音声+文書:信仰の列伝(10) ノアの信仰 へブル人への手紙11章7節

イタリアの画家Domenico Morelli (1823–1901)による「箱舟を出た後のノアによる感謝の祈り」(Wikimedia Commonsより)


2016年10月2日 (日) 午前10時半
礼拝メッセージ  眞部 明牧師

へブル人への手紙11章7節
11:7 信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。

はじめの祈り

「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。」
恵みの深い天のお父様、私たちにも同じ恵みを与えて下さり、ノアも神様とともに歩みましたけれど、私たちも日ごとに主とともに歩む生活をさせていただき、神の義にあずかり、そして信仰による相続する者とならせてくださることを感謝いたします。
みことばを祝して下さり、イエス様の恵みを体験させていただいて、この箱舟の大いなる意味を心に経験し、イエス様の十字架を経験することができ、新たなる一週間、また10月の月をも歩ませてくださいますようにお願いいたします。
これからの時を主の御手にゆだね、尊いキリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン。


今日は、「信仰の列伝」の三人目として、ノアが取り上げられています。

アブラハムより前の信仰者としては、ノアは箱舟で知られている特別な人物であります。
彼もまた、神とともに歩んだ人です。神とともに歩んだということは、主とくびきを共に負って歩み、いつも主を自分の前に置いて生活し、主のみことばを足のともしび、道の光として歩んだ人ですから、私たちが学ぶことは、非常に多いと思います。

これを、ただの知識の学びとせずに、私たちにも歩むべき道がありますので、そこで活用させていただきたいと思います。そうすれば神の愛のみわざが、奇跡が、必ず起きてまいります。イエス様は「あなたの行くところ、どこにおいても主を認めよ、そうすればあなたの道をまっすぐにする」と仰いました。イエス様は私たちの歩みを支えてくださることを信じております。

この7節には、ノアの信仰の特徴が、三つ記されています。まず最初に、それらを申し上げておきます。

第一は、「まだ見ていない事がらについて、神から警告を受けた」信仰です。
すなわち、神様からの強い働きかけ、強い促しを受けた信仰です。神様からの働きかけがあった信仰です。ノアの方からよりも、神から来た、ということですね。

第二の特徴は、何のしるしもなく、何の保証もなく、ただ主のみことばに従って、巨大な箱舟を造った信仰です。

第三は、家族の救いのための信仰です。
「家族の救いのために箱舟を造り」と書いてあります。

ノアが神様から受けた警告を話した時に、それを信じて箱舟に入った者は救われて、神の義を相続する者となりました。ノアに与えられた警告を信じないで、聞いても箱舟に入らなかった者は、罪に定められて、滅ぼされてしまいました。
ノアの造った箱舟に、入るか入らないかによって、一人ひとりが神の警告を、信じて従うか、それとも信じないで滅びの道を選ぶか、を表しています。ノアの箱舟はその試金石となりました。ですからこの箱舟は、新約で言えばイエス・キリストの十字架を表している、ということができるでしょう。

Ⅰ.まず第一に、ノアはまだ見ていない事柄について、神からの審判の警告を受けました。

救いの道を備えるために、箱舟を造るように命じられて、強く促されています。神様はなぜ、箱舟を造るように強く命じられたのでしょうか。その理由は二つありました。

一つは、世が、悪に満ちていたからであります。
創世記の6章5,6節を読んでみたいと思います。

創 6:5 【主】は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。 6:6 それで【主】は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。

ここに、人間の心の状態が、悪に傾く性質を持っている、ということが分かりますね。ただ一回や二回罪を犯す、というのではなくて、悪い事だけに傾く罪の本質、罪の性質、罪の根、罪の傾向性、罪の腐敗性、それを明らかに示しております。そして聖書は、このような堕落は、どのように始まり、どのように広がっていったか、その様子が書いてあります。

それは、創世記6章2節に「神の子ら」と書いてありますが、この「神の子ら」というのは、ここでは神様を知っているセツの子らのことであります。その「神の子ら」のセツの子孫が、神様を知らなくなってしまった人々の娘たちの美しいのを見て、好む娘を自分の妻にすることから始まっています。信仰によってではなくて、各々の好みによって娘たちを選んで、自分の妻にした、ということですね。
神の子たちが不信者と結婚することによって、家庭の信仰がないがしろにされて、なし崩しに崩れていって、子や孫への、子孫への信仰の継承が行われないで、家族の内の信仰が崩れ始めたのが、堕落の発端であります。

この日本でも、家庭の崩壊、家族の崩壊と叫ばれた時代がありました。今は、昔のように聞いておりますけれども、このことが堕落の発端であります。
家庭の中で、良い信仰が、良い良心が継承されなければ、伝えられて行かなければ、世の中全体が、暗黒に陥ってしまいます。そういうことを私たちは今でも経験しているわけです。

人々が心で考えること、計画すること、願うこと、たくらむこと、行うことが、みな悪い事だけに傾いていったわけですね。
悪い、ということは、自分中心、神にそむく方向に傾いていった、ということです。それはついに、創世紀6章11節で、「地は、神の前に堕落し、地は暴虐に満ちていた」と書いてあります。

神様は、世がますます悪に進み、暴虐に満ちてくるとき、神の民に大きな挑戦を与えて、キリストの救いの福音を宣べ伝えさせます。私たちの住んでいる世界は、暴虐に満ちています。暗黒に満ちています。そういう時に、私たちの心に光を与えて、イエス様の福音を宣べ伝えさせています。

真のクリスチャンであれば、この世の堕落や犯罪を見て、嘆いているだけではなくて、聖霊によって、キリストの救いをあかしすることに、心を熱くするはずです。これは、神の促しを受けている、聖霊の働きを受けているからであります。

第一の理由は、世の人々が、悪に満ちて行ったからであります。罪の性質が表面化してきているのです。社会の堕落が、目に見えてくるようになってきました。

第二の理由は、神様がノアに箱舟を造るように命じられたからです。

創世記6章8,9節を読んでみたいと思います。
創 6:8 しかし、ノアは、【主】の心にかなっていた。 6:9 これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。

「ノアは主の心にかなっていた」と書いてあります。これは、ノアの信仰が、アベルの信仰と同様に、神に受け入れられていたこと、喜ばれていたことを示しています。

「ノアは、正しい人」と書いてありますが、これは、心が真っすぐに神さまに向いている人、神に向かって単一な心の人、二心でない人、真実に神様をおそれかしこんでいる人を、正しい人、と言っています。

さらに「全き人」と言っていますが、旧約聖書で、「全き人」と使われる時は、神に対する戒めを欠けなく行い、全身全霊で神に従っている人のことを言っています。

ルカの福音書1章6節で、ザカリヤとエリサベツについて、「ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落ち度なく踏み行っていた。」とありますが、このような人のことを、旧約では「全き人」と呼ばれています。
ですから、そういう意味で「全き人」であった、神の戒めを、欠けなく行っていた、ということですね。

しかし、これは、マタイ19章の金持ちの青年とはまた違いますね。形式的に行っているのと、信仰で行っているのとは、別であります。イエス様は、金持ちの青年には、「全き人」とは呼んでいません。

「ノアは神とともに歩んだ」と、エノクもそうでしたけれども、ノアの全生涯を通しても、神に対する基本姿勢は、神とともに歩むことであります。
ノアの生涯は非常に長いです。洪水のあとでも350年生きて、全生涯は950年です。(創世記9:28~29)。ですから相当長いですね。

ノアは、生活に、根を下ろした信仰を活用した人で、生活の中で生きている、学んで形式的に儀式的に行なっている信仰ではなくて、しっかり根を下ろして、活用している信仰者であります。

三人の息子たちにも、信仰の指導をしていたと思われます。三人とも神の警告を信じて、箱舟に入っています。それがそのあかしですね。

ノアは、悪に満ちた世にあっても悪に染まらず、日常生活を通してひたすら信仰をあかしし、神をあかしした人です。

それゆえに神様は、ノアに救いの道を啓示され、箱舟を造ることを命じられました。
創世記の6章13節から21節では、大まかな箱舟の建造命令が記されていますが、これは、大まかですから、これで箱舟が造れるわけではありませんけれども、それでも聖書はそれを記しております。

これはノアに対する指示であるとともに、創世記6章6節にあるように、神様が悔やまれた心と、痛まれた心の告白でもあります。神様の悩める心を告白してもらえるような、そういう関係の間柄になっていたノアであります。

創世記6章6節では、「主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた」とあります。
神様は、この悔やまれるお気持ちを、ノアに打ち明けられたわけです。神様は、アブラハムにも気持ちを打ち明けられた、とありますけれども、ご自分の悩みを人に打ち開ける、そういう関係に至る信仰者もいた、ということであります。私たちもそうありたいと思うものです。イエス様のお気持ちを十分に分かるような、そういう信仰者になりたいものです。

Ⅱ.第二のノアの信仰の特徴は、目に見えるしるしや、当てになる物質的保証が何もない時の、信仰であります。

ヘブル書には、「まだ見ていない事がらについて神から警告を受けた時」と書いてありますけれども、そういう信仰ですね。

神の警告はあっても、大雨が降り始めているわけではなく、洪水の兆候もなく、人々は好き勝手な生活を営んでいる。

また、見たこともない大きな箱舟の建造を命じられても、どこから手を付けたら良いかわからない、そういう状態での、信仰です。びっくりして、驚いてしまいます。どうしてよいか分からない、そういう状態での信仰であります。

このように神様のご命令は、突然、私の考えの及ばない時に、与えられるものです。
なぜ、私が、大雨が降っていないのに、そういう備えをするのか、大きな箱舟をどうやって造るのか、ぜんぜん分からない。手の施しようがない。そういうふうに思える時に、ご命令が与えられます。

ですから、11章1節の「目に見えないものを確信する信仰」が必要になってきたわけであります。ノアはそれを使っております。ノアの信仰は、「目に見えないものを確信する信仰」でした。

父なる神様は、ノアに、大洪水によって地上のすべての肉なるものを滅ぼすので、主を信じる者を救うために、巨大な箱舟を造るように命じました。この困難さは、二つあります。

一つ目は、わずかの特定の悪人たちが滅ぼされるのではなくて、ほとんどすべての不信仰な、神を無視して生きている人全部を、滅ぼされると宣告されています。
このことが今現在起きたら、地球上で生きて残る者は、どのくらいでしょうか。ノアの箱舟と同じぐらいでしょうか。事実、ノアの家族以外、すべての人が滅ぼされています。
当時はまだ、地球全体に広がるほどの広範囲に、人や獣が広がっていなかった、と思われます。それでもこの警告は、永遠に書き記されて、人類に警告される大事件として、聖書に記されているわけです。ノアの箱舟のことを知らない人は、ほとんどいないでしょう。

二つ目の困難さは、ノアに造るように命じられた箱舟の巨大さです。
長さが300キュビトだとあります。キュビトというのは長さの単位ですけれども、だいたい大人の指先から肘までの長さで、約45センチであると思われます。大まかに言いますと、長さが300キュビトですから150メートル弱、幅が50キュビトですから25メートル弱、高さは30キュビトですから15メートル弱、中を三階建てに造ります。
この巨大な建造物を造る技術は、神様が与えられたものですが、当時の人が、三階建ての巨大な木造船をつくる技術を持っていたことは、驚きです。現代なら簡単かもしれませんけれども、三階建ての巨大な木造船を造ることは大変なものであります。

もし、この命令が神様から出たものでなければ、ノアだけの思いつきでできるようなものではありません。
また、もし、ノアが、神と神のみことばを、確信を持って信じていなければ、思い込みぐらいのことであれば、この巨大な箱舟の建造はしなかったでしょうし、できなかったはずです。
どんなに自分で大きいものを造ろうと決意しても、できるようなものではありません。神の御命令がなければ、とてもできないわけです。

ノアがこの箱舟の建造に取り掛かった根拠は、ただ神の御命令を受けたというだけであります。そのほかに、目に見えるなんのしるしも、根拠もなく、物質的保証もありませんでした。
神様が、箱舟を造るための材料をそろえたわけではありません。おそらく、ノアはアララト山から箱舟を造るための材料を、切り出してきたと思われます。

聖書中の聖徒たちも、しばしば、神様のみことばだけを根拠にして、信仰の働きをするように、主から命令を受けています。

ルカの5章4節から6節を読んでみたいと思います。これは箱舟とは関係ありませんけれども、みことばどおりにする、ということで、読んでみたいと思います。ペテロが言っている言葉です。

ルカ 5:4 話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。 5:5 するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」 5:6 そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。

大事な取り上げたいことばは、「おことばどおりにします」ということですね。

ローマ4章19節から21節を読んでみましょう。アブラハムのことですけれども、「約束通りに」というところですね。大事なことです。
ローマ 4:19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。 4:20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、 4:21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。

もう一つ、ヘブル11章11節も読んでみましょう。サラの話です。サラも同じように信仰を持っていますね。
ヘブル 11:11 信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。

このほかにも、みことばに従った信仰が、聖書の中には続々と記されています。紅海を渡った時も、ヨルダン川を渡った時も、そのほかすべての信仰の働きは、みな神のみことばを根拠にして、実行されています。

今の私たちも、確かなみことばの根拠をいただいて、確信をもって、日ごとの生活を行いたいと思います。
マタイの6章8節でも「みことばだけを私に下さい」と言った、百人隊長のあかしもあります。

イエス様ご自身も、マタイ7章24節と25節で、みことばがどんなに大切かを教えています。
マタイ 7:24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。 7:25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。

「これらのことばを聞いてそれを行う者はみな・・」とありますが、二つのことが書いてありますね。
まず「聞いて」「それを行う者はみな」と二つあります。
クリスチャンはみな、よく聞きます。でもなかなか「行う人」は少ないんです。ここが、問題だと思いますね。「聞いた」ことばは、実行することを通して、神の恵みとみわざが始まります。「聞いて」行わない者は、ヤコブが言っている通り、自分の顔を鏡で見てすぐに忘れる人と同じだ、と言っています。聖書のことばを聞いて、すぐに忘れてしまう。

覚えている、ということではなくて、実際にそれを使うことが大事なんです。そういう時に信仰が働いて、聖霊が働いてくださって、神のみわざが行われます。そうすることを通して、実際にこの世の中に対して、光をあかしすることができるのです。
クリスチャンはよく聞きます、よく学びます。しかしそれを行う者は少ない。

イエス様は、ノアの時代の人も、現代人も同じだ、と指摘しました。マタイ24章37節~39節を読んでみましょう。ノアの時代は古い旧約の時代だ、と言っているのではなくて、今の時代と同じだ、と仰いました。
マタイ 24:37 人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。 24:38 洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。 24:39 そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。

洪水が来て、すべてのものをさらってしまうまで、分からなかった、というのは、自分の知恵で判断できなかった、ということですね。信じなかった、ということであります。初めて、神様のおっしゃった警告が本当だった、と分かったんです。それでは、遅すぎます。
見ずして信じなければならないという警告がそこにあるわけです。

洪水が来てから、「やっぱり来たか」、では遅すぎるわけです。彼らは自分が頼っていたものが、いかに虚しいものであるか、分からなかった。
分からなかったということは、信じなかったんですね。これは「信じるしか」ないんです。
このことが明らかになるのは、洪水が来た時ですから。彼らが、岩だと思っていたものが、洪水が来た時には、みな砂であったことが分かったわけですね。この話は、イエス様の時代から話されているんです。

毎日、私たちがニュースを見ると、どこかで大洪水が起きています。洪水が押し寄せて来て、川が氾濫して、家が流されているのを、しばしば見るではありませんか。洪水が来た時に、みな砂だと分かってしまった。それまでは分からなかったと、悟らなかった、信じなかった。人の子が来るのもそのとおりだと仰いました。ですから、この警告は昔の話ではありません。今私たちが目の前で、毎日のように見ている警告です。

ノアは箱舟を建造する時、三人の息子とノアと四人で造ったのではないと思います。この大きな箱舟はそんなものではできませんから。多くの職人や、大工さんを雇ったでしょう。職人さんや大工さんは、自分の手で箱舟を造りながらも、主の警告を信じないで、箱舟に入らなかったので、救いの箱舟を造りながらも、みな滅んでしまいました。

私は、何かを心の支えにしていないと、生きていけないのは事実でありましょう。しかし、その支えをこの世のものに置くならば、私は容易に崩れ去ってしまうでしょう。

ノアの時の職人さんや大工さんたちは、賃金を受け取ったでしょう。給料は受け取ったけれども、永遠のいのちは受け取らなかった。

ダビデは次のように告白しています。
詩18:18 彼らは私のわざわいの日に私に立ち向かった。だが、【主】は私のささえであった。

わざわいの日に敵対した、ということですね。だが、主は私のささえであった。ノアと、他の人々との違いがここにあります。この世の人々は、毎日飲み食いし、めとり、とつぎ、それがいつまでも続くことが、繁栄のしるしだと考えていたんです。

しかしノアは、神に従い、神とともに歩んだのです。その違いがあります。
創世記6章22節で、「ノアは、すべて命じた通りにし、そのように行った」と書いてあります。聖書の言葉を覚えて暗誦できる人は多くいても、神様が命じられた通り行う人は稀なんです。これだけ、神様のみことばを信じて、行うようにお話していても、実際に行ってくださる方は稀なんです。

主のみことばを行うことによって、神に信頼し、実際に神に従って信仰が完結します。
聞いて、知って、学んで、理解していても、行わなければ、知っていればいるほど神
様に不服従になります。信仰が不信仰になっていくのを表しています。
神に信頼して、神に従って、信仰を行なうことによって、その時にのみ、神のみわざは実現します。

ヤコブの1章22節~24節を読んでみたいと思います。ヤコブは、信仰の行いのことを教えていますね。
ヤコブ1:22 また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。 1:23 みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。 1:24 自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。

神様のみことばを心に留めて、聞くだけで終わらないで、行なってくださいと言っています。

ヤコブの2章26節も読んでみましょう。
ヤコブ2:26 たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。

信仰を、人の姿にたとえていますね。揺り動かしても何をしても、行わない信仰は、死んでいる、と言いました。死んでいる、ということは、信仰にいのちがない、ということです。聖霊が働いていない。知っている、戒めを守っている、儀式を守っている、そういうものは全部守っている、子どもの頃からずっとやっている、と言っても、心の中に神の愛はない、信仰はない、永遠のいのちがない、失っている。信仰の多くは、ここに陥ってしまいます。

ですから、私たち信仰者は、この世の富や繁栄やしるしに惑わされずに、主のみことばを信じて、隣人を愛しあったり、助け合ったり、重荷を負いあったりする。そういう信仰を、行いましょう。この信仰は、生きております。

Ⅲ.ノアの信仰の第三の特徴は、家族の救いのために全力を尽くした信仰でありました。

ヘブルの11章7節では、ノアは、「恐れかしこんで、家族の救いのために箱舟を造り」
とあります。ノアが主を恐れる思いを持って、敬虔、かつ勤勉に主に仕えた姿を記しています。

コロサイの3章22節~24節を読んでみましょう。ノアが主を恐れる思いをもって箱舟を造っている姿と同じですね。
コロ3:22 奴隷たちよ。すべてのことについて、地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。
3:23 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。
3:24 あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。

ノアも神様に仕えることによって、その結果として、ノアの信仰の働きは、ノアの家族8人を、救いに導くことができました。ノアがそれほど大きな箱舟を造って、たった8人しか救えなかったのか、と嘲笑う人がいるかもしれませんが、この8人はその後、全世界の人々の先祖となることになっています。

私たちは、僅か一人の人を救いに導くことを、小さなことと考えてはなりません。大勢の人を集めて、ワイワイ騒いでいる人がいますけれども、私たちはノアの箱舟の8人のように、本当にキリストの救いに与るたましいを、お救いしたいものです。

創世記の7章13節を読んでみましょう。
創7:13 ちょうどその同じ日に、ノアは、ノアの息子たちセム、ハム、ヤペテ、またノアの妻と息子たちの三人の妻といっしょに箱舟に入った。

「ちょうどその同じ日に」というところに、気を付けていただきたいと思います。大雨が降り始める日と、箱舟にノアの家族が入る日が、ちょうど同じであった、ということですね。
それは、何を意味しているか。神様のご計画は、遅れもせず、早くなることもなく、実現している、ということです。

ヘブルの10章37節で、「もうしばらくすれば、来るべきお方が来られる。おそくなることはない。」とあります。
イエス様のお出でも、「遅れている、遅れている、いつ、来るんだろう」という期待がありますけれども、来るべきお方は来られる。私たちが必要としているお方は、遅くなることはない、と言われています。

第二ペテロの3章9節~10節も読んでみたいと思います。
Ⅱペテロ3:9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。 3:10 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。

神様の忍耐の強さは、いかほどでありましょうか。神様が私ぐらいの忍耐しかお持ちでなかったら、とっくに大勢の人が滅んでしまって、この世は閉じているでしょう。
そうではないんです。人々が滅ぶことを望んでおられない神様は、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられます。

しかし、それだからと言って、「来ない」のではない。盗人のようにやってくる。その日はもう、恐ろしいことが起きます。「天は大きな響きをたてて消え失せ、天の万象は焼けてくずれさり、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされる」、と書いてあります。

ノアの大洪水は、人間の不信仰な堕落に対する神の怒り、審判を表しています。箱舟は、先ほどもお話しましたが、イエス・キリストの救いを表しています。
そしてノアは、箱舟を造っただけではなく、「神の義を宣べ伝えた」のです。

第二ペテロの2章5節を読んでみましょう。
Ⅱペテロ2:5 また、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち八人の者を保護し、不敬虔な世界に洪水を起こされました。

8人は少ないですけれども、ノアは、自分たちが箱舟に入ることを通して、「義を宣べ伝えた」、と言っています。「義」の宣伝者ですね。
私たちがイエス様を信じて、救われて、その生活を行なうことは、「義」を宣べ伝えることにつながっています。

ノアは毎日箱舟を造りながら、声をからして、不信仰の罪に対する神の審判を話し、箱舟に入って救われるように勧めたはずです。しかし、ノアの家族以外、彼らは誰も、ノアの証言を信じなかったんです。
信じるか信じないかは、一人一人、自分の責任であります。代わりに信じてあげることはできないし、教えて説得しても、信じるのは本人しかできないことであります。
教えて学んで、聖書研究をして、知識として知っていても、信じることがなければ、救われることはできません。また、私たちが真理を知っていて、宣べていなければ、神様はその人に責任を問われます。

エゼキエル書の3章17節~20節を読んでみたいと思います。クリスチャンは、自分だけ信じていて、宣べ伝えず、証ししない人は、責任を問われます。

エゼ3:17 「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。 3:18 わたしが悪者に、『あなたは必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪者に悪の道から離れて生きのびるように語って、警告しないなら、その悪者は自分の不義のために死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。
3:19 もしあなたが悪者に警告を与えても、彼がその悪を悔い改めず、その悪の道から立ち返らないなら、彼は自分の不義のために死ななければならない。しかしあなたは自分のいのちを救うことになる。
3:20 もし、正しい人がその正しい行いをやめて、不正を行うなら、わたしは彼の前につまずきを置く。彼は死ななければならない。それはあなたが彼に警告を与えなかったので、彼は自分の罪のために死に、彼が行った正しい行いも覚えられないのである。わたしは、彼の血の責任をあなたに問う。

クリスチャンは、見張り人の役目ですね。

ローマの10章14節と15節も読んでみましょう。ですから伝える必要がある、ということですね。
ローマ10:14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。 10:15 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」

現代も、神の義が宣べ伝えられていない民は、滅びつつあります。
ですからまず、私たちは、家族にキリストの救いをあかししましょう。世の人々の家族が、神様を恐れず、快楽の中で、堕落の中で、滅びていく中で、最悪の環境の中で、ノアは自分の妻と、三人の息子夫婦を、箱舟に入れることができたのは、ノアの信仰生活が、ことばや口先だけのものではなく、行いと真実を持ったものであることを示しています。
身近にいる家族は、私が心の底から信じているのか、口先だけの、理屈だけの信仰か、儀式だけなのか、見抜いてしまうのです。本物か、偽りか、を見抜いてしまいます。
いざという時、誰に頼るか、どう行動するかで分かります。

しかしノアは、主を恐れかしこんで、箱舟づくりに励んだのです。ノアの心には、寸分の疑いも迷いも、つぶやきもありません。初めは信仰で始めたものの、途中で疑ったり、迷い出たり、道をそれて行ったり、曲がったり、つぶやいている自分を見出すことはないでしょうか。これがあると、全き信仰になっていません。危険であります。

ノアは、自分が受けた、経験した、神のご命令から、決してそれなかったんです。心に疑問を抱いて、つぶやいている心を持ったままで、習慣に押され、人の顔を見て、それを続けていく、ということは危険であります。

家族をキリストの救いに導くには、まず、自分の信仰生活が、本当に神を恐れかしこんでいなければなりません。その真実な信仰の姿勢が、家族を主の救いに導きます。決して、信仰の知識を教えることによってではありません。

Ⅳ.最後に、ノアが箱舟を造った結果について、お話します。

第一に、世の罪を定めたことであります。

ノアが箱舟を造り、箱舟に入ることによって、世の人々の不信仰を明らかにして、滅びという判決を下したことであります。
私が、イエス・キリストの救いを伝える時、多くの人がこれを拒みますけれども、そのことは自分自身が不信仰であり、滅びに行くことを選んでいる、その判決を下したのであります。
私たちが、キリストの福音を伝えることによって、この世の人々は、これに対して、信仰か不信仰かの選択を迫られ、自ら判決を受けていくのです。

「私はいらない」という人がいますけれども、そういう人達を見た時、私たちは本当に心の中で、涙を流しております。自ら滅びを、選んでいるからです。箱舟は、中に入る者には救いをもたらし、入ることを拒む者には滅びの判決を受けさせてしまうからです。

ですから、私たちは、非常に重要なことをしているんです。箱舟に入る人は少ないでしょうけれども、滅びる人は多いでしょう。それでも私たちは、いかにして、箱舟の外に入る人を招き入れることができるか、実行していかなくてはなりません。

第一の理由は、この世の人がキリストを拒むのは、イエス・キリストの救いを全く知らないからであることが多いんです。誤解や無知から反対していることが多いんです。

キリストの救いを無理なく受け入れる心の土壌を造るには、気が遠くなりますけれども、幼児期からの聖書教育しかないんです。日本ではこのことを、失敗していますね。
ユダヤでは、会堂と家庭で、信仰の教育訓練が行われていました。今日、この世の人は、聖書による心の教育に、ほとんど価値を認めていません。教育が、将来お金を得るための手段でしかなくなってしまっているからです。

第二の理由は、聖書のみことばの真実と、その権威を、疑っているからです。聖書は古い書物のように思っているんでしょう。

これに対して、クリスチャンが真実に、隣人を愛する生活を通してあかしをすることは、聖書のみことばの真実を裏付けることです。私の生活がいい加減なものであれば、聖書のことばは、ただの不真実だと思われ、キリストの御名が汚されてしまいます。それゆえ、私たちは、みことばを輝かせ、キリストがほめたたえられるように生活するのです。

この世の人は、クリスチャンの態度や行動を見ております。その態度や行動をみて、キリストと聖書を判断するんです。福音宣教を実らせるには、クリスチャンの生活の裏付けが必要です。これは本当に大事なものだと、感じさせることが必要であります。

ノアの信仰の第二の結果は、「信仰による義を相続する者になりました」とあります。
ノアは、箱舟に入る前も、神に従っている人でしたが、実際に箱舟に入ることによって、さらに、自分にも他人にも、不信仰な人とはっきり区別させて、神の義をはっきりさせました。
「義を相続する者」とは、「神の義を内に所有する者」という意味です。キリストの救いは、具体的で明解であります。思い込みとか、感じ方ではありません。イエス・キリストを、私の罪のために身代わりとなって、十字架に架かってくださった救い主として、信じる時、神の義を相続する者となるのです。

しかし、この神の義は、まだ種であります。神様は信仰者に種を与えられますから、みことばの種ですね、その信仰を活用することによって、多くの実を結んでまいります。

そのために、まず第一に、毎日、主のことばを受ける生活をしたい。
この世の人々が、主に逆らえば逆らうほど、この世が真っ暗闇になればなるほど、そして私たちはそういう世界の中で生きているわけですけれども、毎日、喜ぶことよりも失望することの方が多いでしょう。暗闇の中にいるわけですから。その中で私たちは、みことばの光を必要とします。ですから、あなたの光を輝かせるようにと、命じられております。

第二に、何のしるしがなくても、主のことばを根拠にして、キリストの救いをあかししたいものです。目に見える可能性や、見通しなどはあてになりません。

第三は、主のみことばが真実であることと、みことばの権威を裏付ける信仰の行い、そういう生活をしたいものです。
これは、特に身近な家族を救いに導くのに是非必要です。未信者の人々は、私の言葉よりも、行いや態度を見て、イエス・キリストのみことばの真実と権威を知るようになります。
ですから、私たちはそのために、主とともに歩み、主とくびきを負う生活をさせていただきましょう。みことばを、足の灯とする生活をさせていただきましょう。イエス様を前に置く生活を、今週もさせていただきたいと思います。

そうすることによって、私たちの信仰は、神様のみわざを見るようになります。
「信じる者は。栄光を見る、と言ったではありませんか」と言われました。栄光のみわざを見ることになります。そういう一週間を送らせていただいて、私たちが、何も神様の栄光を現わさない生活ではなくて、信じる神の栄光を見る生活をさせていただきいと思います。

お祈り

「信仰による義を相続する者となりました。」
恵みの深い天のお父様、イエス様の救いを与えてくださって感謝いたします。
このことを通して、私たちは、神の義にあずかる者となっておりますけれども、今度は、その義が人々の心の中にまで伝わっていくように、イエス様のお力を頂いて、私たちの毎日の生活が、ただクリスチャンであるというだけではなくて、一つ一つのみことばが実を結ぶ、私たちが行くところどこにおいてもイエス様が働いてくださっている、そのことを証しできる生活とさせてください。
努力してできるものではありませんけれども、みことばと聖霊の助けをいただきつつ、イエス様が遣わしてくださったあのノアのように、とても考えられないような巨大なお仕事でありますけれども、神様はそれを全うさせてくださいますから感謝します。
いのちに至る道を見出せるよう、私たちの生涯を通して、一人でも二人でも八人でも
起こされますように顧みてください。
この町にも、この国にも、無数の滅びるたましいがありますので、暗黒の中に住んでいるたましいがありますので、憐れんでください。
尊いキリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明

<今週の活用聖句>

マタイの福音書5章18節
「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」

地の塩港南キリスト教会
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