音声:信仰の列伝(36) 「選ばれたダビデ」(サムエル記第一、16章~17章)ヘブル人への手紙11:32~34

ベロッキオ作の少年ダビデの銅像。イタリアのフィレンツェ市からエルサレム市に寄贈されたものの複製。(エルサレムのダビデの塔にあるエルサレムの歴史博物館にて)
2017年4月23日 (日) 午前10時半
礼拝メッセージ 眞部 明牧師
へブル人への手紙11章32~34節
11:32 これ以上、何を言いましょうか。もし、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たちについても話すならば、時が足りないでしょう。
11:33 彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、
11:34 火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。
【新改訳改訂第3版】
はじめの祈り
恵みの深い天のお父様、イエス様の復活の恵みをいただいて、また、私たちにも新たな霊といのちを注いでくださって、この朝も主を礼拝して一週間を始められますことを、感謝いたします。
今日もみことばを祝してください。そして、私たちの霊を新たにして、信仰の道を歩み、証しすることができ、周りの方々にも、あなたのいのちの光を輝かせることができますように、顧みてください。
今日も、私たちを、新しい人にしてくださることをお願いいたします。
みことばを祝し、聖霊が働いてください。
尊いキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
今回からしばらく、ダビデの信仰を、数回に分けてお話します。
今回は、主が、ダビデを喜んで選ばれた理由と、その基準を取り上げてみたいと思います。第一サムエル記の16章~17章をお話しすることになりますので、そちらの方を開いておいていただきたいと思います。
第一サムエル記の16章7節に、ダビデが神様に選ばれた基準が記されております。
Ⅰサムエル16:7 しかし【主】はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、【主】は心を見る。」
有名なことばですね。この主のみことばは、人が人物を選ぶ基準と、神様が選ぶ基準とは、本質が全く異なっていることを示しています。
イザヤは、イザヤ書の55章8、9節で次のように語っております。
イザヤ 55:8 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。──【主】の御告げ──
55:9 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
神様の思いや神様の基準と、人の考える思いとは違う、ということを明らかにしています。
よく、「一晩中考え抜いた結論です」と言って、ご相談に来られる人がいますが、その裏の言い方をすると、「一晩中迷い続けた」ことを意味しています。
人の知恵で考えたものは、その性質が神様とは異なっていますから、非常に危険で、そのままやるとわざわいをもたらします。
主は、人が見る基準は容貌や背の高さや、うわべの人当たりの良さや感じ方である、と言っています。あの人は良さそうだとか、真面目そうだとか、熱心そうだとか、こういうのは見たところのことですね。それ以外にも学歴だとか、地位、家系、才能、見かけの業績とか、人は、そういう基準で判断したり、評価していないでしょうか。
また、そういうものがない人は、「自分には、才能がないからだめだ」とか、「他人もそう見ている」とか思ってしまって、自分に間違った評価をして不信仰になり、神様が用いることができない状態に陥ってしまっている人もいます。教会には上手にできる人がいるけど、私にはできないと思っている人も少なくないでしょう。
しかし、問題は、できるかどうかではなくて、信仰がなければ主を喜ばせることはできない、ということです。人間的な考えとか知恵とかを働かせて、そういうことを基準にして生活をしているなら、神様を喜ばせることはできない、ということです。私達はしばしば、そのように、うわべの見かけだけの判断をして、自他ともに間違った選び方をしていないでしょうか。
これに対して、「主は心を見る」と言われました。神様は、子どものダビデの何をご覧になったのでしょうか。それはダビデの告白に見られます。第一サムエル記17章37節の、最初の部分をお読みしましょう。
Ⅰサムエル17:37 ついで、ダビデは言った。「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった【主】は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。・・・」
彼は、神様が、獅子や熊の爪から救い出してくださった、という経験を積んでいたんですね。ですから、ぺリシテ人の巨人ゴリヤテの手からも同様に救い出してくださる、と言ったんですね。
もう一つ、17章40節も読んでみましょう。
Ⅰサムエル17:40 自分の杖を手に取り、川から五つのなめらかな石を選んできて、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にして、あのペリシテ人に近づいた。
ダビデは日頃、羊飼いの仕事をしている時に使っている手製の石投げ袋を使っていますね。日頃活用しているもので戦いに挑んでいます。熟練しているものです。
同じく17章45節~47節も読んでみましょう。
Ⅰサムエル17:45 ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の【主】の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。
17:46 きょう、【主】はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。
17:47 この全集団も、【主】が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは【主】の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」
勇敢なことばですけれども、これは大人の勇者の言葉ではありません。子どものダビデが言った言葉です。大人のよろいを着ると歩けなくなるような、子どものダビデの信仰に満ちたことばです。子どもが小さいからと言って、見下げてはなりません。
子どものダビデが、どのようにして、この確信に満ちた実践的信仰を持つに至ったのでしょうか。それはもう、皆さんがご存知の通りです。日頃、父エッサイの羊を飼っている時に、羊に襲い掛かってくる獅子や熊を、主の御名を信じる信仰を活用して、獣を撃ち殺していたことであります。
ダビデは、ゴリヤテを倒すのに石投げを使っておりますが、これも、ダビデが毎日、羊飼いの生活で使っていた熟練した道具です。彼は、河原で滑らかな石を五つ選んでおります。五つですからそんなに多くはありません。十分注意して選んで、使いなれた物を使っている。私たちも、使い慣れた五つのみことばを毎日持っていたいものであります。そうして、サタンの誘惑や、困難や、不意打ちの言葉や態度や、毎日の課題に、それを活用しようではありませんか。そうすれば、私もみことばの名手になれます。とにかく、毎日使わなければ熟達することはできません。単純に、聖書の言葉を暗誦して、意味も理解していたら、熟達できるように思いがちですけれども、決してそうではないですね。
こうして、主なる神様は、子どものダビデが毎日羊飼いの仕事をしながら、信仰を実践し、活用しているのをご覧になって、その上でダビデを選ばれたのです。神様は、立派な業績をあげた人ではなくて、毎日コツコツと苦心しながらやっている、そういう人の姿をご覧になって、選ばれておりますね。非常に大切なことであります。人は大きな業績を誇りますが、神さまは、普段の生活のなかで、信仰をどう使っているかを見ておられます。
マタイ7章24節を読んでみましょう。これも非常に大事なことばです。
マタイ7:24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
大事なことは、わたしのこれらのことばを聞いて、聞くだけで留まっていないで、それを行う者だと、仰いました。大勢の人が、イエス様のみことばを聞いています。しかし、それを行うことが大事なんですね。「主は心を見る」と言われたのは、私たちの主に対する心の態度とか、性質とか、動機とか、信仰を毎日の生活の中で活用しているかどうかを重要視しておられることが分かります。
反対の悪い例として、イスラエルの初代の王サウルを挙げることができるでしょう。サウルは、初めはへりくだって、従順に従っている間は、神様の祝福を受けて勝利を重ねました。王国の建設の滑り出しも順調でありました。ところが、彼は勝利を重ねるにしたがって、主のご命令に従うよりも自分の考えで行動するようになってしまって、主のご命令にそむき、アマレク人とその家畜を連れて帰ってきてしまいました。このあたりのことは、第一サムエル記の15章に記されています。
そのことをサムエルから咎められると、家来のせいにしたり、主に捧げるいけにえだ、と言ったりしていますけれども、主が見ておられたことは、そんなことではないんです。家来がどう言ったかとか、このいけにえを神様に捧げます、とか言っていますけれども、そんなことを問題にしているのではなくて、神様が見ておられたのは、サウルがはじめに持っていた、あのへりくだった従順な心を失ってしまって、高慢になって、自分の考えを中心にして動いていることであります。それでもサウル自身は、まだ自分は神様に従っていると思っているし、サムエルにとりなしを頼んでいますけれども、神様のお答えはありませんでした。
外面的には、教会に行っているし、儀式を守っているし、戒めも守っているし、熱心だし、しかし、本当の心は自分の知恵と欲で生活をしている人、本当は自分を崇めたい、自分が褒められたい、誇りたい、そういう動機でいる人は、サウルと同じ末路を辿る危険があります。
神様は外側の真面目さや熱心さではなくて、知識の多さではなくて、その人の心の中をご覧になるのです。
サウルは、自分が神様に喜ばれていないことが分かると、15章24節で、「私は民を恐れて、彼らの声に従ったのです。」と責任を民に押し付けています。アダムとエバが、罪を犯した時も責任転嫁をしています。よく似ていると思いませんか。人間はみな、おなじ罪の性質を持っていることを、示しています。これは今日でも行われていることですね。
サウルはこの時すぐに、ダビデのように、素直に心が打ち砕かれていれば、神様の憐みと救いを受けることができたでしょう。
詩篇51篇17節を読んでみたいと思います。
詩 51:17 神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。
神様が求めておられるのは、いけにえの羊や牛の捧げものではなくて、砕かれた悔いたたましいだ、と言っています。サウルはアマレクのたくさんの羊や牛を、いけにえにするといって連れて帰りましたけれども、神様が求めていたのは、彼の砕かれたたましいです。サウルの判断基準は明らかに間違っていました。彼は、神様が喜ばれる、こころ砕かれた道を選ばず、見かけだけの王の地位を保とうとしました。さらに、国民の前に、王様としての見栄と面目を守るために、「主を礼拝させてください」とサムエルに求めています。「私も仲間に入れてください」と言ったのでしょう。
こうして、あくまでも自分の知恵と欲に固執したサウルから、神様は離れてしまいました。もはやサウルは、神様に用いられるにふさわしい霊を失ってしまったのです。それでも見かけ上は、神様に立てられている王様を装っていましたけれども、ますます悲惨になってしまいました。見かけというのは、必ず剥がれ落ちてしまうものです。どんなに熱心で真面目にやっているように見えても、見かけだけの者は、実ることがありません。
ダビデも罪を犯しました。しかし、ダビデとサウルはどこが違っていたのでしょう。ダビデは、自分の罪が発覚しないように隠しましたが、神の預言者を通して罪が示されると、すぐに罪を告白し、こころ砕かれ、神の裁きを受け入れて、霊的回復を切実に求めています。詩篇32篇1~5節を読んでみたいと思います。
詩篇 32:1 幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
32:2 幸いなことよ。【主】が、咎をお認めにならない人、その霊に欺きのない人は。
32:3 私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。
32:4 それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。
32:5 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を【主】に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。
このことについては、また機会を見てお話ししたいと思いますが、彼はすぐに砕かれて罪を告白していますね。
詩篇51篇10~13節も読んでみたいと思います。神様が何を求めておられるかが分かります。
詩 51:10 神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。
51:11 私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。
51:12 あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。
51:13 私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。
ここでも分かりますように、神様が私たちを選ばれる基準が分かりました。もっと深く入っていきたいと思いますけれども、神様がなぜ、少年ダビデを選ばれたか、ということが分かります。サムエルが、ダビデの父エッサイのもとに、油を注ぎに行ったとき、エッサイは、末っ子のダビデを呼ぶことを忘れていました。エッサイは、息子のダビデが神に選ばれる、とは思ってもみなかったのです。この父親の基準から見ても、ダビデはそのような価値ある人間の中には入っていなかったのです。人の判断では、神の御心にかなうかどうかを、見極めることはできません。人の本質を見抜くことができません。どうしても見かけの条件が整っている人を選んでしまいやすい。サムエルでさえ、それにひっかかりそうになりました。
ダビデが羊飼いの働きをしている時、彼の本質は、野原でしか見ることができません。日常のこまごました課題を、いかにして信仰を使って働いているか、成長しているかを見るには、野原で羊飼いの働きを見るしかないのです。これはローマ5章3~5節で分かります。
ローマ 5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
ここに、「生み出し、・・・ 生み出し、」と書いてありますが、患難に合っていれば自然に忍耐が出てくる、と言うわけではありません。信仰を働かせているかどうか、です。信仰を働かせていることが大事です。この信仰の働きに応えて、神様は、聖霊によって神の愛を私たちの内に注がれるわけです。
パウロは、神様が選ばれる基準を次のように言いました。
Ⅰコリント1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
1:29 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。
人はみな、立派な知恵ある人、強い人、才能がある人、能力がある人を選びますけれども、神様はそういう人を選ばないし、自分を誇る性質のある人を使いません。ある人は、こう思うでしょう。「私がこんなに才能があるのに、なぜ教会で用いられないのだろう。人の前に立てないのだろうか。」こういう不満を持っている人を、神様は、使わないと言っています。神の栄光を奪い、神の栄光を妨げるからです。ですから、エッサイの頭の中になかったダビデが選ばれた、というのはそういう意味ですね。
次にダビデは、羊飼いの心を持っていました。詩篇78篇70~72節をご一緒に読んでみたいと思います。
詩 78:70 主はまた、しもべダビデを選び、羊のおりから彼を召し、
78:71 乳を飲ませる雌羊の番から彼を連れて来て、御民ヤコブとご自分のものであるイスラエルを牧するようにされた。
78:72 彼は、正しい心で彼らを牧し、英知の手で彼らを導いた。
ここに書いてあることは、そのままですね。明らかに神様は、羊のおりで働いているダビデを見ております。乳を飲ませる雌羊の扱い方を見ています。羊飼いの心を持っていることを、見ておられますね。
「正しい心」と「英知の手」とありますけれども、「正しい心」というのは、神様にまっ直ぐに向いている心のことで、みこころにかなっている心、二心のない心のことで、正しい心だということですね。「英知の手」というのは、お話しした通りでありますけれども、羊飼いの心ですね。神の聖霊を受けて、神の民を神の道に真っすぐに導くために働く心であります。
羊は迷いやすいので、保護するために、おりが必要です。乳を飲ませる雌羊には、助けが必要であります。小羊を育てるためには、どんな訓練が必要なのか、わきまえていることが必要であります。羊の養い方や、いさめ方、猛獣からの保護、忍耐などを、ダビデは羊飼いをしながら神様から学んでいたのです。その心を、神の民を導くために、羊飼いの心として活用したのです。
神様はダビデのこの心を見ていた、ということですね。ですから、私たちの日常の信仰の活用がどんなに大事なことかがわかります。たかが羊飼いの仕事だといって、侮ってはなりません。
主はペテロに、ヨハネの福音書21章でこう言われました。
ヨハネ21:15 「・・ わたしの小羊を飼いなさい。」
ヨハネ21:16 「・・ わたしの羊を牧しなさい。」
ヨハネ21:17 「・・ わたしの羊を飼いなさい。」
と、三度も命じています。
しかし、聖霊が満たされる前のペテロには、生まれながらの人情であるフィレオしか持っていませんでしたので、神の愛アガペーを持っていませんでしたから、この意味を悟るためには、聖霊の注ぎを待たなければなりませんでした。聖霊の注ぎを持たなければ、学問的な知識を持っていても、カウンセリングの技術を身に着けていても、教会活動の運営にたけていても、アガペーがなければ、神様に用いられることができません。
ペテロは、この時、主から命じられたご命令を、聖霊に満たされた後も、終生、心に留めていたことが分かります。
第一ペテロ5章2~4節をご一緒に読んでみたいと思います。
Ⅰペテロ 5:2 あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。
5:3 あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。
5:4 そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。
神の羊を飼うことができるのは、羊飼いの心を持つ者だけであります。やがて、ペテロも、このことが分かったんですね。聖霊を受けてからであります。
主は、イエラエルというご自分の羊の群れを牧させるために、羊飼いの心を持つ少年ダビデを選ばれました。ダビデは、おきてを教える律法学者ではありません。国を繁栄させるための戦略的政治家でもありません。戦いに優れた軍人でもありません。確かに彼は、戦いましたし、王様にもなりました。しかし彼は、本質的に、軍人でもなく政治家でもなく音楽家でも詩人でもありません。
彼は豊かな賜物を受けていましたけれども、そのすべてを主の羊を養うために活用した羊飼いでした。イスラエルの民が、神の栄光を現わす民になることだけを目指したのです。それが、ダビデの勝利の原因であります。ダビデが主の栄光を現わせなかった時は、残念ながら、罪に陥っています。
次に第一サムエル記16:18をお読みしたいと思います。
Ⅰサムエル16:18 すると、若者のひとりが答えて言った。「おります。私はベツレヘム人エッサイの息子を見たことがあります。琴がじょうずで勇士であり、戦士です。ことばには分別があり、体格も良い人です。【主】がこの人とともにおられます。」
少年ダビデに主がともにおられることが、無名の若者の一人にも分かるようになっていました。子どもですけれども、見る人が見れば分かる、ということですね。ベツレヘム人エッサイの息子を見たことがある、琴がじょうずで、勇士で戦士である、と言っています。子どもなんですから、戦士であるはずがないんです。それだけではなくて、「主がこの人とともにおられます」と言われました。これが鍵になっていますね。普通の真実な信仰者ならば、主がともにいてくださるか、いないか、を見分けることができます。ダビデは、羊飼いの心を持っていただけではなくて、神から与えられた勇気と、神の御霊によって与えられる言葉使いのわきまえもあった、と書かれています。
このことがやがて、ゴリヤテとの戦いで明らかになってまいります。ダビデのゴリヤテと戦う勇気は、お兄さんたちにはうぬぼれに見えました。お兄さんたちには、その勇気がなかったからですね。
第一サムエル記の17章28節を読んでみましょう。エリアブのことが書いてあります。
Ⅰサムエル17:28 兄のエリアブは、ダビデが人々と話しているのを聞いた。エリアブはダビデに怒りを燃やして、言った。「いったいおまえはなぜやって来たのか。荒野にいるあのわずかな羊を、だれに預けて来たのか。私には、おまえのうぬぼれと悪い心がわかっている。戦いを見にやって来たのだろう。」
兄のエリアブは、人々がダビデの勇気に期待して、ダビデの話に聞き入っていたのを見て嫉妬したわけです。まさか、一番末っ子の、数にも入れてもらえないダビデが、お兄さんたちを出し抜いて、人々の関心を引いていることに嫉妬したのです。神のしもべも、妬みや高慢や悪い動機を抱いている人たちから、辛辣な非難を受けることがあります。しかし、ダビデの心は少しも揺らいでおりません。
信仰のないサウル王は、子どものダビデがペリシテの巨人ゴリヤテと戦うのは不可能だ、と言いました。不信仰な人の選ぶ道は、敗北しかありません。
第一サムエル記17章33節を見てみましょう。
Ⅰサムエル 17:33 サウルはダビデに言った。「あなたは、あのペリシテ人のところへ行って、あれと戦うことはできない。あなたはまだ若いし、あれは若い時から戦士だったのだから。」
サウル王は、ダビデに神様の恵みと力が与えられていることに、気付いておりません。しかし、ダビデの勇気は、根拠のない、口先だけのものではありません。
大抵の人が、口先だけで、中身のない人が多いのですけれども、ダビデの勇気は、毎日の信仰の活用によって、獅子や熊や猛獣から羊を守ってきた十分な経験に裏付けられた勇気です。私達は、人の口先だけの勇気、自己宣伝に惑わされてはいけません。
第一サムエル記17章34~37節を読んでみましょう。
Ⅰサムエル17:34 ダビデはサウルに言った。「しもべは、父のために羊の群れを飼っています。獅子や、熊が来て、群れの羊を取って行くと、
17:35 私はそのあとを追って出て、それを殺し、その口から羊を救い出します。それが私に襲いかかるときは、そのひげをつかんで打ち殺しています。
17:36 このしもべは、獅子でも、熊でも打ち殺しました。あの割礼を受けていないペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をなぶったのですから。」
17:37 ついで、ダビデは言った。「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった【主】は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」サウルはダビデに言った。「行きなさい。【主】があなたとともにおられるように。」
ダビデは少年時代に、羊飼いをしているうちに信仰を活用して、その勝利の秘訣を身に着けていたのです。願わくは、私たちも信仰を活用して勝利する、小さな勝利を数々経験させていただきたいものです。
主は、ご自分に忠実に従ってくる者に、聖霊を与えてくださると約束してくださいました。
日ごろ、信仰を活用していない人が、「急に苦難にぶつかったので祈ってください、助けてください。どうしたらいいでしょうか。」と言って来られることがあります。こういう人は、手の施しようがありません。
行き詰って、苦しくなった時だけ教会に来る人も少なくないんです。日頃は、理屈だけ言って議論している人の前に、「巨人ゴリヤテが現れました。祈ってください。」と言われても、祈ることができません。お断りするしかありません。
ダビデのお兄さんたちも、イスラエルの兵士たちも、よろいは着けていても、なんの役にも立たない。立ちすくんで手も足も出なくなってしまう。戦いに敗れて、殺されるしかありません。
苦難に耐えられなくなると、誰にでも相談する人がいます。しかし、助けることができないんです。
第一サムエル記17章45~47のダビデの言葉には、勇気だけではなく、わきまえがあると言われています。
Ⅰサムエル17:45 ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の【主】の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。
17:46 きょう、【主】はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。
17:47 この全集団も、【主】が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは【主】の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」
このダビデの言葉は、彼の信仰から、内なる経験から出ていることが明らかです。「この戦いは主の戦いだ」ということばは、多くの聖徒たちの信仰の確信となっていることばです。
このことばは、第一サムエル記25:28で、愚か者ナバルの妻アビガイルがダビデに言った言葉です。
「ご主人さまは、主の戦いを戦っておられるのですから、一生の間、わざわいはあなたに起こりません。」
「主の戦いを戦っている」と言いました。
申命記1:30でも言われました。
「・・・あなたがたの神。主が・・・あなたがたのために戦われるのだ。」
私たちの信じている神様は、私たちのために戦ってくださる神様だということを忘れてはなりません。
第二歴代誌20:15をご一緒に読んでみましょう。
Ⅱ歴代20:15 彼は言った。「ユダのすべての人々とエルサレムの住民およびヨシャパテ王よ。よく聞きなさい。【主】はあなたがたにこう仰せられます。『あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。
ちょっと跳びますけれども、17節も読んでみましょう。
Ⅱ歴代20:17 この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる【主】の救いを見よ。ユダおよびエルサレムよ。恐れてはならない。気落ちしてはならない。あす、彼らに向かって出陣せよ。【主】はあなたがたとともにいる。』」
「この戦いは、主の戦いである」という確信は、非常に大事な信仰です。
今、私たちが住んでいる世界は、揺れ動いていますけれども、慌てふためくのではなくて、主は戦ってくださる、あなたがたとともにいる主の救いを見よ、と仰っています。このことを確信する必要があります。そうすれば、この世との妥協を許さない確信になります。この戦いが、自分たちの戦いだと思うと焦ってきます。人間の知恵や考えが入ってきます。
聖書の真理を曲げてでも、また、知らなくても、平気で人の評判を集めようとする人がいます。ダビデによって大繁栄したイスラエル王国が、偶像礼拝によって壊滅し、捕囚になった歴史を、私たちは忘れてはなりません。その原因は、「神の戦いである」ことを忘れてしまったからですね。偶像礼拝に陥ったからであります。
「この戦いは、主の戦いである」という信仰の確信は、サウル王もダビデのお兄さんたちも、イスラエルの兵士たちも持っていませんでした。ただ、子どものダビデ、一人だけが持っていたのです。子どものダビデ、一人だけが持っていた信仰によって、イスラエルの国が救われて勝利しました。このことは偉大なことですね。驚きのことです。
聖書が一貫して教えていることは、人数が多いことに頼ってはいけないことです。子どものダビデ一人の信仰によって、イスラエルの全国民が救われたわけですから、私たちは、小さな子どもの信仰がどれほど偉大であるかを、知ることができるでしょう。
一人の少年が、自分の弁当の五つのパンと二匹の魚を主に捧げることによって、五千人以上の人々を養っただけではなくて、世界の無数の人々に、命のパンであるイエス・キリストを悟らせているのです。
主は、私やあなたや、一人ひとりの信仰を用いて、町々の民を救い、国を救い、世界を救うお方だということを忘れてはなりません。
ヨハネ6:27をお読みしましょう。
ヨハネ6:27 なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」
先に、ダビデは、毎日使い慣れていた熟練した石投げを使ったことをお話しました。しかし、サウルは、自分の立派なよろいを、ダビデに着けさせようとしました。これは不可能なことです。
第一サムエル記17:38~40をちょっと見てみましょう。
Ⅰサムエル 17:38 サウルはダビデに自分のよろいかぶとを着させた。頭には青銅のかぶとをかぶらせ、身にはよろいを着けさせた。
17:39 ダビデは、そのよろいの上に、サウルの剣を帯び、思い切って歩いてみた。慣れていなかったからである。それから、ダビデはサウルに言った。「こんなものを着けては、歩くこともできません。慣れていないからです。」ダビデはそれを脱ぎ、
17:40 自分の杖を手に取り、川から五つのなめらかな石を選んできて、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にして、あのペリシテ人に近づいた。
もう一つピリピ2:6~7も読んでみましょう。
ピリピ 2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。
主は、ご自分を無にして、仕える者の姿を取ってくださいました。それなのに私が、学歴や地位や、知識のよろいや兜を着て、歩けない状態で説教していていいでしょうか。イエス様も、ダビデも、同じようですね。
第一サムエル記17:50を読んでみましょう。
Ⅰサムエル 17:50 こうしてダビデは、石投げと一つの石で、このペリシテ人に勝った。ダビデの手には、一振りの剣もなかったが、このペリシテ人を打ち殺してしまった。
何度も言うようですけれども、ダビデは剣とか投げやりとか弓矢で、打ち殺したのではありません。
いつも使いなれたみことばを、心に抱いていることは非常に大事なことです。
聖書のみことばは、聖霊が与えてくださった、唯一の攻撃用の武器ですから、毎日使って、熟達しておきましょう。
最後に、ダビデはサウルのたましいを、慰め、平安に導く働きもしています。
そのことについて少しふれておきましょう。
第一サムエル記16:23をお読みしましょう。
Ⅰサムエル 16:23 神の霊がサウルに臨むたびに、ダビデは立琴を手に取って、ひき、サウルは元気を回復して、良くなり、わざわいの霊は彼から離れた。
サウルは最後まで、残念ながら主に立ち返りませんでしたので、主の慰めと平安は完全に回復できませんでしたけど、サウルのたましいの状態が悪くなってきた時に、ダビデの働きはサウルを回復させ、良い状態になっております。
現在私たちの周りには、心の平安と慰めを必要としている人がたくさんいます。その人たちに、私たちが、主の平安と慰めを分かち与えることができれば幸いです。その人は、自分もキリストの平安に満たされるし、私の周りで、平安と慰めを必要としている人が、イエス様を求めるようになるでしょう。
主は、ダビデの内にこれらの信仰があることをご覧になったのです。それでダビデを選ばれました。
私たちの内にも、そういうものがあるかどうか。普段の生活の中で、仰々しく行うのではなくて、神様を喜ばせる信仰が働いているかどうか、それを神様は見ておられて、私たちを用いてくださるようになるわけですね。
ですから、このことを心に留めさせていただいて、神様に有用な、用いられる器にならせていただきたいと思います。
お祈り
恵みの深い天のお父様、私たちの普段の生活を神様がご覧になられて、その中に信仰があるか、信仰を活用しているかどうか、そのことが一番大事なことであります。
地位や名誉や、知識や才能や、そういうものではなくて、人はそういうものに心を向けやすい者ですけれども、神様は私たちのみことばの信仰が、毎日使われているかどうか、周りの方々に慰めや平安を分かち与えることをしているかどうか、そういうことに使っているかどうか、をご覧になられますので、顧みて下さり、そのことを通して、私たちは、主の栄光を現わすことができ、主に用いられる証し人となりますように、助けを与えてください
尊いキリストの御名によって、お祈りいたします。アーメン。
地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明
少年ダビデが石投げ器で巨人ゴリアテを倒したと言われるエラの谷
<今週の活用聖句>
サムエル記第一、16章7節
「…人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」
地の塩港南キリスト教会
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