音声:信仰の列伝(11) アブラハムの信仰(1)「出発の信仰(1)」へブル人への手紙11章8節
ハンガリーの画家 József Molnár (1821 – 1899) による「Abraham’s Journey from Ur to Canaan(ウルからカナンへのアブラハムの旅)」(Hungarian National Gallery蔵、Wikimedia Commonsより)
2016年10月9日 (日) 午前10時半
礼拝メッセージ 眞部 明牧師
へブル人への手紙11章8節
11:8 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。
<インフォメーション>
「また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。・・・『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、働き手を送ってくださるように祈りなさい。』(マタイ9:36~38)
主は、種蒔きではなく、収穫を得よ、と言っておられます。勿論、種蒔きはするのですが、たえず、主は収穫を求めよ、と言っておられます。収穫を求めないで、収穫を期待しないで、種を蒔く農夫はいません。収穫を期待しないで、畑を耕したり、種を蒔いたり、苗を植えたりする農夫はいません。
「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」(へプル11:13)
アブラハムの時代は、まだキリストの十字架も、復活も、ご昇天も完成していませんでした。しかし今は、キリストの再臨も、もうすぐ目前に迫って来ている感がします。ですから、アブラハムたちは信じて、目指した収穫をまだ手に入れることはありませんでしたが、未来の歴史の中に、天の故郷を、新しい神の都をはるかに仰ぎ見て、そこに入っているかのように喜んでいます。彼は信仰によって、収穫の確信を受けていたのです。
私たちも、日々に、種蒔きをしつつ、収穫を確信しつつ、主を証しさせていただきましょう。
私の信仰の目には、アブラハムたちのように、神の都が見えているでしょうか。天の故郷を見通すまでの信仰になっているでしようか。
私は、それが私の信仰の収穫であると信じているでしようか。
この瞬間も、私の信仰はこの収穫を獲得するために働いているでしょうか。
「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして激しく攻める者がそれを奪い取っています。」(マタイ11:12)
「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」(テモテ第二、4:7~8)
「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」(ローマ8:16~18)
ですから、「私は、神が私を召して、お呼び下さるのを待っています。」と言っていてはいけません。
ザアカイのように、直ちに、神の愛の道を歩み出して下さい。
すでに歩んでいる方は、最後まで曲がらずに、真っ直ぐ歩んでください。
イザヤのように、「だれがわれわれのために行くだろうか。」と主は言っておられますから、「ここに私がおります。私を遣わしてください。」と言って、主に従ってください。
主を信じましよう。主のみことばを信じましよう。信仰は、これまで、神のみこころを動かし、御手を動かし、私たちの祈りに答えてくださいました。
アブラハムのように、「彼は、望みえないときに望みを抱いて信じました。」(ローマ4:18)
<今週の活用聖句>
ガラテヤ人への手紙3章9節
「そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。」
地の塩港南キリスト教会
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