音声と文書:ヨハネの黙示録(21) 生ける神の印 7:1~8

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PDF文書:ヨハネの黙示録(21)

ヨハネの黙示録 7:1~8
7:1 この後、私は見た。四人の御使いが地の四隅に立って、地の四方の風を堅く押さえ、地にも海にもどんな木にも、吹きつけないようにしていた。
7:2 また私は見た。もうひとりの御使いが、生ける神の印を持って、日の出るほうから上って来た。彼は、地をも海をもそこなう権威を与えられた四人の御使いたちに、大声で叫んで言った。
7:3 「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。」
7:4 それから私が、印を押された人々の数を聞くと、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、十四万四千人であった。
7:5 ユダの部族で印を押された者が一万二千人、ルベンの部族で一万二千人、ガドの部族で一万二千人、
7:6 アセルの部族で一万二千人、ナフタリの部族で一万二千人、マナセの部族で一万二千人、
7:7 シメオンの部族で一万二千人、レビの部族で一万二千人、イッサカルの部族で一万二千人、
7:8 ゼブルンの部族で一万二千人、ヨセフの部族で一万二千人、ベニヤミンの部族で一万二千人、印を押された者がいた。【新改訳改訂第3版】

上の絵は、ドイツの画家 Matthias Gerung (1500–1570) により1530-1532頃に描かれた「Angels Holding the Four Winds / The Sealing of the 144,000(四方の風を押さえる御使いたち/144,000人への押印)」。(Ottheinrich Bible(ドイツのオットー・ハインリッヒ公により編纂された聖書)の挿絵より。バイエルン州立図書館蔵。Wikimedia commons より)

はじめに

1.今日はヨハネの黙示録の7章1節~8節まで。

ヨハネの黙示録の中にはもう、わからないようなことがたくさんあります。異端がいろいろ悪用しているっていうことがありますから、私達は聖書をよく学んで知っておく必要があると思うんです。難しいとかなんとか言って、毛嫌いしないでいただきたいですね。

ヨハネの黙示録は人類に、神さまを信じて道徳的にするようにと勧めているよりも、むしろ、終末の審判を迎える時の信徒の在り方を教えている、と言っても良いと思うんです。
他の聖書の箇所では、神さまを信じて道徳的な生活をするようにと教えている場合もありますが、ヨハネの黙示録の場合はむしろ、この世の終わりの神の裁きの時に、聖徒たちはどういうあり方をすべきか、ということを教えていると思うんです。

ですからすべてのクリスチャンは、やはりこのヨハネの黙示録を十分に学んで、そしてこの終末の時に、自分のとるべき態度を悟り、備えておく必要があると思うんですね。
もしこれを怠れば、神の民の中からも、惑わす者に従っていく者が相当でるだろうと思うんですね。残念なことですが、ほとんどクリスチャンの中から異端に陥ってしまう者が非常に多いというのは、とにかく聖書をよく知らないということが、最大の原因であります。

そればかりでなくて、物質的に繁栄した社会に住む私達は、ややもすると、安閑に毎日を過ごしやすいわけですが、こういう時、私達は、世の中、物が溢れているから生活を楽に暮らすっていうんじゃなくて、聖書を読めばこの世の終わりに生きている、終末の時代に生きている、ということを、今一度思う必要があるわけなんです。
ベレヤのクリスチャンが毎日聖書を調べながら生活していたように、私達も聖書を調べながら生活する必要がある。ある意味でヨハネの黙示録は、異端たちが悪用している一つであります。

2.さて、この7章を見ますと、6章12節で第六の封印が小羊によって解かれていて、第七の封印が解かれるのは8章1節に小羊が解いていますから、この7章は、第六の封印と第七の封印が解かれる間に書かれた、挿入部分である、ということができる。

しかも劇的なドラマがここに記されている。このドラマを見ますと、第一の封印から第六の封印の中にはですね、凄惨なところの記事が書いてあったわけですが、7章は打って変わって麗しさに満ちているんですね。今まで6章までを読んできまして、なんといいますか、ホッとするというか、血なまぐさいですね、荒廃した場面から、7章はガラっと変わって非常に麗しさに満ちている。
ヨハネの黙示録を読んでいると、早く7章にいかないかなあ、という気持ちがするんですが、そういう雰囲気を持っている章なんですね。世の中にラッキーセブンというのがありますが、そういう意味ではラッキーセブンと言えると思います。

さて、この7章の書き出しに「この後」と書いてありますから、これは第六の封印とははっきりと区別されていることが分かる。ヨハネは意識して、第六の封印とは違ったことを書きますよ、ということを記しているんでしょうね。

それから、この7章を読んでみますと、今日は前半を読んだわけですが、二つのグループが記されているように思われるんです。簡単に申し上げますと、1節~8節には、イスラエルの子孫の中から救われた聖徒たち、9節~17節には、地の全ての民の中から救われた聖徒の姿が書かれていると見えるわけですね。

そしてこれらの姿は、ヨハネがこのヨハネの黙示録の中で語りたいと、告げたいという中心テーマであるわけなんです。一番初めにお話したかもしれませんが、ヨハネの黙示録というのは、一つの終末に向かって、天の御国に向かうんですね、同じドラマが何回か繰り返されているということが、お分かりいただけると思うんです。7章もある意味で中心テーマであります。
これはイエス・キリストの教会の最後的勝利、そこに集まるところの民、クリスチャンの幸福、あるいは聖徒たちが栄光を受ける序曲みたいなものになっています。

Ⅰ.この素晴らしい幻を、まず第1節から見てみたいのですが、「四人の御使いが地の四隅に立って」とあります。

1.「地の四隅」とは、初期の人達は「地は平らで長方形だ」といった人がありますが、ここの「四隅」は、こんなことをいっているわけではないんです。

その後の方を見ると、「四方の風を堅くおさえ」とあり、この「四隅」というのは、方角を表す四つの地点を示すものと思われます。つまり、東西南北の方角を表すものだ、ということです。よく山なんか登りますとね、どっちの方が東だとか西だとか書いてあるところがあるわけなんです。これは方角を表す。
ここには風がでてまいりますね。「地の四方の風を堅く押さえ」る。つまり風というのはどの方向に向かっても吹き荒れるわけですけれども、9節以降ずっと見ていきますと、神の聖徒たちの大パレードが行われるわけです。
教会も是非パレードをしたいものです。昔、開拓伝道なんかしますとね、パレードをやったわけです。ラッパを吹いたり、太鼓を叩いたり、何十人もパレードをしたんです。もちろん警察で許可をもらってやるわけですけれどもね。
これはそれ以上です。神の聖徒たちの大パレードのために、「四方に吹く風は堅く押さえ」られているわけですね。

「この四方の風」というのは、自然界の破壊力を示しているわけですね。ちょっと6章の方にかえりますと、もう一度思い起こしていただきますと、四種類の騎士が出てまいりましたね。一番初めは白馬の騎士、二番目の騎士は火のような赤い馬に乗った騎士、第三は黒馬の騎士、第四は青ざめた馬の騎士。これらも神の審判の破壊力を持つことを学びました。
この「四方に吹く風」というのは、それと深い関係がある。彼らの働きを補足するものであろうと、考えられています。神様はこういう自然の破壊力を滅亡の使者として用いることがおできになるということなんですね。そしてこの四人の御使いたちは、地上、海上、そして木の上、つまり上空において破壊をもたらすことも、とどめることも支配しておられる、そういう権威を与えられていたようですね。
天災とかね、寺田虎彦さんが、「天災は忘れたころにやってくる」といいましたがね、忘れたころというのは、あれ、人災だと思うんです。この世で本当に天災と言われるものは、ほとんどないですね。それがあるときは、とっても大変ですね。

聖書を見ますと、ノアの洪水とか、そういうものになってしまうわけですが、旧約聖書を見ますと、神様が自然の破壊力を用いて、人に刑罰を与えたのはごく限られているんです。
例えば、エジプトのパロ、その民の上に起きた十の災い。これは確かに神の自然界を用いた裁き。イナゴにしてもブヨにしても、最近は地中海を東風にのってイナゴの大群がやって来てですね、食い荒らして被害が起きている、ということが報じられているんですけれども、私達がバッタをみて、ぴょんぴょん跳んでいるバッタの程度ではないわけですね。
ナダブとアビフの死(レビ記10:1~)。これも自然界。火が下る。
あるいは地震によって、コラやダタンやアビラムたち家族がですね、地が割れて滅んでしまう。民数記の16章当たりにでてくる。
皆さんよくご存じのロトの奥さんの死。塩の柱になった。塩の柱になったって、どうなったんだろう。あれはおそらく岩塩が吹き上げて、その岩塩に押し包まれてしまったということなんでしょうね。
あるいはもっと大きな出来事ではノアの洪水。こういうものは確かに神が、聖書を見ると、自然界の力を用いて、人類に刑罰を与えた。

今これらを上げましたが、時代から言うと何千年の間のことなんですね。

それ以外のほとんどの災いはみんな人災なんです。ダムの近くに家を建ててみたり、森をわざわざブルドーザーで削って、そこが崩れてくる。危険が数千年にわたって作り上げられてしまったわけですね。私達は先の時代の人がどんなことをしたかわかりませんが、これは天災だ、なんて言われますけれどもね、本当は天災じゃない。一般に天災と言われているもののほとんどは人災であると言ってよろしい。神は確かにこの大自然の力を用いて、人に災いを下す、ということもあり得る、ということを聖書は教えているわけです。

Ⅱ.次にこの2節で、第五番目のもう一人の御使いが現れている。

A.彼の手には「生ける神の印を持って」いると。

やはりこの印鑑なんていうのがでてくるのは、東洋っていう感じがしませんか。ヨーロッパなんて印鑑なんて出てこないで、みんなサインですね。
エデンの園を見ると、蛇が立っている、その印鑑が出てきたわけですよ。印鑑ていうのはずいぶん古いんですね。木があって、人がいて、蛇が立っている印鑑が発掘された。ところがですね、世界には立つ蛇がいるんですね。蛇が立っているんです。子供たちと図鑑をみていたんですけれども、その蛇は立って木の実を食べているんです。私は直接立っているのを見たわけではありませんけれどもね、珍しい記録の中にそういうのが載っていたわけなんです。私達は知っている範囲でしか考えませんけれども、しかし、印鑑の話からそんなところにいきましたけれどもね、アダムとエバが誘惑されている印鑑が出てきたわけですね。ですからこの印鑑は古い時代からあったなあと、思うわけです。

「もうひとりの御使いは、日の出る方から上って来た」とありますが、日の出る方というのはだいたい東の方なんでしょうが、これは、神の光と恵みの昇る方向という意味なんでしょうね。マタイの福音書4章16節を見ますと、

マタ 4:16 暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」

と、イエス様の降誕の時のことが書かれているわけですけれども、つまりこれは神の恵み、これが現れるというのを意味しているんでしょう。
ですから、この第五番目の御使いにはですね、生ける神の印鑑が持たれている、その印鑑の判を押すために上って来たというのは真に相応しい出来事ですね。
彼は先の四人の御使いたちに大声で「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。」と命じた、ということが書いてありますね。これは聖徒の額に命の印鑑が押されて、そして聖徒たちが災いに巻き込まれないようにした後で、この自然の破壊力が激しく使用される、ということですね。

ちょっと飛びますがね、9章4節を見てみましょうか。

黙 9:4 そして彼らは、地の草やすべての青草や、すべての木には害を加えないで、ただ、額に神の印を押されていない人間にだけ害を加えるように言い渡された。

ですから今は封印の話ですけれども、これから、ラッパの話や鉢の話が出てくるわけですね。これをみますとね、似たような話がでてくるわけなんです。結局これは裁き、同じ裁きのことが言われているんじゃないかと思われる節があるわけですね。実際にこの四人の御使いが解き放たれるのは、9章14節なんですね。ラッパを持っている第六の御使いのことを言っているんですね。

黙 9:14 その声がラッパを持っている第六の御使いに言った。「大川ユーフラテスのほとりにつながれている四人の御使いを解き放せ。」

こうして恐ろしいことに、自然界の破壊力の嵐が吹きまくるわけですね。この時までは彼らは閉じ込められていた。

B.ここで私達は7章の方に帰りますが、2節に第五番目の御使いが持っていた印鑑、生ける神の印、聖徒たちの額に押される印とは一体何なのか、というのを考えてみたい。

朱肉の印鑑をポンと押したぐらいではお風呂に入ったらとれちゃいますから、これはそういうものではないでしょうね。
その時の印がどういうものであったかということは、これはよくわからないんですけれどもね、これが何を意味しているかは聖書を読めばわかるんですね。結論から言いますとこれは、神の聖別と保護を表しているんですね。

聖書をいくつか調べてみましょうかね。

① 出エジプトの28章36節

出28:36 また、純金の札を作り、その上に印を彫るように、『【主】への聖なるもの』と彫り、

これはアロンの額に結びつけられていたものですね。『【主】への聖なるもの』と彫り込んだ金の札をアロンは額につけさせられた。これは聖別を表しているんですね。

② ゼカリヤ14章20節

ゼカ 14:20 その日、馬の鈴の上には、「主への聖なるもの」と刻まれ、【主】の宮の中のなべは、祭壇の前の鉢のようになる。

馬の鈴にまで「主への聖なるもの」というのは、神様のものはどんなに小さなものでも聖別されるということですね。これをいっているんです。わざわざ馬の鈴にまでつけていますがね、別になんでそこまで書かなきゃいけないのって思いますがね、つまり、わざわざ書かなくてもいいようなことまで「神の聖なるもの」にされている、ということですね。

③ エゼキエル書9章4節、6節

エゼ9:4 【主】は彼にこう仰せられた。「町の中、エルサレムの中を行き巡り、この町で行われているすべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々の額にしるしをつけよ。」

エゼ 9:6 年寄りも、若い男も、若い女も、子どもも、女たちも殺して滅ぼせ。しかし、あのしるしのついた者にはだれにも近づいてはならない。まずわたしの聖所から始めよ。」そこで、彼らは神殿の前にいた老人たちから始めた。

これは保護をさしているわけですね。滅ぼされる者から助け出されるように、間違って滅ぼされないように。しかもこれは、神殿の聖所の中から始めよ、と言われているところに厳しさがありますね。教会の中からですね。つけてもらえなかったら大変なことになります。これは額ではないんですが大事な印です。

④ 出エジプト記12章7節、13節

出12:7 その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。
出 12:13 あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。

過ぎ越しのことですね。小羊の血が過ぎ越しの印とされたわけですね。この血がついていないところの家は、みんな長男が死んでしまったわけなんです。
これは神の民としての証を意味していたんですね。彼らはキリストを信じている。自分たちは神の民である、神の僕であるということを自らを証する。この血の印と言えば、今日でいえばキリストの十字架の血によって救われている人の印でありますね。このキリストの血の印を、当時はまだ儀式的で、門柱とか、鴨居に塗っているんですが、今時は家に塗ってもだめなわけですね。クリスチャンは心に持つ者ですね。キリストを知らない人が決して味わうことができない、愛と恵みによって守られているわけですね。

聖書ではこういう印が、額とかにつけられていたわけですが、この印とは神の聖別と保護を指しているということがお分かりいただけるでしょうか。最後に私達のおでこにどんな印をつけられるか、まさか焼き印ではないでしょうが、何か印を頂ける。それがどういうものであるかは分かりませんが、神様の聖別と保護を意味するものである。けれども実際はこれらの多くのクリスチャンは殉教の死を遂げていますので、本質的には、肉体的な安全の保護ではない、ということですね。勿論、そういう場合もありますけれども、本質的なこのしるしは何を意味するか、というと、背教からの保護、最後の滅亡からの保護、最後の神の審判を受けないための保護であります。もっといいかえれば、永遠の天国へのパスポートであるということができる。これがなかったらば神の国に入れないわけですね。どうかこの印をしっかりといただきたい。

ですからこの風がとどめられているという幻は、世界の民の中でまだこの印がついていない。福音がまだ伝えられているんですね。福音宣教が行われて、キリストの血の印を受ける者のすべてが終了するまでは、最後の嵐はなおとどめられているということを言っているようですね。ですから、キリストのおいでの前に、しるしを付けられる人が起こされるということは、期待されたいところであります。

Ⅲ.さて最後に、異端者たちの中で悪用され、教会の中でも混乱しているところの、十四万四千人について考えてみましょう。

4節で、「印を押された人々の数を聞くと、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、十四万四千人であった。」と、書いてあるわけですが、まずはじめに、十四万四千人について考えてみたいと思います。

この数は、イスラエルの子孫の内で生ける神の印を押されている者の人数である、とこう書いてあります。さて、この解釈はですね、二つの点に大きく分けられると思うのですが、
一つは、「イスラエルの子孫」をイスラエル民族の子孫としてみるか、もう一つは、新しいイスラエル、すなわち普遍的な教会としてみるかによって、変わってくる。民族的なイスラエルか、象徴的な意味でのイスラエル、神の教会としてのイスラエルなのか、ということですね。
これはですね、聖書の中では、ヨハネの黙示録だけではなくて、他にも霊的なイスラエルについて語られていることがしばしばありますね。ですからこれは、どうみるかということによって変わってくる。

A.確かに、今日の福音の時代になりますと、信仰の世界では、イスラエルの十二部族というのは特別な地位を占めていないわけですね。

特権が与えられていない。旧約の時代とは違うんです。ですからこれは、神の救いのご計画の中にユダヤ人が含まれていることを表す、ユダヤ的方法であるという見方は出来るわけです。
しかしまた、1節~8節までの十四万四千人のグループと、9節~17節の大勢のクリスチャンのグループと二つに区別している、という見地からすると、この十四万四千人は、ユダヤ人にとって、意味のある型に従って聖められた状態にある者達を示している、と考えられる人もいる。十四万四千という数は、ユダヤ人にとって完全を表す数字で、完全にされた状態をあらわすのではないかと、こういう風に考える人もあるわけですね。

B.もう一方では、このイスラエルを新しいイスラエル、すなわち普遍的な教会と考える、これもまた意味が成り立つわけです。

イスラエルを普遍的教会と考える場合ですね、第一のグループと第二のグループをですね、1節~8節と、9節~17節をですね、同一のグループと見る見方です。
同じグループを別々に書いてる、という風に考えるわけですね。

この場合、ヨハネはユダヤ人が用いる完全数ですね、つまり、各部族一万二千人の十二倍は、一万二千を十二倍するとはどういうことなのか、これは各地域に散らばって、多様性のある教会がキリストにあって、完全に統一されている姿である。わざわざバラバラにして、それを一つにまとめている。要するに、世界のあちこちの地域に散らばっている教会が、キリストにあって完全に統一される、ということを表している。この場合も、先ほどお話しましたように、十四万四千人というのは、数ではない。数じゃなくて、キリストにあって完全に統一された、キリストの教会の象徴ということになるわけですね
ですから異端の人達、ものみの塔の人達が十四万四千人を人数としてですね、考えているようですけれども、少し浅はかではないかと、少しどころではないわけですけれども、どちらの解釈をとるにせよ、十四万四千人ていうのは人数ではない。
特別なグループ、こういうふうに単純に考えてはならない。しばしばそういうのは、異端の考え方になってしまう。むしろ、十四万四千人は私達だなんて、自分たちは特殊グループだと宣伝する文句に使われやすい。これは気を付けなくてはいけない。

もちろんこの第二の考え方ですね、イスラエルというのを神の教会と考える場合でも、ユダヤ人のクリスチャンが加えられているというのを拒否しているわけではありませんから、第一の解釈も第二の解釈も、どちらの解釈もあり得る。私達はこれ以上に詮索するのは、根拠がありませんから許されていないわけですが、この他にも十四万四千人に対していろいろなことがいわれてきていますけれども、それは全く根拠がない。

Ⅳ.それからもう一つ私達が気をつけて見ておきたいことは何かというと、5節~8節の中に十二部族について記されているわけですね。ところがここに書かれている十二部族はちょっと違うんです。

お気づきになったかどうか、このあたりのことは大事なことですけれども、ここに書いてある十二部族は、旧約聖書に書かれているものとはずいぶん違っているわけなんです。

① 一番初めにユダの部族が書かれています。ユダというのは、最初に出てくるのは長男のルベンでなくてはいけないんです。絶対にユダヤ人の場合は長男が出てくる。日本の戸籍でもそうだと思いますね。これは、他の記事を見ても言えるわけですが、創世記の49章のヤコブの遺言の時でも、ルベンが先に書かれている。あるいは創世記の43章33節でも、ヨセフがエジプトにいた時に、年長の者から順番に座らせていることが書かれているんです。こういうのを見ますとですね、ユダが一番最初に記されている、ということは、これは異常なわけです。旧約の部族とはかかわりがない。おそらくここにユダの部族が書かれたのは、ま、イエス様がユダの部族であられたからかなあ、という気がするんですがね、なぜユダの部族が最初に書かれたのか、これはちょっとわからないですね。

② 第二番目に問題になるのは、7節の中ほどにレビの部族が書いてありますね。レビというのは御存知の通り、モーセとヨシュアによってカナンの地が分配された時、レビ族は土地の財産を受けられなかったわけです。彼らは神の幕屋を守る者として、幕だけはもらいましたけれども。ところが彼らはですね、一つの部族として、ここに記されている。これもちょっと異常なところがあるな、と。ですからこれは、旧約の十二部族を表していないのではないかな、と思われるわけなんです。

③ 第三番目には、8節の中にヨセフの部族というのが出てくる。旧約聖書のどこを見ても、ヨセフの部族というのはないわけですね。ヨセフはその二人の子、マナセとエフライムによって二つの部族に分けられているんです。それはレビの輩(やから)に土地が与えられませんでしたのでね、マナセとエフライムに土地が与えられて、十二部族を形成したわけですね。
ま、これはヤコブの遺言によってですけれども、レビは幕だけあたえられて、土地は与えられなかったわけです。ところがここに記されている十二部族のリストをみますとね、6節の一番終わりの所にマナセの部族がちゃんと名前がのっているわけです。マナセがのっているんだから、もう一人の兄弟エフライムの部族があるはずですが、エフライム部族はない。そしてヨセフの部族がここに記されている。人はね、ヨハネが間違えたんじゃないかというんですがね、ヨハネが間違えるはずはない。彼はユダヤ人でありますからね、間違えるはずがない。これはヨハネがユダヤ的な表現をとりながら、新しい国家を考えていたものと思われる。

④ さらにダンの部族が消えています。これは何を意味するか、わからないんです。少なくとも、この十二部族のリストはそっくりそのままイスラエルの部族を指していない、ということだけは、明らかですね。ですから、私達は、4節に「イスラエルの子孫」と書いてありますが、これは新しい象徴として用いられているということですね。要するに、普遍的なキリスト教会とみて、ほとんど間違いはなかろう、こう思われるわけです。

ヨハネは、神政国家として誕生したイスラエルの十二部族の表現の仕方をする以上に、新しい神の国を表現する方法はないと考えた。これはヨハネにとって最も表現しやすい、馴染み深い方法であったわけです。ですからここに十四万四千人とか、新しい十二部族の名前がしるされていますが、イスラエルの民族のことを表しているんじゃなくて、新しい民族を、そういうユダヤ的表現によって、これを言い表そうと、幻を言い表そうとしていることがだんだんとつかめてくる。

この次、私達は、白い衣を着て、棕櫚の枝を持って、御座と小羊の前に立っている大群衆について学ぼうと思うわけですけれどもね。この中に私たち自身がいなければいけないんですが、ヨハネはその前に、主の御前に立つ前に、「生ける神の印」、すなわち、キリストの十字架の血潮をおのおの自分の心にしっかりと塗られて、印がつけられているということが大事なんだと、ここに記そうとしているんでしょうね。
ですから、各々は心にキリストの血をもつ、ということでしょうね。それを持っている者だけがやがて神の国に入れる。そし御座と小羊の前に立つことができる。
こういうことが分かってきますと、ヨハネは第一のグループ、これはグループが分かれているということよりも、正しい順序をそこに示したと言ってよろしいと思いますね。
先ず、神の印をうけていることが大事なんだと、その人だけが神の御前で神を賛美することができる、ということを9節以降で記そうと、彼はしようとしているのではないかというわけですね。
ですからどうか、私達は、神様のお言葉を正しく知って頂きたい、この世の中いろいろと議論が飛び交い、異端が飛び交うんですね。
私達は、これは何を意味しているのかということを、間違わずにしっかりと、必要な理解をさせていきたいことでございます。
大事な事は神の僕たちの額に印を押してしまう、と書いてありますから、自らが生ける神の印を頂き、それだけではなくて、多くの方々の心にイエス様を頂いていただきたいと願うことであります。

お祈り

恵みの深い天の父なる神様、主の豊かな憐みを感謝いたします。イエス様は御使いたちに、わたしをとどめて、生ける神の印を額に押すように仰いました。今日も学んできましたように、御言葉の中には、こういう印がたくさん出てまいりました。イエス様、あなたはご自分の血潮を私達に与えてくださいました。心から感謝をいたします。今なお滅びいく魂は大勢います。彼らにも、主よ、あなたの印を押していただけるように、私達が主を証することができる様に今週もどうかお助けください。この時を感謝して、尊いキリストの御名によって祈ります。アーメン。
地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明