週報No.2100 涙の預言エレミヤ書(13) 「悔い改めの祝福」 3:16~25

2017年11月5日 (日) 午前10時半

礼拝メッセージ  眞部 明 牧師

涙の預言エレミヤ書(13) 「悔い改めの祝福」 3:16~25

エレミヤ書3章16~25節

3:16 その日、あなたがたが国中にふえて多くなるとき、──【主】の御告げ──彼らはもう、【主】の契約の箱について何も言わず、心にも留めず、思い出しもせず、調べもせず、再び作ろうともしない。
3:17 そのとき、エルサレムは『【主】の御座』と呼ばれ、万国の民はこの御座、【主】の名のあるエルサレムに集められ、二度と彼らは悪いかたくなな心のままに歩むことはない。
3:18 その日、ユダの家はイスラエルの家といっしょになり、彼らはともどもに、北の国から、わたしが彼らの先祖に継がせた国に帰って来る。」
3:19 「わたしはどのようにして、あなたを息子たちの中に入れ、あなたに、慕わしい地、諸国のうちで最も麗しいゆずりの地を授けようかと思っていた。また、わたしは、あなたがわたしを父と呼び、わたしに従って、もう離れまい、と思っていた。
3:20 ところが、なんと、妻が夫を裏切るように、あなたがたはわたしを裏切った。イスラエルの家よ。──【主】の御告げ──
3:21 一つの声が裸の丘の上で聞こえる。イスラエルの子らの哀願の泣き声だ。彼らは自分たちの道を曲げ、自分たちの神、【主】を忘れたからだ。
3:22 背信の子らよ。帰れ。わたしがあなたがたの背信をいやそう。」「今、私たちはあなたのもとにまいります。あなたこそ、私たちの神、【主】だからです。
3:23 確かに、もろもろの丘も、山の騒ぎも、偽りでした。確かに、私たちの神、【主】に、イスラエルの救いがあります。
3:24 しかし、私たちの若いころから、バアルが、私たちの先祖の勤労の実、彼らの羊の群れ、牛の群れ、息子、娘たちを食い尽くしました。
3:25 私たちは恥の中に伏し、侮辱が私たちのおおいとなっています。私たちの神、【主】に対し、私たちも先祖たちも、私たちの若いころから今日まで罪を犯して、私たちの神、【主】の御声に聞き従わなかったからです。」
【新改訳改訂第3版】

<礼拝メッセージの要点>

 私がイエス・キリストに救われ、永遠のいのちを受け、神の家族に加えていただくためには、先ず、入口を間違わないようにしなければなりません。

 主イエス様は、その入口について、こう言われました。

「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13~14)

 ここで主が「それを見いだす者はまれです。」と言われた、みことばに注意してください。今日、私たちは、そのまれな人になろうとしているのです。

 ここで、多くの人が間違いやすいことがあります。

ヨハネ第一、1:9「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」と書いてあることから、自分のこれまでの悪行を、牧師や、教会の会衆の前で、告白する人がいます。この人は、二つの点で間違えていますから、救いに到達できません。

 第一の間違いは、人間に向かって告白しても、牧師も、会衆も、人の罪を赦す権威を与えられていません。

 ダビデは、ただ神に対して、自分の罪を告白しています。ですから、直ぐに、赦しを受けたのです。

「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。」(詩51:4)

 目に見える牧師に告白すれば、安心するかもしれませんが、牧師は、狭い門の入口まで、ご案内するだけで、人の罪を赦して、神の国に入れてあげられる権威は、与えられていません。会衆に告白して、批判されたり、噂の種にされた、苦い経験をされた人もいます。

 自分の罪の告白は、必ず、直接、主イエスにして下さい。伝道者がお手伝いすることがあっても、主イエスを意識して告白しなければ、救いは明確になりません。

 第二の間違いは、「自分がどんなに悪い人間であったかを、気づく限りの悪事」の告白をしても、主が求めておられることに一致していないと、救いが明確になりません。

 前回、「言い表わす」という言葉は、ギリシャ語の「ホモロゲオー」、即ち「神が指摘される罪と、同じことを告白する」ことだと、お話しました。

 主イエスは、私がこれまでの生涯の間に、犯してきた罪を全部告白しないと、赦さないと言っているのではありません。

 主の求めておられる告白とは、どんなものでしょうか。

「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。」(ヨハネ16:8、9)

 「その方が来ると」とは、キリストの御霊のことです。

 聖霊が、私に告白を求めておられる罪は、罪の根源である「主イエスを信じないでいたこと」です。これが、私の造り主である愛の神を、最も悲しませていた原因です。

 主イエスは、このことの告白を、私のたましいに求めておられるのです。

 キリストの救いの入口の狭い門を、正確にお話しました。後はご自分で、実行して下さるだけです。お手伝いはさせていただきます。これが、神のすべての祝福の入口です。

 預言者エレミヤは、まだキリストの十字架も実現していない時代に、この真理に人々を導き入れようとしていたのです。

 これが新しい契約(エレミヤ書31:31~34)です。

<今週の活用聖句>

イザヤ書55章7節後半

「…主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」

<集会案内>

◇11月8日(水)聖別会 午前10時半
必要な諸区別(2)
「欠点と咎」

地の塩港南キリスト教会
横浜市港南区上永谷5-22-2 TEL/FAX 045(844)8421