音声と文書:ヨハネの黙示録(56) すべてを新しくする方 21:5~8

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PDF文書:ヨハネの黙示録(56)

ヨハネの黙示録21章5~8節
21:5 すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」
21:6 また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。
21:7 勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。
21:8 しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」【新改訳改訂第3版】


上の写真は、ローマのthe catacomb of Commodilla(コモディラの地下墓地)の壁に描かれた「ひげのあるイエス」の絵(4世紀頃)。 顔の両側に「最初であり、最後である」ことを示すアルファとオメガが記されている。Wikimedia commons より


はじめに

ヨハネの黙示録を学ぶようになってから、時々夢を見ることがあるんです。
神様のみもとで喜んでいる時もあれば、何か入口で問題が起きているような夢を見ることもあります。「もう一回出直せ」とかね。冷や汗かきながら目が覚めると、「あ、まだやり直せる」とか思ったりします。天の御国に入れられることの重要さを感じるわけです。

特に、ヨハネの黙示録の最後の2章は、実に恐るべき幻が満ちていると言っていいでしょう。

今日も、ゆうちゃんがやってきて「先生、黙示録は飽きないねえ」っていうんです。
「では、どこが飽きる?」って聞いたら、「レビ記が飽きちゃう。何がいくつ、何がいくつって、同じのばっかり書いてあって。黙示録は飽きないよ。次々いろんなのが出てきて面白い」って言うんです。それほどですね、驚くべき幻が現れてくる。

もし、映画監督がいたら、この黙示録を是非一度映画にしていただきたいですね。いろいろ映画がありますが、黙示録の映画というのはまだないですね。難しいかも知れませんが、どなたか是非やって頂きたいですね。黙示録を映画にしたら、ハッとすることばかりの連続だと思います。子どもが黙示録を読んでも飽きないというくらいですから、それほどの驚き、幻で満ちているということですね。

黙示録21章22章の中で「見よ」という言葉が、四回出てまいりました。

・21:3 「見よ。神の幕屋が人とともにある。」
・21:5 「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」
・22:7 「見よ。わたしはすぐに来る。」
・22:12 「見よ。わたしはすぐに来る。」

この「見よ」という言葉は、「見てごらんなさい」という程度の意味ではないんです
これは、驚くべきことがらが起きるのを、確信を持って語る言葉です。

パウロはエペソ3章20節で、神様は「私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方」である、と言いました。
私たちが考えている程度のことではない、それよりも遥かに勝ることをしてくださるお方なんだ、とパウロが言いました。これが、本当に「見よ」ということです。
このお方は、最後の時に私たちが目を見張るような、驚嘆するようなことばかりを次々と行ってくださる。

この前、電気屋さんが開店したそうでね、アドバルーンを4つも5つも上げていたそうです。私も店の前を通りかかったら、チリ紙をいっぱいくれて、ぜひ見ていってくださいって言われました。何とか人の目を見張らせようとしていろいろやっているわけですね。

神様は最後の時になると、私たちの目を見張らせる、驚嘆するようなことを次々と行われる。
その時、私たちはまさに夢心地になります。
みなさん夢心地になって見ている時って、どんな顔をしているか知っていますか? なんとなく口が半分あいてポカーンとしていますね。
おそらく私たちも、自分が与ることのできる恵みに見とれて、口を開けてボーっと見ているんじゃないかと思うんです。

「見よ」というのはそういうことをいっているんですね。
神様は、「これでもまだ驚かないのか、これでもか、これでもか」って言わんばかりに驚くべきことを次々としてくださる。
「見よ」という言葉を字に書いてしまうと、あまりよくその音の響きが分かりませんが、「見よ」というのは、本当に驚くべきことで、私たちは口をそろえて、「見よ、見よ、見よ」と言うに違いないと思います。そういうことを表しているんですね。
神様ご自身が「見よ」と言っていますし、後で、御使いの方も「見よ」と言っています。

Ⅰ.そこで神様は、ご自分がなさることのすべてを総括して、「わたしは、すべてを新しくする。」と言われました。

黙 21:5 すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」 ・・・・・

A.ここで、神様が「新しくする」と言われたことは、どういうことを意味しているのか?

それは、私たちが新しくするのとは、どんなふうに違うのだろうか。
私たちは洋服が古くなると新しくしますね。新調します。しかし、その新しくしたものもやがてまた古くなる。つまり、私たちが新しくしたものは必ず古くなっていくわけです。

ところが、神様が新しくしたものは決して古くならない。これが、神様が「新しくする」と言われた意味なんです。
ここでは、神様が全てを新しくされた最後の「新しい」ですね。
ですから、何度も「新しい天」、「新しい地」、「新しいエルサレム」と出てまいりますが、ここで新しくされたものは、もう古くはならないんです。
これがまた古くなると、また天地創造からキリストの十字架まで繰り返さないといけません。ですから、理想状態だということです。

B.この時は、すべてのものを新しくすると言われましたが、神様は何を新しくされておられるのでしょうか?

今は限られたものを新しくされておられる。それは、あの有名なコリント第二の手紙5章17節。現時点で神様が新しくしているみわざはこれです。

Ⅱコリ5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

ここにも「見よ」ってありますね。ですから「見よ」というのは驚くべきことなんです。
これは、私たちの魂が新しくされる、現在の福音によるイエス様によるところの神の新創造のみわざですね。その人が新しく造られるということです。

天地創造の時に使われている「造られた」という言葉は、ヘブル語で「バラ」という言葉が使われているんですが、これは「無」から「有」を生じるという意味です。
その後に「造られた」というのは、もう「バラ」ではなくて、材料を用いて作ったという意味です。

Ⅱコリント5:17の「造られた」はギリシャ語でありますけれども、「無」から「有」の意味を持っているんですね。ですから、神の御業です。

現時点では、神の新創造は、私たちの内側を新しくする、ということです。

Ⅱコリ4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

肉体は罪のゆえに日々衰えていく。しかし、神様が新創造してくださった「内なる人」、つまり魂のことですね、これはますます新たにされていると書いてあります。
「日々新たにされている。」
ですから、神様が新たにされたことは、もう古くはならないということですね。
ですから、たとえ私たちが病に倒れても、「内なる人」が新創造されている人、その人は神の新しさを失うことはないということです。神の新創造は古くはならないということです。

そして、パウロは、もう一つの点でこう言っていますね。

ガラ6:15 割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。

最後のところで「大事なのは新しい創造です。」と教えているんですね。
つまり、人間生涯で大事なことはいろいろありますけれども、本当に大事なのはこの「新しい創造」、すなわち私たちの内側が新創造を頂いている、ということですと、こう、パウロは語ったわけです。

これは、この地上生涯における神の新創造、新しい魂、という意味であります。やがて、すべてのものを新しくされるわけですけれど。

C.神様の新創造は魂の新創造で始まりますけれども、それで終わるんじゃありません。

「新しい天と新しい地」のところでもお話しましたが、これは宇宙のすべての秩序が新しくされるということです。
これは、自然界における秩序だけではなく、霊的な秩序、あるいは、道徳的な秩序においても新しくされる。

ですから、私たちは少しも心配することはないわけです。
神様が「すべてを新しくする」と言われた時、私たちが今考えられる範囲内のことだけを新しくする、と言ったのではないんです。
私たちの知性に、いまだかつて一度も写ったことのない、一度も覚えられたことのないものまでもすべてが新しくされる、ということです。

私たちは今、アルプスの山の麓にどんな花が咲いているのか、どうなっているのか、知らないかも知れません。
人類は宇宙のどこかに何があるのか、あるいは、天使の世界とか、いろいろなことをまだ知らない。
見えるものだけでなく、見えないもの、本質的なものに至るまで、神様はすべてを新しくされるとおっしゃったわけです。
すべてという場合、私たちの知性で考えられる範囲外のことも含まれている。そして、その中の一つに、やがて朽ちていく私たちの肉体があります。

Ⅱコリント4章16節でもでてきましたね。「外なる人は衰えても、内なる人は・・・」と。文語聖書では「外なる人は壊(やぶ)るれども・・・」って言ってね。なんか、「衰えても・・」というより、「壊(やぶ)るれども・・」と言った方が分かりやすいですね。

この朽ちていく肉体も、栄化されて朽ちないもの、衰えないもの、古くならないものに変えられていくわけです。

「すべてを新しくする。」神様はこう仰せられたのです。素晴らしいですね。

Ⅱ.次に神様はヨハネに「書き記せ」とお命じになられました。

黙 21:5 ・・・・・ また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」

「書き記せ」というのは、神が教会に対して語られるメッセージがまだありますよ、と言っているんですね。

神様はある時は「書き記すな」と言いました。「書いちゃいけない」と言ったこともある。「これを封じておきなさい」と言われた時もあります。そういう時は、まだ、人々には秘密に隠しておくものである、ということを意味している。

しかし、ここでは「書き記せ」と命じていますから、このメッセージは教会とクリスチャンにとって必要なメッセージである。
では、どんなことを書き記すのかというと、それは、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」ということばから分かります。

これと同じことばは黙示録22章6節にも、御使いのことばとして出てきます。

黙22:6 御使いはまた私に、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです」と言った。・・・・・

ここに同じことばが出ています。
神様の預言のことばは、必ず成就するものであり、信じるに値する価値のある真実な言葉であることを表しています。
預言というのは、その言葉通りに成就しなければ、偽預言者になってしまいます。
もし神様のことばがその通りにならなかったら、神様は偽りの神になってしまう。
そういうことは全くあり得ないことです。

これまで旧約の時代から今日に至るまで、神様のことばと違ったことが起きた事実は一つもありません。

① 第一に、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」ということは、神のことばは、神の永遠の特性、永遠性を持っている、ということ。

たとえば、イザヤの時代にイエス様の受肉を預言されたみことば、「処女がみごもって、男の子を生み」は、イエス様の降誕の約700年前に預言されましたが、時代とか時間を越えてなされました。
また、ダビデの裔(すえ)にメシヤが来られるという預言も、1000年も越えて成就した。ですから、神のことばは永遠という特性をもっています。
この他にも、いろいろと記されています。例えば、イエス様の十字架は創世記3章15節以来、数千年後に成就しました。

神のことばというのは、私たちが考えるのとは遥かに異なっている。
神のことばは、時間を超え、時代を超えて成就している。
このことは聖書の中でいくらでも見ることができる。

キリストの再臨は、二千年たってもまだ起きていません。だからこの預言は偽りではないか、と考える人もいますが、それは非常に危険ですね。その人は、神のみことばの永遠性を忘れている。
「神が永遠」だけでなくて、神のことばそのものも永遠である。だから、「信ずべきものであり、真実である」、ということばがここにある。神のことばは時間を超えて働き、必ず成就する、ということを教えてくれている。

② さらに、神のみことばは、キリストを信じて迫害を受け患難にあっても、真実にキリストに従っていくクリスチャンの忍耐には必ず豊かな報いがある、幸せな報いが与えられることが約束されています。

「信ずべきであり、真実である」というのはそういうことです。期待はずれになることはない。聖書には、「イエス様を信じる者は、失望させられることはない。」と書いてあります。これは必ず報いられる、ということです。

もし私たちが、この約束を信じなかったら、たちまち苦難や迫害に耐えられなくなってしまいます。私たちは神様のことばに希望を失ったら、もうこれは役に立たないことばだと思ったら、そのために苦難や迫害に会うことは、とてもできなくなってしまいます。

迫害の中を通過したクリスチャンたちは、絶えず、自分が信じているみことばは、本当に権威ある神のみことばなのかどうなのか、必死になって調べました。
初代の教会の人達、3世紀ごろまでローマの迫害の中で生涯をたどった多くのクリスチャンたちは、まだ新約聖書が全部そろっていませんでしたから、そのことばが神様のことばとして信じていいものなのかどうか、真剣になって調べたんです。
そして、それが神様のことばだと確信できたならば、そのことばのために命を奪われることも辞さなかった。こういう歴史があるわけです。

今日私たちは、聖書のことば、神のことばをあまり強く印象深く思っていないかもしれませんが、代々のクリスチャンたちは、そのことばの故に命を奪われても、神の権威というものをそこに見出したわけです。これは非常に大事なことです。
クリスチャンの忍耐には、必ず豊かな幸せな報いが与えられることが約束されている。このことは真実である。

③ 逆に、神様に逆らう者たちへの永遠の裁きの預言も、また真実であり、必ず成就します。

聖書のさばきのことばは、仏教のように勧善懲悪、善を勧めて悪を懲らしめるための脅し文句ではないんです。
仏教では、そんなことをすると地獄に落ちるとか、そんなことをやってるとお巡りさんが来るよとか、実際にお巡りさんなんか来なくても、そういう言い方をします。それはなんの効果もない。
しかし、聖書の預言は確実に成就するんです。
イスラエルやユダの捕囚に対してもそうです。イスラエルの人たちはエレミヤの預言を本当に受け止めませんでした。
偶像礼拝をしているとバビロンに連れていかれるよ、捕囚されるよ、滅ぼされるよと、エレミヤはしきりに語りました。
しかし、人々は、偶像礼拝を辞めさせる口実だとか、脅し文句ぐらいにしか受け止めなかった。しかし、これは現実になってしまった。
日本人も、そのくらいの警告ぐらいにしか受け止めていないかも知れません。

ある教会に行って話をしていた時、隣の部屋で子供たちが騒いでいたんです。私はそんなことしないんですが、お仕置きをする時は本気でやらなきゃならない、という話をしたことがあるんです。
それを聞いた隣の部屋の子供が、「本気でやるんだって。脅しじゃないんだって。」と報告に行って、皆がしゅんとなったことがありました。

神様は脅しをしない。
神様は、警告をし、憐みがありますので、忍耐深くお待ちくださいますけれども、しかし、これは脅しじゃない。
エドムも、モアブも、アモンも、ツロも、シリヤも、アッシリアもバビロンに対しても同じであった。みんな脅し文句ぐらいに思っていたんです。しかし、本当に神の刑罰が下ってきたんですね。
ですから、これらの神様の預言がすべて成就していることは、歴史上証明されていることです。

コリントにおいても同じでした。ですから、私たちは、神様のことばをただの脅し文句だというふうに考えては危険だ、ということです。
私たちは常に、神様の真実なことばが祝福となるか、あるいは、わざわいとなるか、それは別としても、みことばは必ず成就するということはしっかりと捉えておかなくてならない。

もしイエス様の再臨が延びたならば、すべての人が肉体の死を経験することになります。
しかし、聖書がいう第二の死、すなわち地獄のことですが、これを経験するのはキリストを拒む人達ですね。これは神の預言のことばです。

この神様のことばは、どんなに有名な哲学者や思想家や宗教家たちが、いろいろな説を組み立てても、神の預言を覆すことはできない。
それが、「これらのことばは信ずべきものであり、真実である。」という意味です。永遠性を持っている。
祝福にしろ、さばきにしろ、必ずこれは成就する、ということを意味しています。

Ⅲ.さて、6節に神は「事は成就した」と言われました。

黙 21:6 また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。

A.このことばは何回か出てきますが、黙示録16章17節でも出てまいりました。第七の御使いが鉢をぶちまけたときですね。

黙16:17 第七の御使いが鉢を空中にぶちまけた。すると、大きな声が御座を出て、聖所の中から出て来て、「事は成就した」と言った。

イエス様が十字架の上で語られたことば、ヨハネ福音書19章30節で、「完了した」もそうですね。すべてが終わった。完了した。

ヨハ19:30 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。

「事は成就した」ということばは、いろんなところで出てくるんです。
これは、各々の時点でのすべてのことが成就したことを言っています。
ある意味で、イエス様のご生涯は、旧約の預言を次々と成就していく生涯であったんですね。
まず降誕ですね。まぶねに臥された時、預言が成就した。「事が成就した」
マタイの福音書を見ますと、何度も出てくる言葉は、「聖書が成就するためであった」ということばですね。
まるで認印の判子を押すように、「成就した」ということばが出てくるんです。

けれども、21章6節の「事が成就した」は特別な意味を持っています。
それは、この後には成就すべきものが、何一つ残っていないということです。

創世記を見ますと、神様は六日目に人をお造りになりましたね。
そして、それは「非常によかった」と御満足なさって、七日目にお休みになられたわけです。
それと同じように21章6節の成就の後には、もう神様は、新しい創造の御業はなさらないんです。
「事は成就した」と、これは最後の成就です。あとは、神様は休まれる。

神様は、この時までは休まれない。
ヨハネの福音書を見ますと、父も今働いているから子もまた働くなんてね。本当にご勤勉なことです。
このことを読みますと、人間の罪というのはいかに神を悩ませ、悲しませ、何度も何度も神様の御手を煩(わずら)わせたことかなあと思わされるわけです。

ここに至ると、神様はやっと休むことがおできになる。これが最終の成就であります。
「事が成就した」というのは、そういうことを言っています。
今まで、あちこちに「事が成就した」ということばがありますが、すべてがパーフェクトであります。

B.事が成就すると、神様はご自分を「わたしはアルファであり、オメガである」と言われました。
1.分かるような気がいたします。すべてのことが終わって、そう言われた。

アルファとオメガはギリシャ語で、英語でいえば、最初の文字Aと最後の文字Zで、最初と最後という意味です。
ですから、「わたしはアルファであり、オメガである」というのは、わたしは最初であり最後である、ということですね。
ここで神様は、「わたし」とお呼びになりまして、そして、「アルファでありオメガである」とおっしゃいました。
つまり、「先に神はなく、わたしという神より後に神はいない」ということであります。神様はおひとりだけであって、他に神はいない、ということを指しています。
それは、思想においても、像においても、人物においても、富においても、あらゆるものの世界において、このお方、すなわち、「すべてを新しくする」ことのできるお方以外に神はいない、ということが「アルファであり、オメガである」という意味です。

2.最初から最後まで神がおひとりしかいない、ということは唯一の神であるということとともに、もう一つは神の支配権を強調しています。

つまり、競争相手がいないということです。
ですから、神様の支配権は普遍的だといえます。その支配権は、どこにおいてもあまねく及んでいる。しかも永遠にです。

この神の普遍的、永遠的な支配権に、いろんな人がチャレンジして奪おうとしてきました。
一番初めに挑戦したのが天使の長(おさ)のルシファーでした。
このルシファーは神の支配権を奪おうとして、神様から叩き落されて、サタンになってしまった。明けの明星、ルシファーです。

それから、古代バビロニヤの人々は、バベルの塔を築いて神の支配権を手に入れようとしましたね。その結果、言葉が混乱して散らされてしまった。
神の支配権に挑戦しようとする人は必ずこうなる。これまで無数の権力者たちが神の御座に着こうとして、神に挑戦した。しかし、神様は一度もその御座を譲ったことはない。
私たちの神は永遠のチャンピオンです。
科学が発達すると、人間はなんでもできるかのように、神様はもういらないかのように考えようとしているようですけれども、決してそうではない。

新興宗教の本なんかを見ていますとね、キリストは十字架の上で、「ああ、もうダメだ」って言ったっていうんです。
そんなのどこにも書いていないんです。聖書を読んだことがない人がそういうことを言うんですね。キリストは火あぶりになった、とかね。
うっかりすると「キリストはアメリカ人だった」って言うんです。どこからどうなってこう言っているんだろうかと思うんです。これらは思い違いです。随分酷いですね。

キリストの十字架は、サタンに対して罪と死の勝利を勝ち取られた。十字架だって負けたんじゃないですよ。勝利なんです。
全てのものを支配される普遍的で永遠的な支配権は、神の御手の中にあります。
ですから今も、私たちの神は宇宙の永遠の支配者なんです。私たちは、本当に力強い神様をいただいている。これは心強い。

私も時々思います。
「我が助けは何処より来たるや。 我が助けは、天地(あめつち)を造りたまいし主より来たる。」
なんかちっぽけなところを見ていると「ああ、もうだめだなあ」なんて思いますけれども、「天地(あめつち)を造りたまいし主は生きておられる。この天と地をお造りになられた神様、全宇宙を支配しておられる神様が、お前の神じゃないか。それなのになんだ、その姿は」と叱られそうになります。
神の支配権は宇宙です。宇宙を支配して普遍的永遠である。
これが、「わたしはアルファでありオメガである」ということですね。
神様がこういわれる時は、恐らく確信に満ちて力強くこうおっしゃったと思うんです。

C.さてクリスチャンは、この支配者なる神様から「いのちの水」をいただくわけです。

黙 21:6 ・・・・ わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。

1.ここでちょっと注意してみたいことがあります。

「渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。」とおっしゃったのですが、「いのちの水の泉」から飲ませてくださる「わたし」というお方は誰なのか。
ちょっと聖書を見てみましょう。ヨハネの福音書4章14節をご覧ください。

ヨハ4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。

ここで「いのちの水」を与えてくださるお方は、イエス様ですね。
ヨハネの黙示録を見ますと、「わたし」とおっしゃったのは神様ですけれども、こうして重ねてみますと、神とは、イエス・キリストであることが分かるんですね。

もう一つ読んでみましょう。

ヨハ7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

ここでは、「渇いている者は、わたしのもとに来て飲みなさい。」とおっしゃっています。これも実はイエス様ですね。

もう一つ読んでみましょうか。ヨハネの福音書20章の最後のことばです。

ヨハ20:31 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

「あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」とおっしゃっています。ですから、黙示録21章6節の「わたし」は、まぎれもなくイエス様ですね。
イエス様はこの「御座についておられるお方」、すなわちイエスであり、神なんだ、ということですね。
ヨハネはそのお方をご覧になっていたわけです。

2.もう一つ、「渇く者には」と書いてありますね。

この「渇く者」というのはクリスチャンのことを言っているわけです。
キリストの恵みを経験した者は、絶えずイエス様を慕い求めます。それはクリスチャンの本能ですね。クリスチャンだけにしかない本能というのがあります。

あまりキリストを慕い求めない人とか、あるいは、みことばに渇かないクリスチャン言われている人とかは、かなり危険な状態にあります。
渇かない、ということは異常です。霊的に生まれていないか、生まれていても病の中にある。正常に育っていないことを意味します。

渇く赤ちゃんはミルクをぐいぐい飲みますね。よく飲む子なんて、ミルク瓶が吸い付けられるようでしょ。ぐいぐい引っ張られますね。だから大きく健康に育つ。
飲みっぷりの悪い赤ちゃんていうのは、やはり病気になりやすい。成長が遅れる。
いつでも満足している人っていうのは、飢え渇いている人だけです。満足している人だけが飢え渇く。

イエス様は山上の説教のなかでね、マタイの福音書5章6節で、有名な言葉をお語りになりました。

マタ5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。

まさに本当ですね。飢え渇く人だけが満足する。本当に飢え渇いている人は、ぐいぐいぐいぐいと、この赤ちゃんのように飲む。そして、益々元気によく成長する。
私たちも霊的に飢え渇いていれば、いつも満足する。満足がないということは、飢え渇いていないということですね。飢え渇いて、神様の恵みを頂きたい。

「いのちの水の泉から、価なしに飲ませる」「価なしに」というのは、私たちの努力や功績によるものではない、功(いさお)ではないということです。神様の憐みと恩寵のゆえだ、と教えています。
先ほどのヨハネの福音書20章31節では、「あなたがたが信じて」ということばがありました。ですから、私たちの側から言えば、信仰によってそれを受け取るということです。

神様は憐みと恩寵によってこれを与えて下さり、私たちは信仰によってそれをいただく。この原理は普通の家庭でも行われているんです。
飢え渇きを満たす飲み物や食べ物は、すべての子どもに親は与えているでしょ。しかし、ご褒美は努力した子供にしか与えられませんね。こういう違いがあります。
ですから「いのちの水」というのは、ご褒美ではないんです。
神様は霊的いのち、永遠のいのちを、すべての神の子ども一人ひとりに、努力や功績によらず信仰によって与えられます。
「価なしに」、ということはそういうことです。有り難いことです。

共産主義の国では「働かざる者、食うべからず」というんだそうですが、聖書は逆ですね。

D.次に7節に移りますと、「勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。」と言われている。

黙示録2章3章では、勝利を得る者にはこういうものをあげます、ああいうものをあげます、とか、たくさん出てきまして。随分ご褒美付きみたいな感じがしましたね。

1.「勝利を得る者」というのはどういう者か。

黙示録2章10節では「死に至るまで忠実な者にはいのちの冠を与える」
とお約束になりましたので、死に至るまで忠実な者のことでしょうね。
イエス様が、マタイ24章13節で「最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」と語られました。これも、勝利を得る者は、最後まで信仰を全うする者だということを教えています。

2.7節で「勝利を得る者は、これらのものを相続する」とありますが、「これらのもの」とは何なのかというと、これは、21章1節から6節までの約束を示しています。このことは既にお話ししてきました。

「これらのもの」は、私たちが神の子となるのに全く十分なものですね。
この「いのちの水」を飲んでいるということは、私たちが神の子であるという印であり、真のキリストの教会の一員であり、キリストの花嫁になる資格があるということです。

私たちはこの地上で一回結婚しますが、この二回目の時は素晴らしい結婚になる。
そのあとで神様は「わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる」とおっしゃいます。
この言い方はとても旧約的ですね。旧約聖書の中によく出てまいります。神とイスラエルの間の契約を語る時に、しばしば用いられました。
「わたしは彼の神であり、彼はわたしの子となる」という二重の言い方は、神の約束の確かさを強調しています。これは本当に素晴らしいことです。
私たちは、必ず最後まで信仰を全うするならば、素晴らしい勝利を獲得することができます。

Ⅳ.最後の8節は、火と硫黄が燃える池に投げ込まれる人々のリストのことです。

黙 21:8 しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」

「第二の死」と言われていますけれども、それは地獄のことですね。そこに投げ込まれる人々のリストです。どういう人がそこに投げ込まれるか。

ここには八つほどのリストが挙げられているんですが、パウロもこれと同じようなリストをローマ人への手紙1章18節から32節、Ⅱテモテ3章1節から9節などで挙げています。

①臆病者
迫害とか困難を恐れて、信仰を捨ててしまう者。キリストから離れていってしまう者。困難とか苦しみがあると神様から離れていってしまうんです。恐れてしまう。
臆病者は信仰を全うできませんよという危険を教えています。

②不信仰な者
5節にあるような、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実である」という神のことばを信じようとしない、従おうとしない人達のことですね。
そんなの脅かしだ、なんて言っている人のことです。

③憎むべき者
霊的に堕落し、汚れている者ですね。忌むべき者ですね。

➃人を殺すもの
これは殺人のことだけではありませんよ。ヨハネの手紙なんか見ますと、人を憎む者もまた殺すものであると教えていますね。
ですから、人を憎んだり赦さない者も含まれる。

⓹不品行の者
淫らで姦淫を行う者。

⑥魔術を行う者
昨今、非常に多いですね。占い、星占い、迷信。
よく子供が言ってきます。「先生、何座?」
「先生は餃子だよ」なんて言うんですけれどもね。
日本は科学が発展している国と言われていますが、相変わらずこういうものが非常に多い。家を建てるとき向きがこっち向きだからとか、占いとか迷信とか多いですね。

⑦偶像を拝む者。
日本人は、数撃ちゃ当たるみたいにして、あっちこっちたくさん拝んでおけばどこかで効くだろうなんてね。
いつかでしたか、天満宮から帰った人が「あ、ここにも神様がある。ついでに拝んでおこうか。」なんて言ってね。その途中に教会があったので「ここも拝んでおこうか。効くかもしれない。」なんてね。 効くって言ったって、膏薬を張るわけではないと思ったんですけど。
偶像を拝む者というのは、真の神様以外を信頼してそれに従う者ですね。 日本人は見境がないというか、節操がないというか、そういうところがありますね。

⓼すべて偽りを言う者
これは多いですね。
ずいぶん前ですけれども、子供たちに「嘘を言うのも罪なんだよ」って言ったら、ある子どもがテーブルをたたき始めて、「先生、嘘をつかない子供なんて一人もいないよ。」と言いました。「そうだなあ。」って言ったんですけどね。
言葉や態度や行為で不真実を言ったり行ったりすること、これ、ほとんどの人がこれに含まれてしまう。

ですから、6節にあるように、私たちはキリストの血によって罪が取り除かれる、「いのちの水」を飲む者にならないといけない。
イエス様は、「渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。」とおっしゃいました。「いのちの水」を飲む者でなければ神の国に入ることができない。

最後にこういうリストを上げて警告し、それを「書き記せ」とおっしゃられました。これ以後は、そんなことは言われていませんけれども、最後に、非常に具体的に、警告を発しなさったということですね。
私たちは、勝利を得る者とならせていただく信仰を、全うさせていただきたいと思うことであります。

お祈り

「わたしはアルファであり、オメガである。
わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。」
天の神様、イエス様の恵みと愛とをありがとうございます。
イエス様は十字架の上でも勝利をおとり下さり、永遠に勝利者であります。
この神様を私たちはいただいていることをありがとうございます。
どうか私たちの生涯、信仰を全うさせてください。
これらのものは相続するとおっしゃいました。
イエス様、あなたの豊かな恵みが私たちの相続財産として与えられ、やがて神様が、「見よ」とおっしゃる驚くべきことの中に私たちを招きいれてくださるよう、心からお願いいたします。
この時を感謝して、尊いイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン。


地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明