音声と文書:ヨハネの黙示録(35) 地から上がって来た獣 13:11~18

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PDF文書:ヨハネの黙示録(35)

ヨハネの黙示録 13:11~18
13:11 また、私は見た。もう一匹の獣が地から上って来た。それには小羊のような二本の角があり、竜のようにものを言った。
13:12 この獣は、最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた。
13:13 また、人々の前で、火を天から地に降らせるような大きなしるしを行った。
13:14 また、あの獣の前で行うことを許されたしるしをもって地上に住む人々を惑わし、剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた。
13:15 それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。
13:16 また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。
13:17 また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。
13:18 ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。【新改訳改訂第3版】

 上の写真は、15世紀頃に書かれたApocalypse flamande(フランドルの黙示録)の挿絵「Dragon, beast from the sea and false prophet(竜、海から出てきた獣、および、偽預言者)」(作者不明、Wikimedia Commonsより)
 フランドルの黙示録とは、15世紀初頭に作られたヨハネの黙示録の写本で、オランダ語で書かれた中世唯一のものであり、フランス国立図書館に保管されている。


「信仰」って何かって言ったら、一言でいえばやはり、イエス様を愛することですねえ。「信じます、信じます」って言っていることが信じることではなくて、愛することですねえ。そして愛する生活をしていく。これが信仰であり、信仰生活である。

『いまわの息かすかに残る時、死の時にも愛をば』。

やがて、この地上を去るんです。時々、私はつくづく思う。ああ、これで力果たしてこの地上を去る時がくるんだなあ、って思うんですよね。若い子供なんかがブラブラしているのを見るとね、もったいない、取り換えてくれないかなと思うことがあるんです。
この地上を去る時もイエス様を愛する愛、これが信仰だと、こういうふうに私たちは知ることが出来て本当に感謝している。
『MORE LOVE DEEP』、もっと私に愛をください。もうこれでいい、っていうのはないわけです。もっと愛をください。私たちはそういうふうに次々と、もっともっと愛をください、という讃美であります。
それでは今日もご一緒に聖書をお読みしていきたいと思います。

こうしてヨハネの黙示録を学んでいる、ということは、悪魔は自分のことを洗いざらい言われているわけです。ですから彼も黙っていやしない。ヨハネの黙示録をお話するようになってから、体のあっちこっちが悪くなって、ま、私の不摂生もあるわけですが、どうも声をからされたり、いろいろするわけでね。悪魔って生きて働いているんだなあと、つくづくと思います。

ま、自分のいやなところを言われているわけですからね、彼もそれなりに攻撃を加えるわけでね。ヨハネの黙示録って簡単にやるものじゃないなと、つくづくと思います。
うっかりすると最後までいかないうちに終わらされてしまう。こういう危険性がない、とは言えない。それほど悪魔っていうのは、敏感に感じているということですね。ヨハネの黙示録をはじめてからね、いろいろと戦いを覚えているわけです。
しかし、それも一つの罠でありますからね、それを恐れてこのあたりでやめておこう、なんてね、そうすれば、またサタンの罠にかかってしまいますから、喉を引っ張って声を出させているわけです。

はじめに

今日はこの11節から学びたいと思うのですが、
ちょっとご覧いただきたいのですが、13章1節をみますと、「海から一匹の獣が上がってきた」と書いてありましたね。11節をみますと「もう一匹の獣が地から上ってきた」と。

海から上ってきた獣は、前回お話しましたが、彼はサタンの手下となった。ヨハネの時代は皇帝ネロである。このように考えられていたわけです。ネロのように、クリスチャンを迫害する反キリスト、パウロはこれを「不法の人」と、テサロニケの手紙で言っているわけですね。海というのは人類であったわけですがね、今度は人類が住んでいるところの地から上ってきた獣である。

ここに二匹の獣が登場してきているんですがね、これもまた聖書を見ますとね、サタンというのはいつも神様のマネをしたがる、ということを何度もお話しました。
神様が三分の一ほど滅ぼす、というと、自分も三分の一ほど滅ぼしてみるとかですね、そういうのが出てくるんですが、これもその一つなんですね。

例えば11章の3節をみますとね、二人の証人がでてきましたでしょ、これは神の証人、キリストを証する証人が出てきたわけです。
ですからね、この海から上ってきた獣と、地から上ってきた獣の二匹の獣は、11章3節のね、神の二人の証人に対抗しているわけです。マネしている。
子供のころ、マネするのは猿だなんていってね。知恵がありそうですけれどもね、悪魔っていうのはそんなに創造性はないんです。いつも対抗する。迫害する人っていうのはそういうのがありますね。
反キリストはそういうところがある。サタンはこの二人の証人に反抗して、二人の反キリストを起こしている。そういうことが聖書を読んでいるうちに、なるほどなあ、と思うんです。いかにも悪魔のやりそうなことだなあ、と分かるわけです。

Ⅱ.それで、二匹の獣をよく見ますと、似ているわけですけれども、ちょっと違いが見える。

海から上ってきた獣は、この前もお話しましたが、国家権力、社会的権力を使って神と神の聖徒たちを迫害した。政治的な迫害であったわけです。
しかし、今日読んだところを見ますと、地から上ってきた獣はちょっと違うわけです。

A.11節の終わりの方に「それには、小羊のような二本の角があり、竜のようにものを言った。」とありますが、みなさん、これを読んで何を感じますか。

見たところは小羊のようなかわいい角がある。口を開くと竜のように、ま、私も竜のようにものを言っていますけれども、つまり、神を汚すということです。ここには、表面的には小羊ですから、キリストを匂わせる宗教性がある、ということです。
しかし、その正体は竜のようである、つまりサタンである。一見すると、地から上ってきたこの獣というのは、おとなしくて親切そうで、メシヤ、救い主に似た態度をとったりしますが、本質は何かというと、人を惑わす、聖徒を滅ぼすサタンの手下であるわけです。

そういう人ってありますね、とても親切そうに猫なで声でやってきてね。しかし一枚その化けの皮を剥ぐと竜が現れる。こういうところ、SFみたいな感じがしますが、実はSFではない。人間はその外見の優しさにつられて、獣に従っていくわけです。
私もですね、この顔がもう少し優しくてね、にこやかで誰にでも好かれるような顔だったら、また違ったかもわかりませんがね。鬼瓦のような顔ですからねえ、神様がお創りになったんだからそう言えませんけれども。
もともと竜のような顔をしてね、小羊であれば、ましかもしれませんが、ここでは逆ですからね。表面的にはすごく親切そうで、キリストに似たような態度をとる。けれども、いったん、その本性を表すと獣である。サタンの手下である。ところが人間というのはその外見につられていってしまう。

いつかも話したか分かりませんけれども、ある青年が教会に来た。
『先生、私は結婚したいんですけれども、どんな人がいいですか。顔のきれいな人がいいですか』
私は、『お前さんね、一生涯顔がきれいだなんて、無理なんだよ。年をとると、みんな全部同じになる。それ、君、分かんないのかい?』って言ったんですけどね。それでね、『毎日見ているとどんなにきれいでも見飽きちゃうんだよ。特徴があってさ、低い鼻は低い方がかっこがいいかもしれない。君ね、顔と結婚するんじゃない。自分の顔を鏡で見てごらん。そうしたら、目がぐりぐりして鼻がまんまるでね、よくそういうことが言えるなあ』って話をして。
次の日に、またやって来て、『それもそうだと思います』なんて言っていましたがね。

人間てね、どうしても外見で人を判断しやすいんです。
いま、面白可笑しくお話しましたが、これは重要なことなんです。なかなかその中身に目が届かない。
この小羊のような二本の角があるとね、やさしそうに見えて、近づいてくると、受け入れやすい。ところがなかなか、ものを言い出すと竜のようにものを言った。サタンのようであった。
とにかくですね、私はなんでも気を付けたいなあと思うんです。親切そうな商人ていうのはまず買わないです。ブスっとして「買いたくなければ買わなくてもいい」なんて人は本物を売っていると思うんですね。なかなか親切そうにおまけをつけてね、おまけの方が多いなんて言うのは、買わない方がいい。
人間はなかなか中身が見抜けない、ということがあるということですねえ。

B.この獣は12節をみますと、第二の獣は最初の獣の前に立って、第一の獣、つまり、海から出てきた獣の前に立って、「第一の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。」と書いてある。

つまり分かり易く言えば、第二の獣は、国家権力を振り回すそういう人に媚びへつらっている偽預言者である、ということです。お分かりでしょうかね。

ローマカトリックの時代を見ますと、ローマ法王が上に立った場合、皇帝が法王の前に土下座したり、歴史を見ると面白いですね。皇帝が法王の前に土下座している時もあるし、法王が皇帝の前に土下座していることもある。
これは、国家権力者の前に媚びへつらっている偽預言者の姿。彼は人民の前には小羊を装いながら、国家権力者になびいているところの偽預言者である。つまり、国家権力者が宗教を利用している。
国を制覇しようと思うと、3つのものを治めなければならないと言われている。一つはお金です。もう一つは教育。そして宗教である、と言われています。
皆さんもご存じのように、昔は、教育というのは宗教の一つだったわけですが、こういうような働きをするのは地から上ってきた獣、預言者ですね。

C.12節をみますと、「地と地に住む人々に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた。」とありますが、この偽預言者、第二の獣は、第一の獣を礼拝させようと、いろいろな不思議な奇跡をおこなって見せた、と書いてあります。

13節を見ますとね、その一つですが、人々の前で、天から火を降らせるような大きなしるしを行ったとね。れもね、マネしているんです。
旧約聖書に預言者エリヤという人がいましたね。あのエリヤという人はカルメル山で火を呼び下しているではありませんか。あれを、急に思い出したんでしょうね。あれをやってやろう、とね。

ですからね、反キリストっていうか、迫害者というのは自分で何か考えて独創的っていうのは一つもないんですよ。みんな、神様がなさったり神の人がやったことをマネしている。
しかし人々はそういうものに驚いて、心が奪われてしまう。人々の心をつかもうという魂胆があるわけですよ。人気取りですよ。
ですから第二の獣というのは、宗教面でのリーダーだということですね。第一の獣は政治とか経済の面からの国家権力ですね。
ですからサタンは、こういうふうにして政治、経済面からの国家権力も利用するし、宗教面で人々の心をつかもうともしているわけですね。
この二つの獣は、各々の分野を支配する悪のリーダーとしてサタンが遣わしたものである、ということができますね。
ですから私たちはですね、これをよく悟らせていただきたいですね。

D.さらに、この第二の獣は14節、15節で、
「あの獣の前で行うことを許されたしるしをもって地上に住む人々を惑わし、剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた。」

ここに第二の獣がした、もう一つの事が書いてあります。それは、人々の心に惑わす心を起こしただけではなくて、第一の獣、つまり国家権力者の像を造ること。例えばヒットラーの像を造るとか、東条秀樹の像を造るとかね。
私も家内に言ってあるんです、「私が死んでも像を造らないでね」って。「誰もあなたの像を造る人はいませんよ」って言われましたがね。
あのね、不思議なことにイエス様の像というのはほとんどないです。マリヤの像っていうのはたくさんありますが、キリストの像というのはほとんどない。これは大事なことですね。像を造ってはいけない。

像を造るというのは、ほとんど石とか金属とかで造ることを考えるんですけれども、実はここで言っていることは、権力者の偶像化を図ることですね。
例えば日本では、先ほど昭和天皇が死にましたね。で、この死を通して天皇制の確立を図ろうとしている動きが活発になっている。これも一つの例なんですね。

15節をみますと、「その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし」と書いてありますね。これは、像が口を開いてものを言う、というのではないんです。 これは、国家権力の下で宗教制度として国民を統一していこう、とする企てなんです。
その一つを見ますと靖国神社もその一つにかかっている。戦争で亡くなった方には気の毒ですけれどもね、彼らは利用されようとしているわけなんです。そうして国を統一していこうとする。みんなサタンの働きが見られるんですね。

こういうようなことは、世界のあらゆるところで独裁主義者から行われてきた。あるいはファシズム、これが台頭した国は必ず、国家権力が宗教を利用するようになるんです。日本も気をつけないといけないと思うんですね。
国家権力や宗教を利用して、迫害するか、国家を統一しようとする。これは第一の獣と第二の獣が共謀してやっていることなんですね。
「獣の像がもの言うことさえもできるようにし」と書いてありますが、これは偶像礼拝の制度、権力を与えた、ということ。それに逆らう者はみんな迫害を受ける、ということですねえ。

昔もそういうものがありましたね。国民はみんな神社参拝しなければならない、ってことがあった。クリスチャンたちも、ま、それに引きずり回された。
韓国の人たちにも対象にして、それを拒む人は投獄されたり死刑にされたりした。これは非常に恐ろしいことであり、そういうことが起きるよ、とヨハネは幻のなかで言っているわけですが、私たちには過去にそういうことが起きたわけで、この幻は単なる幻ではないな、ということが分かる。

Ⅱ.ここで竜がサタンであることはご存じの通りですが、第一の獣と第二の獣、つまり海から上がった獣と地から上った獣は一体誰なのか、というのが問題になるんですが、

結論から言えば、それは各時代において次々と現れてくるサタンの手下ですから、ただ個人の名前だけを上げるわけにはいかない。
次々とその時代その時代に起きてくるんですね。そして国家権力者とそれに仕える偽預言者であります。

A.ヨハネの時代では、第一の獣はネロであった。第二の獣はドミチアヌスと考えられる。

ドミチアヌスは皇帝ですから宗教的リーダーというわけではなかった。彼が第二の獣であるといわれるのは、特徴があるわけですね。
このドミチアヌスという人は、他のどの皇帝よりも皇帝礼拝をさせた、という点ですね。当時のローマ帝国は非常に広いですけれども、トルコ半島あたりも含めて、皇帝礼拝の神殿を建てさせているわけです。
みんな喜んで建てていたわけではないんですね。建てないとその町を滅ぼしてしまいますからね。建てざるを得なかったわけです。

B.この二つの獣が、反キリスト的な働きをするということは事実ですけれども、この獣は、キリストの再臨の時に現れる反キリストのことだけではありません。

それも含まれていますけれども、各時代に現れてくるということですね。
ヨハネの時代にもすでに多くの反キリストが現れていたわけです。第一ヨハネの2章18節を読んでみましょう。

Ⅰヨハ2:18 小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。

ですからヨハネはこの時すでに、終末の時が来ている、って感じていたわけです。それから1900年くらいたっていますけれどもね。だから、ずうっとこの獣はですね、その時代その時代に現れていたわけですね。

C.そのあとこの獣は、ローマ法王であるとか、ドイツのヒットラーであるとか、イタリヤのムッソリーニであるとか言われてきた。

ある雑誌に、ムッソリーニの顔が一面に描かれ、「これが獣である」とアメリカの雑誌に掲載されたことがあるっていうんですね。イタリヤのファシズムの筆頭に上がった人物でありますけれどもね。
その時代の人達は、ムッソリーニはこの獣であるとか、ヒットラーが出てくると獣だとか、日本人はまだ聖書が良くわかりませんから、東条秀樹が出てきても何が何やらさっぱり分からない。今から考えると、彼もこの獣の一人であったのではないかなあ、と思われる。
この獣が誰であるか、ただ個人の名前を出すだけではことが足りない。キリストの再臨の時まで、次々と現れる反キリスト的人物のすべてを示している、と言っていいでしょうね。
現代でいえばどうでしょうかね、この獣の一匹は鄧小平であるかもわからないですね。いろんな国にいろんな獣がいます。日本にもどんな獣がいるか分かりませんよ。
そして、最後の反キリスト的人物が出てくるわけですね。イエス様がおいでになる前は次々と獣が現れてくる。

Ⅲ.さて、この獣がしたことは何か。

1.ヨハネの黙示録に帰りますが、16節、17節をご覧いいただきたいと思います。

黙13:16 また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。
13:17 また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。

獣は先に作った第一の獣の像をあたかも生きているもののように見せかけた。今の時代ならこういうのはできるでしょうね。
そして人々を脅したんですね。これに応答して、獣を拝む者には右手か額のところに刻印を受けさせた。
「刻印」て、何でしょうかね。スタンプぐらいならいいけど、焼き印なんて押されたらどうです。昔、牛とかに焼き印をジューなんて入れましたね。

2.「刻印」ていうのは、そういうのを言っているんじゃなくて、いつの時代にも国家権力者とか偽預言者というのは、彼に従う者と従わない者をはっきりと区別したわけです。

皆さんがよく知っているものには、日本でも「踏み絵」とかがありますね。私は踏んじゃうと思いますよ。しかし、カトリックの人たちはね、良心的に、できなかったんでしょうね。先ほどお話しした神社参拝の強制とかね、これみんな「刻印」と同じです。
で、これはクリスチャンで、これはクリスチャンでないとか、はねのけてしまう。これを拒む者には徹底的に迫害が加えられていっているわけです。
ここを見ると面白いですね。あまり面白がってはいけないんでしょうが、17節を見ますと、彼に従う者には経済的な特権を与えられる。この特権を持っていない者には売買が出来なくなってしまう。

実はこれは実際に起きているんですね。ローマのヨハネの時代にはね、クリスチャンには一切食物を売ってはいけない、売買を禁じたわけです。大変に困るわけですね。パンを買うことが出来ない。もちろん、おやつも買うことも出来ない。何も買うことが出来ない。それで彼らは随分苦しんでいるんです。
ローマ皇帝がですね、こんなことをしたわけで、ま、ここに書いてある通りなんですが、けれども、本当のクリスチャンの姿というのはどういう人なのかを知っていた商人もいたわけですね。だから、そっとパンを置いといてくれるとか、というような方もいたようですね。ですからすべての商人が、ローマ皇帝の指示に従ったわけではありません。

今の中国を見ても同じですね。ニュースなんか聞くと、そっと差し入れしたリね。ビニール袋の大きいのに饅頭とかいれて配ったりね、子供にジュースか何か持たせてね、兵隊さんに飲ませたりね。ああやって心開かせようとしているんだろうな、と思ったわけですけれどもね。
だから迫害しているといってもね、すべての人がそうであったわけではなく、本当のクリスチャンという人の姿を知っていて、そういう人を助けたいという人がかなりいたようですから、それでクリスチャンたちは生活を営むことが出来たわけですね。
こうなると闇(やみ)取引になってしまうわけです。今どき「闇(やみ)」なんていうとお分かりにならないかもしれませんが、昔は、ほとんど食料なんて「闇(やみ)」で買わなかった人なんて一人もいなかったんです。そういうものですね。

Ⅳ.さて、獣の像を拝む者につけられた刻印は何か。

A.それは獣を示すところの数字で表すと、「666」であるということが18節に書いてある。

古い写本では「616」になっているんです。聖書はこの数字の意味について、多くを語っていないんです。
この数字は人間をさしていることはわかりますね。18節で、「その数字は人間をさしているからである。」と書いてありますから。
あとは、それを見分けるには「知恵」「思慮」が必要だと言っていますね。

B.学者たちは長い間、この「666」「616」について考えてきましたが、いまだ決定的な解釈は見つかっていない。

ある時、教会学校の生徒がやってきて、『先生。666っていう映画をやっているよ。ヨハネの黙示録に書いてあるけど、あれ、どういう意味?』
『悪魔の数字だよ』という話をしたことがあるんですけれども。
しかし、聖書からするといくつかのことは分かるんです。

⓵ この数字は獣の名を表す数字であること。

異端の人がこういう数字を使いますのでね、クリスチャンはこれが何を意味しているか、基本的なことを理解していただきたい。そうしたら惑わされない。

② 第二は、獣に従う者につけられた人間を表す数字である。

獣と獣に従う人間。しかし、なぜそれが「666」なのか、あるいは「616」という数字で表されているのかは分からない。

C.ある学者たちはこのように考えているので紹介しておきたい。

それはしかし、決定的なものではありません。

ヨハネの黙示録の13章3節で、獣の頭の一つが死ぬほどの致命傷を受けましたね。それが治ってしまった獣がいて、それはネロであると考えられました。少なくとも最初の4世紀までは、学者のほとんどがこれはネロだと考えました。これがネロだとすると、この数字はネロを表すと信じていたわけです。

ユダヤ人の間では、人間の名前を数字で示すというカバラ法という解釈法があったわけです。ヨハネの時代にはこのカバラ法があまり普及していなかったんですが、後になって非常に興味を持たれるようになってきた。
ですからユダヤ人のクリスチャンたちやその他のユダヤ人は、ヨハネがカバラ法でネロのことを、それとなく伝えようとしたのではないか、と考えたわけですね。
ネロが獣だ、なんて言ったらヨハネは捕まってしまいますからね。ま、捕まって島流しにあっているわけですけれども。
この解釈法によりますと、「ネロ・カエサル」という言葉はですね、ヘブル語で書くと「616」になるんです。また、「ネロン」という言葉をギリシャ語で書くと「666」になります。ラテン語で「ネロ」と書くと「616」になります。
ですからネロは、ヨハネの幻の中で、「海から上ってきた獣」であったと、考えたわけですね。
しかし、そうするならですね、、「666」とか「616」はネロだけに当てはまって、ネロ以外のことを指していない、ということになってしまって、この解釈がすべてを満足するというわけにはいかない。他にも獣がいるわけですからね。

D.そこで、はっきりといえる最大限度のことをお話しますとどうなのかと言いますと、聖書の中の「7」という数字を考えていただきたい。

「7」は神の完全性を意味しているわけです。これはすべての新約学者が一致しているんです。「7」は神の完全を表す数字。
ところで「6」というのは何ですか。「7」から「1」引いたものでしょ。つまり、神の完全性に満たない「6」は「罪」を表している、と言われているわけです。
「666」とか「616」は、罪を表す「6」が、3つ、2つと繋がっているということなんですね。ですから「罪」の徹底さ、極悪さを表しています。こう考えるのは間違いではないわけですね。
「666」と「616」の刻印を示す、獣と獣に従う人々は、罪を悔い改めようとしない、あるいは恐るべき悪の勢力と集団を意味することになる、ということです。
ネロもその一人だと思いますけれどもね、少なくとも私たちはこのことをはっきりと知ることが出来る。異端の人達が「666」をいろんな解釈をしましてもね、私たちはこの解釈をしっかりとしていなくてはいけませんね。これは一個人のことを表していない。

E.そして最後に、ヨハネは、各時代に生きるクリスチャンは、知恵と思慮をもって各々の社会の中で獣や獣に従う人々を見分けて、それに類するものにならないようにと。

18節で、「ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。」と書かれている。
仲間にならないようにしなさい、また不必要に彼らの攻撃や迫害を受けないように心掛けなさいということですね。
「666」の番号をつけている人、背番号をつけている人がいたらすぐに分かるんですがね、つまりこれは背番号の数字ではないんです。
体のどこかに書いてあるんじゃなくて、その人の罪深さ、悔い改めようとしない頑固さ、不信仰、これらがこの数字の意味するところのものだ、ということですね。

これを「知恵」「思慮」をもって見極めなさいよ、と教えてくれた。

1.「知恵」とは何かというと、箴言に書いてある通り、神を恐れて歩んでいるなら自然と身についてくる分別力です。その霊的分別力によってサタンの手下として働くずる賢い、悪を行う者を見分けて、彼らから離れていなさい、ということですね。

2.「思慮」というのは、神のみ言葉を学ぶことによって身につけることができる霊的分別力です。どちらも霊的分別力ですがね、

クリスチャンは神と共なる生活をすること、神のみ言葉を学ぶことによって、この「知恵」と「思慮」を得ることが出来ます。
今の悪しき時代にあって、悪に染まらず、神の道を全うすることが出来るには、これしかないと言ったんですね。
これを怠ると、クリスチャンといえども、「666」の仲間になってしまう危険があるわけです。私たちの周りには、いたるところに「666」を記した人物が大勢いるわけです。クリスチャンを狙っておりますから、細心の注意を払って生活をしなければならない。「知恵」と「思慮」が必要であると、ヨハネは教えてくれているんですね。
大変な獣が上がってきたことであります。
私たちの時代にも、上がってくるやも知れません。どうぞ、心して信仰生活を全うさせていただきたいと思います。

お祈り

「ここに知恵がある。思慮ある者は、獣の数字を数えなさい。」
恵みの深い天の神様、今日もこのヨハネの黙示録を通して、今の時代にある危険を教えてくださり、ありがとうございます。私たちの時代に来たるまでにこの世は荒れすさんで、あるいは悪によって牛耳られ、甚だしい迫害もあったわけです。
今も世界の各地ではこのようなことが行われて、独裁主義とか、ファシズムが台頭してくると、獣が勢いをもって迫害を始めるわけです。
どうか私たちは知恵と思慮をもって、それを見極めた歩みができるように、どうか顧みてください。
この時を感謝して、尊いイエス様の御名によってお祈りいたします。
アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明