音声と文書:ヨハネの黙示録(36) シオンの山に立つ小羊とその民 14:1~5
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PDF文書:ヨハネの黙示録(36)
ヨハネの黙示録 14:1~5
14:1 また私は見た。見よ。小羊がシオンの山の上に立っていた。また小羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった。
14:2 私は天からの声を聞いた。大水の音のようで、また、激しい雷鳴のようであった。また、私の聞いたその声は、立琴をひく人々が立琴をかき鳴らしている音のようでもあった。
14:3 彼らは、御座の前と、四つの生き物および長老たちの前とで、新しい歌を歌った。しかし地上から贖われた十四万四千人のほかには、だれもこの歌を学ぶことができなかった。
14:4 彼らは女によって汚されたことのない人々である。彼らは童貞なのである。彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く。彼らは、神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われたのである。
14:5 彼らの口には偽りがなかった。彼らは傷のない者である。【新改訳改訂第3版】
上の絵は、Apocalypse 22. The Lamb on Mount Zion. Revelation cap 14 v 1-5. Mortier’s Bible. Phillip Medhurst Collection (Wikimedia commons より)
はじめに
13章までは、二千年間の教会の歴史の中で行われてきた出来事が含まれていましたが、14章では明らかに未来のことを告げている。未来の幻ですね。
今までは迫害が続いたり、重苦しい出来事が記されていたんですね。しかし、14章を見ますと、これは明らかに未来であります。ここにはシオンの山に集まるところの神の民を示していますね。この幻は12章から始まりました新しい七つのシリーズの幻の、第六番目に当たります。
Ⅰ.この幻の中には、聞きなれた言葉や数字が出てまいります。
聖書を読んでいて、知っているものが出てくるとホッするわけですけれども、まず、小羊、というのが出てまいります。これはイエス・キリストですね。
次にシオン、という言葉が出てまいりますね。シオンというのは、エルサレムのある山全体のことをシオンと呼んでいるわけですが、これは新しいエルサレムのことです。
それから、十四万四千人のシオンの山に立つ人々、これはまた後でお話いたしますが、この三つが出てくるということですね。
先の13章では、竜だとか、獣だとか、それに従う忌まわしい人々の幻がありました。
これに比べますと、まったく素晴らしい幻にガラッと変わっているんですね。
音楽であれば、ここで素晴らしい曲に変っていくと思うんです。このあたりのことが、メサイヤで歌われているかどうかはわかりませんが、ここでは聖徒達の救いの再確認とその保証、確かに救われています、こういうことがいわれている。
ですから、非常に素晴らしい賛美がここに歌われているわけであります。重苦しい雰囲気から、一挙に輝かしい雰囲気の喜びに包まれているわけです。
A.第1節を見ますと、小羊がシオンの山に立っていた。
ここだけでも非常に素晴らしいですね。シオンの山は、旧約聖書の中でしばしば親しんできた山ですね。このシオンの山は、神の臨在を表します。
神の民、イスラエルの人の注目の場所であります。「都もうでの歌」というのが詩篇の中にあるのですが、これはイスラエルの人が、あっちこっちからシオンの山をめざして神を礼拝するために集まってくる。ダビデはここに幕屋を建てて、ユダヤ人の礼拝の中心になった。
近年も聖地旅行が流行っていますけれども、現代は少し観光的ですけれどもね。100年か200年前には、本当にそこに神の臨在がある聖地エルサレムに向かって巡礼した。
みなさんもご存じかと思いますけれども、十字軍なんてありますでしょ。もう少ししたら、「中高生のためのアドバイス」という本を出そうと思っているのですが、原稿がこの間終わったんですがね、そこに、なぜ戦うのか、なんてね、十字軍のことをちょっと書いたんです。
最初に十字軍が起きた時というのは、巡礼する人がエルサレムに行く、ところがそこにトルコ人がやってきまして、巡礼に来た人をみんな捕まえちゃってね、奴隷にして売っちゃったわけです。これでは安心して巡礼できないということで、十字軍というのが始まったわけなんですが、最初は軍隊ではないんですね。フランスの農民たちがね、安心して礼拝できるように、大勢で渡れば怖くないだろうなんていう感じでいったんですが、その農民たちがみんな捕まってしまったわけです。そして奴隷に売られてしまった。
それで腹を立てて軍隊を送り込んだわけです。イギリスとフランスとドイツでしたかね。十字軍の話をすると長くなりますからやめますけれども、行っている途中で将軍とか皇帝とかが喧嘩しましてね、みんな帰っちゃうわけです。一人だけ残って行くわけです。けれどもうまくいかないで、逃げ帰る。それが十何回って続いているんですが。
一番悲惨なのは、大人がいってうまくいかないなら、子供をやれば勝つだろう、っていうので子供十字軍というのをつくったんですけれども、子供はみんな捕まってしまって、奴隷に売られてしまった。これが十字軍の話ですけれどもね。
もともとはシオンの山に向かって礼拝しに行くのを妨げられて、礼拝に行くと物を奪われたり、捕まって奴隷に売られたりすることがあったんですね。当時のトルコ人というのは野蛮で、今は違うでしょうけれども、恐れられていたわけです。これが十字軍の始まりだったんですけれどもね。最初はシオンの山に向かって礼拝に行く。今でいえば巡礼にいくっていうんですかね。こんなことはイスラエルの時代から、旧約の時代からずっと続いていたわけです。
特に詩篇を読みますと、シオンを賛美していますね。シオンというのを神の代名詞のようにして使っているんです。
詩聖たちは神さまとお会いするために向かっていった。素晴らしい詩篇があるので、読んでみたいと思います。ほんと、クリスチャンは、詩篇を知りますと素晴らしいって思うんですけれどもね。
全部読めばいいんですけれども時間が許されませんのでね、一部分だけ、84篇の5節~7節をお読みしたいと思います。
詩篇 84:5 なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。
84:6 彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。
84:7 彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現れます。
5節をみますと、「その心の中にシオンへの大路のある人は」、と非常に素晴らしい賛美です。
「心の中にシオンへの大路」というんですから、これは新しいエルサレムですね。神とお会いする、とは霊的な意味ですね。
神の道を歩んでいる人は、たとえ涙の谷を過ぎるときがあっても、そこから恵みの泉がわきますよ。非常に素晴らしいんですね。
7節をみますと、「力から力へと進み、ついにシオンにおいて、神の御前」にまみえ、神様とお会いします。
こういうふうな信仰をもってね、賛美しているわけですね。
現代の私たちも、このシオンに向かって進んでいる。心の中のシオンの神とまみえる。新しいエルサレムに向かって進んでいるならば、たとえ涙の谷を通るような艱難があっても、そこを恵みの溢れるところとなる。
しばらくは苦しみを通過しますよね。けれどもそこは泉の湧くところと変わる。そしてますます力から力へと与えられて進んでいく。
聖書の中には、力から力、あるいは栄光から栄光とありますが、シオンに向かう人がどんなに力強い人生、生涯を送るか、ということを歌っているんですね。
この詩篇は非常に素晴らしい詩篇の一つであると思います。
ですから、このシオンの山っていうのは信仰者にとって、かけがえのないものであったわけです。
しかし、ヨハネが見た幻のシオンは、パレスチナにあるエルサレムのシオンではありません。ヨハネの黙示録の終わりの方、21章2節をご一緒に読んでみましょうか。
黙21:2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
ここに「聖なる都、新しいエルサレム」と書いてありますから、ヨハネが見た幻のシオン、小羊が立っているシオンというのは、こっちのシオンですね。永遠の神の都であるシオン。
教会にもよく「シオン教会」という名前がついたり、今度の夏に行く「シオン聖書キャンプ場」っていうんですけれどもね、これらは地上にありますからねえ。
ですけれども、私たちがやがて行くシオンというのはね、地上の現状のものではありません。
全ての聖徒たちはこのシオンの出現をひたすら待ち続けて、待ち望んでいるわけです。新しい天と新しい地が造られる。
このシオンについて、旧約の預言者イザヤも預言している。イザヤがすでにこのシオンを預言しているんです。イザヤ書35章1節~10節を読んでみましょう。これも有名な大事な聖句ですが。
イザヤ 35:1 荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。
35:2 盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光をこれに賜るので、彼らは【主】の栄光、私たちの神の威光を見る。
35:3 弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。
35:4 心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」
35:5 そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。
35:6 そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。
35:7 焼けた地は沢となり潤いのない地は水のわく所となり、ジャッカルの伏したねぐらは、葦やパピルスの茂みとなる。
35:8 そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。
35:9 そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ず、そこで出会うこともない。ただ、贖われた者たちがそこを歩む。
35:10 【主】に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る。
8節以降を見ますと、シオンへの道が出てきますね。これは大路であって聖なる道である。汚れたものはそこを通れないが、贖(あがな)われた者、イエス様によって救われた者は通ることができる。旅人であっても愚か者であっても迷わない、って書いてあります。
ここはですね、大学を出ていないと通れない、っていうんじゃない。
獅子もおらず猛獣もそこに上ってこない。
つまり、周りにはいるんでしょうけどね、迫害だとか艱難だとかは、シオンに向かっていく道にはいっぱいあるんでしょうけどね、咬みつきはしない、っていうんです。そこで出会うこともない。吠える声は聞こえるんです。丁度、鎖につながれたライオンみたいなものですね。
ただ、贖(あがな)われた者たちだけがそこを歩む、って書いてありますでしょ。そして喜び歌いながら、シオンに入っていく。そりゃあ、素晴らしいですね。
シオンには贖(あがな)われた者だけが住む。そこに永遠の喜びと楽しみがあるわけです。イザヤがこのことを預言したときには、幾分かは、バビロンの捕囚からの帰還の意味が含まれていたことはありうるわけですが、究極的な意味では、これは新しいエルサレムを示しているわけです。やがて私たちはそこに向かう。
ですから、私たちはこのシオンへの道、聖なる道を歩んでいる。そこにはいろんな問題が起きるわけですけれども、獅子や猛獣が鎖をジャラジャラいわしているのが聞こえるわけですけれども、食いつきゃしない、咬みつきゃしない。
ここで大事なことは何かというと、贖(あがな)われているか、ということですね。イエス様によって救われていないとここは通れない、ということです。
ここに条件が書いてありますね。詩篇のの84編もイザヤの35章も同じことが言われていますね。
これは預言でありましたが、このヨハネの黙示録は、このシオンの山に小羊が立っているということがしるされている。いよいよここで、実現している幻を私たちは見ることが出来る。ですからこれは素晴らしいわけです。ヨハネはこの詩篇を知っておりましたし、イザヤ書も知っていたわけです。そして旧約の人たちからずっと待ち望んできたんです。これ以外に待ち望んでいるものはなかった。それをヨハネは今、幻として見たんでしょ。ですからヨハネは飛び上がるほど喜んだわけですねえ。
私たちだってね、まさに神の国が目の前に現れてごらんなさい。これはもう夕ご飯どころの騒ぎではないんです。ヨハネはこれを目の前に見始めたわけですね。私たちもやがてそれが実現していくんです。
B.このシオンの山に小羊が立っていたわけですね。
このシオンの山というのはオリーブ山のあるところですね。ちょうどこのオリーブ山からイエス様は昇天なさいました。そしてまた、オリーブ山に立たれる。
預言書のゼカリヤ書の14章4節をみますと、
ゼカ14:4 その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。」
と、こう書いてありますね。ですから、ヨハネが見たシオンの山に立つ小羊とは、再臨されたキリストを示していますね。エルサレムの東に面するオリーブ山に立つ、ということですね。
どうか私たちは、主がおいでになった時に、幻が私たちの目の前に実現するということをね。
世界ではいろいろと備えていてくれているでしょ、衛星放送とかで、イエス様が再臨される時の同時実況放送みたいのを、やっている人はそういうつもりはないかもしれないけれども、ああ、やっているなあと思うんです。
私たちは、心配しなくてもいいんです。そんなものは使わなくても、いいんです。イエス様がおいでになったら、私たちはパーっと天に挙げられますからね。
素晴らしい日のことですね。
C.さらにこの小羊の周りには、額に「小羊の名と、小羊の父の名のしるし」をつけている「十四万四千人の人々」がいた。
1.この「十四万四千人の人々」というのは7章で記されていた人々ですね。
7章に出てくるんですが、まず2節からみてみましょう。
黙7:2 また私は見た。もうひとりの御使いが、生ける神の印を持って、日の出るほうから上って来た。彼は、地をも海をもそこなう権威を与えられた四人の御使いたちに、大声で叫んで言った。
7:3 「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。」
7:4 それから私が、印を押された人々の数を聞くと、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、十四万四千人であった。
ですからこれは、神様のしるしを受けた神の民である、ということですね。
この、「十四万四千人」、というのは意味ある言葉ですけれども神の民の人数を示しているんじゃない。天国に入る人は「十四万四千人」ということではない。それではあまりに少なすぎる。
ものみの塔の人たちなんかは、自分たちが十四万四千人だと思っているわけです。これ、ゾットするんですがね。
これはね、この前もお話しましたが、旧約の聖徒と新約の聖徒を意味している、ということなんです。これはすでにお話しました。
ですから、新しいエルサレムに入る神の民が十四万四千人しかいないという異端のいうことは、人々を恐怖に陥れますし、自分たちを特別視する異端の特徴です。これは私たちはよく警戒しなければならない。
2.彼らが、「小羊の名と小羊の父の名のしるし」を持っていた。
ここに注目していただきたいと思います。
この印って何かといいますと、7章を見ると額に印を押されていた、と書いてありますがね。この印というのは明らかに、小羊イエス・キリストを救い主と信じる信仰のことですね。また、父なる神によって潔められた人々である。
ですから再臨の時のために、パウロがお祈りしていますね。テサロニケ第一の5章23節でね、有名な箇所です。結局この人達のことです。再臨の時のために、パウロが祈ってくれているんです。
Ⅰテサ5:23 平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。
ここで、イエス様の来臨の時にちゃんと立てるように、父なる神、平和の神ご自身が、あなたがたを聖なるものとしてくださる。
ここに祈られた人々が、このシオンの山に小羊と立っている、ということですね。
だから、みなさんね、後でまたお話しますが、この場所にいなかったらもうダメなんですよ。天の御国に入れない。この場所に自分がいなかったらね、他のグループで別に入れる人がいる、とかいうのはないわけですね。
ですからこの印というのは、ちょっとさかのぼりますが、ヨハネの黙示録1章13節をみてみましょうか。ここが普遍的にというか、説明的に幻が書いてあり重要です。
黙 1:13 それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。
燭台の真ん中に人のような方が見えた、と書いてありますね。燭台というのは、これは教会のことなんです。
1章の終わりを見ると、七つの燭台は七つの教会である、と書いてありますね。
教会、つまり神の民の中央にキリストがおられる。
13節がもっとわかりやすく再現されているのが、14章1節である。ですから、幻は同じなんですね。ヨハネが最初に見た幻、これはあまりよくわからなかったかもしれませんが、もっと写実的な幻が、この14章ですね。
ヨハネは、キリストの再臨によって新しい天が下った、そのエルサレムとその中央に、神の聖徒たちに取り囲まれたキリストを予告したわけです。これは素晴らしいです。
Ⅱ.そして第2節をみますと、「ヨハネは天からの声を聞いた。」
この天からの声がすごいですねえ。大水の音のようであった。激しい雷鳴のようであった。
この間も雷がゴロゴロ鳴りました。夕方になると鳴ってますがね。雷のように歌う、っていうのはどうです。なかなか大変でしょ。天にこだまする大水のようである。
みなさん、滝の音を聞いたことがありますか。ドーンという、となりで話をしていても聞こえないですねえ。だから、これを見ますとね、本当に賛美は素晴らしい賛美だなあと思います。しかも、ただごうごう言っているんじゃなくて、後を見ますとね、その声は、よく聞けば竪琴を弾く人がハープをかき鳴らしているようでもあった。
お分かりになりますか。ゴロゴロ言っているようだが、竪琴のようでもあった。
ね、だから、なかなかヨハネが経験したことを、言葉で表すのがどんなに困難かということが分かる。
A.この賛美を誰が歌っているのか、
というのが一つ問題になりますけれども、ある学者たちはですね、御使いたちの軍勢であろう、という話があるんですけれども、確かにこれまでは、御使いの軍勢の賛美をたくさん聞いているんです。
しかしここでは、3節をみますと、
14:3 彼らは、御座の前と、四つの生き物および長老たちの前とで、新しい歌を歌った。
とあります。「彼ら」と書いてありますね。「彼ら」とは誰か。
その前には、1節~3節までの間には、彼らが御使いであったことを示す言葉はどこにも書いていないわけです。またこの賛美は、3節の終わりの方を見ますと、
「しかし地上から贖われた十四万四千人のほかには、だれもこの歌を学ぶことができなかった。」とあります。この歌い手が御使いの軍勢である、という学者たちはですね、「この歌を学ぶ」というところを強調しているんです。御使いの賛美は聖徒にしかわからなかった、という。
これはむしろそうではないと思うんですね。贖(あがな)われた聖徒たちにしかわからない、歌えないところの新しい賛美を歌った、とする方が、聖書は自然であると思われます。
B.しかし歌っているのが、御使いであるにせよ神の聖徒たちであるにせよ、この賛美はすごい賛美ですね。
1.「大水の音のようで、また、激しい雷鳴のようであった。」
どうでしょうかねえ。私たちもこんなふうに歌いたいなあと思いますね。ある教会に行って、賛美歌を聞いたらね、ライオンが吠えているようだったというんですが、いいと思いますねえ。
最近はあまりライオンが吠えているような賛美を聞かないんです。鶯が鳴くのはまだましですけれども、蚊がなくようなね、蚊がブーンブーンというようなね、力がわかないような賛美、これじゃあだめだ、と思いますね。蚊がなくような賛美と、この賛美とでは、雲泥の差があると思いますね。
クリスチャンの賛美はいつもこうでなくてはいけないと思うんです。音符だけよんでいると、蚊が鳴くようになっちゃうんです。力がない。賛美歌を歌った後、「ああ、疲れた」くらいに歌わないと十分ではありませんね。
2.この賛美は力にあふれているばかりじゃなかった。
美しいハープのように調和していた。
天国に行って一つ経験できる、イエス様が再臨して一つ経験できることは何か、というと、賛美歌が非常に素晴らしくなる、ということですよ。
練習しなくて素晴らしくなるんですからね。力強いばかりでなく、美しいハープのように調和していた。ハーモニー、ハーモナイズしていた。
これは聞く者に、大きな喜びと慰めを与えたものであった、わけですね。クリスチャンの賛美の証も、かくありたいものだなあ、と思います。
3.この賛美は、15章3節をみますとね、ちょっと飛びますけれども、ここに新しい歌が出ているんですね。
ここに神のしもべ、モーセの歌と小羊の歌を歌っていた、と書いてありますから、おそらくこの時に歌われた讃美は、神のしもべ、モーセの歌と小羊の歌であった。
この場所に来たらまたお話しますけれども、讃美歌はクリスチャンでなくても誰でも歌えます。けれども、新しい讃美を味わうということは、クリスチャンにしかできない。
新しい讃美というのはね、新しく作詞作曲された讃美歌というんじゃないんですよ。新しい讃美というのは、新しい心で歌う、ということですね。古い讃美が新しく歌えるんです。
確かに私たちが歌っている讃美歌に1000年以上前のもあります。うっかりすると、旧約時代にユダヤ人が歌っていたネイティブソングやイスラエル民謡というのもありますが、しかしどんなに古くても新しい心で歌うことが出来る。ですから、イエス様とともにシオンの山に立つことを確信している者だけが、この新しい讃美を歌うことが出来る、心で味わうことが出来るんです。
讃美は味わうものですね。食べることと同じです。讃美歌は聞くものではない。味わうものですよ。
4.現代のクリスチャンの讃美がね、どうもか弱い。
蚊が鳴くといったら怒られますけれどもね、ほんとに蚊がなくようにしか歌わない。
50人ぐらいいるんですけれどもね、私が一人で歌っているよりまだ小さいんです。オルガンの音だけガンガンなってね。か細い歌ですね。
そのあと「先生、聖書のお話をお願いします」なんていわれて、「やだなあ」って思うんです。やっぱりライオンでなくても、チーターが吠えたくらいは歌ってほしいなと思います。
表面的で、か弱いのはね、信仰が致命的な打撃を受けているんだと思うんですね。これではどうも、天の御国に行けそうにない。どうか讃美歌はテクニックではなくて、こういうような歌を讃美をしたいなあ、と思いますね。
Ⅲ.4節をみると、小羊の周りに立つ聖徒たちはね、信仰が純潔である、ということが記されています。
A.「彼らは女によって汚されたことのない人々である。彼らは童貞なのである。」と書いてあります。
7章の14節をみますと、ここに集まっていた十四万四千人はその衣を、「小羊の血で洗って白くした」と書いてありますでしょ。
この前もお話しましたよねえ。血で洗って何で白くなるのか、ですよね。血で洗ったら赤くなるんでしょうが、血で洗って白くなる。
ですからこれはね、この衣というのは「ガウン」というのではなくてね、私たちの、魂、のことを言っているわけなんです。
ここでは、女によって汚されたことのない人だとか、童貞であるとか書いてありますが、彼らが大胆で、大患難の時にもサタンと妥協せず、純粋な信仰を守り通したということを示しているんです。大体、苦しいとみんな妥協します。純粋というのはそういうことを言っているんですね。
B.しかも、「彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く。」
それは素晴らしいですね。この聖徒たちは、小羊と堅く結びついているんです。彼らは小羊に従い続ける。従い抜いた人。「どこにでもついて行く。」と書いてありますね。
ですから、どんな艱難の中でも迫害の中でも、彼らは小羊に従っていく。そしてついに勝利を得た。
ある中国のクリスチャンの話があります。今も問題が起きていますけれども、今から何年か前にあるクリスチャンが、家族がみなクリスチャンだったそうですね。そして、共産党の人に捕まっちゃった。兄弟が何人かいまして並んでいてね、お兄ちゃんが共産党の人に殺されちゃった。お父さんは捕まっていて、お母さんがいてね。一人子供が殺されれば、お父さんもお母さんも信仰を捨てるだろうと思われてね。お母さんはとても悲しかった。
でも、お兄ちゃんが殺されたら、みんなもっと信仰が堅くなったっていうんですね。
どこまでもイエス様についていく。これがここにいる人たちで、どこまでもイエス様についていく。
この世の人々は、迫害を加えたら信仰を捨てるだろう、と思うんです。ところがそうじゃない。迫害を加えれば加えるほど、どこまでもついていく。これがね、本当のクリスチャンの特徴です。
迫害を加えた時に信仰を捨てちゃうという人は、問題がある。彼らは神と富との二股をかけるような人間ではない。どこまでも小羊に従っていく。
これこそ信仰の純潔。このことを言っているわけです。
C.そして、「彼らは、神および小羊に捧げられる初穂として、人々の中から贖われた」と書いてあります。
ここで、「初穂」という言葉がでています。
「初穂」というと、収穫の時の一番初めの一部分、と受け取られやすいんですが、一般ではそう考えているんですけれども。そうしますとね、シオンに立ったキリストの周りにいる聖徒たちは、贖(あがな)われた者の一部分ということになってしまいます。しかしここではそうじゃないんですね。
「初穂」というのは、神と小羊に捧げられた「いけにえ」という意味ですね。
「初穂」と訳されているこのギリシャ語は、元の言葉は「アパルケー」といって、「いけにえ」という意味なんです。ですから、これは収穫の一部ではなくて、神のために刈り取られた収穫のすべてであります。
この初穂は、マタイの福音書の13章でですね、良い麦と毒麦の話で、終わりの時に刈り取って毒麦を捨てて選り分けますよ、っていう話があるんですがね、丁度ここは、収穫がされ毒麦が選り分けられて火で燃やされてしまう、残った良い麦のことを指しているわけですね、この「初穂」というのは。
ですからこの「アパルケー」というのは、地上から贖われた神の民のすべてであります。これ以外に天の御国、永遠の御国に入れる人は他にはいない。ですから皆さんはここに入っていなければいけない。他の第二グループなんてないわけです。
D.聖徒たちは神への「いけにえ」ですから、第5節をみますと、「彼らの口には偽りがなかった。彼らは傷のない者である」と言われていますね。
1.この言い方はね、やはりヨハネのユダヤ人らしい言い方ですね。
「傷のない者」というのは、旧約の時代のいけにえの思想がここには入っているなあ、ということがわかります。
旧約の時代のいけにえは、傷のある獣を用いることができなかったわけですね。かさぶたがあってもいけない、と書いてありますね。
だから神様に小羊を捧げようと思いますとね、よくよく点検してみなくちゃいけないんです。ただ丸々と太っているだけではなくてね、よく傷がないか見なくちゃいけない。
これはパウロがエペソの5章26、27節でね、こういって教えているんです。
エペ5:26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
5:27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。
これが黙示録の14章で実現しているわけですね。ここをご覧いただけるとわかりますが、傷がないばかりでなく、しみやしわも何一つない。
つまり、どういう状態か。全く新しい、新品の状態ですね。
洗い張りしてアイロンかけた、という状態ではないんです。しみもしわもない。これがね、キリストによる新創造。
第2コリントの5章17節でいったでしょ。
Ⅱコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
これでありますね。ですから、「傷がない」といった時には新品です。
だいぶ私たちも中古になってきましたがね、神さまの前に立つ時はね、さっちゃんとかなおちゃんを見ていると新品だなあ、と思いますけれども、神様の前に立つときはね、新品同様なんです。神様の前に行くと新品同様ですね。新品な状態としてお仕えできる。素晴らしいことですね。ですからパウロはこの状態にある聖徒を、栄光の教会、とこう呼んだわけですね。
新品というのは輝いていますね。
なぜ私たちをこんなにまでして素晴らしい状態にまで回復させたのか。イエス様による回復というのは驚くべきことだということを、知らなきゃいけないんですが、それはどうしてかというと、ご自分の前に立たせるためだ、と書いてあるんですよ。神様は私たちを中古品のままで立たせない。骨董品屋じゃないんです、ご自分のに立たせるためにぴかぴかに回復される、というんですね。素晴らしいことだと思うんです。
キリストはこの御業をどのようにして私たちにされるのか、というと、エペソの5章26節でキリストがそうされたのは、
まず「みことばにより」、聖霊が私たちの心の内にみことばを働かせることによってだ、ということですね。
もう一つは「水の洗い」、魂の生まれ変わりですね。この二つですね。
ですからこれは、人の修行や訓練によってでは到達できない。人間はね、修行や訓練によってはぴかぴかに磨かれない、回復しない、ということですね。ヨハネは「贖(あがな)われた」という言葉でこのことを表しているんですね。
ですから、み言葉と、救いの経験。この再生の経験がいかに大事かということを私たちは教えられる。このあたりは教育や教養じゃないものがある、ということですね。これは人の人格に非常に重要なものである。
教会に来て、イエス様を知っている人とね、聖書を習っているという人の違いがここにありますね。私は、これはとても大事なことだと思いますね。
2.もう一つ書かれていたことは、「彼らの口には偽りがなかった。」という言葉が出てまいりますね。
14章5節にそう書いてありますね。
ペテロがね、イエス様について同じことを言っていますね。
今日はあちこち聖書を開くようですけれども、ご一緒に読んでみましょう。
Ⅰペテ2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
天の御国に入る聖徒は、言葉の真実さにおいてイエス様に非常によく似ている、ということですね。
イエス様が語られた言葉がすべて真実であったように、クリスチャンの証も真実でなければならない。その通りになっていく。
だから私たちはですね、信じていく通りになっていくということをしっかりと知っていなければならない。
やがて私たちは、み言葉に書いてある通りのことが行われていくわけです。そして私たちが証した通りにことがなっていく。
教会がこれから先どうなっていくかということもね、神の約束通り、その通りになっていくわけです。私たちの生涯もその通りになっていくわけです。
ここに言葉の真実性が強調されています。言葉なんて大した力がないように思えます
が、そうじゃない。言葉が真実であるならば大きな力を持っているんです。
クリスチャンは、祈りにおいても真実、証においても真実、日常の会話においても真実。だからあまり軽はずみであってはならない。責任をもって話をするし、実行することよって神の真実を証する。
ヤコブはこういいました。口をコントロールできる人は完全である、とね。
ですから私たちは言葉の真実性を、誰に対しても残していきたいと思いますね。その時、相手が意味が分からなくてもね。何年か後に、あの人が言ったことは本当だったとね、何週間か後に何カ月か後に、気づく時が来るんです。その時受け入れられなくても、その時好まれなくても真実であったと。
どうか相手が好もうと、好まざるをえないにかかわらず、クリスチャンは言葉の真実性を他の人の心に植え付けたい、と思うんです。それによって人々は神の真実さに気づくようになる。
この二つのことが非常に大事ですね。
ことばの真実さと、汚れなき純真。
これはシオンの山に立つキリスト、小羊の周り加わる民の不可欠の条件ですね。シオンの山に立ちたい方は、この二つが必要です。
私たちは、自分で正しく清く正直に生きようと努力しても、ここには到達できません。キリストによって贖われなきゃならない。
み言葉と水の洗い、救いですね。キリストによって贖われなきゃ。キリストにある新創造を受けることによってここに到達できる。このことをですね、ヨハネはこの幻の中で私たちに教えてくれた。
願わくはこの喜びの日を、互いに迎えさせていただきたい。
やがてこのことが実現してくる。シオンの窓が開き始めたら、皆さん、どうします? これは素晴らしいことが起きてくる。どんなドラマを見ているよりも面白いですよ。どんなに面白いドラマを見ているよりもね、本物の方がずっと面白いですよ。
皆さん、涙が出るような劇を見るより、自分の人生を見る方がもっと怪奇だということですよねえ。もしね、自分の生涯をですね、小説にして表してごらんなさい。ベストセラーになりますよ。どの人の生涯もベストセラーになる。作り物より面白い。その代わり一冊しか書けませんけれどもね。
ましてキリストのシオンの山に立つこの日のことを経験したならば、私たちは本当に驚くべきことが起きてくる。私たちはシオンに向かって歩いているなら、やがてここに到達するわけです。そう遠くない日に到達できる。
どうか一歩一歩と前進させていただき、涙の谷をすぐる時があっても、そこを泉の湧くところと変える。力から力へと進んで、ついにシオンの山で神とおまみえできるようにさせていただきたい。今日もシオンの山に向かって、歩ませていただきたい。
お祈り
「彼らの口には偽りがなかった。彼らは傷のない者である。」
天の神様、今日のあなたのみ言葉を感謝いたします。
私たちも一歩一歩とシオンに向かって進ませていただいております。この地上の旅路がシオンの山に向かう、主とおまみえする日のための旅路であることを覚えます。
涙の谷があり、様々に吠えたける獅子や獣が周囲にいても、彼らはその道に上ってこない。恐れることなく、主よ、あなたに「贖われた者」である確信をもって、生涯をたどらせていただき、喜びと楽しみに満ちたあなたのシオンに着くことが出来る様に、どうぞ顧みてください。いよいよ神の道を進む者としてください。
感謝をして尊いイエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。
地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明