聖書の探求(334) 列王記第一 1章11~53節 ナタンとバテ・シェバの進言、ソロモンの即位、アドニヤの敗北

イギリスの画家 Frederick Goodall (1822–1904)による「David Bathsheba And Abishag(ダビデとバテシェバとアビシャグ)」(Wikimedia Commonsより)


11~31節、ナタンとバテ・シェバの進言

預言者ナタンは、サムエル記第二 7章12~16節の神のみことばを、ソロモンを次の王とする預言として受けていたのです。

「ナタンはこれらのすべてのことばと、これらすべての幻とを、そのままダビデに告げた。」(サムエル記第二 7:17)

ナタンはアドニヤが王となろうとして行動を起こしているのを知った時、すぐにそれを防ぐための処置を始めました。

それは第一に、王を立てるには主の選ばれる者でなければならないことを知っていたからです。

「あなたの神、主の選ぶ者を必ず、あなたの上に王として立てなければならない。」(申命記17:15)

神の選任の原則は、祭司や預言者のように直接、神のご用をする者だけでなく、国民の生活を司る政治的な面にもおよぶものと、ナタンは理解していたのです。

第二に、ナタンが素早く動き出した理由は、もし、アドニヤの計画が成功すれば、ソロモンの母バテ・シェバとソロモンの生命が危険になるからです。当時は、王座を追われた者や、敗北者、対抗者で政権を追われた者とその家族にはあわれみは示されず、皆殺しにされるのが常だったからです。

アドニヤは彼の陰謀がダビデやソロモンに知られたとしても、ダビデはすでに年老いていて、アドニヤに抵抗できないだろうし、ソロモンもすぐには反撃の準備が出来ないと計算していたのです。そこでアドニヤは自分が王となったことの既成事実を国民の前に作ってしまおうと、突然決意したものと思われます。ですから、この時ナタンがいち早く防衛作戦に出ていなければ、アドニヤの企みは成功して、ダビデもソロモンも殺害され、王国の歴史は悲惨なものに変えられてしまっていたかも知れません。しかし主はそれを許されなかったのです。

11節、ナタンは先ずソロモンの母バテ・シェバに、アドニヤの動きを知らせました。

Ⅰ列王 1:11 それで、ナタンはソロモンの母バテ・シェバにこう言った。「私たちの君ダビデが知らないうちに、ハギテの子アドニヤが王となったということを聞きませんでしたか。

なぜ、最初にソロモンに知らせなかったのかというなら、バテ・シェバを通して、ソロモンの王位継承権を明確にダビデに訴えるためです。

12~14節、ナタンはバテ・シェバにすぐにダビデに会うように急がせています。

Ⅰ列王 1:12 さあ、今、私があなたに助言をいたしますから、あなたのいのちとあなたの子ソロモンのいのちを助けなさい。
1:13 さあ、ダビデ王のもとに行って、『王さま。あなたは、このはしために、必ず、あなたの子ソロモンが私の跡を継いで王となる。彼が私の王座に着く、と言って誓われたではありませんか。それなのに、なぜ、アドニヤが王となったのですか』と言いなさい。
1:14 あなたがまだそこで王と話しているうちに、私もあなたのあとから入って行って、あなたのことばの確かなことを保証しましょう。」

「さあ、今、私があなたに助言をいたしますから、」バテ・シェバは突然のアドニヤの行動にあわててしまい、何を、どうダビデに訴えていいのか、分からなくなってしまっていたようです。ナタンは、助言することを約束したのです。

アドニヤがソロモンを招かなかったことは、ソロモンとバテ・シェバに重大な意味を持っていたのです。そこでナタンは「あなたのいのちとあなたの子ソロモンのいのちを助けなさい。」と言ったのです。

ナタンは、ソロモンが次の王になることは主の選びによると確信していたようですが、ダビデがバテ・シェバに、ソロモンがダビデの後継の王となることを宣言した記録は、これ以前には見られません。ですから、ナタンのこの助言は、彼の確信によるものと思われます。そこで、バテ・シェバがダビデに訴えている途中で、ナタンも入って来て、バテ・シェバの訴えが確かなことを保証してダビデ王に確認させることを約束したのです。

Ⅰ列王 1:15 そこで、バテ・シェバは寝室の王のもとに行った。──王は非常に年老いて、シュネム人の女アビシャグが王に仕えていた──

15節、バテ・シェバが王の寝室に行くと、「シュネム人の女アビシャグが王に仕えていた。」とあります。

ある人は、このアビシャグもアドニヤの陰謀に加わっていたらしいと考えています。そうでないと、ここに彼女の名前が出て来る意味がないと言っています。アビシャグはダビデの側にいて、アドニヤの行動を知らせに来る人を近付けないようにするのが彼女の役目だったと言っています。更に、アドニヤがアビシャグを妻に求めたこと(列王記第一 2:17)も、彼女がアドニヤに組していたからだと考えています。

これについては、聖書はアビシャグがどういう意図を持っていたか何も記していないので、はっきりしたことは分かりません。しかし、そのように解釈することは、解釈する人の考えによる読み込み過ぎの危険があります。聖書がそのことについて何も記していないことは、どんなに興味深い解説であっても、人間の推測でしかないことを心に留めておかなければなりません。とかく、推測で判断しやすく、自分の思い入れによって読み込み過ぎる危険がありますから、極力、こういう解釈は避けたいものです。

16~21節、バテ・シェバは預言者ナタンの指示通りにダビデ王に礼を尽くして、ダビデが前に宣言したこと、即ち、ダビデの後にソロモンが王位を継ぐと宣言されたことをダビデに思い出させ、再確認させようとしています。また、アドニヤが王位に就く儀式を行なったことをダビデが知らずにいることを指摘して、その危険を訴えています。

Ⅰ列王 1:16 バテ・シェバがひざまずいて、王におじぎをすると、王は、「何の用か」と言った。
1:17 彼女は答えた。「わが君。あなたは、あなたの神、【主】にかけて『必ず、あなたの子ソロモンが私の跡を継いで王となる。彼が私の王座に着く』と、このはしためにお誓いになりました。
1:18 それなのに、今、アドニヤが王となっています。王さま。あなたはそれをご存じないのです。
1:19 彼は、牛や肥えた家畜や羊をたくさん、いけにえとしてささげ、王のお子さま全部と、祭司エブヤタルと、将軍ヨアブを招いたのに、あなたのしもべソロモンは招きませんでした。
1:20 王さま。王さまの跡を継いで、だれが王さまの王座に着くかを告げていただきたいと、今や、すべてのイスラエルの目はあなたの上に注がれています。
1:21 そうでないと、王さまがご先祖たちとともに眠りにつかれるとき、私と私の子ソロモンは罪を犯した者とみなされるでしょう。」

アドニヤが、いけにえをささげ、王の子たち全部と、祭司エブヤタルと将軍ヨアブを招いたのに、ソロモンを招かなかったのは、アドニヤに悪意のある策略があることを表わしています。もし、このままダビデが眠りについてしまうと(死んでしまうと)、バテ・シェバとソロモンは犯罪者として処刑されてしまうことになるのは明らかです。そこで、「王さま。王さまの跡を継いで、だれが王さまの王座に着くかを告げていただきたいと、今や、すべてのイスラエルの目はあなたの上に注がれています。」と訴えたのです。この「今や、すべてのイスラエルの目はあなたの上に注がれています。」という意味は、ダビデの責任感を揺り動かしたでしょう。

22~27節、ナタンは約束通り、バテ・シェバが主旨の大半を訴えたところで、まだ話しているうちに、入って来ました。

ナタンは、バテ・シェバが何を話していたのか、知らない者のように、王に礼をして話し始めました。それはバテ・シェバとナタンが一緒になって何か企んでいると、ダビデに思われたくなかったからです。

Ⅰ列王 1:22 彼女がまだ王と話しているうちに、預言者ナタンが入って来た。
1:23 家来たちは、「預言者ナタンがまいりました」と言って王に告げた。彼は王の前に出て、地にひれ伏して、王に礼をした。

24節、ナタンはダビデ王に、アドニヤが王になったことを宣言しているのは、ダビデ王の命令によって行なっていることですかと、明確に問いただしています。

Ⅰ列王 1:24 ナタンは言った。「王さま。あなたは『アドニヤが私の跡を継いで王となる。彼が私の王座に着く』と仰せられましたか。

そして、アドニヤが王の子たちや将軍たちと祭司エブヤタルを招いて王位就任の宴会をしていること、ナタン自身も、祭司ツァドク、ベナヤ、そしてソロモンを招いていないことを告げています。

Ⅰ列王 1:25 実は、きょう、彼は下って行って、牛と肥えた家畜と羊とをたくさん、いけにえとしてささげ、王のお子さま全部と、将軍たちと、祭司エブヤタルとを招きました。そして、彼らは、彼の前で飲み食いし、『アドニヤ王。ばんざい』と叫びました。
1:26 しかし、あなたのしもべのこの私や祭司ツァドクやエホヤダの子ベナヤや、それに、あなたのしもべソロモンは招きませんでした。
1:27 このことは、王さまから出たことなのですか。あなたは、だれが王の跡を継いで、王さまの王座に着くかを、このしもべに告げておられませんのに。」

そして27節で、もう一度、「このことは、王さまから出たことなのですか。」と、念を押して尋ねています。

そして更に「あなたは、だれが王の跡を継いで、王さまの王座に着くかを、このしもべに告げておられませんのに。」と言って、ダビデがアドニヤを王にすることを、これまで王を導いて来た預言者ナタンは聞いていませんと、訴えたのです。

28節、ダビデはバテ・シェバとナタンの話を聞いて、事の重大さと緊急性を悟ったようです。

Ⅰ列王 1:28 ダビデ王は答えて言った。「バテ・シェバをここに呼びなさい。」彼女が王の前に来て、王の前に立つと、
1:29 王は誓って言った。「私のいのちをあらゆる苦難から救い出してくださった【主】は生きておられる。
1:30 私がイスラエルの神、【主】にかけて、『必ず、あなたの子ソロモンが私の跡を継いで王となる。彼が私に代わって王座に着く』と言ってあなたに誓ったとおり、きょう、必ずそのとおりにしよう。」
1:31 バテ・シェバは地にひれ伏して、王に礼をし、そして言った。「わが君、ダビデ王さま。いつまでも生きておられますように。」

「バテ・シェバをここに呼びなさい。」当時の儀礼によって、ナタンはダビデの所に入って来ると、バテ・シェバはその場を立ち去っていました。同じようにバテ・シェバが呼ばれると、ナタンは退場しています。ですから、32節では再び、ナタンが祭司ツァドクとエホヤダの子ベナヤと一緒に呼び出されています。

29,30節、「私のいのちをあらゆる苦難から救い出してくださった主は生きておられる。私がイスラエルの神、主にかけて、」この言葉は、確認を表わす時の慣習的な誓いのことばではありますが(サムエル記第一 14:39)、ダビデの信仰はまだ決して衰えていなかったことを示しています。

また「『必ず、あなたの子ソロモンが私の跡を継いで王となる。彼が私に代わって王座に着く。』と言ってあなたに誓ったとおり、きょう、必ずそのとおりにしよう。」というダビデの力強い明確な宣言は、アドニヤの考えていたほどダビデは衰えていなかったことを示しています。

32~40節、ソロモンの即位

32,33節、王はツァドクとナタンとベナヤを呼び出し、すぐにソロモンが王になることを確実にするための行動を取るように緊急の命令を与えています。

Ⅰ列王 1:32 それからダビデ王は言った。「祭司ツァドクと預言者ナタン、それに、エホヤダの子ベナヤをここに呼びなさい。」彼らが王の前に来ると、
1:33 王は彼らに言った。「あなたがたの主君の家来たちを連れ、私の子ソロモンを私の雌騾馬に乗せ、彼を連れてギホンへ下って行きなさい。

「私の子ソロモンを私の雌驢馬に乗せ、」驢馬は、雄ろばと雌馬との交配によってつくられた中間種で、レビ記19章19節では、「あなたの家畜を種類の異なった家畜と交わらせてはならない。」と育成を禁じられていましたので、自然交配によって生まれたものや、輸入されていたものを使用していたものと思われます。またその使用は禁じられていなかったので、王と王家の一家は驢馬を使用していた記録があります(サムエル記第二 13:29、18:9)。

「ギホン」はエン・ロゲルよりもずっとエルサレムに近く、キデロンの谷の処女の泉の所です。

34,35節、ソロモンへの油注ぎの命令と、「ソロモン王。ばんざい。」の叫びと、ダビデによるソロモンのイスラエルとユダの君主としての任命式は、完全な公的な宣言であり、これは、サウルが王となるために油を注がれた時(サムエル記第一 10:1,24)も、ダビデが全イスラエルの王としてヘブロンで油を注がれた時に匹敵するものです(サムエル記第二 5:3)。

Ⅰ列王 1:34 祭司ツァドクと預言者ナタンは、そこで彼に油をそそいでイスラエルの王としなさい。そうして、角笛を吹き鳴らし、『ソロモン王。ばんざい』と叫びなさい。
1:35 それから、彼に従って上って来なさい。彼は来て、私の王座に着き、彼が私に代わって王となる。私は彼をイスラエルとユダの君主に任命した。」

36,37節、軍の司令官に任命されていたエホヤダの子ベナヤはダビデ王の命令に答えて、「ア―メン。王さまの神、主も、そう言われますように。」と言いました。

Ⅰ列王 1:36 エホヤダの子ベナヤが王に答えて言った。「アーメン。王さまの神、【主】も、そう言われますように。
1:37 【主】が、王さまとともにおられたように、ソロモンとともにおられ、彼の王座を、わが君、ダビデ王の王座よりもすぐれたものとされますように。」

これはソロモンを王とするダビデの任命を、主の任命として受け止めたことを表わしています。「王の王であられる神、主がそう命じられますように。」と言う意味です。これはダビデの任命が主に嘉納され、祝されるようにという信仰の表われでもあります。37節は、ソロモンの王座と治世がダビデの治世の時以上に祝福され、繁栄するようにという祈り心のこもった祝辞です。その秘訣は、「主が、王さまとともにおられたように、ソロモンとともにおられ、」ることです。

38節、祭司ツァドクと預言者ナタンと軍の司令官ベナヤは、ダビデの命令に従ってダビデの家来のケレテ人とペレテ人とを連れて、ソロモンをダビデ王の雌驢馬に乗せ、ギホンへ下って行っています。

Ⅰ列王 1:38 そこで、祭司ツァドクと預言者ナタンとエホヤダの子ベナヤ、それに、ケレテ人とペレテ人とが下って行き、彼らはソロモンをダビデ王の雌騾馬に乗せ、彼を連れてギホンへ行った。

ケレテ人とペレテ人は、ダビデの護衛隊を務めていました。ケレテ人はユダの境に住んでいた南部パレスチナの一民族でした。サムエル記第一 30章14節では「ケレテ人のネゲブ」と記されています。ゼパニヤ書2章5節では「海辺に住む者たち。ケレテ人の国。」と記されています。この表現はペリシテ人によく使われる表現です。七十人訳聖書では、エゼキエル書25章16節とゼパニヤ書2章5節の「ケレテ人」を「クレテ人」と訳しています。
これはペリシテ人が初めにクレテ島からパレスチナ西岸に来たと信じられていたからです。ケレテ人がペリシテの一部族であったことは疑いのないところです。

ペレテ人も、ケレテ人とともにダビデの護衛隊として記されています(サムエル記第二 20:23、歴代誌第一 18:17)。

サムエル記第二 15章18節には「すべてのケレテ人と、すべてのペレテ人、それにガテから王について来た六百人のガテ人がみな、王の前を進んだ。」と記されています。ケレテ人とペレテ人がガテから出て来た人々と一緒に記されていることは、彼らがペリシテと関係のある人たちであったことの証拠です。彼らはペリシテの一族ではありましたが、ダビデを慕って来た人々です。ダビデは自分の護衛をユダ族の人々によってではなく、ペリシテ出身のこれらの人々に任せていたことは、注目すべきです。ダビデは、王位を狙ったり、反逆を起こす危険のある同族の民ではなく、内外ともに、献身的にダビデに従って来たケレテ人とペレテ人に任せたことは、賢明だったように思われます。このことは、イスラエルとユダの軍の間には、謀反の気配が多かったことを示しています。それ故、ダビデにとって、最も信頼のできるケレテ人とペレテ人の存在は非常に大きかったと言えます。

39節、祭司ツァドクは契約の箱のあった天幕の中から油の角を取ってきて、任職の油を主要な人々が注目している中でソロモンに油を注ぎました。

この油はどれでもよかったのではありません。任職のための油として調合され、聖別されたものでなければなりませんでした。その油はいつも契約の箱のある天幕に保管されていたのです。この油は新約聖書では聖霊を指しています。聖霊の油注ぎは、私たちを主のために聖別し、主の奉仕のために必要な悟りと能力を与えてくださいます。

Ⅰ列王 1:39 祭司ツァドクは天幕の中から油の角を取って来て、油をソロモンにそそいだ。そうして彼らが角笛を吹き鳴らすと、民はこぞって、「ソロモン王。ばんざい」と叫んだ。

「あなたがたには聖なる方からの注ぎの油があるので、だれでも知識を持っています。…あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについて、あなたがたを教えるように、―その教えは真理であって偽りではありません。―また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。」(ヨハネ第一 2:20,27)

ここで「だれからも教えを受ける必要がありません。」と言われているのは、知識のことではなくて、霊的経験のことです。知識や技術は教えられたり、学んだりしなければ分かりません。しかし霊的経験は教えられたり、学んだりしても分かりません。聖霊経験をすることによってのみ知ることができます。ヨハネが言ったのは、このことです。

ソロモンへの油注ぎは、ソロモンにつくすべての人々の注目することで、ソロモンに油が注がれると、角笛が吹き鳴らされ、その角笛によって、すべての民はソロモンが王となったことを知り、「ソロモン王。ばんざい。」と叫んだとあります。この任職の儀式は、ソロモンに対する神の承認と神のみこころを行なう権威と責任の賦与を表わしています。

40節は、民の喜びを描いています。

Ⅰ列王 1:40 民はみな、彼のあとに従って上って来た。民が笛を吹き鳴らしながら、大いに喜んで歌ったので、地がその声で裂けた。

神に祝福された指導者が立つ時、民の間に喜びが起きるのです。民の間に争いを起こすような者が支配者や指導者になる時は、神の任命によるものではありません。「地がその声で裂けた。」とは、おおげさな表現ですが、それほどに民の喜びが大きかったことを示しています。

41~53節、アドニヤの敗北

Ⅰ列王 1:41 アドニヤと、彼に招待された者たちはみな、食事を終えたとき、これを聞いた。ヨアブは角笛の音を聞いて言った。「なぜ、都で騒々しい声が起こっているのだろう。」

41節、ギホンでのソロモン王の即位の角笛の音と民の大歓声は、宴会をしていたアドニヤの集団の所にも聞こえたのです。

先ず警戒心の強かった将軍のヨアブがすぐに気づいています。彼は、都で異変が起きたのではないかと考えたのです。

42~43節、祭司エブヤタルの子ヨナタンが知らせに入って来て、ギホンで、ダビデ王がソロモンを後継の子としたことを告げたのです。

これですべてが明らかになりました。

Ⅰ列王 1:42 彼がまだそう言っているうちに、祭司エブヤタルの子ヨナタンがやって来た。アドニヤは言った。「入りなさい。あなたは勇敢な人だから、良い知らせを持って来たのだろう。」
1:43 ヨナタンはアドニヤに答えて言った。「いいえ、私たちの君、ダビデ王はソロモンを王としました。

アドニヤは「あなたは勇敢な人だから、良い知らせを持って来たのだろう。」と、良い知らせを期待したのですが、自ら謀反の種を蒔いて、良い実を刈り取ることはできませんでした。昔は、良い知らせを報告する人には、それにふさわしい身分の人を伝達者に選ぶ習慣がありましたので、アドニヤはこのように言ったものと思われます。「勇敢な人」は、正確には「身分のある人」です。知らせの内容を使者の身分によって、一早く示すためです。アブシャロムの死の時には、ヨアブは身分の低いクシュ人を選んでいます(サムエル記第二18:21)。

44~48節は、ソロモンの任職の儀式の始終を詳細に報告しています。

Ⅰ列王 1:44 ダビデ王は、祭司ツァドクと預言者ナタンとエホヤダの子ベナヤ、それに、ケレテ人とペレテ人とをソロモンにつけて送り出しました。彼らはソロモンを王の雌騾馬に乗せ、
1:45 祭司ツァドクと預言者ナタンがギホンで彼に油をそそいで王としました。こうして彼らが大喜びで、そこから上って来たので、都が騒々しくなったのです。あなたがたの聞いたあの物音はそれです。
1:46 しかも、ソロモンはすでに王の座に着きました。
1:47 そのうえ、王の家来たちが来て、『神が、ソロモンの名をあなたの名よりも輝かせ、その王座をあなたの王座よりもすぐれたものとされますように』と言って、私たちの君、ダビデ王に祝福のことばを述べました。すると王は寝台の上で礼拝をしました。
1:48 また、王はこう言われました。『きょう、私の王座に着く者を与えてくださって、私がこの目で見るようにしてくださったイスラエルの神、【主】はほむべきかな。』」

このような詳しい報告が出来たのは、ヨナタンが目撃していたことを表わしています。ヨナタンはアドニヤ側のスパイとしてソロモンの側の偵察をしていたのかも知れません。

47節の「王は寝台の上で礼拝をしました。」は、祈ったことを示しています。イスラエル(ヤコブ)も同じようにしています。

「イスラエルは床に寝たまま、おじぎをした。」(創世記47:31)

49節、「すると、アドニヤの客たちはみな、身震いして立ち上がり、おのおの帰途についた。」

この恐怖と驚き様は、彼らがアドニヤの陰謀が失敗に終わることを全く予想していなかったことを表わしています。どんなに十分な準備をし、根回しをよくして、権力者や実力者や多くの人々を自分の味方につけていても、主のご命令によらず、自分の野心や自分の考え、自己主張のために行なうなら、決して成功することはありません。

「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」(箴言14:12)

50節、王になった気分でいたアドニヤも、一瞬のうちにソロモンに打ち殺される恐怖にとりつかれ、「祭壇の角をつかんで」います。

Ⅰ列王 1:50 アドニヤもソロモンを恐れて立ち上がり、行って、祭壇の角をつかんだ。

出エジプト記21章14節に、「しかし、人が、ほしいままに隣人を襲い、策略をめぐらして殺した場合、この者を、わたしの祭壇のところからでも連れ出して殺さなければならない。」とあります。これは、祭壇の角をつかんでいれば助けられることを保証したものではありません。祭壇の角はいけにえにする牛や羊をつないでおくために祭壇の四隅に造られていました。アドニヤは勝手に、いけにえをつなぐ祭壇の角をつかんでいれば保護されると思ってつかんだのでしょう。しかし、主のご命令は、祭壇のある所では、たとい刑罰であっても人を殺してはならないと言われたのであって、外に連れ出して殺されることになっていたのです。アドニヤはそれを自分勝手に解釈していたのです。聖書のみことばを自分に都合の好いように自分勝手に解釈してはなりません。自分に滅びを招くことになります。

「その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の箇所のばあいもそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。」(ペテロ第二3:16)

51節、このアドニヤの姿をソロモンに告げる者がいました。

Ⅰ列王 1:51 そのとき、ソロモンに次のように言って告げる者がいた。「アドニヤはソロモン王を恐れ、祭壇の角をしっかり握って、『ソロモン王がまず、このしもべを剣で殺さないと私に誓ってくださるように』と言っています。」

恐らくアドニヤがソロモンに嘆願するための使いを送ったのでしょう。その嘆願は、命乞いでした。「ソロモン王がまず、このしもべを剣で殺さないと私に誓ってくださるように。」アドニヤはソロモンを「王」と呼び、自分を「このしもべ」と言って、へりくだっている言葉を使っています。こういう態度をとれば、助けてくれると考えたのでしょう。これがアドニヤの本心であるとは、ソロモンは考えなかったでしょうが。

52節、神の知恵を受けていたソロモンは、アドニヤを赦すとも、助けるとも、殺さないとも言っていません。彼は原則だけを語ったのです。

Ⅰ列王 1:52 すると、ソロモンは言った。「彼がりっぱな人物であれば、彼の髪の毛一本でも地に落ちることはない。しかし、彼のうちに悪があれば、彼は死ななければならない。」

「彼がりっぱな人物であれば、」は、アドニヤが神にも、人にも喜ばれる人物であるなら、という意味です。「彼の髪の毛一本でも地に落ちることはない。」これは神の完全な守りが保証されています。

「すると民はサウルに言った。『このような大勝利をイスラエルにもたらしたヨナタンが死ななければならないのですか。絶対にそんなことはありません。主は生きておられます。あの方の髪の毛一本でも地に落ちてはなりません。神が共におられたので、あの方は、きょう、これをなさったのです。』こうして民はヨナタンを救ったので、ヨナタンは死ななかった。」(サムエル記第一 14:45)

「ですから、私はあなたがたに、食事をとることを勧めます。これであなたがたは助かることになるのです。あなたがたの頭から髪の毛一筋も失われることはありません。」(使徒27:34)

「しかし、彼のうちに悪があれば、彼は死ななければならない。」この言葉の中には、ソロモンの決意が隠されていたのです。しかしソロモンはそれをすぐに決行しなかったのです。即位後の最初の仕事が兄の処刑というのでは、あまりに民の前にソロモンの印象が悪くなってしまうでしょう。喜びの日に処刑はふさわしくないと考えたのでしょう。

「…きょうは、私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。レビ人たちも、民全部を静めながら言った。『静まりなさい。きょうは神聖な日だから。悲しんではならない。』」(ネヘミヤ記8:10~11)

53節、その日、ソロモンはアドニヤを処刑しませんでした。

Ⅰ列王 1:53 それから、ソロモン王は人をやってアドニヤを祭壇から降ろさせた。彼がソロモン王の前に来て礼をすると、ソロモンは彼に言った。「家へ帰りなさい。」

ソロモンはアドニヤに親切とあわれみを示し、人をやってアドニヤを祭壇から降ろさせました。そしてアドニヤがソロモン王の前に来て礼をした時、ソロモンは「家に帰りなさい。」と言って、安全に家に帰しています。ソロモンはアドニヤの回心を信じていなかったでしょう。しかしアドニヤは本当に野心を完全に捨てて、忠誠を尽くして生きるかどうかを試されたのです。再び、彼が野心を表わす時は、命取りになってしまうでしょう。しかしアドニヤはそのことには考えが及ばず、目先、完全に釈放されたことを喜び、気が緩んでしまったのです。彼の心は何も変わっていなかったのです。そのことは2章で、アドニヤがダビデ王に仕えていたシュネム人の女アビシャグを、自分の妻に求めたことに表われてきます。

あとがき

先日、ある牧師の方が「心を満たす祈り」の本を使って毎日祈っていて、大変恵まれているので、一度、会いたいと、おっしゃられて、来られました。カバンの中から、ページの紙が取れそうな本を出して見せてくれました。それはすばらしいことですが、祈りは言葉ではなく、上手下手もありません。祈りは、主なる神様との交わりであり、賛美とともに神様へのささげものです。特に、祈りは、神秘的に深さをさぐり求めようとするより、日常の生活の中で手足を義の器として用い、何事をするにも主に仕える心ですること、主を喜ばせたいという動機で生活すること、隣人を愛すること、これらのすべてが祈りです。感動するような言葉が使えなくても、心が主に向かっていれば、主は答えてくださいます。

(まなべあきら 2012.1.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)


「聖書の探求」の目次