音声+文書:信仰の列伝(9) 信仰がなくては(2)へブル人への手紙11章6節

デンマークの画家 Niels Larsen Stevns (1864 – 1941) による「Christ And Zacchaeus(キリストとザアカイ)」(デンマークのRanders Museum of Art蔵、Wikimedia Commonsより)


2016年9月25日 (日) 午前10時半
礼拝メッセージ  眞部 明牧師

へブル人への手紙11章6節
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

はじめの祈り

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」
恵みの深い天のお父様、こうして、恵みの中で暑い夏も過ぎ去り、今年も9カ月の間お守りくださり、感謝をいたします。その間、私たちの信仰は、イエス様に留まり続けて、イエス様をあかしできますことを感謝いたします。
いろんな課題や困難、病を、様々なところで経験しましたけれども、イエス様が助けを与えて下さり、導いて下さり、いつも働いてくださるイエス様を信じて、内に経験して、この一週間を始められますことを感謝いたします。
イエス様がともにいてくださる幸いを、深く心に経験して、礼拝をささげることができますように。
様々な課題や、ホームにおられる方々の上にも、助けを与えて下さり、ご家族のために奉仕をしておられる方にも、イエス様の助けをお与え下さり、信仰もお守りください。
この時を感謝して、尊いイエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。


今日は、信仰の列伝(9)、「信仰がなくては」という題で、お話させていただきます。

この11章6節では、神様が喜ばれる信仰者の特徴を、二つ記しています。

これらの信仰は、まず、健全に、みことばに基づいたものなければなりません。もし、その信仰が自分の知恵や、考えや、自分の欲から出たものであれば、決して、神様を喜ばせることはできないからであります。
自分が何か得をしたい、何かを得たいからそう信じます、というような、ご利益宗教になりやすいことですけれども、そういう信仰では、神を喜ばせることはできません。

まず第一は、「神に近づくものは、神がおられること・・・・・を信じなければなりません」

これは、当たり前のことを言っているように見えますけれども、クリスチャンは、この当たり前の信仰が、うやむやになっていることがあります。
理屈の上ではわかっているかもしれませんが、神のみことばを読むとき、そのみことばの中に、神様がおられることを信じているでしょうか。
主に祈る時、主がともに祈っていてくださることを信じているでしょうか。
主を讃美するとき、現実にその場に主が臨在しておられることを信じているでしょうか。

マタイの18章19~20節を読んでみましょう。
マタイ18:19 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
18:20 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

神様は、主がともにいてくださる条件を、どのようにあげているでしょうか。
それは、「心を一つにして祈る」ことであります。

「わたしの名によって集まる」と言っていますが、牧師の名によって集まる人があるかもしれないし、有名な人の名によって集まる人があるかもしれないし、教会の名によって集まる人があるかもしれませんけれども、イエス様がともにいてくださるところは、イエス様の名によって集まるんですね。

心がバラバラで、自分の言い分をたくさん抱えていて、それで祈っていても、神がそこにいてくださるとは限りません。
この朝も、世界の多くのところで、礼拝がささげられていると思います。しかし、心を一つにしているだろうか。主の名によって集まっているだろうか。これは非常に大事なことであります。
主は、みことばの中に、賛美の中に、祈りの中に働いていてくださるお方であります。

「神がおられることを信じる」とは、神学的に、論理的に、神の存在を理解し、納得することではありません。
生ける霊の神の臨在の中で生活し、自分の内に、その神を経験する生活をすることです。
そのためには、神の御声が心で聞ける、聞こえてくる、そういう信仰で、キリストの平安を持ち続ける生活をすることが必要であります。

箴言3章6節を読んでみたいと思います。有名なことばですからご存じと思いますけれども。
箴3:6 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

これが、主がおられることを信じることですね。毎回お話していることなので、よくご存じのことですけれども、大事なことは、私たちの生活の中で、主がおられることを信じていたでしょうか。先週はどうだったでしょうか。

これは、エノクが、神とともに歩んだことと同じであります。
神学的なことでは、神は宇宙のどこにでもおられて、おられないところはない、という神の遍在性を言っているわけですが、知っているということでは、神は喜んでくださいません。理屈を知っているだけでは、神様は喜んでくださらない。

現実の、私の毎日の生活の中で、一コマ一コマの中に、その場その場の中に、主を見つけなければなりません。
たましいの中に、ちょっとした思いやりの中に、ちょっとした親切の中に、生活のあらゆる場面に、主が働いてくださっていることを見つけましょう。

これを実行する時に、心にゆとりと解放感が与えられて、思い煩いは取り除かれます。全ての問題を、主に委ねることができる。
いろいろな課題を抱えていて、思い煩っていて、ゆだねることができない、という状態の人は、主を見つけていないからです。主を見つけていないのに、主に任せる、ということは誰にもできません。
父なる神様がいてくださるのか、自分を助けてくださるかどうかは分からないのに、任せることはできないでしょう。

マグダラのマリヤも、イエス様が復活された時、園の番人であると思ってる間は、任せることができませんでした。
しかし、「ラボニ」と叫んだ時には、喜びに満たされていますね。
イエス様を見つけなければならない。宝さがしのようなものです。
イエス様は宝さがしをしなさいと言いましたね。畑の中に真珠を見つけなさいと、おっしゃいました。私たちの生活の中で、どこに神様がいてくださるか、見つけましょう。

私と主の関係が、主との霊の交わりのない、観念的知識の理解や納得になってしまわないように、信仰が観念的なものにならないように気を付けましょう。そのために、私の行く所どこにでも、主とくびきをともに負って、行きましょう。
私が抱えている問題や課題に、主が先頭に立ってくださることを求めましょう。神学的なことを言ったのではなくて、具体的に私たちの毎日の生活のことを言っているんです。このような信仰を、主は喜んでくださる。そして豊かな、確かな、報いを与えてくださいます。第一に必要なのはこの信仰です。

第二は、「神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならない」

ここで注意していただきたいのは、「神に求める者」ではなくて「神を求める者」だということです。
「神に求める者」と「神を求める者」とは違います。
イエス様ご自身を求めないで、神様がくださるものを求める人が多くいます。そういう人のことではありません。
この世の宗教の多くは、ほとんど全部は、何かをもらうために行くんです。僅かなお賽銭を払って、たくさんの財産を得ようとする。その欲張りの魂に、神様が恵みを加えてくれるはずがありません。

これもエノクの信仰の特徴を表しています。
エノクは物の繁栄や、周囲の困難から助けられることを求めたのではなく、神ご自身を求めました。その結果として、エノクにあらゆる困難を乗り越える力が与えられ、死を見ないように移され、豊かな、永遠のいのちの報いを受けたんです。死を乗り越える力は、主ご自身を求めることによって与えられます。
イエス様だけが、死に打ち勝たれたお方で、イエス様だけが、私たちに死に打ち勝てる力を、与えることができるお方です。

私たちはしばしば、神ご自身を求めないで、神の助けだけを求めやすい。神の保護だけを求めやすい。神様の恵みだけを求めやすい。賜物だけを求めやすい。
だから、困難や試練や、サタンとの信仰の戦いに敗北してしまいやすいのです。つまり、失望したり、落胆したり、不安になったり、思い煩ったり、つぶやいたり、不信仰に陥ったりします。

第一ペテロの2章6節を読んでみたいと思います。
Ⅰペテロ2:6 なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」

聖書は、「神の助けを求める者を、助ける」とは言っていません。
神様に信頼する者、と言っています。「神を求める者」であります。

詩篇50編15節には
「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう」
「わたしを呼び求めよ」と言っています。
「わたしに呼び求めよ」ではありません。

ローマの10章12節も読んでみたいと思います。
ロ-マ10:12 ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。

ここでも、「主を求める者」と言っています。
私たちは、「求める者」を間違えてはいけません。
主が助けてくださるのは、主ご自身を呼び求めた結果であります。助けを求めたのではなくて、主ご自身を求めた結果です。

ガリラヤの嵐の日に波が静まったのは、イエス様が舟に乗り込んでくださった時です。助けを求めた時ではありません。報いが与えられるのは、主ご自身を呼び求めた結果であります。

私は、このことばから深く教えられました。神が喜ばれる信仰とは、
➀ 私自身の心の内に、生活の営みの中に、問題、課題そのものの中にいてくださる神を求めることです。そういう課題から救われることではなくて、課題の中にいてくださるお方を求めることです。
② 神から受ける賜物を求めずに、神ご自身を求めることです。
③ 自分の思いや欲から求めずに、神のみことばに基づく信仰によって求めることです。

これら三点がはっきりしている信仰は、必ず主が報いてくださいます。これがエノクの信仰でした。

しかし、主は、私が神に近づく道を平坦に、平らにしてくださいます。私が神に近づくことを恐れたりすることのないように、救いの道を備えてくださいました。

私の心は、神に対して、全面的に降伏するのを恐れたり、嫌がったりするほどに堕落し、自分中心の道を取りやすいので、イエス・キリストの死を信じて受け入れることによって、即刻、一瞬の内に、私のその堕落性をきよめて、取り去ってくださるのです。主はこのきよめのみわざの奥義を示されました。

ヨハネの福音書6章45節を読んでみましょう。ここに大切なことが書いてあります。
ヨハネ6:45 預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。

神様によって教えられた者、父から聞いて学んだ者、これは、自分の知恵で学んだ者ではありません。人間の学者から学んだものではありません。「神によって教えられた者は、必ず、キリストのところに来る」、と言っています。これは間違いありません。

たくさんの学者の教えがあり、哲学があり、宗教があり、思想があります。しかし、神から教えられた者だけが、キリストのところに来る。今日でも同じであります
本当にイエス様を信じて、求める人は、神に教えられた人だけであります。ですから、私の心が、神のみことばを聞き、聖霊によって真理を教えられているかどうか、です。

第一ヨハネの中で、私たちは聖霊の油注ぎがあるから、人から教えられる必要がない、とありますが、大事なことですね。神のみことばと、御霊に教えられているなら、幸いなあかしがあります。神の油注ぎがあります。
みことばと聖霊に教えられていないなら、自分の知恵と考えに従い、どんなに納得していても、神に逆らっているわけです。

ローマの8章7節~9節を読んでみましょう。
ローマ 8:7 というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。 8:8 肉にある者は神を喜ばせることができません。 8:9 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

キリストの御霊を持たなければ、どんなにたくさんの知識を持っていても、律法学者やパリサイ人のように、迫害したサウロのように、キリストのものではなかったんですね。

私が、罪や、悲しみや、乏しさを意識するとき、特に主に対して全面降伏することを躊躇するような、内なる腐敗性を自覚する時、本能的に、イエス様に近づいて、救いときよめを求めるでしょうか。
自分の罪深さを悟ると、自分がもう少し良くなるまで、もう少しきよくなるまで、もう少し熱心になるまで、もう少し内なる恐れがなくなるまで、キリストから遠ざかり、キリストに近づくのを躊躇してしまわないでしょうか。

私たちはどちらの傾向を持っているでしょうか。
もう、いろんなことが分かっている。十字架のことも分かっているし、聖書のことばも分かっている。あとは信じるだけ、という人はたくさんいるかもしれません。
では、なぜ躊躇してるんでしょうか。
それは、神に教えられていないからですね。父なる神様から聞いたものは、必ず私のところに来る、とイエス様は言いました。
まことの羊飼いに聞いた羊は、その羊飼いのところに来るはずです。
神に教えられていない人は躊躇します。
悲しいかな、まだ神に教えられていない人がいます。人に教えられて、自分の知恵で理解し、納得しているのかもしれません。

パウロは言いました。
「私は、御霊と御力によって福音を語っているんだ」と言いました。「それは、あなた方の信仰が、神の知恵によって支えられるためだ」と仰いました。みことばと聖霊によって、真理を体験させていただかなくてはなりません。

自分は聖書の知識や、信仰の知識があると思っても、その源が、人間的な肉の性質から出た知識であるなら、キリストのもとに来ないんです。

このことから、神様が私に教えてくださる学課は、ヨハネの福音書の15章のぶどうの木のように、イエス様から離れては、愚劣な高慢と暗黒と絶望しかない、ということです。

多くのクリスチャンで、キリストに近い人はたくさんいます。しかし残念なことは、キリストから実際には離れていることです。いのちが繋がっていないのです。

しかし、真に、みことばと聖霊によって、神に教えられた者は、必ず、キリストのもとに来ます。イエス様を礼拝します。イエス様の前にひれ伏します。迫害者であったサウロが示したのと同じです。
キリストの羊は、羊飼いのキリストの御声を知っているからです。
神に教えられた人は、必ずキリストのもとに来ます。「キリストに来る」という経験が、幸いな恵みとなっているなら、主をほめたたえましょう。何という栄光の福音でしょうか。

私は今、キリストを内に持っているでしょうか。
私は今、この恵みの状態を保っているでしょうか。
今、持っているなら、私は神に教えられています。

主より他に、キリストの内住経験の奥義を分からせてくれるお方はいません。何の喜びもなく、平安もなく、愛もなく、感情もなく、暗く、固い、冷たい心のままでも、そのありのままの心の状態でイエスキリストを信じて受け入れることが、信仰経験の第一歩です。
神に教えられる第一歩です。神に教えられる第一歩の人は、不可能に見えた人であっても、キリストに受け入れられます。幸いな恵みを経験をする第一歩は、ありのままの状態で、イエス・キリストを通して、神に届いているんです。「神に来る」とは、そういうことであります。いろいろな理由をあげて、神に来ることを躊躇している人は、神から教えられていません。神に教えられた人は、必ず、キリストのもとに来ます。たくさんのことを、理解しているかどうかではありません。

次に、「神がおられること」を「信じなければならない」ことを、もう少しお話しましょう。

ここから信仰の戦いが始まります。

主は、必ず、「信じなければならない」と仰せられました。
信じてもいい、信じなくてもいい、と言ったんではありません。「信じなければならない」と仰せられました。

これは、私の内に、霊的神の国を保つために、不可欠な信仰の条件です。これを破ることも、失うことも、あってはならない。それなのに、このみことばを誤解する信仰者がいかに多いことでしょうか。

テモテの第二2章13節をお読みします。
Ⅱテモテ2:13 「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」

このみことばを誤解している人がたくさんいます。つまり、「私たちが信じても、信じなくても、神は私たちを恵んでくださる」という誤解であります。
しかし、このみことばの意味はその反対です。「私が信じなければ、神は私を恵むことができない」という意味です。

私が神を信じなくても、神の真実性は変わらないことは同じであります。けれども、信じない者を恵むことはあり得ない、ということをパウロは教えたんです。信じない人を恵んだら、神の真実性は変わってしまいます。信じても信じなくてもよい、ということを教えたのではありません。
神は、ご自分の真実性に反して、信じない者を恵むことができません。神は、ご自分の霊の法則を、相手が変わるたびに取り変えたりすることはできないお方だ、ということです。

そうですから、まず第一に、私が神を信じなければならいなのです。
たくさんのことを知っていることではありません。情け深くなることでもありません。
信じなければならないんです。そうすれば恵みの経験が始まります。
「あなたは信じましたか」といわれて、「はい、信じました」と言わなければならないんです。

ここで、「神がおられることを、必ず、信じなければならないのです」のみことばの起源になるみことばを、紹介します。
出エジプト記の3章14節です。モーセが神様のお名前を聞いた時に、神はお答えくださったわけであります。
出3:14 神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。」

ここで主は、イスラエル人をエジプトの奴隷状態から救い出すために、ご自身を「わたしはある」というものだと言っておられます。「わたしはある」という意味は、父なる神様の永遠の神性(神であられる性質)を表しています。

「わたしはある」を説明することは難しいことですけれども、あえて言葉で言い表すなら、永遠に実在される、臨在される、決して変わることがないお方、普遍のお方、迷える子羊を救うために、常に働いておられる神様を表しています。これは旧約聖書だけではありません。

イエス様は、この「わたしはある」という構文を使われて、ご自身が永遠の絶対の存在者である神であることを、宣言されました。
それが、有名なことばとして知られている、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」です。わたしは~である、わたしは~である、と仰っています。
そのほかにも、「わたしは、門である。」「わたしは、よみがえりです、いのちです。」
「わたしは、良い羊飼いです。」「わたしは、いのちのパンです。」、などがありますが、全部、「わたしはある」という構文を使っています。

このように、イエス様の自己紹介の宣言は、全部「わたしはある」という構文を使いました。この構文を使うことによって、神に教えられた者は、主イエスが永遠の存在者なる神様であることを悟るようになることを求めておられます。

このように聖書には、書かれた文章の構文の中にも、隠された高価なメッセージが満ちているんです。表面だけ読んでいる人には、それを見つけることができません。これが分かるようになるのは、神に教えられた者の、楽しみの一つであります。

「わたしはある」とは、神が休むことなく、みわざを行っていてくださっていることを、信じなければならないということです。永遠の神様は、永遠におられるだけではありません。毎日生きて、働いていてくださっていることを示しております。

永遠の神様は、今、私の賛美を聞きつつあってくださいます。答えつつあってくださいます。救い続け、きよめ続け、聖霊を満たし続けてくださっている。そういうことを、信じなければならない、と言っています。

詩篇でも、神は、「眠ることもない、まどろむこともない。」と言っております。
ですから、「わたしはある」という神様は、昨日の神様でもなく、明日の神様でもありません。いつでも神様は、現在みわざを行い続けてくださるお方です。
神には「今」しかないんです。過去も未来もない。神にあるのは、いつも現在だけであります。そのことを、新約聖書が語っています。

コリント第二6章2節を読んでみたいと思います。有名なことばですけれども、
Ⅱコリント6:2 神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。

「今」とは、日付のことを言ったのではありません。神様はいつでも、「今は恵みの時」「今は救いの日」です。

ではどうすればいいのか。今、信じて、従うことですね。明日でもなく、昨日でもありません。明後日でもありません。「今」が恵みの時です。
クリスチャンのあかしでは、よく、何月何日に信じました、と言いますが、でも、「今」信じていることが大事です。

いつそうなればいいんでしょうか。いつ信じればいいのか。いつ従えばいいのか。
ヘブルの3章7節を読んでみましょう。
ヘブル3:7 ですから、聖霊が言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、

「きょう」、ですね。つまり、御声を聞いたら、その日であります。
イザヤも御声を聞いて、すぐに従いました。ザアカイも急いで従いましたね。

ルカの23章43節を読んでみましょう。イエス様と一緒に、十字架に架かった強盗の話であります。
ルカ23:43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

明日ではありません。「きょう」であります。私たちの信仰はいつも、「きょう」であります。恵みは、「きょう」受けるわけです。

ルカの19章5節を読んでみましょう。ザアカイの話です。
ルカ19:5 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」

「急いで降りて来なさい。きょう」であります。ザアカイは、明日、降りるわけではない。
「きょう」しか、チャンスはない。神様はいつも「きょう」であります。私たちが信じて従う時は、「今」であります。

ルカの4章21節~22節も読んでみましょう。
ルカ4:21 イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」 4:22 みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。そしてまた、「この人は、ヨセフの子ではないか」と彼らは言った。

イエス様は、「きょう、このみことばが実現しました」と言いました。しかし、人々は信じませんでした。「この人は、ヨセフの子ではないか」と言いました。
イエス様は、毎回、「聖書のことばが、きょう、実現した」と繰り返しています。

主は、永遠に、「きょう」みわざを行ってくださっているんです。明日ではありません。明後日ではありません。
それゆえ私は、毎日、毎瞬、永遠に生きて働いてくださっている、神のみわざを信じているんです。過去において、主を信じて、救われきよめられた、という過去の信仰経験にしがみつくのではなくて、常に現在形の信仰をもって、主とくびきをともにして、歩んでいるんです。

一番大事なことは、もし私が信仰によって主を求めているなら、「今」ある、ありのままの状態で、主のもとに行くことです。
しかし、カインのささげもののように、自分の良い行いの成長度合いによって、神に近づこうとしているなら、神に近づくことを躊躇するでしょう。もっと成長して、もっと良くなってからにしよう、とするでしょう。神を信じる信仰に、なかなか立てないわけです。

どうしてか。
自分の出来具合を見ているから。自分が良くなってから、神に近づくことは、信仰ではありません。自分がもっとよく理解してから。ある人は、死の間際に信じます、と言いました。希望がありませんね。信仰がありません。

これによって私が、信仰によって神を求めているか、良い行いによって求めているかが、分かります。
良い行いによって神を求めているならば、主にお会いする前に、「これで良し」と、納得できる状態になっているべきだ、と、思っているでしょう。きよめられる前に、もっときよくなっていなければならない、相応しくない、と、思っているでしょう。

しかし、考えてみてください。それほど不遜なことはない。
木に登って、イエス様が来られるのを見物しようとしていたザアカイは、自分の名前が主から呼ばれると、すぐに、急いで、ありのままの姿で主のもとに降りてきて、迎え入れました。これが大事なことですね。ザアカイの心の在り方を示しています。イエス様に対する態度であります。そのことが、彼を変えたんです。彼が変わったのは、彼が努力をして、立派な人になろうとしたからではありません。イエス様のところに来たからであります。

多くのことを知っているけれども、イエス様のところに行かない。特に日本の人たちは、イエス様のところに行かないんです。「わたしのところに来なさい」と言っているのに、来ないんです。それで、たくさん学んでいます。儀式も守っています。でも、イエス様のところに行っていない。

ルカの18章13節、取税人の祈りを見たいと思います。
ルカ18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』

単純な信仰ですね。ありのままであります。
「神様、こんな罪人の私をあわれんでください。」このような祈りを、あまり聞いたことがありません。ありのままの祈りをささげて、神様に近づいています。イエス様が義とされたのは、この取税人だ、と明らかにしました。
神のみもとに来た人で、どんな罪深い人でも、ありのままで信仰によって主のみもとに来て、拒まれた人はいません。
しかし、ニコデモは、理解をするために近づいたので、信仰によらなかったので、たましいの生まれ変わりがはっきりしませんでした。律法学者のパリサイ人は、律法の正しい行いで、熱心さで神に近づこうとしたので、イエス様から忌み嫌われました。

信仰によって主を求めるなら、誰も主に拒まれることはありません。もし、信仰によって神を求めるなら、自分の力で罪を解決しようとはしません。自分の力では、決して罪は解決できないですから。
ザアカイや、取税人のように、ありのままで「イエス様、こんなに罪深い私をお救いください」、と祈るでしょう。ありのままなら、今すぐ、主を信じることができます。イエス様が「きょう」と言われる信仰は、ありのままでないと間に合わないんです。

神様の「きょう」は、約束の「きょう」ですけれども、神の本質の「きょう」ですけれども,私の「きょう」とは、ありのままでなければならないのです。
神の聖なる姿が「きょう」であるなら、罪深いままで主のもとに行くことしかできません。
私の現在進行形の、ありのままでなければならない。

私がこの立場をとるまで、すなわち、自分の罪深い状態のままで、ありのままで、主イエスを信じるまでは、実際には私に信仰がないのと同じです。
マタイ19章の金持ちの青年のように、幼いころからモーセの律法を守ってきて、人の目に聖徒に見えていても、信仰も、神の愛アガペーも持っていません。

もし私が、ありのままでイエス様を信じて、まったく主にお頼りする心で、主のみもとに来ているなら、外側の状況が反対であっても、周りの人々の意見が批判的であっても、それらに惑わされずに、主を信じることを告白し続けましょう。「それでも私は信じているんです」、と言いましょう。
主は、私が信じたその瞬間から、私のたましいの内に、恵みのみわざを行い続けてくださっています。毎日、きょうも、そのみわざは続いています。

主は永遠に変わらない神様ですから、主の約束も永遠に変わりません。それゆえ、私が、みことばの約束通りに主を信じて、毎日ありのままで、自分の力で罪を解決することに絶望し、罪深いまま、主ご自身のものであることを求めて、主のみもとに来ているなら、主が私を永遠に救ってくださる、そういう神様であることを、信じなくてはならないのです。

ユダの手紙3節をお読みします。
ユダ1:3 愛する人々。私はあなたがたに、私たちがともに受けている救いについて手紙を書こうとして、あらゆる努力をしていましたが、聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。

つまり、私も、信仰に立ち続けて、サタンの火矢を打ち消し、疑いや不信仰の思いや暗示を、拒否しなくてはならない、ということですね。

次に、「神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」についてお話します。

ある人々はこう言われるでしょう。
「クリスチャンは、みなイエス・キリストを信じているのに、恵みに満たされていない人が多いのはなぜでしょうか」と。
信じているのに、恵みに満たされていない、その原因を考えてみましょう。

「キリストを信じている」、とは言っていても、その実質は、安易な信仰主義に終わっていないでしょうか。
マタイの7章7節を読んでみます。
マタイ7:7 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。

これは、真剣に、心を尽くして求め続けていることですね。

切なる、真実な、あの取税人のようなへりくだった信仰がなければ、天の父を喜ばせることができないことを、堅く信じて、求めているでしょうか。
「求めなさい」とは、簡単なことではありません。
本当に求めた人が、得られないことはありません。
私の罪深い、ありのままの心を素直に主に告白して、求めているでしょうか。
また、主の変わらない約束のみことばを堅く信じて疑わずに、自分に対しては絶望し、自分中心の頑張りをやめて、エリサベツのように「主の語られたことは必ず実現する」と、信じ切っているでしょうか。(ルカ1:45)

これらのことを行った上で、あと一つ必要なことは、切に主を待ち望むことです。

イザヤ書の40章31節を読んでみましょう。待ち望むことが言われていますね。
イザヤ40:31 しかし、【主】を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

主を待ち望み続ける人ですね。必ず新しい力を得るようになります。

詩篇25篇3節も読んでみましょう。
詩25:3 まことに、あなたを待ち望む者はだれも恥を見ません。ゆえもなく裏切る者は恥を見ます。

私たちが不信仰になるのは、特別な理由がなくても不信仰になります。自分の知恵に頼ると、不信仰になる。心を定めて神を待ち望む者(信じ続ける者)は、誰も恥を見ない、失望することがない。

詩篇42篇5節を読んでみましょう。思い乱れている心の姿が書かれていますね。
詩42:5 わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。

神を待ち望まなくなると、信じなくなると、どうなるか。
絶望する。思い乱れている。
私たちもそういう経験をしていないでしょうか。

こうして切に、真実に求めれば、たとえ遅くなっても生ける主にお会いする経験に必ず到達します。主がそのことを、約束しておられるからです。

その報いは、
第一に、主が、私を永遠に受け入れてくださった確信が与えられることです。
第二に、イエス・キリストの血が、すべての罪から私をきよめてくださる経験をします。
第三に、イエス・キリストが、今、私の内に生きて働いておられることを経験します。
この三つは、聖霊の与えてくださる意識的あかしです。これが聖徒に与えられる主の報いであります。これこそ、地上で経験できる天国の味わいです。

「神の国は近づいた」と仰いました。
私たちの心の中に、たましいの内に御国が与えられます。信仰を持って、力を尽くして主を求めるすべての者に、約束されています。堅い信仰と、絶えざる祈りは、主の恵みを引き出す霊的生産力となります。この大切な真理を見失ってはいけません。

もし、たましいの内に苦い根とか悪いものが残っていれば、今現在、神様がいまして、みわざを行っていてくださることを信じていない、ということを示しています。
マデレーのジョン・フレッチャーはこう言いました。
「私が不信仰の中に立っている時には、一滴の泥水が、太陽に照りつけられて干し上げられるように、心が苦しんだ。しかし、キリストにしっかりととどまっている時には、同じ一滴の水が、心に光となり、いのちとなり、無限の自由をもたらす大海であった。」
と、告白しました。

私が不信仰の中に立っているか、キリストにしっかりとどまっているかで、私たちの魂はまったく別物になってしまいます。ですから、神に近づく者は神を信じなければならない、神が報いてくださるお方であることを信じなければならないと仰ったのはこのためです。

最後に、二つ聖句を読んでみます。

ヨハネ福音書11章40節を読んでみます。ラザロのよみがえりの記事です。
ヨハネ11:40 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」

このことばを知っている人は、たくさんいると思います。しかし、大事なことは、「今、もしあなたが信じるなら」、「今」であります。マリヤとマルタは、最後の日によみがえることを信じてはおりましたけれども、イエス様が「今、あなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る」、これは確かなことでありました。
私たちも「今」信じることが大事ですね。そうすれば、神様が働いてくださるのを経験します。

もう一つは、マルコ9章23節であります。
マルコ9:23 するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
「信じる者には、どんなことでもできる」

「できるものなら、」という希望や願いではなくて、信じることが大事ですね。イエス様はいつも「今」信じることを求めておられます。そのためには、「今」、私がありのままの姿で主を待ち望む者となり、主を信じる者となることが大事であります。

これがへブルの11章6節が、意味していることですね。
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」
神様がおられることと、報いてくださる方であることとを、信じなければならない。
それも、「今」「きょう」です。いつでも「今」です。
神の「今」に応えるために、私たちはありのままの姿で、出て行くしか方法がありません。
みことばの約束と、聖霊の助けをいただいて、信じさせていただいて、この一週間も歩ませていただき、主の栄光を、いたるところで、私たちの行くところ、どこにおいても、主の栄光を、経験させていただけることを感謝したいと思います。

お祈り

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」
恵みの深い天のお父様、こうしてあなたが私たちを、信仰に導いて下さり感謝をいたします。
昨日の信仰でもなく、明日の信仰でもなく、今日の信仰です。イエス様は、「今」働いてくださると仰いました。「今」信じなさい、と仰いました。
救いは、昨日でもなく、明日でもなく、今日です。「今」であります。
信じる者は誰でも、いたるところで、私たちが行くところ、どこにおいても、栄光を現わしてくださいます。そのことを通して、私たちが主をあかしできますことを、感謝いたします。
この一週間も、主の道を歩む者としてください。
主を信じつつ、歩ませてくださいますように、助けてください。
尊いキリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明

<今週の活用聖句>

へブル人への手紙11章6節

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」

地の塩港南キリスト教会
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