音声と文書 :信仰の列伝(11) アブラハムの信仰(1)「出発の信仰(1)」へブル人への手紙11章8節
ハンガリーの画家 József Molnár (1821 – 1899) による「Abraham’s Journey from Ur to Canaan(ウルからカナンへのアブラハムの旅)」(Hungarian National Gallery蔵、Wikimedia Commonsより)
2016年10月9日 (日) 午前10時半
礼拝メッセージ 眞部 明牧師
へブル人への手紙11章8節
11:8 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。
はじめの祈り
「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」
恵みの深い天のお父様、一週間の旅路をお守りくださり、こうしてともにまた主に礼拝を捧げて、新しい週に旅立つことができますことを、感謝をいたします。
アブラハムのように私たちもまた、どこに行くかその目的地を定めて、導かれて、歩んでいることでありますけれども、日ごとに迫ってくる様々な課題は、私たちにはわからないものであります。御霊によって導いて下さり、信仰の道をまっすぐに歩んでいけますように、
今日も、悟りと、聖霊の力と、みことばの約束をお与えください。
尊いキリストの御名によって、お祈りいたします。アーメン。
今日は、11章の8節を中心にお話しますけれども、その後の8節~10節では、アブラハムの信仰を、三つの面から記しています。
・8節は、出ていく信仰、出発の信仰です。
・9節は、天幕生活をして、住む信仰です。定住の信仰です。
・10節は、なぜそれをしたのか。それを実行した信仰の動機を記しています。
今日は、その1番目の、8節「信仰の出発」を取り上げます。
そしてこの8節から、三つのことをお話します。それを箇条書き的に申し上げますと、
第一は、アブラハムはいつ出発したか。どういう時に出発したか。アブラハムが出発した時のことです。信仰には、時が大事です。神様に従うのは、時が大切です。
第二は、どこに向かって出発したのか。行先は、どこだったのか。
第三は、どのように従ったのか。
であります。
そこで、第一に、アグラハムはいつ出発したのでしょうか。
ヘブルの手紙は「召しを受けた時」と書いてあります。アブラハムは二度、神様の召しを受けたものと思われます。
一度目の召しは、創世記11章31節です。
創11:31 テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはハランまで来て、そこに住みついた。
アブラムは、主を心に信じる前の名前はアブラハムではなくて、アブラムであります。
アブラハムとなった、つまり、彼の名前に「H」の発音が入ったのは、主なる神様「ヤハウェ」を持つようになったことを表しています。
アブラムは、異教の地、カルデヤのウルで生まれ育ち、結婚して暮らしていました。しかし、彼はそこで、神の召命を受けて、家族を連れてウルを出発したのです。この時点では、父のテラが生きていたので、当時の族長に敬意を表すために、今の時代は、あまり家長とか年長の人に敬意を表す時代ではなくなってしまいましたが、当時は族長に敬意を表すために、父テラが主導権を取っているように記されています。しかし、聖書全体の記事からすれば、テラのことを書いたのではなく、明らかにアブラハムの歴史を扱っているのが分かります。
しかし彼は、一挙に目的地カナンに行かず、途中、パダンアラムのカランにしばらく住みついています。今日は、地図のことをお話する時間がありませんけれども、それはおそらく、父のテラが原因だと思います。お父さんのテラは年老いて、さらに厳しい荒野の旅を続けることに困難を覚えたものと思われます。それでアブラム一家は、しばらく、おそらく10年くらいだと思いますけれども、パダンアラムのカラン(ハラン)にとどまっていました。
ここで「目的地カナン」と書いてあるのは、後に、歴史として書いたのであって、当時、アブラムが「どこに行くか知らないで、出て行った」ことには、矛盾しません。
アブラムの二回目の神の召しは、父テラが死んだあとです。創世記11章32節では、「テラはカランで死んだ。」とあります。その後12章1節では、その後、「主はアブラムに仰せられた」と書いてあります。
聖書を読むと、アブラムだけではなくて、自分が全面的に信頼している人の死の時に、頼りにしている人の死の時、愛している人の死の時に、信仰の転機が訪れているのを見出します。それは、それまで偉大な人物に頼っていたのが、その人物が取り去られて父なる神様だけに頼るようになるからだと思われます。
誰もが、力ある人物に目が向いてしまいやすいものです。ここで信仰が変貌して、主の方に向かないと、人間崇拝の信仰に陥ってしまいます。この世の中では、銅像を造ったり、人間を神物化してしまったする、そういう傾向がありますね。先の指導者が偉大であればあるほど、その危険は高くなります。
モーセの死の後も、モーセの従者ヨシュアにも転機が訪れました。初めて、主の召しの御声を聞いたからであります。ヨシュア記の1章1~2節を読んでみたいと思います。モーセの死の時、ヨシュアの信仰の変貌の時がきました。
ヨシュア 1:1 さて、主のしもべモーセが死んで後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げて仰せられた。 1:2 「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。
主のしもべモーセが死んだ時に、突然、モーセに代わって、民の先頭に立って導く責任がヨシュアに課されました。その役目を成し遂げるために、主の臨在が離れることはない、主が一緒にいてくださる、と約束してくれました。
このような経験はヨシュアにとって初めてでした。それまでは人間の指導者、モーセの後についていって学ぶことに集中していましたけれども、もう学ぶ者がいなくなってしまった。今度は、自分が先頭に立たなければならない。その時、神様ご自身との契約が明確にされたわけであります。
みなさんが良くご存知のように、ウジヤ王が死んだときに、預言者イザヤの信仰に転機が訪れました。イザヤ書の6章1節を読んでみたいと思います。
イザヤ6:1 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、
イザヤはすでに、宮廷の預言者の働きをしていました。ウジヤ王の保護を受けておりました。その保護者を失ったイザヤは、官僚たちからどんな仕返しを受けるか分かりません。
今、日本でも、政治家の間でいろんな問題が取りざたされています。誰に味方し、誰を応援するか、演劇のようなことが行われておりますけれども、イザヤの時代も同じであります。
王様が生きている間は、イザヤは力に満ちて、官僚たちを叱責しておりました。ところがその保護者のウジヤが死んでしまった時、高級官僚たちから、どんな仕返しを受けるか分かりません。今度は今までのようには働けないでしょう。イザヤは、人間の保護者を失って、途方にくれそうな時、人となられる前のイエス様、受肉前のイエス様の栄光を見たのです。
ヨハネの福音書12章41節を読んでみたいと思います。
ヨハネ12:41 イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。
この時に、イザヤの6章1節でみた栄光の経験は、人となられる前のイエス様だった、と仰っております。イザヤは、主の栄光を経験した時、自分が唇の汚れた者であることに気づきました。預言者が、唇が汚れているということは、大変なことです。それを悟って、祭壇の火によってきよめられ、彼も、神の召しの御声を聞くことになります。そして旧約の福音の預言者となりました。
イザヤ書6章以後の預言を見ますと、イエス様のご降誕から、十字架の死の奥義と、新天新地に至るまで、まるで新約聖書の福音書を読んでいるような、キリストの福音のメッセージを語る預言者イザヤに変えられています。
このように、頼りにしていた人が天に召されていなくなった時、多くの聖徒たちに信仰の転機が訪れているのが分かります。
アブラムに対しては、父テラの死の後に、神は再び信仰の旅を進めるように命じられました。 創世記11章32節~12章1節で、
「テラの一生は205年であった。テラはハランで死んだ。その後、主はアブラムに仰せられた。『あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが、示す地へ行きなさい。』」
こう、言われたんですね。テラがハランで死んだ後、アブラムに再び神の御声がかかりました。もしこの時、アブラムが主の召しの御声を聞き逃していたら、あるいは聞いていても従って行かなかったら、彼はずっとパダンアラムのカランに住んで、「信仰の父」と呼ばれることもなく、当時の異教徒の族長の一人で終わっていたでしょう。彼の名前は。旧約聖書にも、新訳聖書にも記されることはなかったでしょう。
しかし、彼のこの時の信仰の出発は、彼を神と共に歩む「神の友」としてしまいました。素晴らしい称号を受けています。アブラハムは、「神の友」とも「信仰の父」とも呼ばれる、そういう称賛のことばを受けることができました。
聖書の中で3回、アブラムは「神の友」と呼ばれています。
歴代誌第二の20章7節、ちょっと、読むだけ読んでみたいと思います。
Ⅱ歴代20:7 私たちの神よ。あなたはこの地の住民をあなたの民イスラエルの前から追い払い、これをとこしえにあなたの友アブラハムのすえに賜ったのではありませんか。
これは第1回目ですね。
イザヤ41:8 しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。わたしが選んだヤコブ、わたしの友、アブラハムのすえよ。
これが2回目。
3回目はヤコブ2章23節です。
ヤコブ2:23 そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
アブラムにとって、カランを出発する時、父と死別し、親族と別れ、住み慣れた地を離れるという、一面では、悲しい、寂しい時でもあったのです。
アブラムの生涯は、離別の生涯、と言われています。
その究極は、主が与えたひとり子イサクを、主のご命令によって、モリヤの山で全焼のいけにえとしてささげることでした。大変な出来事であります。最も愛する我が子を、神様にささげるといったって、全焼のいけにえにするなんてとんでもない話です。
神様がそんな命令をするはずがない。彼は理解の上でも混乱したでしょう。信仰が混乱してしまうような、空中分解してしまうような思いになったと思います。
しかし、これらの離別は、アブラムが主を第一に愛し、全力で愛していることを証しするものでした。神様は、イサクを取り上げる、ということよりも、そのことを通して、アブラムの愛が本物であるか試しておられます。神様は、そういう試みを、私たちの生涯にも、起こされるはずであります。
ですから、アブラムの信仰は、学んだり、知的な理解や納得ではなくて、たましいと実際の生活が、主なる神様と一致している、心が一つになっている、その実態であります。
信仰の試みは非常に厳しく、厳格なものでありました。
アブラムの離別の旅は、半端な離別ではありません。カルデヤのウルから遠く離れており、パダンアラムのカランからも遠く離れています。
すぐ近くの近所に行くのであれば、すぐに元のところに帰ってしまうでしょう。主は、ガリラヤの漁師たちに、深みに漕ぎ出すように命じております。
アブラムに求められた離別は、いやいやながら、仕方なしに従えるものではありません。
本当に、心を尽くして、力を尽くして、主を愛しているか。全く信頼しているか。そういうことを、心の底から試されるテストです。
口先だけの議論だけの信仰なら、すぐに、化けの皮が剥がされてしまいます。私たちが住んでいる時代は、もはやこういう試みがないかのように思いがちですけれども、そうではありません。この離別は、信仰のテスト、主を第一に愛しているどうかテストされることであります。そういうことが、今の時代にもあるんだ、ということを教えていただきました。
アブラハムの旅は、地上のカナンの地までの旅ではなくて、天の故郷を目指している旅であります。神の都を目指した旅でした。このことについては、ゆくゆく詳しくお話します。
ですから天幕生活をいとわず、出てきた故郷のカルデヤのウルに帰ろうともしないで、パダンアラムのカランにも帰ろうとしなかったのです。里帰りをしていません。
信仰の旅の目的地を、この地上に置いている人は、天の故郷や、神の都を見失いがちです。私たちは、毎日、天の故郷、神の都を目指して、未知の地を歩んでいます。ですから、明日の日は、どういう日が来るか私にはわからない。未知の地を歩んでいる。ですから、後ろのことで悔やむのをやめましょう。昨日のことで思い煩うのをやめましょう。パウロが言ったように、人のした悪を憎むのをやめましょう。いつまでもいつまでも引きづらないようにしたいものです。そして、主イエスから目を離さずに、歩ませたいただきたいものです。
主は、アブラムに対して、日々に新しい道を用意されました。一見すると、荒野を歩く道は、昨日も今日も同じように見えますけれども、しかしその道は新しい道であります。
しかし、悲しいことに、アブラムは飢饉の時に主に頼らずに、エジプトのパロの助けを求めて、妻サラに妹だと偽らせて、サラを危険な目にあわせています。
また主の約束であるイサクが、なかなか誕生しそうにないと、異教徒の風習に従って、また、サラの勧めにも従って、エジプトの女奴隷ハガルからイシュマエルを生んでしまっています。そのことによって、エジプト人のハガルは、サラを見下すようになり、ハガルとイシュマエルを追放することになったのです。
それ以後、イサクの子孫のイスラエル人と、イシュマエルの子孫のアラブ人は、今日に至るまで絶えず争うようになりました。
悲しいかな私は、主のご計画に素直に従うよりも、自分の考えや他人の言葉やこの世の習わしに従ってしまったり、人を恐れて神の道を外してしまったりしやすい者であります。
この点で、アブラハムも例外ではありませんでした。
今現在、私の内におられるイエス様の救いと、天の故郷に至る道を信じる信仰を働かせる時にのみ、神の深みに漕ぎ出すことができます。そしてまた、罪を好んで離れず、聖なる神を拒み、反逆し続ける者に、神の御怒りが降ることを、私は信じています。
しかしまた、キリストは十字架の贖いによって、このような罪深い者にも救う備えをしておられ、救いたいと願っておられ、救う力をお持ちであり、今すぐにでも救おうと待ち構えておられることを、確信をもって信じております。
先日、ある方とお話しました。その方はこう言いました。
「誰でもすべての人が罪を犯しているし、自分も数えきれないほど罪を犯している。罪を犯していない人など一人もいないのではないか。」と仰いました。
その通りであります。全ての人は罪を犯しているので、神の栄光を受けることはできません。しかし私たちには、その罪のために、身代わりになって十字架にかかってくださった、義なるキリスト、贖い主、救い主がおられます。そのお方を信じて受け入れることによって、私たちには、救いは今すぐに与えられます。
このような信仰を持っている人は、一匹の迷子の羊を見つけ出すまで探し続ける、羊飼いの心を持っています。本当にイエス様の救いを受けた人は、この信仰を持って、神の警告と救いを宣べ伝えるようになります。何か特別な神の召命や、感情の高まりや、御使いの現れを待つ必要はありません。
神様は、出て行くように命じられました。神のメッセージは明白であります。私たちのなすべきことは、神の警告をノアの日のように信じて、行動することです。
今も人々のたましいは、神から離れて滅びつつあります。この日本の人達を見ると、先日もある方にトラクトを渡しましたら、「教会はいらない、キリストはいらない」と言いました。神の怒りは戸口まで来ている、と言われています。まさにその通りであります。神の審判は、静かに、しかし逃げる暇もなく、突然にくだされます。その時、人々は嘆くでしょう。ノアの日に洪水にあって箱舟に入れなかった人々と同じように嘆くに違いありません。
信仰だけが、その審判の近づく足音を聞き、その危険を悟り、キリストの救いに導き入れられるのです。主は、私たちにその事実を悟らせ、信じて、キリストの救いを宣べ伝えるように、私たちを押し出すのです。
かつて1800年代前半に、関西中心に日本で宣教したイギリス人のパジェット・ウィルクスは、次のような証しを残しています。
「私は、かつて殺人を犯した一人の若者を知っています。しかし、日本の法律では、20歳未満の者は極刑にしないので、その若者は25年の懲役に処されました。ところがその若者は脱獄を計り、さらに15年の懲役が加わりました。しかし、彼は9年間の服役の後、イエス・キリストを信じて回心し、驚くべき恵みを受けて、10年間減刑されました。そして残りの16年間で新約聖書を暗記するに至り、同じ囚人のたましいが滅んでいくのを心配して重荷を感じ始めました。
神の審判と、神の憐みと、救いの約束を信じる信仰が彼の心に働いたのです。それで、滅び行く人々のためにキリストを証しさせました。彼が釈放される時には、多くの者が神に対する平和をもち、およそ200人の人が、聖書を読み、救いを求める者になっていました。」
とパジェット・ウィルクスは言っています。
このことは、一人の罪人が、ただ信仰だけを持って歩んでいった結果であります。それは、どれも主の栄光を現わすものです。
私たちは、特別な人間ではありませんけれども、イエス様を信じて真実に歩んでいくとき、必ず、神の栄光を現わす生活をする者に変えられていきます。
私たちにキリストの福音を伝えてくれた宣教師たち、モリソンとか、ブレーナードとか、ハドソン・テーラー、アドニラム・ジャドソン・ゴードンとか、彼等の伝記を読むと、当時の有能な青年たちが、キリストの福音を伝える、ということだけのために、安定した繁栄した生活を捨てて、アフリカ、インド、中国、世界中に出ていったことが分かります。彼らの信仰は、私たちの心をうつ勇敢な信仰でありました。
まさに、アブラハムと同じように、「どのようなところに行くのか、どのような苦難があるのか」知らずに、ただキリストの福音を伝えるために、主の召しに従いました。
伝記で読む分には、励まされることが多くても、実際にやった人は言い難い苦難を経験されたことは事実であります。本を読んで励まされ、心熱くすることは簡単ですけれども、自分がその道を歩むことは大変なことであります。しかし、こういう聖徒たちの献身の働きによって、今日の私たちの信仰があるのです。このことを忘れてはなりません。私たちはその百分の一か、千分の一か分かりませんけれども、この働きの一端を担わせていただいているわけです。
「私は主に召されていません」という人がいるかもしれません。「主に召された人が、イエス様を伝えればいいんだ」という人が、日本にはそういう感覚の人があるように思います。
主は、すべてのクリスチャンを牧師にしないかもしれません。しかし、すべてのイエス様を信じる人を、主を証しする伝道者に召しておられます。ヨハネの15章16節を読んでみたいと思います。
ヨハネ15:16 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。
私が、イエス様を選んでいるのではなくて、イエス様が私を選んで任命されたのです。
イザヤの召命について、先ほどお話しましたけれども、彼は職位としてはすでに宮廷の預言者でありました。イザヤの保護者であったウジヤ王が死んだ時、彼は宮廷の官僚達から、
厳しい反撃を受ける危機に直面していました。そして、彼が神殿で礼拝していた時、主イエスの栄光に触れたんです。
私たちも、イエス様を礼拝する時、主の栄光に触れたいと思います。第二コリント3章18節にありますように「栄光から栄光へ」と変貌させていただきたいものです。
イザヤはその時、自分の罪深さを悟りました。神の火によってきよめられた時、神の召しの声が聞こえてきたんです。その声は、イザヤだけを召される御声ではありませんでした。
イザヤ書の6章8節を読んでみたいと思います。これはイザヤだけに語っていることばではありません。
イザヤ6:8 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」
この神の召しの御声は、ずっと以前から語られていたんです。その時に初めて語られたことばではありません。ずうっと以前から語られていた。しかし、それまでのイザヤには、聞こえてこなかったんです。
もう10年も、20年も、30年も、50年も教会に行っているのに、神の召しの声が聞こえていないんです。ところが、きよめられると聞こえてくるようになった。
そこでイザヤは、「ここに私がいます。私を遣わしてください。」と答えました。
ここからイザヤは変わったんです。旧約のキリストの福音宣教者となりました。神の御声が聞こえる、ということは重要なことであります。
多くの人が毎週日曜日に聖書の話を聞いているでしょう。しかし、神の御声が聞こえているかどうかは別の問題であります。神の御声を聞く時、変えられていきます。アブラハムも神の召しの御声を聞くことができる、霊的な領域にいたのです。
しかし、御声を聞いても、「私が呼ばれているのかどうか、よく分かりません。私は出ていくべきでしょうか」と迷っていて、証に出かけていかない人がいます。
きよめられたイザヤは、もはや迷うことはなく、「ここに私がおります。私を遣わしてください。」と自ら答えています。
ヨハネの4章35節~38節をお読みしたいと思います。
ヨハネ4:35 あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。 4:36 すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。 4:37 こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る』ということわざは、ほんとうなのです。
4:38 わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」
マタイの9章36節~38節を読んでみたいと思います.ここで気を付けていただきたいことは、イエス様は何を求めているか、ということですね。
マタイ 9:36 また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。 9:37 そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。 9:38 だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」
ここで、イエス様のお話は、種まきの話ではなくて、「収穫を得よ」と言っております。
もちろん、種まきはするのですが、イエス様は「収穫を得よ」と言っております。
収穫を求めず、収穫を期待しないで種をまく農夫はいません。畑を耕し、種をまいたり、苗を植えたりする農夫は、みな収穫を期待しています。アブラハムもそのことを期待していたでしょう。
しかし、ヘブルの11章13節を見ると、こう言っています。
ヘブル11:13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
アブラハムの時代は、ご存知のように、まだキリストの十字架も復活も、ご昇天も完成していませんでした。しかし彼は、キリストの再臨は、もうすぐ目の前に来ている感じがしま
した。ですから、アブラハムたちは信じて、目指している収穫をまだ手に入れることはありませんでしたが、未来の歴史の中に、天の故郷を、新しい神の都をはるかに仰ぎ見ています。そして、そこに入っているかのように喜んでいます。彼は信仰によって、収穫の確信を受けていたのです。
私たちも日々に、種まきをしつつ、収穫を確信しつつ、主を証しさせていただきたいと思います。「主にあって労することは、無駄でないことを、私たちはよく知っているのですから」とパウロは、第一コリントで言っています。
私たちの信仰の目には、アブラハムたちのように、もう神の都が見えてきているでしょうか。天の故郷を見通すまでの信仰になりつつあるでしょうか。遥か向こうにかすんでいるでしょうか。それが信仰の収穫だ、と信じているでしょうか。この瞬間も、私の信仰は、この収穫を獲得するために働いているでしょうか。
神の都は、自然に与えられるものではありません。
マタイ11章12節を読んでみましょう。
マタイ11:12 バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。
「天の御国は激しく攻められている。激しく攻める者たちがそれを奪い取る。」
奪い取るかのように、言われておりますね。自然に与えられるものではありません。信仰は激しく奪い取るものである。
第二テモテ4章7節~8節で、パウロは次のように言いました。神の国を得るための戦いであった、と言っています。
Ⅱテモテ 4:7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。 4:8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。
なんとなく期待するのではなくて、私のために自分のために、義の栄冠が備えられている。
私に授けて下さる、と確信しております。パウロだけではなくて、主の現れを慕っている者には誰にでも授けて下さる。同じ信仰をもつ者には、信仰の戦いをする者には、誰にも授けてくださる、と言っています。
ローマの8章16節~18節を読んでみましょう。神の御国を相続することが書いてあります。
ロ-マ 8:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。
8:17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。
8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
ここでは、キリストとの共同相続人と言われています。イエス様とともに、私たちは御国を相続することになる。素晴らしい栄光を与えられています。そのために今受ける苦難は、取るに足りないものだと、言いました。
ですから、「私は、神様が私を召して、お呼びくださるのを待っています」というのではなくて、待っている信仰ではなくて、神様はすでに私を呼んでおられるのです。
ザアカイのように、ただちに、神の愛の道を歩み出していただきたい。すでに歩んでいる人は、最後まで曲がらずに、真っすぐ歩んでいただきたい。ザアカイは急いでいちじく桑の木から下りて来て、イエス様を迎え入れております。
イザヤは、「誰がわれわれのために行くだろうか」と言っておられる主の声を聞いた時、「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」と言って、すぐに、主に従っています。
主を信じましょう。主のみことばを信じましょう。
信仰は、これまで、神の御心を動かし、御手を動かし、私たちの祈りに応えてくださいました。その神様を信じましょう。アブラハムのように、ローマの4章18節で、「彼は望みえない時に望みを抱いて神を信じました。」
可能性が在りそうな時だけ信じるんではなくて、望みがない時にも信じております。
ローマの4章20節~21節をお読みしたいと思います。
ローマ 4:20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、 4:21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。
神には、約束されたことを成就する力があることを、堅く信じた、とあります。私は自分の置かれたところで、その狭い範囲においてですけれども、信仰の父と呼ばれるに至ったアブラハムのように、私の生活の中で信仰を示すことができます。
主はアブラハムの心に働いて力づけ、その約束と御声を、生き生きと明確に受け取らせて、目の前の惑わしに目を閉じさせ、目に見えないものを見えるようにされ、天の故郷、神の都を見えるようしておられます。その神を信じて、信頼し、従順に従うことの光栄を、アブラハムの心に鮮明に経験させたのです。
アブラハムと同じ信仰を持つ私たちにも、そのことを約束されています。アブラハムは旧約の人ですけれども、今日私たちはアブラハムと同じ信仰を持って、同じ神の都を目指して歩む者とさせていただけます。
最後に、ガラテヤの3章9節を読んで、閉じさせていただきたいと思います。
ガラテヤ3:9 そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。
信仰による人は、信仰の人アブラハムとともに祝福を受ける。アブラハムの子孫とは、血筋の子孫ではなく、信仰の子孫であるということです。今日私たちは、アブラハムの子孫として、信仰の祝福も同じように受けることができる。
天の故郷、神の都は、究極的に受ける信仰の目標であります。目的地であります。そこにまで到達する人が、信仰の勝利を獲得する人であります。そのための激しい戦いが、繰り広げられているわけであります。
今週も私たちは、この世の戦いに、苦難に、試練に試みられると思いますけれども、このことを心に覚えて、信仰による人が祝福を受けるんだ、ということを、アブラハムと同じ祝福を受けるんだ、ということを心にしっかり覚えて、歩んでいただきたいと思います。
この8節は、次回もお話させていただきたいと思います。
お祈り
彼は望みえないときに、望みを抱いて信じました。彼は不信仰によって、神の約束を疑うようなことをせず、反対に信仰がますます強くなって、神に栄光を帰しました。神の約束されたことは、成就する力があることを堅く信じました。
恵みの深い天のお父様、私たちの信仰を顧みてください。
アブラハムにも迷う時がありました。不信仰に陥る時もありました。彼が目指したところは、地上の繁栄ではなくて、目の前の繁栄ではなくて、神の国であります。目に見えない、望み得ない時に、望みを信じる信仰でありました。
私たちも、天の故郷、神の都を見ることができる信仰を与えてください。
そこを目指して、日ごとに押し寄せてくる課題を乗り越えていくことができますように。
この地上では、毎日数えきれない課題が、毎日押し寄せてきます。私たちはいつも未知の生活を続けておりますので、あなたの助けと導きが必要であります。
みことばを祝して、聖霊が働いてください。
尊いキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
<今週の活用聖句>
ガラテヤ人への手紙3章9節
「そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。」
地の塩港南キリスト教会
眞部 明
横浜市港南区上永谷5-22-2 TEL/FAX 045(844)8421