音声と文書:ヨハネの黙示録(37) 永遠の福音 14:6~13

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PDF文書:ヨハネの黙示録(37)

ヨハネの黙示録 14:6~13
14:6 また私は、もうひとりの御使いが中天を飛ぶのを見た。彼は、地上に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた。
14:7 彼は大声で言った。「神を恐れ、神をあがめよ。神のさばきの時が来たからである。天と地と海と水の源を創造した方を拝め。」
14:8 また、第二の、別の御使いが続いてやって来て、言った。「大バビロンは倒れた。倒れた。激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた者。」
14:9 また、第三の、別の御使いも、彼らに続いてやって来て、大声で言った。「もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、
14:10 そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。
14:11 そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。
14:12 神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒たちの忍耐はここにある。」
14:13 また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行いは彼らについて行くからである。」【新改訳改訂第3版】

上の絵は、オランダの地図作家、彫刻画家、出版家である Gerard de Jode (1509–1591) により1585年に描かれた「Icones Revelationum S Ihoannes Evangeliste in Pathmo(パトモスの伝道者ヨハネの黙示録のイコン)」の一枚、Wikimedia commons より

はじめに

黙示録の14章6節~20節は一つの幻になっているわけです。七つの幻のシリーズの第七番目の幻であります。

この部分は、これまでもしばしば出てきましたように、神様の苦しい厳しい裁きの合間に、信仰者に大きな慰めが与えられる、救いの確信ですかね。
真実な信仰者に大きな慰めが与えられるために、艱難や迫害の中で信仰を守るようにと、慰めを与える幻であるということが出来ます。

この七番目の幻は、二つの部分から成っています。
一つは、6節~13節、永遠の福音の宣言ですね。御使いが3人出てまいりますが、これはみんな宣言をしている。
もう一つは、14節~20節、今日はその部分をお読みしませんでしたが、14節以降は、福音が延べ伝えられたあとの裁きが書かれている。
今日はその最初の部分を読んだわけです。

Ⅰ.6節で、「もう一人の御使いが中天を飛ぶのを見た」

と書いてありますね。

この「中天」というのは、中空のことですね。要するに、「飛ぶ」ということですから、かなり高いところでしょうが、鳥や鷲が飛ぶというあたりでしょうね。
この御使いの登場というのは、久し振りのことであります。11章でラッパを吹かれた第七の御使い以来、ずっと、御使いの登場が途絶えていたわけですが、久しぶりに登場してくれます。
ここでは、御使いは何をするために現れたのか、といいますと、福音を宣言するためであるということがわかります。ですから、「もうひとりの御使い」と書いてありますが、おそらく第七のラッパの御使いであろう、と考えられるわけですね。

1.この御使いは6節の終わりを見ると、「永遠の福音」を携えてきた。

この「永遠の福音」とは何か。
この「永遠の福音」と言いました時は、神の奥儀、神の言葉のことを言っているんですね。イエス様も「天地は過ぎゆかん。されど、わが言葉は過ぎゆくことなし」とお話になりました。永遠の言葉、これ福音ですね。すなわち神の言葉、メッセージを携えてきた、ということです。

普通、私たち人間は「永遠」と聞くと何を考えるかというと、「無限に長い時間」を考えます。それを「永遠」だと思っているんですね。しかしそれは「永遠」についての正しい理解ではない。このあたり、聖書を読む者は正しく理解する必要があると思うんですね。
「永遠」とは時間のことではない、ということです。「永遠」とは時間を超越した存在です。ながーい時間というのは、それは短い時間なんですね。時間を超越した存在。これは、人間の頭の中では時間を超越するということは、考えられないわけですね。
タカちゃんが今、マイナスっていうのを習っているんだそうです。小学校の時代では3から5は「引けない」、っていうんですよね。それでもマイナスっていうのをおぼえて、それは、借りていることなんだ、ってなことをね。もっといくと考えられないことがあるんだぞ、なんて言うと、こんがらがって分からなくなりますから、もうやめたわけですけれどもね。

人間の考えられる範囲というのは限られています。「永遠」というのは、これは時間を超越しているわけですから、時間の中でしか生活をしたことのない人にはもう分からないわけです。時計がない、と言っても時間は過ぎているんですけれども、時間を超越した存在というのは神以外にはない。被造物というのはみな、時間的存在なんですね。ですから「永遠」とは何かと言ったら、本質的には神を指すわけです。
ですから、「永遠の福音」って言ったら、長い間続く福音ということではなくて、神の福音と呼んでいただきたいわけです。この福音が神のものであるという特質が分かれば、この福音は時代によっても変わらないし、民族、国語の違いによっても変わらない。
どういう人々にあっても、イエス様の時代の人であっても、2000年後の今日の人々であっても、少しも変わらない。つまり適用できる福音である、という意味なんですね。

2.「彼は、地上に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために」遣わされたと書いてありますから、この御使いはある時代のある人に、というのではない。

しかし福音を伝えるのはクリスチャン一人ひとりにしかできないことです。御使いがここで伝えているなら、クリスチャンは何もしなくてはいいじゃないか、となりますけれどもそうではないようですね。
ここで記されていることは何か、といいますと、この御使いは、神の最後の裁きが行われる前に、もう一度クリスチャンを励まして、終末の時代でも、最後の裁きが行われるまでは、まだ世界の各地の人々が救われる可能性がある、ということをクリスチャンに確信させようとしている、ということですね。
まだまだ、世の終わりが近いとはいえ、まだ来ていない。ですから、救われる人は世界のあちこちにいますよと、こういうことをクリスチャンに教えるために、確信を与えるためにやってきておるというわけですね。

3.7節をみると、その福音の内容はどういうものであるか。

「神を恐れ、神をあがめよ。神のさばきの時が来たからである。天と地と海と水の源を創造した方を拝め。」

これは神様への礼拝を訴えているわけなんです。ここを見ると礼拝の3つの要素を宣べていますね。

⓵ 第一に「神を恐れよ」と書いてありますね。

神の前に粛然(しゅくぜん)たれ、ということです。聖書の中には、「すべての被造物、すべての創られたものよ、神の前に粛然たれ」と。今、この粛然とするということが少ないですね。何か騒々しい時代です。夜中でもブーブーと何か飛ばしていますしね。
粛然とする。これが敬虔の基本です。粛然とするというのは、ただ静かに座っている、というのではありません。魂の問題ですからね。
神様の前にピリっと、何か言葉でいいようがないんですけれども、神を畏れよというのだから、畏れることなんですけれども、粛然とする、よく日本では襟を正すといいますが、神の前に出たら粛然とする。礼拝の時だけ粛然とするのではなくて、全生活を通して神を畏れた生活をするということですね。

イエス様がマタイの福音書の24章から25章で、終末の教えのところで語られていますが、そこを見ますと、主人の帰りを待つ忠実な思慮深い僕の話をされていますね。
神様を畏れていないと、僕がですね。主人が帰るのが遅いと言って仲間をうち叩くとかですね。あるいはドンちゃんドンちゃん騒いでいるとか、そういうふうになるよと、警告されているんですが、イエス様がおいでになる前に忠実な思慮深い僕のように生活しなさいと、それが神を畏れよ、ということなんです。
ですから礼拝というのは、教会の日曜日の礼拝だけのことではない。普段の生活そのものが礼拝である。

② それから第二番目には、「神をあがめよ」

「あがめる」というのは、賛美をすることですが、間違ってはいけないことは、讃美歌を歌うことではありません。
「あがめよ」というのはね、言葉の上で賛美を歌うことではなくて、魂の状態です。心の中が神を賛美している状態です。口で歌っているかどうかは別ですね。今日クリスチャンは神を賛美しない時代ですね。
讃美歌は上手に歌うようになりました。最近はコンピューターが発達しましたから、どんなに下手な人でもコンピュターにインプットしておけば、どんなに難しい賛美歌でもですね、誰でもが演奏できる。そういう時代ですね。賛美する人間がいらなくなったんですが、音楽はがなりたてていましても、賛美を歌って神をあがめることにはならない。

京都のお寺の方では、コンピュータにお経をインプットしておきましてね、お坊さんがいないんです。厳かに途中でゴーンゴーンとなって、すだれの向こうに何やら怪しげにですね、その方がありがたがるっていうんですね。今はそんな時代になってきていますけれども魂は全然動いていない。神様があまりあがめられていない。

その証拠に賛美のイベントなんかがありますと、クリスチャンが集まりますけれどもね。自分の生活の中で本当にイエス様を信じて喜んで賛美を歌っているかというと、そうじゃない。何か雰囲気で歌っている。
「あがめる」ということはその人の心の状態なんですね。ですからこれは練習できないんです。私たちはいかに神と交わるか、ということですね。「神様をあがめる」、これは私たちの通常の心の状態です。

③ 第三番目の礼拝の姿は、「神を拝め」と書いてありますが、これは実はひれ伏して礼拝することを言っている。

ヒンズー教徒なんか見ますと、地べたにべったりとですね、体をつけて礼拝している。ま、恰好だけなんでしょうけれども、クリスチャンはね、神様の前でひれ伏すことを知らないといけないと思います。体だけ地べたにつけていればいいってものではありませんが。
神様を前にどんなに自分が小さく、どんなに愚かな者であることを知らなければ、自然と横柄で高慢な態度をとるように.なっていくんですね。神様の恵みに感謝することも大切ですけれども、感謝の前に、へりくだるということが大事です。礼拝はどうしてもへりくだる心の状態が必要なんですね。

箴言の15章33節に、何度もお話していますが、「謙遜は栄誉に先立つ」と書いてありますね。ですから私たちは、いかなる栄誉にあずかるにも勝って謙遜が必要になってくる。もし謙遜なしに栄誉にあずかればその人は高慢になる、横柄になって滅びる。私たちを最も安全にしているのは、神を畏れ、神をあがめ、神を拝むことである。
私たちは神のみ前では文句なしにひれ伏す。ひれ伏すだけの敬虔さが欲しい。神の御前で議論したり論争したりするのは、とても横柄なことであるということです。その人は神を恐れない人であるといわなければならない。
第一の御使いはこのことを教えた。神の永遠の福音のメッセージは何か。それは神を畏れ、神をあがめ、神を礼拝することです。

④ さてこのメッセージには二つのことが言われています。

イ、一つは、「神の裁きの時が来たからである」と書いてありますね。
これは、神が最後の裁き主であると言っているわけです。人間は、本当に裁くのは神である、ということを心に留めなくはいけないと思いますね。裁判官でもありません。神が最後の裁き主である。
もしこの福音のメッセージを拒むならば、その人は神の裁きを受けるんだ、という警告ですね。この福音はいつの時代でも変わらない、ということを心に留めましょう。神が裁くということが分からなければ、人間はいい加減な生き方をしてしまう。

ロ、もう一つは、「天と地と海と水の源を創造した方を拝め」
これは創造者を強調している。

この二つの表現は何を意味しているのか。
それは宇宙を創造し、またその時代を締めくくって、もう一度新しい天と地を創造されようとしている神を言い表しているわけなんですね。
ですからこの言い方は非常にふさわしい言い方だと思いますね。永遠の福音でありますけれども、まもなく新しい天と新しい地を創造されようと、そのために今の時代を締めくくろうとしている神。それを強調していますね。ですからこれは終末におけるふさわしいメッセージであると思いますね。
どうか私たちも、この世の終わりに近づいておりますが、神を畏れ、神をあがめ、神を礼拝する心の態度をですね、しっかりと身につけていきたいものだなと、これがなかったら、私たちは横柄な態度になりやすい。神の御前でぶざまな生涯を送ってしまいやすい。

Ⅱ.次は第二の御使いが現れています。

この御使いは「大バビロンは倒れた」と言っていますね。これは宣告であります。
大バビロンという言い方は、この後にも出てまいりますね。
17章5節でも18章10節でも出てまいります。

黙 17:5 その額には、意味の秘められた名が書かれていた。すなわち、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン」という名であった。

黙18:10 彼らは、彼女の苦しみを恐れたために、遠く離れて立っていて、こう言います。『わざわいが来た。わざわいが来た。大きな都よ。力強い都、バビロンよ。あなたのさばきは、一瞬のうちに来た。』

終わりの方を見ますと、「大きな都よ。力強い都、バビロンよ。あなたのさばきは、一瞬のうちに来た。」とありますね。
ここではバビロンという言葉が使われていますが、バビロンというのは当然、全イスラエルを捕囚にしたバビロン帝国を指しているわけですけれども、この大バビロンというのは大権力をふるいました。ところが一瞬にしてメドペルシャによって滅ぼされてしまった。大繁栄から急転落して滅びていったバビロン。それが歴史的背景になってここに用いられている。

しかしここでいう大バビロンとは、直接的には、そういう歴史的な背景があるんですけれども、あのネブカデネザル王が築いた大バビロンのことではなくて、ヨハネの時代からすれば直接的には「ローマ帝国」を指しているんですね。ローマ帝国もバビロンと同じように、歴史的に力をつけていった帝国であります。
しかしこのローマ帝国も一つのことを象徴しているに過ぎない。実は、この大バビロンの本質は何かというと、神が怒りを下そうとしている不信仰で、悪を栄えさせようとしている背教の世界。これを象徴しているわけですね。ですから、この大バビロンは今日もなお存続しているわけです。このバビロンの上に神の怒りが必ず注がれるということですね。

ここに、倒れた、ということが二度言われていますね。「大バビロンは倒れた。倒れた。」
瞬く間に倒れていく。この世の権力、繁栄というのが一瞬のうちに倒れていく姿を記しているんです。

8節で、その不品行がどんなに周囲の国々に悪影響を及ぼしたか。
「激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた者。」とこう言っていますね。
神を知らない、繁栄し、腐敗した帝国がいかに多くの悪影響を及ぼすかということを教えているんです。

たとえば、戦後の日本の経済発展は良い影響を与えていないんですね。家庭はどんどん崩壊していっているし、子供たちはみんなおかしくなっているし、現代人を見ますと、何か空のスイカのような生き方をしているんです。あらゆる分野で混乱と腐敗を起こさせている。そればかりでなく、ここに、すべての国民に飲ませた、と書いてありますから、世界の国々にどんなに悪影響を及ぼしてきたか。
皆さんもご存知でしょうけれども、特に韓国、台湾、フィリピン、インドネシアね、戦争における被害だけではなくてね、現代もですね、日本から観光旅行に行く人達のやることなすこと、恐ろしいですね。
最近も皆さんご存知の通りに、台湾やフィリピンから働きに来ていると言いますけれども、風俗営業についていたりですね、そういう問題が次々とあるわけですね。悪影響は測りしれない。この及ぼしている影響は、戦争が及ぼした以上の影響を及ぼしている。そういうことが今頃になって、だんだんと国際的な問題になりつつある。
日本だけでもそういうものがたくさんあるわけです。これは世界の神を知らない不品行の葡萄酒がいかに恐ろしい影響を及ぼしているのか、ということです。
神を拒み、腐敗した国が何らかの支配を持つことは、世界を悪に染まらせてしまう、ということです。この第二の御使い、大バビロンは瞬く間に滅びる。こういうことが言われているわけですね。

Ⅲ.それから、9節。「第三の御使い」の出現。

A.彼は、13章で登場したところの獣の権力に妥協して偶像を拝んだ者、そしてあの獣のしるし、「666」、を額に受けた者の、警告を語っているんですね。

この世にあっては、しばしば悪の権力に妥協しやすい。最近の中国の情勢を見ていると、みな妥協する。問題が始まったころは、自分たちは民主化運動の方に旗印を上げているようでありましたが、だんだんと変わってきて、何かコウモリのようですね。鳥の国と獣の国の間にコウモリがいったり来たりして、勝つ方に鞍替えしている。
こんなのを見ていましても、「長いものには巻かれろ」式で、それだけではありません。中国の情勢に対して日本のとる態度なんて、これまたコウモリですね。

自分が損しないようにして、正義感とか良心とか主義とか主張とかをはっきり持たないで、大勢の集まる方に鞍替えしている。そういう生き方であります。これは悪の権力者の権力に妥協しやすいということですね。
しかもこういうのを見ますと、一般の人の方がはっきりとした態度をとりますね。これに対して、よく分かりませんが、軍事関係の地位にある人とか、何らかの地位や名誉を保とうとする者は常に長いものに巻かれろ式になりやすい。毅然とした態度をとらない。そうするとサタンのわざにくみしやすい。

もしそうなってしまったなら、神の怒りから免れることはできない。「額に刻印を受けるなら」と書いてありますがね、判子がついていたら印がついてわかるんでしょうが、これは目に見えるような印ではありません。
気を付けなければなりません。長いものに巻かれろ式になってはいけません。これは言い訳は通らない、ということですね。ちょっと獣に妥協しただけだとか、それほど獣に忠誠心を尽くしたわけではないと、いろいろ言い訳をしても刑罰が緩められることはありませんよ、ということですね。
ほとんどすべての獣に従う人々、中国でもそうだったと思うんですが、軍隊を動かすためにですね、いろいろとやっている人達。しかし、本当に強硬にやっているリーダーたちに心から忠誠心を持って尽くすというのではないわけでしょ。ただ神よりも獣の権力を恐れているんですね。ですからあとで、イヤ、私は心の中ではそう思わなかったんだ、心から賛成したわけではなかった、と言ってもですね、それは言い訳になりませんよ。
神は、このような獣のしるしを受ける者に対しては、憐みを示すことはない、ということが、この「混ぜ物なし」という言葉の中に書かれているわけですね。神様の怒りはそのまま注がれる。

B.この審判は「聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。」と書いてあります。
1.「火と硫黄とで苦しめられる。」は、すぐに思い出されるのはソドムとゴモラの審判ですね。

これは明らかに地獄を意味しています。ヨハネの黙示録の20章10節をご覧いただきましょうかね。このところに地獄がはっきりと表れてくる。

黙20:10 そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。

14章のこのあたりから地獄の幻が現れ始めている。私たちのこの生涯も気を付けないと、この地獄に陥れられてしまう。

2.さらにもっと厳しいことに、彼らの滅亡は、聖なる御使いたちと小羊の前で行われるということですね。

これはいかに深刻なものであるかということを表しているんですが、彼らの滅亡は御使いたちと小羊によって確認される、ということなんですね。だから逃れることがないんです。紛れ込んで天国に入った、なんてことはないんです。絶対にない。最終的で永遠的なものであって、逃れられないものである。聖なるお方によって徹底的に確かめられる、恐るべきものなんですね。
いつでしたかね、大蔵省が古いお札をですね、燃やしているのがありました。一万円札が完全に燃え尽きてね、形がなくなるまで完全に燃やすんです。地獄で燃やすっていうのはこういうのかもしれませんね。小羊の前で、完全に燃やされる。この時はイエス様の憐みは全然ない。イエス様、私は生きているあいだ、讃美歌を歌いました、献金しました、教会に行きました、と言っても言い訳にならないですね。
どうか信仰というのは厳粛なものであるということを、よ~く心に留めておいていただかなければならないと思うんです。

3.さて11節に移りますと、彼らは地上にあっては不本意であったかもしれないけれども、ま、獣に従ってしまった。神を呪い、獣に加担して、神に逆らった。

彼らは自由に振る舞っていたようであります。
しかし、神の裁きを受けるとき、その苦しみはいかなるものであるか。
「彼らの苦しみの煙は永遠にまでも立ち上る」と書いてありますね。逃れられないということですね。しかも中途半端じゃないんです。永遠に続き、逃れることが出来ない。
獣とその像を拝む者は誰でも、獣の名の刻印を受ける者は「昼も夜も休みを得ない」
先ほどの20章10節にもあったでしょ。「昼も夜も苦しみを受ける」と書いてある。つまり中休みがない、ということです。地獄でブザーがなってね、今から10分休憩、なんていうのはないわけですね。中休みのない苦しみがある。どうか、この地上では苦しみがあるかもしれないけど、そんなものじゃないということですね。
そしてここに書いてある通り、獣もここに行く。獣の像を拝む者、13章で第一の獣、第二の獣が出てきましたね。海から上ったものと地から上ったもの、こういうものを拝む者に科せられる。
ですから私たちは十分に気を付けて、信仰生活を全うさせていただきたい。

C.しかし、彼らへのこのような裁きは、神の聖徒たちが殺されるほどの迫害と試練とにあった後に下る、起きるというんですね。

獣とかそれに従う者たちがこういう裁きを受ける前に、聖徒たちは大きな迫害を受けることになるわけです。ですから神の聖徒には忍耐がいるわけです。
なぜ獣に従う者が大勢出てくるのか、というならば、獣たちによって大きな迫害が生じるからなんです。ですから聖徒たちは、この戒めを守り、12節にイエスに対するこの信仰を持ち続ける、聖徒たちの忍耐がそこにある、というのはそのことなんです。
獣に従う者の永遠の審判を十分に悟っていないと、神の聖徒といえども獣の迫害によって、その苦しみに耐えきれず、獣に妥協する者が起きてくる危険がある。ですから信仰者は最後の審判をよく悟っていなければならないということですね。
目先の苦しみで信仰を捨てた、とか言っていてはいけない。神の戒めを守り、イエス様に対する信仰を堅く保ち続けなさい。艱難の時に多くの信仰者が振るわれる、かもしれないですね。
どうか私たちは、この最後の時の審判がいかなるものであるか、ということを心に留めさせていただきたいと思うんです。

Ⅳ.さて13節をみますと、神の聖徒たちの忍耐を励まし、保証するかのような天の声が与えられている。

A.「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」

これは特別な人の殉教についてではなく、一般のすべてのクリスチャンの殉教者に対する祝福である。
なぜ彼らは幸いなのかというと、天の声はこう言っている。
「彼は主にあって死んだからである。」
私たち真の幸いを得るためには、どうしても主にあって死ぬ必要があるわけです。主にあって生きている者は、必ず主にあって閉じなければならない。
途中から信仰を外れて脱線しないように。信仰を最後まで、いかなる艱難、いかなる迫害の中をとおっても、信仰を全うするものは幸いである。お互いは信仰をしっかり持って、主にあってこの生涯を閉じさせていただくなら、幸いですね。

今日も、松谷姉妹のお母さんがね、50年ぶりに信仰が復活しました、と言ってお帰りになりました。「先生、私は救われました」と。半世紀ですねえ。願わくは、まだお元気なのに死ぬことを言ったら怒られるかもしれませんが、主にあって生涯を全うしていただければ、これほど大きな幸いはないと思うんですね。
ヨハネの黙示録の2章10節に「死に至るまで忠実な者には命の冠が与えられる」と約束されていますね。やっぱり、私たちは信仰を最後まで全うしたい。これは本当に幸いである。
みんな一度はこの地上を去ることであります。しかし、主にあるかどうかが非常に大事なことですね。ここに第一の幸いがあります。

B.次にこの天の声、御霊は、聖徒たちの死後の状態を語っていますね。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。」

ここに「労苦」とありますが、ギリシャ語で「コポーン」というんですね。これは「苦しみを伴う激しい労働」のことを意味しているんです。
すなわちこれは、神の聖徒たちが、この地上の生活において耐え忍ばなければならないあらゆる苦しみ、肉体的な苦しみもあれば精神的な苦しみも、全部含んで、「労苦」と言っているわけです。
クリスチャンが真実にこの信仰生涯を全うしようとすると、肉体的な苦痛、精神的な苦しみを背負わなきゃなりません。けれども、それは、みんな解放されて休むことができる。悪の力との戦いはすべて終わる。そういう労苦からは完全に解放されて、休むことが出来る。
皆さんどうか、死んだら休めると思っちゃいけません。主にあった者だけです。主になければこの地上を去っても、もっと苦しむんです。どうですか、死んでからも苦しみたいと思いますか。誰もそう思わない。この地上だけで十分です。
主にあってこの死を経験する者は、労苦から解放されて休むことが出来る。つまり悪との戦いはすべて終わる、ということですね。

C.それでは、天の御国は何もすることがない怠惰で退屈な永遠の日々なのか。
1.時々そういうことを考える人がいる。

『先生、私は天国に行きたくない。』。
『どうしてですか。』。
『何にもしないでブラブラしているのはイヤだ。』

これまでも大分ブラブラしたからもういい、っていう言い方をする人がある。
天国を、間違えているんじゃないかと思うんですね。
お年寄りで、「何にもしないで毎日毎日ブラブラしていて、天国行ってこれをまだ続けるのかと思うとぞっとする」、なんて人がありますけれども、これはね、労苦からは解き放されて休むんです。
しかし天の御国は何もすることがない退屈なところではありません。
「彼らの行いは彼らについて行くからである。」と教えていますね。こういうことをよく知っておかないといけないと思うんです。
死の向こうにおいては、すべての行いが停止するのではありません。
永遠の命は怠惰を意味しません。
命っていうのは活動的でしょ。
この「行い」はギリシャ語で「エルガ」という言葉が使われているんですが、直接的な意味は「人を占有する」という意味を持っているんです。つまり「心の中に満ち溢れた行いがある」ということですね。
この地上ではいやいやでもしなくてはならない、仕方なくやらなきゃならない、義務的にもやらなきゃならないことがいっぱいありますね。ところが天の御国に行けば、そういう行いはない。しかし、心の中満ち溢れる行いがある、と言うんです。

2.この地上で苦しみ続けたクリスチャンは、天の御国では安らかに休むことを期待するかもしれません。

確かに労苦するという意味では休みがある。では天の御国では、何もしないで毎日昼寝ばかりしているのか、ということではありません。永遠に神に仕える愛の働きがある。

クリスチャンは地上においては愛の労苦をする。地上ではあらゆる苦難が伴うし、それを乗り越えていかなきゃならない苦しみがある。
しかし天の御国では誰にも邪魔されない。しかも、いくら働いても疲れることがない。そして愛と喜びに満たされた活動的な奉仕が始まる。ですから天国に言ったら、結構忙しいですよ。楽しみがいっぱいあるわけですね。何もやることがなくて、ブラブラして命の川のあたりを行ったり来たり、散歩ばかりしているんじゃない。
ですから私たちはどうか、地上の生涯を閉じる前に、サタンと獣たちが滅ぼされる前に、苦しみとか迫害とかが世の終わりにあるわけですがね。しかしそれを遥かに超えて、最後に何を受けるか、彼らはどういう結末を受けるのかをよく悟って、信仰を保ち続ける必要がある。

どうぞ天の国の奉仕を期待しながら、地上の奉仕を続けていただきたい。神さまはこの地上で苦しんでいても、恵みを備えていてくださる。
死後のことも確かに聖書はある程度教えてくれている。これらのことをよく悟って、この地上の生涯を全うさせていただきたいと思うんですね。

天国に行っても何もすることがない、というような変な誤解をしないでいただきたい。まだこういう誤解をしてる人があれば、この14章13節に「彼らの行いは彼らについていく」とあります。休むものはちゃんとある。しなくてよいものと、これからしなくてはならないものがあるんだ、ということですね。
天国に行けば天国特有の仕事っていうのが待っていますからね。どうぞ私たちはこういう期待をもって日常の生涯をさらに進ませていただきたい、と思います。
今日はこの「七つの幻」の前半だけをお話させていただきました。この次、主許したもうならこの後半をご一緒に考えたいと思います。

お祈り
神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒達の忍耐はここにあります。
天の神様、イエス様が私たちに大いなる恵みを備えていてくださることを感謝いたします。主の御心を行って、約束のものを得るためには忍耐が必要である、と「ヘブル人への手紙」が記しております。
私たちは、この地上の生涯に乗り越えなくてはならない山がいくらでもありますが、世の終末には様々な迫害が起き、殉教するものが起こされることも記されております。
しかし恐れずに、また、サタンの獣たちに妥協をしないで、信仰を守るべきことを教えてくださいました。そのためには、私たちは信仰を弱らせず、彼らに従わないために、彼らがいかなる最後を遂げるか、私たちにいかなる恵みが備えられているかをしっかりと心に悟らせてください。
イエス様にあって死ぬ死者は幸いであると教えられました。どうかイエス様にあって生きている者は、願わくは、イエス様にあってこの地上を閉じさせてください。その最後こそ、最も大切なことでございます。
イエス様にあって地上を去る者が、いかなる幸いを得るか、深く心に留めさせてください。そして天の御国における喜びが、私たちが完全に獲得できるように顧みてください。
このことを深く心に覚えながら、毎日の生活を主にあって務めさせていただけるように顧みてください。
尊い主の御名によってお祈りします。
アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明