音声:信仰の列伝(22) ヤコブの死の間際の信仰 へブル人への手紙11章21節

2017年1月8日(日) 午前10時半
礼拝メッセージ  眞部 明牧師

へブル人への手紙11章21節
11:21 信仰によって、ヤコブは死ぬとき、ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福し、また自分の杖のかしらに寄りかかって礼拝しました。

<インフォメーション>

しかし、この時のヤコブの状態は、杖のかしらに身を寄りかかって、祈り、礼拝していたのです。

創世記48:2では「イスラエル(ヤコブの別名)は力をふりしぼって床にすわった。」と、その状況を記しています。これは、ヤコブに自分の力が尽き果てていることが、自覚させられた時です。彼はもはや、自分の力には頼れない状態にあったのです。彼は神以外に、頼るものがない、自分では何もできない状態にありました。この状態になって、遂にヤコブの信仰は輝き出したのです。この時、ヤコブは彼自身の自分の力を誇って来た生涯の中で、最も無力を感じていた時です。

これまで、アブラハムについて、アブラハム自身も妻サラの胎も、死んだも同然になった時、望むべくもあらぬ時に、全能の神、エルシャダイのみわざが行なわれたのです。

ヤコブの時も同じ原理が働いています。

新約のパウロの時も同じです。

「しかし、主は『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(コリント第二、12:9)

この原理は、必ず、私たちの上にも適用されています。

ですから、パウロのように病の時にも、自分の弱さを覚える時にも、嘆いて、失望して、つぶやいて、不信仰な心を抱かないようにしましょう。パウロのように、キリストの力が私をおおうことを信じましょう。そうすれば、第ニコリント12:10の終わりのように「私が弱いときにこそ、私は強いからです。」と、イエス様のみ力を経験します。

十二年の長血の女の人も、主を信じて、衣の房に触った時、主のみ力が彼女の内に流れ込みました。この衣の房は、神のみことばを意味していますから、私も、みことばを覚えて理解しているだけでなく、みことばを信じて、自分の内に受け入れ、生活の中で活用しましょう。そうすれば、キリストの力が私をおおうことを必ず、経験します。

それは自分の力が尽き果てた時、自分の弱さに打ちのめされた時です。その時、不信仰にならず、主に全く信頼し、従って下さい。

ヤコブの生涯は、これまで聖書中に、彼の弱さを見せたことも、力尽き果てた記事も見られません。へプル11:21のように、全く自分の力に頼れなかった時は、記されていません。

ヤコブの生涯は、兄のエサウを押しのけ、おじさんのラバンを押しのけ、受肉前のイエス様と格闘しても、負けず、ずっと、自分中心の力で押しのけて、押し進んで来た生涯でした。

人生の大半の苦難や危機も、神様の助けをいただいたとはいえ、主に頼ることに心を用いず、殆ど自分の力に頼っていました。

ですから、ヘプル人への手紙の記者は、死の間際以前の、ヤコブの信仰を取り上げなかったのです。自分中心の力が含まれている信仰は、決して神の栄光を現わさないからです。

<今週の活用聖句>

コリント人への手紙第二、12章9節
「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましよう。」

写真は、イギリス系アメリカ人画家Benjamin West (1738–1820) による「Jacob Blessing Ephraim and Manasseh(エフライムをマナセを祝福するヤコブ)」(Wikimedia Commonsより、Allen Memorial Art Museum蔵))

地の塩港南キリスト教会
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