常生活どんな生活を送ったかというと、わがまま放題、贅沢放題を極めたんですね。そういう暮らしをした。
25節を見ますと、「おまえは生きている間、良いものを受け」とあり、19節を見ますと、「いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」と。これがハデスを知らない者の生活ですね。
この日本を振り返ってみますと、どうも、知らなさそうですね。
ハデスを知っていたラザロは、貧しくても神を畏れる生活をしていたわけです。
この違いをキリストは明らかに示しているんですね。ハデスを知らなかった金持ちは、苦しみと後悔と叫びとかがあっただけです。彼は、できることなら、この苦しみを地上にいる者たちに知らせて、自分の兄弟達がここに来ないように願うんです。
しかし残念なことに、いったんハデスに入った者は、二度と出ることができないし、知らせることもできない。もし地獄から電話をかけることができるとしたらね、こりゃ大変ですね。毎日毎日、電話がかかってくるでしょうね。しかし神様はそうはさせない。

ウイリアム・ブースという人は、こう言いました。「クリスチャンは、一日地獄にぶら下げて引っ張り出したら、もう気が狂ったようになって、キリストを伝えるようになるに違いない」とね。
教会学校も修学旅行で、ちょっと地獄に行ってくる、っていうのもいいかもしれませんね。地獄にいったら、もう、よく働くクリスチャンになると思うんです。
ウイリアム・ブースという人は、そうふうに言ったんです。確かにその通りだと思います。一度ハデスに入ったら、もう出てくることができない。ある意味では恐るべき霊的ブラックホールである。入ったら出られない。一度呑み込まれたら、二度と出られない。それでは、どうすればこのハデスを知ることができるか。

イエス様はこう言った。ルカ6章29節で、『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』
聖書に聞かなかったならば、たとえ死人の中から生き返った者がいても、聞き入れはしない。イエス様は一回復活したけれども、誰も信じない。「モーセと預言者」というのは聖書のことですね。
ですから私達は、聖書以外に霊の世界、死後の世界、永遠の世界を知ることができない。真理を悟ることができない。人が真剣に聖書に耳を傾けなくなったら、絶望的だということなんですね。そういう意味で日本は絶望的になりつつある。
私達は、聖書に対する態度を変えるべきだと思います。聖書がやさしいとか、わかりにくいとか、絵が載っていないとか、そういうことはもはや問題ではない。聖書は私達の永遠を決定することが記されてある。
これがね、第四番目の封印の中に書いてあったことですね。ハデスがそれに付き従った。
人間は死ぬことだけだったら、そんなに問題ではない。ハデスが問題。呑み込まれたら出てこられない。これが「青ざめた馬に乗った死者の騎士」であります。

Ⅱ.次に第五番目の封印をみてみましょう。

9節では、先の四つの場面とは異なり、新しい展開がみられますね。これまでの四つの幻は戦争とか、飢饉とかが多かったわけです。
第五番目の幻は、殉教者の魂が描かれているわけです。第一から第四までの戦争とか迫害、荒廃、これによって生み出されたところの殉教者の魂。

A.

1.ヨハネがおそらくこの幻をみた時に、彼の脳裏に浮かんだのは、ローマの皇帝ネロ、それに継ぐ皇帝たちの迫害によって、次々と殺されていった多くのクリスチャンたちの、殉教者であったと思われますね。
もちろんそれは脳裏にあったと思いますが、それ以後起きてくる世の終わりまで続く、すべての殉教者がここに記されている。
9節に、「私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た」とあります。
彼らは神のみ言葉を伝え語ったために、また、堅く自分の信仰の証を守ったために殺された、クリスチャンの魂の叫びだと言ってもいいですね。これは最後まで忠実だったクリスチャンの姿ですね。

2、よく見ますと、この魂は「祭壇の下」にいた、と書いてあります。
この祭壇というのは、何なのか。
旧約時代に使っていた、あの全焼のいけにえの祭壇をさしているのか、あるいは、殉教者たちが叫んでいるのは祈りですから、これは香壇をさしているのか、はっきりしないんですがね。おそらくそういうものは年頭にあったと思います。
彼らの叫びは、10節に「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者に私達の血の復讐をなさらないのですか。」とありますが、彼らは最後の勝利を祈り求めているんですね。
彼らは神のために戦った者ですからね。彼らを弁護し、神に逆らう者の裁きを求めているんです。こういうことを求めることができるのはね、こういう人だけなんです。神は彼らに積極的に求める特権を与えたんです。

クリスチャンならばね、ただ与えられた寿命を全うするだけではなくてね、できればこの神のみ言葉を伝え、キリストを証することによって、ま、燃え尽きる殉教の生涯を送りたいものだと思います。
日本の中に殉教者が少ないんです。現代は、クリスチャンの安易な生き方、あるいは安楽死とかを求める者が多いんですけれども、あんまりこれではキリストを証できないと思うんですね。
クリスチャンはどういう状態で死を迎えようと、神のみ言葉のゆえに、あるいはキリストの証をするが故に、この生涯を閉じるという、殉教者の生涯を送りたいものである。クリスチャンであれば、牧師、信徒にかかわらず、殉教者の生涯を送りたいと思うんですね。日本人というのは、金儲けのための殉教者になりつつあるんですね。金のためには、己の死もいとわない。こういう愚かな生涯を送りつつある。これはちょっと問題ですね。
神の言葉と、キリストを証するための殉教者は、最大の勝利を請求する特権が与えられている。ですから、安易な生き方、安楽な死を求める者は常に、堕落の危険が迫っている、ということでしょうね。

B.この殉教者の叫びの祈りに対して、イエス様は何をなさったか。

1.11節に「彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。」と書いてあります。
この「ひとりひとり」というのは、個人個人の信仰の応答に対して、ということです。
一人ひとりの信仰によってです。だから私達は、イエス様をしっかり信じている、ということが大事なことです。

2、次に、「白い衣」が与えられています。
「白い衣」というのはしばしば出てくるんですね。次のところにも出てきますね。ちょっと読んでみましょうかね。黙示録の7章13と14節に出てきます。

黙 7:13 長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか」と言った。
7:14 そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。

血で洗うと赤くなるのに、血で洗って白くなるというところに、意味があると思うんですよね。この「白い衣」は「義の衣」、「純潔の衣」を意味しています。霊的な意味ですね。衣というのは衣服のことではありません。これは神が与えられた命、性質です。これを「衣」ってよんでいるんですね。
これは新約聖書の中にたくさん出てきますので、いくつか拾い出して、見ておきたいと思いますが、まず、ローマ人への手紙13章14節を見てみましょうか。

ロマ13:14 主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。

「着る」というのは、「衣」です。でもこれは衣服のことではないなあ、ということがわかりますね。
エペソ4章22節~24節を読んでみましょうかね。

エペ 4:22 その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、
4:23 またあなたがたが心の霊において新しくされ、
4:24 真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。

これを見ますと、「古い人を脱ぎ捨て」、つまり、「人を欺く情欲によって滅びて行く」性質を脱ぎ捨てるんだ、ということ。
そして「新しい人」というのは「心の霊」によって生まれ変わっている、キリストを信じて新生している。そして、24節。

衣服を作るときに、風呂敷の真ん中に穴をあけましてね、両手をとおせばできなくはないんですが、それだけではなくてね、手の長さはどれくらいか、いろいろ型っていうのがあるでしょ。前がどうだとか、後ろがどうだとかで、縫い合わせるとできるんでしょうが。いつかのクリスマスにシーツを体にまいて、天使の恰好をしている子供がいましたがね。
霊的な「衣」というのは、「真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出されている」人格的なものである。私達が神にふさわしい、神の御心にかなうような人格を新しい人、「白い衣」といっているわけですね。

もう一つ読んでみましょうかね。コロサイ3章10節、

コロ3:10 新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。

こっちのほうは前よりも進展しているでしょ。
前のは、これを形作って着るべきだと。ところが、この着るところの「衣」というのは。普通、衣というのは着れば着るほど色あせて、ほころんで朽ちていくんですが、この新しい人というのは、違うんです。ますます新しくなるんです。着れば着るほど新しくなる。そして、ますます真の知識に至ると、こう書いてありますね。
これは不思議な「衣」であると思います。古びない「衣」なんです。どうか私達はこれを着させていただきたい。これが「白い衣」と言われている本質なんです。

しかし、私達に与えられている衣と、黙示録に出てきました殉教者たちに与えられている衣とは、少し違いがあるんです。それは何かと言いますと、私達には条件付きで与えられているんです。すなわち私達に信仰がある間だけ、私達がキリストを信じて、キリストに忠実である間にだけ、これが与えられる。
信仰から離れて、神様を捨ててしまい、再び堕落していくならば、これはもう与えられない。しかしその信仰生涯を全うした殉教者たちは、もはや条件付きではないんです。
彼らの「白い衣」は失われることはない。これは素晴らしいですね。
まだ私達は「白い衣」を預かっているみたいなものですね。なくなるかもしません。しかし私達がこれを最後まで守り続けるならば、私達は決して失われることはない「白い衣」を得ることができる。

3.さて、この「白い衣」をくださったわけですが、イエス様は殉教者たちに、この「白い衣」を着て、もうしばらく憩いながら待っていなさい、とこう言われたわけです。もうしばらく休んでいなさい、と。
これはね、殉教者の側から見ると、忍耐を強いられているように思いますけれども、これはそうじゃないわけなんです。
その理由は何かと言いますと、今なお、福音宣教の激しい働きが続けられている。そして彼らと同じ殉教者が続出しているんだと。まだ出ているんだと。このことが記されたのは、今なお戦っている多くの聖徒たちの励ましとなるためである、ということなんです。

事実この二千年間、聖書のこの箇所を読んで、多くの殉教者たちがこのみ言葉を受けて殉教していったんですね。先に殉教していった者が待っているんだ、そのことのゆえに彼らも励まされて、そして殉教していった、という出来事はいっぱいあるわけです。
ですからこの第五の封印を解くことによって、イエス様は二つの事を明らかにしているんです。
一つは、既に殉教している者は、決して神は忘れられていない、ということですね。
もう一つは、これから殉教する者をも、決して神が見捨てたんじゃない、ということです。
この激しい迫害の中で死を全うする者、一見すると犬死にしたように見える。しかし決して見捨てたんじゃない、ということを明らかにしているんですね。

C.そして最後の勝利というものは、殉教者の数が満ちるに及んで行われる。

あなた方と同じように、殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうちょっと待って休んでいなさい、とこう言われているんですね。殉教者の数が満ちるということは、二つの事を意味していると思いますね。一つは、救われる人の数が満ちること。
これはマタイの福音書24章14節で
マタ24:14 この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。

と書いてありますから、これは救われる人の数が満ちる、ということが一つ。
もう一つの意味は、この世の悪が満ちるということですね。殉教者が増えるということは、この世の悪が満ちるということですね。ですからその時、神の審判が加わることであります。このことをいっているわけですが、その日まで、その日がいつ来るか、今も殉教する者は決して少なくないんです。

どうか私達は、その日まで、神のみ言葉を伝え続けたい、証し続けたい。
そしてどういう生涯を送るとしても、殉教者の生涯を送りたいものでありますね。ただ天寿を全うしたというだけでなくてね。
み言葉によって、証によって、証を伝え続ける殉教者の生涯。
クリスチャンはみんなそうでなくてはならないと思うんですよ。
どういう生涯を送るか、どういう死に方をするか、それはわかりません。しかし、何も逆さ磔になって死ぬことが殉教ではありませんけれどもね、どういうような死を迎えるにしても、神のみ言葉と、証し続ける殉教者の生涯を、是非クリスチャンは送りたいと思いますね。そこに大きな目的がある。意味がある。
今日は第四と第五の封印について学んでみました。私達もしっかりと今の世を生き抜きたい。キリストを証ししながら生き抜きたいと思うことでございます。

お祈り

恵みの深い天の父なる神様、神の言葉と証のために殉教した者たちに、あなたは一人ひとりに「白い衣」をお与えになりました。
また私達の時代にも起こる事でございます。
各々が殉教者としてのこの生涯を辿らせてください。あなたはその者に「白い衣」を与えてくださいます。
ああ、どうか、大いなる勝利を獲得し、ただ長く生き、また安楽に死を迎えるというばかりではなくして、私達は神の言葉と証のために生きた、と言うことができるような生涯をどうか辿らせてください。
クリスチャンはみんな殉教者になるべきであり、教えられていることを感謝いたします。
この時を感謝して、イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明