音声:信仰の列伝(21) イサクの祝福 へブル人への手紙11章20節
イタリアの画家 Gioacchino Assereto (1600–1649)による「Isaac blessing Jacob(ヤコブを祝福するイサク)」(Wikimedia Commonsより)
2016年12月18日 (日) 午前10時半
礼拝メッセージ 眞部 明牧師
へブル人への手紙11章20節
11:20 信仰によって、イサクは未来のことについて、ヤコブとエサウを祝福しました。
<インフォメーション>
20節で、イサクは信仰によって、神から、ヤコブとエサウのそれぞれの将来を、ヤコブとエサウの性質によって、どのように取り扱われるかを知らされたのです。
ヤコブは、ずるがしこいやり方であるとは言え、神の摂理の中で、主の権威を求め、主の相続財産を求め、神の国を求めるという、本質的、心の性質を主はみこころに留めて下さったのです。確かに、やり方にはいろいろ問題はあります。人はそれを批判しますが、主はヤコブの「主を渇いて真剣に求める心の性質」に目を留めて下さったのです。
やり方は、正しくて、スマートで、人々から称賛されていても、使徒5章のアナニヤやサッピラのように、隠れた心の中で、肉の欲が働いているなら、主もペテロもそれを見抜いてしまい、滅んでしまいます。
事実、エサウの子孫は、一時エドム人として繁栄しましたが、遂に民族ごと滅んでしまっています。
大まかに言って、信仰の洞察力は、二つのものを見抜く力があります。
一つは、神の道が何であるか、です。
私たちは、神ご自身を知り尽くしてしまうことはできません。しかし、主が、この私に何を望んでおられるか、何を求めておられるか、何を命じておられるのかは、分かります。
また、毎日、どのように歩むべきか、足のともしび、道の光を与えて示してくれます。
例えば、神が私に、「隣人を愛することを望んでおられる」ことを悟ることが信仰の洞察力です。
信仰の洞察力のない人は、日曜日に教会に行けば、神に対する義務を果たしていると思っている人です。
この当たり前のことが分かって実行すれば、キヨメの証しは与えられます。
「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」(詩篇119:130)
もう一つの信仰の洞察力は、人の心の性質を見極める力です。
ヤコブは一見、エサウの祝福まで求める、欲張りに見えますが、彼の心の性質が神の恵みを強く求めていることを主は知っておられ、イサクもそのことに気づいていたのです。
これに比べて、エサウは神の相続財産を受ける権利の長子の特権を豆スープ一杯で、ヤコブに売ってしまうほど、神の恵みより、肉の欲の満足に心が向いている人でした。
この世の人は、何かが出来るという才能や、技能によって評価しますが、神はそういう人間的才能では用いません。
エサウは弓の名手で、鹿を捕えて、イサクの好物だった鹿の肉料理を作って持って来たので、イサクはエサウを好んだようですが、主はエサウを用いませんでした。
<今週の活用聖句>
箴言3章5~6節
「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」
地の塩港南キリスト教会
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