音声と文書:ヨハネの黙示録(55) 新天新地の出現 21:1~4

フランダースのルネッサンス画家であり、製図工、エッチング画家でもある Petrus van der Borcht (c. 1530–1608)により描かれた「A new heaven and new earth(新しい天と新しい地)」。(Phillip Medhurst Collection。Wikimedia commons より)


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PDF文書:ヨハネの黙示録(55)

ヨハネの黙示録21章1~4節

21:1 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
21:2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
21:3 そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
21:4 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」【新改訳改訂第3版】


はじめに

「新しい天と新しい地」、それが創造されている。
聖書は、読んでいて分かったつもりになっていることが、実は分かっていないことがたくさんあります。
特にヨハネの黙示録の場合は、読んでいて何のことを言っているのか、分かっているようでなかなか分からない。
その一つが、この「新しい天と新しい地」ですね。

黙 21:1 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

何が新しいのか。そりゃ、天と地が新しいのだ、ということになりますが、それは一体何なのか、ということです。

いよいよ私たちは、神の御計画の目的地である「新しい天と新しい地」に到達したわけです。
アダムとエバが神様に逆らって神様から離れたときから、神の御計画されていたものが、いよいよここに到達しました。

Ⅰ.「新しい天と新しい地」という言葉は、ここに初めて出てくるわけではありません。

A.「新しい天と新しい地」は旧約聖書にも出てまいります。

①イザヤ書65章17節、18節に目を留めてみたいと思います。

イザヤという人は、イエス様がこの地上においでくださる700年くらい前の預言者であります。その方がすでにこのことを語っている。
ですから旧約聖書というのは、決して古いものではないわけです。「旧」って書いてあるから古いという感じがしますけれども、決して古いわけではない。新しい預言がそこにされている。

イザ 65:17 見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。
65:18 だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。

ここでは、主が「新しい天と新しい地」を創造されるという意味での預言ですね。
神様は、この創造の時をいかに待ち望んでおられるかということを、イザヤの時から言っているわけです。

「新しい天と新しい地」が創造されると、それまであった世界、すなわちアダムとエバの時以来罪が侵入し、サタンが支配し続けてきた生活、今の生活ですね、これが再び思い起こされることも、心に上ることもない、と言っているんです。
ですから、この新しさというのは、土地を開墾して新しくなったという程度のものではなくて、「思い」というような面で新しいと言えるんですね。
この地上でどんなに悲しい思いをしても、思い出すことはもうないということです。
イザヤ書65章18節では、この「新しい天と新しい地」は、永遠に喜びをもたらす、と言っています。

神様が創造されたものは永遠に喜びをもたらす。人間がつくったもので喜びをもたらすものは本当に少ない。しかも永遠にもたらすものはほとんどない。

② イザヤは66章22節でも、もう一回言っています。

イザ66:22 「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように、──【主】の御告げ──あなたがたの子孫と、あなたがたの名もいつまでも続く。

ここでは三つのことが語られています。

イ、神様が造る「新しい天と新しい地」
神様はこの宇宙もお造りになりましたが、そこにサタンと人間が介入して、神様がお造りになったものを、曲げたり汚したりしてきました。
今も人間は、試験管ベイビーだとかバイオテクノロジーだとか、神がお造りにならなかった方法で造ろうとしている。

要するに、神の創造の真似事をしようと思っているわけですね。神に迫ろうとしている。
これはバベルの塔を造った時と同じで、人間は自分が支配者になる世界を造ろうと頑張っているわけです。人間が地球の支配者になろうとしている。
こうして神が創造されてきた世界が汚されてきたし、今も汚しているわけです。
これに対して神様は、もう一度ご自分の手によって全く新しい世界を造ろうと、約束されたわけです。人間の手あかの一杯ついた世界ではなくて。

ロ、第二にこの「新しい天と新しい地」は、主の御前に永遠に続くということです。

ひっくり返して言いますと、罪によって汚れた世界は、どんなに繁栄し人がその力を誇っていても、一時的だということですね。束の間の国でしかない。
神様が造られたものだけが永遠に続くことができる、と教えているわけです。
人間が造ったものは、どんなに精巧にできていても一時的でしかない。

最近、私も人間が作った時計で困っているんですね。時刻を合わせるたびに止まって動かなくなる。こんこん叩いたりしているんですが、この間、時計屋さんに持って行ってみてもらったんです。
時計屋さんはじーっと見ていて、「あ、動き出しだしましたね、このまま持って帰ってください。」って言われて、また持って帰ってきたんですが、止まったり動いたりしている。
人間が作ったものはどんなに精巧であっても、一時的にしか使えない。必ず壊れてしまう。今まで壊れたことがない機械や機器は一つもない。

神様がお造りになったものと、人間が造ったものの本質的な違いはここにある。
神様がお造りになるものは永遠、人間が造るものは一時的、どんなに繁栄していても一時的だということです。ですから、今地上にあるもので、永遠に続くものは人の魂、特にイエス様によって救われた魂だけです。あとはみんな朽ちていく。土地が高いとか安いとか言っていますけれども、これも永遠のものではない。
天も地もかつては神様に造られましたが、罪の侵入によって今は滅びの運命にある。

ハ、第三は、「あなたがたの子孫と、あなたがたの名もいつまでも続く。」

これはイスラエル民族について言われているというよりも、真の神であるキリストによって贖(あがな)われた人々のことを指している預言です。
これは新しく神が創造される世界に住む市民、神の国の市民、新世界の住民のことを言っています。イザヤはすでにこれらのことを預言している。

「新しい天と新しい地」という思想は、新約聖書で出てきたものではなくて、イザヤの時代に預言されていた。
どうか、「旧約聖書は古くて、新約聖書は新しい。」というふうに考えないでいただきたいですね。
旧約聖書の中の預言でまだ成就していないものはたくさんあるわけです。
エゼキエル書を読むと、これから成就するものがいっぱいあります。旧約聖書はもう古臭いんだというふうに思わないでいただきたい。

③ もう一つ、「新しい天と新しい地」について、ペテロが語っています。

Ⅱペテ3:13 しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。

イザヤは、永遠である、喜びに満ちる、というようなことを預言しました。しかし、ペテロは神の約束の地として預言している。
かつて神は、イスラエル民族に約束の地としてカナンの地を与えられました。
それは、ただ民族的な居住地として与えただけではなく、実はその約束の地は神の「新しい天と新しい地」を指し示すものでした。
それは、預言するものである。予表するものである。型である。ひな形である。と言うことができます。
ですから、これは神の約束によって与えられるものである。天の御国はない、なんてことは決してないわけです。神の約束ですから。

さらに、ペテロは「新しい天と新しい地」の性質についても書いています。
新天新地とはどういうところですかというと、ペテロは「正義の住むところ」であると一言でそう言うことができました。ここでは神の義を持つ者しか住めない、ということですね。
「義」のところで「不義」は住むことができない。人間は空気と水のあるところでしか住めませんね。人間はそういう性質を持っています。ですから、たとえ「不義」なる人を「新しい天」にお招きしても、そこには住めない性質の人になっている。連れて行ってあげても逃げてしまう。「新しい天と新しい地」からこそこそと逃げて行ってしまう。ある人は、神様は愛だからどんな人でも天の御国にいれてあげればいいのに、と思うんですけれども。
神様は、本当は入れてあげたいんです。でも自分の方から逃げていくって言うんです。これ、しょうがないんです。

B.ヨハネは、これまで預言されていた「新しい天と新しい地」を、この黙示録では幻として見ているわけですね。

もはやここでは、預言ではなくて、幻として見ている。その次は、ここに入るということになります。
これまで一般の人々は、天国がどこにあるかという場所のことばかり考えてきた。
かの有名な詩がありますね。「山のあなたの空遠く、幸い人の住むという、、、、」
結局これはどういうことを言っているんですか。なかなか幸いは手に入らないものだ。追いかければ追いかけるほど向こうにいくということでしょうね。情けない詩ですよね。そう思いませんか。
詩としては、夜空でも眺めて、「いい詩だなあ」と思うかもしれませんが、そんなんでは本当に満足できない。
メーテルリンクのチルチルミチルの話があるではありませんか。青い鳥はどこにいたんですか。世界中ぐるぐる回って、山のあなたの空遠くまで追っかけて行ったけど、結局身近なところ、自分の内に幸いは住んでいる。

確かに「新しい天と新しい地」は、神が定められたところであります。創造されるところでありますから、場所であるということは事実でありますが、そこがどこであるかは、聖書ははっきりと明言していないので、ここだ、あそこだというわけにはいかないんです。しかし、空中のかなたであるというような、空想でないことは事実です。

聖書ははっきりとは書いていませんけれども、みことばが暗示するところはあるんです。ヨハネの福音書14章2~3節で、イエス様はこう仰っています。

ヨハ 14:2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

「場所を備えに行く。」
明らかに具体的な場所であることは事実です。だからみなさん、天の御国というのは口を開けて空を仰いで、雲のかなたの方にある、そういうものではないんです。
しかし天の御国について、聖書が多くを語っているのは場所がどこかということではありません。

むしろ聖書は、神の国の性質に焦点を合わせて語っている。場所がどこかは問題ではありません、連れて行ってくれるんですから。
ですから、私たちは「新しい天と新しい地」はどこか、何という国の何丁目の何番地にあるかを知る必要はない。イエス様が用意しておられるんですから。

この世の終わりというのは、物質的世界の終わりというよりも、秩序の終わりを意味しているわけです。
確かにサタンと人間によって汚れたこの世のすべてのものは、取り去られます。
しかしそれは、倒産したお店が店の品を取り去って、再び新しい秩序のお店が新装開店するようなものではありません。
物質ではなくて、人が生きてきた秩序そのもの、性質そのものが取り去られて新しくなるということです。ですから不義なるものはそこに住めなくなる。中のものだけが入れ変わるなら、不義なる者も誰でも住めるでしょ。性質が変わるとそこには住めなくなってしまう。

「新しい天と新しい地」において、何が新しいのかと言えば、秩序や性質が新しいということです。これまでの自分中心の秩序が取り去られて、神の義である秩序が与えられる。この秩序で生きている人間だけが、例えばイエス様を信じている人だけが、そこで生活できるようになっている。

C.聖書は、創世記の1章1節の「初めに、神が天と地を創造した」で始まり、ヨハネの黙示録21章の「新しい天と新しい地の創造」で締めくくられているわけです。

ですから、聖書は創造から始まり、創造で終わっている、と言うことができますね。非常に素晴らしい。
この「天と地」というのは、宇宙全体の秩序を指し示す言葉です。
宇宙に存在するあらゆる秩序、どんな秩序があるかというと、宇宙空間のバランスを保っているあらゆる力、人間社会の倫理的秩序、道徳的な秩序など、あらゆる秩序が含まれますね。
「天と地」というのは、そういう秩序などを含んだ言葉です。大空と土地というだけのことではありません。
神様は「新しい天と新しい地」の創造によって、罪の性質が全く取り除かれた新しい正義の秩序をお造りになる。これが神の御国の特質です。
「新しい天と新しい地を見た。」と書いてあるのは、そういうことであります。

Ⅱ.ヨハネは1節の後半で「以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。」と言っています。

「以前の天と、以前の地」というのは今の世のことですね。それは罪の秩序を意味しています。
私たちは、この世でいくら信仰の戦いをしても、罪の秩序、罪の原理を取り除くことはできないんです。人間がいくら焦っても、罪の性質をなくしてしまうということはできない。人間の力では出来ない。罪の秩序はどうしようもなく、永遠に続くかのように見える。

しかし、ここに来ると、やっと以前の天と、以前の地は過ぎ去る。永遠に続くかのように見えた罪の秩序を、一時的なものでしかないと、聖書は言っているわけですね。神によって取り除くことができる。

ですからクリスチャンは、この世から罪の秩序を取り除くために働いているのではありません。それは不可能なことです。罪の秩序は人間の力で取り除くことはできない。これができるのは神ご自身だけです。

では、クリスチャンは何をしているのか、と言うと、罪の秩序に打ち勝ってこれを取り除くことができるイエス様を人々に伝えることだけなんです。イエス様だけがこれを取り除くことができる。
ですから、私たちは人の心の中に巣喰っている罪の秩序ですら取り除くことはで
きないということですね。いくら頑張ってもできない。

イエス様はある時こうおっしゃいました。

マタ19:26 イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」

弟子たちが、「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」と聞いたところです。救われるというのは罪の秩序から解放されるということですね。
私たちには、人を救いに導くことすら自分の知恵と力とではできないと神様はおっしゃったんです。神様だけがそれをおできになる。
ですから誰でも、本当に救われている人は、神によって救われているんです。人によって救われるということは、決してありえないことなんです。
どんなに頑固そうに見える罪の力も一時的ですね。ヨハネは、神によって「以前の天と地、以前の秩序」が取り除かれた、と言っています。

そして今度は、もはや「海」もないと書いてありますね。
20章13節でも「海」の話が少しありましたけれども、ヨハネは「海」が気になっていたようですね。

黙 20:13 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。

それは、ヨハネがパトモス島に流されていたからなのかもしれませんが、前にもお話しましたが、「海」というのは恐怖をもたらすものでした。死やハデスを形容するほどの恐れと心配を与えるものでした。
ですからここで、「もはや海はない」と言ったときに、「海」が作り出していたところの死や恐怖、心配がなくなっている、ということですね。
つまり、この世の罪に汚染されていた秩序とともに、死や恐怖や心配というものが消え去ったということです。罪に汚染された秩序が死や恐怖を与えたわけですが、それがなくなった。
ヨハネは「以前の天、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない」と言いました。非常に象徴的ですが、総括的にここで語っています。

4節は、もっと具体的に消え去るもののリストをここに挙げています。1節の後半は総括的に言っていますが、4節ではもっと項目的に話していると言えます。

黙 21:4 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

4節のリストの中にあるものは、

「目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる」
目の涙が乾いた、とは言っていませんね。「ぬぐい取ってくださる」と。
聖徒たちは、この地上の戦いにおいて迫害や苦難に直面して、幾たび涙を流してきたことか。その涙は乾いているんじゃない。神様の前に立った時、まだ涙がたまっている。それが神の御手によってすっかり拭い取ってくださる。
神様がハンカチで拭いてくださるわけですね。ここに神様のほのぼのとした温かい愛が伝わってきますね。
涙を拭われた時に、この神様の愛に、もう一度うれし泣きする人も出てくるんでしょうね。苦しんで泣いた涙を拭ってもらって、今度は喜んで泣いてまた拭ってもらう。天国に行くと、まず何をするかというと、泣くようですね。神様は、また拭わなくてはいけない。ここに、苦難を忍び通した聖徒たちをいたわられる神様の愛が感じられますね。

「もはや死もなく、」
20章14節で、死は火の池に投げ込まれた、と書いてあります。

黙 20:14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。

もう死がない。死というのはなくなるわけです。死があるのはこの地上で生きている間だけです。一度死んだ人は二度死なない。
そんなこと分かり切っているというかもしれませんが、この分かり切っていることが実は分からない。

死は人間にとって最後の敵である、とパウロは言いました。
クリスチャンを死と迫害と苦難で苦しめてきたその「死」が、永遠のいのちによってもはやなくなってしまった。「死」は、悲しみと痛みを与え続けてきましたけれども、永遠のいのちは死に勝ったのです。
「新しい天と新しい地」では死はない。もはや恐るべきものではない。この地上にあっても恐るべきものではありませんが。

「悲しみ、叫び、苦しみもない」
この三つは地上生涯において、人間が経験し通らなければならない代表的なものです。
これらはみな、古い秩序が過ぎ去るとともに過ぎ去ってしまう。
罪に汚染された秩序がもたらしたものですから。

Ⅲ.さて、21章2節で私たちはもう一つ注目すべき言葉に出会います。「聖なる都、新しいエルサレム」です。

黙 21:2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。

また「新しいエルサレム」が出てまいりました。これは、「新しい天と新しい地」と同じ秩序ですね。
これは、主によって贖(あがな)われた聖徒たちを指しているということが後になって出てきますが、ここには、「聖なる都」という都が出てきます。
この前は「天と地」でありましたが、ここでは「都」になっています。これはヘブル的な言い方をしているわけですけれども、
ヘブル11章10節、16節と同じ言い方なんです。

ヘブル11:10 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。
ヘブル 11:16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。

「天と地」は新しい秩序のことである。
「都」といわれる時は、さらにもっと深く進んでいる。麗しく、喜びに満ちた交わり、神との交わりの回復ですね。これを紹介するために、もう一度言い換えているわけです。秩序だけではなくて、そこにはもっと生き生きとした神と聖徒の交わりがあります。

そして、その交わりはどうなのかというと、「夫のために飾られた花嫁」のように整えられている。要するに新婚ですね。もっとも理想的な夫と、最も理想的な花嫁の交わりを指しています。
21章4節を見ますと、この花嫁は、「小羊の妻である花嫁」と書いてあるでしょ。ですから、これはキリストと、聖徒たちの深い親密な交わりの関係を表している。このあたりのことを記しているのが、雅歌書であります。

黙 21:9 また、最後の七つの災害の満ちているあの七つの鉢を持っていた七人の御使いのひとりが来た。彼は私に話して、こう言った。「ここに来なさい。私はあなたに、小羊の妻である花嫁を見せましょう。」

「聖なる都」「新しいエルサレム」という時に、ただの義なる秩序だけじゃなくて、もっと深い親密な交わりがあります。クリスチャンとキリストとの交わりが最高潮に達して完成するということを言っています。
それまでは、私たちは信仰によって主と交わるわけです。ところがここに行きますと、小羊の花嫁となる時は、もはや私たちには信仰は必要ない。顔と顔と合わせて主と交わる。
信仰が必要なのは、この地上生涯においてだけですね。この地上生涯でも、だんだんと神様に近づいていきますとね、私たちはその交わりを深くすることはできますけれども、なお信仰は必要であります。

さらにここに、「花嫁のように整えられて」と書いてありますね。

今頃、するのかしないのか知りませんけれども、花嫁修業ってするんですか? あまりしないですか? 花嫁修業ってのは、食べ物を作るだけではありませんが、何かにつけ必要だと思うんです。多少した方がいいと思うんですよね。朝、昼、晩、ホカ弁じゃ困りますしね。たまにホカ弁もしょうがないでしょうけれども。
しかしあまり整わないうちに、まあ、行ったら何とかなるだろうって、行くのもあるかもしれませんが。

しかし、イエス様のところに行く時には整えられて行かなければならない。
この地上で信仰生活をしている時も、多少は訓練されるわけですが、この2節の時は完全に整えられている。だから、イエス様に気に入られるわけです。

エステル記などを見ますとね、エステルという人はアハシュエロス王にいたく気に入られていましたね。どうしたらあんな風に気に入られるんですかね。
ルツ記を見ますとね、ボアズという人にすっかり気に入られています。どこにああいう人がいるんでしょうかね。ボアズはイエス様を表すんでしょうね。

パウロはⅡコリント3章18節で、整えられることについて言っています。

Ⅱコリ3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

この地上では、似た者夫婦なんていうのがありますけれども、似ているとかえっ
てあまり面白くないんだそうですよ。食べる物から着る物や趣味まで、何から何まで同じというのはね、あまり面白くないのかもしれない。ちょっと違っている方がいい、という話ですが、本当かどうかわからない。

しかし、天の御国ではイエス様と同じか、よく似ているのがいいですね。
顔形は違いますけれどもね。性質が良く似てくるということです。聖霊によって主と同じ姿に変えられて行きます。
ですから、私たちがイエス様とお会いするのにふさわしい者に、聖霊によって整えられていくということです。

地上の間でも整えられていくんですけれども、それがどこまでいけばいいのかというと、21章2節ではその整えが完璧ですね。

「天から下って来るのをみた。」と書いてあります。
「天から下って来る」というと、何か場所が移動してくるみたいですけれども、実はこれはね、神と人間との関係が刷新され完成する、ということです。上から雪が降ってくるみたいなものではないんです。そういう感じじゃないんです。
主とお会いするための、花嫁の全ての整えが終わったこと、完成したことを意味するんです。

お互い、この地上にいるときは足りないことばかりです。しかし、この2節の時の自分の姿、どんなに優れた者になっているか考えてみてください。もう、雲泥の差、月とスッポン。

この地上でね、よく言われることがあります。「先生、うちの子はよく躾(しつけ)てあります。」ってね。そういう人の子ほどひどいんです。普通、よく躾(しつけ)てある子にはそうは言わない。「うちの子、出来が悪いんですけれども」って言われて、それが本当の時もありますけど。いろいろですけれどもね。

しかし、本当にここに来たら、出来はいいんです。この地上ではスカタンばかりでどうしようもないって思っていても、ここに来ると、もうちゃんと整えられているから安心ですね。
こざかしいことを考えたり、少々意地悪気味の自分とは全く違う。これが自分かなと思われるほど、自分で自分に惚れるというのはこの時だけだと思います。
イエス様によってこれほど自分が変えられるのか、そういうふうに変えられているということです。是非この時そうありたいですね。これが2節であります。

Ⅳ.3節に移りますと、

黙 21:3 そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、

「聖なる都、新しいエルサレム」については、10節以降でまた詳しくお話させていただきますけれども、3節では、神と聖徒たちの関係が中心に語られています。人格的な性質の方が語られている。

余談になるかもしれませんけれども、大した事ではありませんが、「そのとき私は、御座から出る大きな声を聞いた。」とありますが、これは誰の声なのかはっきりしません。
5節を見ますと、この大きな声が終わると、「御座に着いておられる方が言われた。」と書いてありますから、「この大きな声」は御座についておられる父なる神ではないと思われます。

黙 21:5 すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」

そうすると、「大きな声」は誰なのか。

おそらくこれは、御座の近くから出たという意味だと思いますから、
・御使いの一人の声か
・二十四人の長老か
・四つ生き物か
であると思われます。
御座のすぐ近くにいてその真理をよく悟っている者の声ですね。

1.とにかく、この声は誰かというよりも、この声が驚きを持って見守っている声だということは分かります。

それは、「見よ」と言っているからですね。素晴らしいものを見た時に、「わあ凄い」とか、「見よ」とか言うでしょ。
よく子供が、「見て、見て」っていうでしょ。あまり大したものでなくても。あれと同じで、本人が驚いている。

「見よ、これこそ神様が最初からご計画されてきたことです。」
「見よ、これこそ聖徒たちが迫害を忍んででも、待ち望んで来たことです。」
そういう意味が、この「見よ」に含まれていると思います。

2.どんなことに驚いているのかというと、次に四つのことが書いてありますね。

「神の幕屋が人とともにある。」
「神は彼らとともに住む。」
「彼らはその民となる。」
「神ご自身が彼らとともにおられる。」 

これは神と聖徒の究極的な交わりを示しているんですね。
イエス様の別名がインマヌエル、その意味は「神が我らとともにおられる」ということです。これもまた、イザヤが2回預言しているので見てみましょうか。

イザ7:14 それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。

マリヤが主イエス様を出産なさるのは、この時から700年後ですけれども、もう「みごもっている」と現在形で書いていますね。素晴らしいです。
もう一つは、

イザ8:8 ユダに流れ込み、押し流して進み、首にまで達する。インマヌエル。その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる。」

これはキリストの福音のことを指しているわけですね。

最後に、この預言の通り、マタイの福音書1章23節も読んでみましょう。

マタ1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

これは、先ほどの「神の幕屋が人とともにある」、これは、実は「インマニエル」ということばが現実のものとなった、ということですね。
神の臨在そのものが人の住まいとなり、生活となったということです。これは信仰生活の極致ということができます。
これは神の国のすべてを一言で語っていることばだと思います。天国とはどういうところか、というと、つまり、こういうところ、神がともにおられる、というところです。

神様は、この奥義をすでにエゼキエルによって預言されました。エゼキエルの37章27節です。こういう天の御国のことなんていうのは、新約聖書になって言われているんじゃなくて、すでに旧約聖書の中から言われているんですね。

エゼ37:27 わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

これまたインマヌエルですね。

ここで神様はエデンの園以上のものをお造りになった。
神様がなさるときは、エデンの園と同じものを造ったんじゃないんです。後で学びますが、「新しい天と新しい地」、ここではね、中央に善悪を知る木の実はないんです。いのちの木の実しかないんですね。あったらまた誰かがやっちゃうから大変でしょ。延々とまた何千年もやり直さなければならない。ご苦労さんなことです。
ですから、神様はエデンの園以上のものをお造りになった。有難いですね。
罪はここに一歩も入ることができない。どんなに繁栄していても罪の世界は一時的なものであって、もうここに入ることはできない。

神様は初めに天と地を創造された。これを人間がサタンに従って汚してしまった。
神様は、今度はキリストによって人の魂を新創造されましたね。

Ⅱコリントの手紙5章17節に書いてあるでしょ。

Ⅱコリ5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

神様はね、三種類の創造をなさっている。

第一は創世記の「天と地」の創造ですね。
第二の創造は人の魂の創造、キリストによる新創造、
最後は究極的な「新しい天と新しい地」の新創造、これが最後の神の創造の御業なんです。これは、間もなく実現いたします。

創世記を読みますと、神様が人間を造られた時、「非常に良かった」、って書いてあるでしょ。きっとね、この「新しい天と新しい地」を創られた時、神様は「非常に良かった」、って言われるに違いないかなと思いますね。

ですから私たちは何が何でも、信仰を全うしてこの「新しい天と新しい地」に入れていただかなければならない。これが、私たちが生きてきた最終目的であります。
たとえ一生懸命働いてもこの地上で土地が買えなくても心配ありません。この「新しい天と新しい地」ではちゃんと私たちのために場所が備えられてありますから、神様にそこに入れて頂くということが非常に大事なことです。

これが私たちが生きてきた最終目的であります。それまでは、地上でどんな生活を送っても一時的なことです。
やっと、私たちは神様のご計画の目的地に近づいてまいりました。とにかくここに入っていただきたい。入ってしまえばあとは問題がありません。どうか、このことを心に留めて信仰の道を、まっすぐにお進みいただきたいと思います。

さらにこれから「新しいエルサレム」「新しい天と新しい地」がどんなに素晴らしいものであるかということを、続けて学んでいきたいと思います。

お祈り

「見よ、神の幕屋が人ととともにある。」
天の神さま、あとは、大いなる恵みを私たちに備えていてくださることを覚えましてありがとうございます。
罪の道を歩み続けている者にあわれみを加え、救い出して素晴らしいものを主が備えていてくださることを感謝いたします。
どうか、この新しいエルサレムに私たちを入れてください。
新しい天と新しい地をあなたは備えて、私たちを待っていてくださることを感謝いたします。
そこにはもはや涙もなく死もなく、悲しみも苦しみもない。
あなたが喜びに満ちた備えをしていてくださることを覚えまして、ありがとうございます。
この地上にあとどんなに生きても、そう長いことではありません。
しかし、神様の喜びの場所は永遠に神とともに住むということを教えていただき、心から感謝いたします。
なお残された生涯を信仰によって全うさせてください。
尊いイエス・キリストの御名によっておいのりいたします。アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明