音声と文書:信仰の列伝(20) アブラハムの試練 へブル人への手紙11章17~19節

オランダの画家 Anthony van Dyck (1599–1641)による「Abraham and Isaac(アブラハムとイサク)」(Wikimedia Commonsより)


2016年12月11日 (日) 午前10時半
礼拝メッセージ  眞部 明牧師

へブル人への手紙11章17~19節
11:17 信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。
11:18 神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」と言われたのですが、
11:19 彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。

はじめの祈り

「信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。」
恵みの深い天の父なる神様、今日もみことばと聖霊の恵みを頂き、心から感謝いたします。
私たちにも新たなる信仰と恵みを与えて、心の内に主と交わるよき礼拝の恵みをお与え下さり、み言葉を祝して下さり、お一人お一人の上に主の霊が豊かに注がれますように助けてください。尊いキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


今日は「アブラハムの試練」のお話しをしたいと思います。
ヘブル11章は、アブラハムの信仰に、比較的多くの部分を割いています。これはアブラハムの信仰が重要だからであります。聖書全体を見ますと、アブラハムの信仰が、私たちすべての人の信仰の規準になっていることが分かります。

ですから、どのように歩めばいいかは、アブラハムの歩み方を見れば分かります。

・彼の信仰によるカルデヤのウルからの出発、パダン・アラムからの出発
・信仰による旅人の生活
・ひとり子イサクを与えられるまでの試練、またイサクを捧げるための試練
・そして、今お話ししている、天の故郷を憧れて待ち望む信仰

こういう事を、私たちは信仰の生活に生かすことができる、というか規準になっているわけですね。聖書は、そのようにアブラハムの信仰を扱っているようです。

アブラハムは、信仰の試練を次々と受け続けてきました。彼の信仰の決定的な試練は、イサクをモリヤの山で全焼のいけにえとして捧げるという、神様のご命令に従うことでした。この時の信仰の試練、テストについては、創世記22章に詳しく記されています。

創世記22章1節をご覧ください。
創22:1 これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。

ここで重要なことは、神様はすでに明らかに「神はアブラハムを試練に会わせられた」と言っていますから、神様から来た試練であります。アブラハムに何か罪や落ち度があって生じた試練ではありません。
試練とか、困難だとか、課題とか、病とか、様々な災いとかは、いろいろな理由で起きるわけですけれども、アブラハムに何か罪や落ち度があったから生じた試練ではありません。神から来た試練です。また、サタンが仕掛けた試練でもありません。
試練については、今日は詳しくお話することはできませんが、原因がいくつかありますので、なんでもかんでも自分の責任だと思って悩まないで頂きたいと思います。
これは神様から来た試練ですね。これはアブラハムの神に対する愛を、全き愛にする、信仰を試す試練です。

第一ヨハネの4章18節を見たいと思います。ここに、全き愛のことが書いてありますけれども、アブラハムの心を全き愛で満たすための試練であります。
Ⅰヨハネ4:18 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。

神様が求めておられるのは、私たちの地上において到達できる完成時の信仰、それは「全き愛」であります。
創世記の22章を見ると、この神様の命令は、アブラハムの試練の最終段階におけるテストであることが分かります。神様の御要求、すなわち「イサクをモリヤの山で全焼のいけにえにせよ。」というご命令は、ふつう、どう考えても理不尽に見えます。信仰的に考えても、聖なる神様のご命令とは思えません。

その理由は、
➀ 人の子を殺していけにえにすることを最も禁じておられた神様が、ご自分の定めに反して、イサクを全焼のいけにえにするように命じているからです。
② また、主ご自身がアブラハムと契約された神の民をお造りになるという約束のひとり子イサクを、いけにえにしてしまえば、主が約束したアブラハムの子孫が繁栄できなくなってしまいます。主がアブラハムにした約束が実現できなくなります。

こういう理不尽で矛盾したご命令は、神の聖なるご性質にも反しています。健全な理性では、到底受け入れられないことを、いかにしてアブラハムは従うことができたのでしょうか。このあたりにアブラハムの信仰の特色がみられます。

それは、自分を救い、召して、長い困難な旅を導き、何一つ失敗も間違いもなく、聖と愛と真実を持って成し遂げてくださった神経験をしていたからです。私たちが理不尽に思えることでも、それまで、いかに信仰の歩みをしてきたかが重要な要素になります。このお方に全く信頼し、全く愛して従うことが、最善の道であるとアブラハムは確信しました。もし彼が、自分の正義感や、道徳観や、知恵や常識で判断すれば、理不尽に見えることに従えなかったでしょう。惑わされてしまうでしょう。

箴言14章12節で「人の目には真っすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」とあります。
アブラハムは試みられました。その試みは何であったか。自分の知恵や常識に従うか、それとも理不尽に見える神様のご命令に従うか。それを決定したのが、アブラハムの全き信仰であります。アブラハムが全く主を信じ、全く愛していたかにかかっていました。理不尽に見えることに従うには、愛と信仰によって決まってくる。
こうしてアブラハムは信仰の試練を受けつつ、一段一段と信仰の高嶺に引き上げられていったのです。

ここで私に当てはめるべきことは何か。
私が今、信仰の試みに会っているならば、第一にすることは、主が私の信仰の成長を求めておられることを知ることです。自分の知恵に頼らず、神を信じて、愛して従うかどうか試みられる、ということであります。そのことを悟りましょう。

第二に当てはめるべきことは、主は、私がその試練を乗り越えるために、必要な力を十分に与えてくださっていることであります。
すでにご存知の通り、第二コリント12章9節で、主はパウロに「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われています。
ですからアブラハムもパウロも、同じ恵みを経験していたことが分かります。パウロはそのことを聖霊によって、言葉に表しましたけれども、アブラハムは言葉で表しませんでしたが、その生活を通して表わしています。

私に当てはめるべき第三のことは、私たちには信仰の成長の余地、可能性が十分にあるということです。今の状態よりももっと成長する余地がある。
それなのに、もし私がこの試練から逃げ出してしまう、逃避してしまったら、私は神のみこころから外れてしまいます。それはソドムとゴモラの繁栄を捨てきれずに、未練にしがみついていたロトとその家族のように、すべてを失って堕落してしまう、そういう危険にさらされているわけです。

ですから、神様が与えられる試練は恐れずに、しっかり受け止める必要があります。
パウロは、そのことを、ローマの5章3節で、「患難さえも喜んで受け止めましょう」と言っているわけです。これは単なる励ましではありません。パウロもアブラハムも、パウロは言葉で解説しましたけれども、アブラハムはそれを実行を通して表しています。神様が私たちに求めておられる信仰の神髄を示しておられます。そうすれば必ず信仰は成長し、祝福につながります。

ここで主がアブラハムの信仰を試みられた目的は何か。
それはアブラハムが現在、本当に主を最も愛しているかどうかを試すことであります。愛するイサクを捧げることによってそれを現わさせることでした。
愛は思っているだけではなくて、あることを通して、具体的に現わすことを意味しています。それは私たちが試みられる時に、いつも起きてくることであります。
「神様、私はあなたを愛しています」と祈るだけではなくて、そうならば、あの金持ちの青年に言ったように、「あなたの持ち物を全部売り払って、貧しい者に分け与えなさい」を通して、私たちが神様を愛していることを示します。隣人を愛することですね。
そのことを通して、私たちは心を尽くして主を愛していることを示すように求められます。
この時の神のみこころの中には、ご自身の愛するひとり子イエス・キリストを十字架に架けられることを思っておられたことが分かります。神の愛は、最大の犠牲を払って現わされます。

ローマ5章8節を読んでみましょう。
ローマ5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

主なる神様は、創世記3章15節で、イエス・キリストの十字架の預言をされてから、その時以来片時も、イエス・キリストの十字架を思わない時はなかったでしょう。
ユダヤ人たちは、イサクがささげられたモリヤの山は、エルサレムにある地だと言っています。もしこれが正しければ、主なる神様は、アブラハムに「イサクをささげよ」と命じられた地の近くで、イエス様を十字架につけられたことになります。この一致は明らかに、主がイエス様の十字架を意識しておられたことを示しています。

創世記3章15節をご一緒に読んでみたいと思います。
創3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

聖書には書かれていない所に、神様の御思いが潜んでいるのが見えます。これが一番最初に記されているキリストの十字架の預言であります。
主は私にも最大の愛を現わすように求めました。マタイ22章37節から40節をお読みしましょう。そこにキリストの十字架の愛が見られます。
マタイ 22:37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 22:38 これがたいせつな第一の戒めです。
22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。 22:40 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

このように、神を愛することを試みられた時、これは最大の犠牲を払うことによって現わすことを求められています。

アブラハムに対する神の試みは明白でありました。創世記22章2節で、
神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」

これが、神様が命じられたアブラハムへの試みであります。
神の試みは二つの点に集中しています。

➀ 第一の点は、アブラハムが最も愛しているひとり子イサクを求められたことです。
主は私に、主以外に私が心を向けているもの、執着しているものを取り除くことを求めておられます。アブラハムにとっては最も愛するひとり子イサクでありました。神様からいただいたイサクであります。これが手離せない時に、私の信仰のテストは失敗に終わってしまいます。
失敗に終わるとは、神の臨在も、導きも、交わりもなくなり、ここから堕落が始まり、放浪の旅が始まってしまいます。つまり、虚しいこころの生活が始まることであります。
それをそのまま放っておいて、恵みを回復しようとして、いくら祈っても、神に仕えようとしても、神様のお応えはありません。神の試みの矛先は、いつでも私が最も大切にしているもの、最も関心のあるものに向けられています。

イエス様はマタイの6章21節で、「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです」と仰いました。
アブラハムにとってこの宝はイサクでありました。
主は金持ちの青年に、「持ち物を売り払って、貧しい人に与えなさい」と言われたのは、この青年の心が、自分の多くの財産に向けられていたからです。
神の第一の試練は、私がもっとも愛するものを取り除くことに向けられています。

② 神の試みの第二の点は、イサクを全焼のいけにえにすることが命じられていることです。
イサクをどこか、パダン・アラムに返しなさい、というなら、まだ楽なことかもしれません。しかし全焼のいけにえにしてしまうなら、再び取り戻すことができません。
つまり、完全にアブラハムの手から放すことが命じられています。これは人情的にも、常識的にも、過酷すぎる痛みを伴います。神は、愛も憐みも見られない残酷な神と思われてしまいます。神は血も涙もない、徹底的に父親のアブラハムの心を痛めつけることを求めているわけです。そのような誤解を招いてしまいやすい、そういう試練でした。
もし私が、こういう扱いを受けたなら、主にとどまり続けることができるでしょうか。
常識的に考えてとてもできないことです。
しかし神様は、人間が理解できるかどうかは別として、決していい加減な安易な信仰で満足されないお方です。99%ぐらいできていたらいいだろう、というような信仰で満足されないお方であります。
私は本当に肉の欲ではなくて、主を信じて従い、復活を得るためには、主は私にもアブラハムと同じような試みをなさるはずです。パウロは「主と同じ状態になって、キリストの復活にあずかりたいんだ」と、言いました。

さてここで、アブラハムが、主に従わなくなる二つの言い訳があるように思います。
このことは創世記22章では何も言っていませんけれども、ヘブルの11章17~18節では、その時のアブラハムの心の思いを記しています。
ヘブル 11:17 信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。
11:18 神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」と言われたのですが、

ここに二つの言い訳が記されています。

➀ 一つは、イサクが約束の子として与えられたことです。
「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」とありますが、イサクを全焼のいけにえに差し出してしまったら、どのようにしてこの主の約束が、実現するでしょうか。
しかし、それはアブラハムの人間的な考えであって、彼が心配するべき領域ではなかったわけです。そう言ってしまえば簡単ですけれども、とてもぬぐえないような恐ろしい事であります。

私もこれと同じように一人合点な考え方をして、主に不服従になり主に不信仰になる時があります。主が、ご自分の約束を破るようなことを命じられても、それは私の考えが及ぶ事や責任ではないということです。それは私に理解しがたくても、主に従うことを試みられているわけです。主を全く信頼するとか、主を全く愛するとか、主のご命令に従うか従わないかによって、主との親密な交わりが深められるか、それとも主から離れてしまうか決定してしまいます。非常に重要な事であります。

先日、ある姉妹からお電話を頂きました。その姉妹は、以前、地の塩から買った本を取り出して読んだ時、これこそ本物のキリスト教だとわかったと言いました。
「その本に書いてある通り実行すると、心が主と一つになって交わることができるようになった」と、お話しになりました。
このことは単なる励ましではなくて、真理のみ言葉に基づいていますから、真実本当のことであります。そういう証人がいることは確かであります。
アブラハムも自分の知恵に頼らずに、真理のみことばに従ったとき、主と心が一つになり、理不尽に思えることが、乗り越えられているわけです。

② 第二の言い訳は、自分のただひとりの子をささげたことであります。
ただひとりの子ですから、代わりのものがない。主はご自分の約束と矛盾することを命じられました。また主は、こういう命令を求めれば、アブラハムが非常に悩んで苦しむことを知った上で命じられているんです。
ある面では、神様はアブラハムを痛めつけているように見えるんです。それでもアブラハムが主に信頼し、愛し、主のご命令に忠実に従うかどうか試みられます。
アブラハムが、自分の知恵や常識や観念に従うとすれば苦しみます。しかし、信仰と愛によって従えば、平安を得るでしょう。アブラハムがどちらの道を取るかが試練であります。

私がこれまで見てきた殆どのクリスチャンが、自分が納得し、自分で主に従えると判断した時だけ、主に従っている方が大半であります。自分には無理だとか、嫌だとか、従いたくないと思っている人で、そういう時に従った人はほとんどいません。アブラハムのように従った人は極僅かです。私を含めてそれは事実であります。

アブラハムがどんなに考えても自分には従えないと思った時も、主に従っている、というのがアブラハムの信仰です。彼は自分が納得したから従ったのではありません。
納得も理解もできないけれども、主に従った、ということであります。
そのことはローマの4章18節で言っています。読んでみましょう。
ロ-マ4:18 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。

「望みえないときに望みを抱いて信じました」は簡単なことばですけれども、人間の力ではできることではありません。このことを通して彼は、主に全く信頼し、主を愛しておられることを表しています。

次にヘブルの11章17節に移りたいと思います。
「11:17 信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。」

この時のアブラハムの信仰はどのような信仰でしょうか。

A.創世記22章8節でこのように答えています。

イサクの質問に対してアブラハムは答えています。
創22:8 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。

ここには、主が、イサクの身代わりのいけにえの羊を備えてくださるという、身代わりの贖(あがな)いの信仰を示しています。
この時のアブラハムの心がどうだったかは、分かりません。神様に期待していたのか、あるいは本当にそう信じていたのか、知る由もありませんけれども、しかし、少なくとも身代わりの贖いの信仰を示していることは確かであります。
現実の生活でこういう立場に立った時に、私たちは身代わりの十字架を心に持つことができるでしょうか。いろいろな問題が起きた時、罪に陥った時、すぐに身代わりの十字架を仰ぐことができるでしょうか。
アブラハムは危機一髪の時に、その信仰を活用しています。

B.ヘブルの11章19節では贖いの信仰を示しています。

ヘブル11:19 彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。

ここに、アブラハムのもう一つの信仰が示されています。復活の信仰を彼が持っていたことを示しています。身代わりの贖いの信仰と、復活の信仰であります。
旧約聖書の人だからといって、決して物足りない信仰であった、とは限らないのです。
創世記22章10節を見ると、アブラハムは、心の中で事実上イサクを殺しています。
創22:10 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。

決断していますね。あと1秒か2秒遅れたら、アブラハムは振り下ろしていたでしょう。それゆえ、ヘブル人の手紙の記者は、「アブラハムがイサクを死者の中から取り戻した」と言っています。アブラハムの心の中ではイサクはもう死んでいたのです。
この信仰、「死者の中から取り戻す信仰」を持ったわけです。

第一コリント15章54節で、「『死は勝利にのまれた。』としるされている、みことばが実現します」と言っておりますけれども、アブラハムはその信仰を持ちました。

マタイ16章25節を読んでみましょう。
マタイ16:25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。

アブラハムは、愛子イサクを、未練がましく握って、手放さないことによって、イサクを神の契約から失ってしまう危険がありました。
人間はどこまで悟れるか分かりませんけれども、人の悟りよりも大切なものは信仰であります。イサクを完全に自分の手から手離してしまうことによって、イサクを再び神の契約の子として取り戻したわけです。
後になって、過去になってからこの真理を教えられて悟ることは、容易でありますけれども、こういう解説がなされる前に、アブラハムがイサクを取り戻したことは、彼の信仰が、本当に神に導かれた信仰であったことが分かります。

ですから私たちも、完全に手放すことによって得る、受ける信仰を会得しなければなりません。アブラハムの信仰はこれでありました。イサクを完全に手放して失うことによって、自分のいのちを失うことによって、それを見出だしたわけであります。
旧約の人ですが、新約の真理を持っていることが分かります。復活した契約の子、イサクを得たわけであります。

アブラハムがこれを実行した時、神様は非常に喜ばれました。
創世記22章11節で「そのとき、主の使いが天から彼を呼び、『アブラハム。アブラハム』と仰せられた。彼は答えた。『はい。ここにおります。』」とあります。
この「アブラハム、アブラハム」と呼んだ御使いが、もし受肉前のイエス様なら、(確定的ではありませんがその可能性はあります)、この場面は非常に意義深いものになるでしょう。
私の身代わりとして十字架に架かってくださったイエス様が、ひとり子イサクを全焼のいけにえにしようとしているアブラハムの心の中をご覧になって、アブラハムを呼び止められているからです。
そのように主は、私の心の中のことを赤裸々に見ておられることが分かります。
私の信仰は、そのような真剣で真実なものになっているでしょうか。

いくつかの聖書のことばを見てみたいと思います。
有名なものは、Ⅰサムエル記16章7節です。
Ⅰサム16:7 しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」

簡単に「心を見る」と書いてありますが、人の本質を見るということです。主はアブラハムの本質をご覧になって、喜ばれました。

第二歴代誌の16章9節も読んでみましょう。神様が、いかに人の心の本質を見ておられるかが分かります。
Ⅱ歴代16:9 主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。

箴言4章20節から23節も読んでみましょう。
箴4:20 わが子よ。私のことばをよく聞け。私の言うことに耳を傾けよ。
4:21 それをあなたの目から離さず、あなたの心のうちに保て。
4:22 見いだす者には、それはいのちとなり、その全身を健やかにする。
4:23 力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。

「心を見守れ」と書いてありますね。

創22:12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」

神様は、あなたのことが良く分かった、と仰いました。主によるアブラハムの信仰の試みは終わりましした。
「あなたが神を恐れることがよくわかった。」この「恐れている」というのは「震えている」ということではありません。「愛している」ということであります。そのことは、ひとり子イサクを本気でささげる、という信仰が見えた時に、現わされた時に、神様は「わかった」と仰いました。

この聖句と、ローマ8章32節と比べてみたいと思います。そうすれば神の御心が良く分かるはずです。
ロ-マ8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

神の試練は、アブラハムの全き愛で完了しました。
父なる神様も、御子イエス・キリストを十字架に架けられることによって神の愛を現わしました。そのことによって、キリストの救いが完成されております。創世記22章13節で、藪にひっかかっていた雄羊は、十字架に架かられるイエス・キリストを予表しています。そのことによって、アブラハムの試練は完了しています。

主は、この試みの後、アブラハムに喜びと栄光に満ちた約束をされました。
ここには三つの祝福が示されています。

第一は、
創世記22章17節で、アブラハムの子孫が「空の星、海辺の砂浜のように増し加えられる」と書かれています。
ガラテヤの3章7節では、「ですから、信仰による人こそアブラハムの子孫と知りなさい」と言いました。
ガラテヤ3章9節では「信仰による人々が信仰の人アブラハムとともに祝福を受ける」とも言われています。
アブラハムの子孫とは血筋によるものだけはなく、信仰の子孫であるとパウロは強調しています。
アブラハムがどこまで分かっていたか分かりませんけれども、私たちの信仰が、後々どういうふうに祝福が及んでいくかは、知ることはできません。しかしその祝福は、私たちが思いも及ばぬ方向に進んでいくことは確かです。無限大であります。

第二に、
創世記22章17節に終わりに、「そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。」と書いてあります。
マタイ16章18節ではイエス様がペテロに仰ったことばがあります。「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」

「ハデスの門もそれには打ち勝てません。」と仰いました。創世記もマタイも、敵の力、サタンの力は、信仰者に勝てないと言っています。
確かにアブラハムの子孫は、400年間エジプトの奴隷生活を耐え抜きました。あらゆる迫害やバビロン捕囚も耐え抜きました。それでも滅びませんでした。
ユダヤ民族は、続いているだけではなく、アブラハムの信仰は全世界の人に受け継がれています。アブラハムの信仰はイエス・キリストの復活によって完成し、私たちも復活の信仰を受け継いでおります。そのようにして、アブラハムの喜びと栄光は私たちにまで繋がって来ていることが分かります。

さらにまた、創世記22章17節のこの「子孫」は、大勢増し加わる子孫であるのにかかわらず、単数形で記されていることに注目していただきたいと思います。ガラテヤの3章16節をお読みしましょう。これは大切なみことばです。
ガラ3:16 ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は「子孫たちに」と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。その方はキリストです。

パウロははっきり言いました。このアブラハムの子孫はキリストなんだ、と言っています。すなわち、キリストがサタンに打ち勝たれることを預言しています。

さて第三に、創世記22章18節の「子孫」もキリストです。
創22:18 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

「あなたの子孫によって」と言いました。これは、キリストによって全ての人が救いの恵みを受けることができることの預言です。これは明らかに、アブラハムがイサクをささげた時、神様の御心の中で、御子イエス・キリストの十字架の救いを思われていたことを示しています。アブラハムがイサクをささげることを苦しんでいた時、主もまた同じ苦しみを味わっておられました。このことを、私たちは決して忘れてはなりません。
私が信仰の試みの中にある時、私だけが苦しんでおられるのではなく、主ご自身も私とともに苦しみを味わってくださっていることを忘れてはいけません。

アブラハムの生涯には、多く信仰の試練がありました。しかし、イサクをささげる試みの後には、目立った試練は記されていません。アブラハムの信仰が、全き愛と、全き信頼に到達した時、試練の信仰のテストは終わりました。アブラハムの全き愛と献身は主の前に明らかになりました。

私の信仰がここに届くまで、信仰の試練は続くでしょう。しかし、試練はついには終わり、勝利と祝福がやってきます。
ここに到達させるのはただ一つ、主に忠実な信仰だけであります。

私たちの信仰生活にも、いろいろな困難や課題が続くかもしれませんけれども、理不尽に思えること、納得できないこと、理解できないこと、従いたくないこと、アブラハムはその中でひたすら主を信じて、主を愛して従った、その信仰を、私たちの信仰とさせていただいて、私たちもまた、アブラハムの子孫として、キリストの復活の恵みに与りたいと思います。

お祈り

恵みの深い天のお父様、「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからだ。」とございました。
私たちは、すでに、アブラハムと同じ信仰を受け継いでいますことを感謝いたします。
私たちがいかなる恵みと祝福を、後々に残すことができるかは、測りしれないものでありますけれども、アブラハムがどこまで理解できていたかは分かりませんけれど、彼の子孫が、イスラエル民族だけではなくて、信仰の子孫、キリスト御自身の子孫にまで拡大することを、彼が分かっていたかどうかは分かりませんけれども、無限の祝福が約束されていることを感謝いたします。
私たちの生涯を通しても、また、その後の人々に与える影響は無限であります。
そのことを心に留めて、今日も明日も明後日も、主の道を歩ませていただけるように顧みてください。
この時を感謝して尊いキリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明


音声と文書:信仰の列伝(全51回)へブル人への手紙11章 目次


<今週の活用聖句>

マタイの福音書22章37、39節
「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。」

地の塩港南キリスト教会
横浜市港南区上永谷5-22-2 TEL/FAX 045(844)8421