音声:信仰の列伝(18) 天の故郷にあこがれる信仰(1) へブル人への手紙11章13節

2016年11月27日(日)午前10時半
礼拝メッセージ 眞部 明牧師

へブル人への手紙11章13節
11:13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。

<インフォメーション>

信仰は、死を越えて天の故郷を味わわせてくれます。

いくらこの世の楽しみをさせてくれても、天の故郷を味わわせてくれません。信仰がなければ、信じるに値しません。

主イエスは、マタイ8章の、みことばだけを求めた百人隊長の信仰をおほめになった後、「あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食事に着きます。」(マタイ8:11)と言われました。この経験をする、みことばの信仰を持ちましょう。

「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。」(へプル11:13)ただ、信仰者として、その生涯を閉じたというだけではありません。彼は、死の向こうにある神の約束の実現の天の故郷をつかんで、地上を去ったということです。死のすぐ向こうに、神の約束の成就があることを、つかんで、死んだということです。彼らは、天の故郷は、死の向こうに、手を伸ばせば、すぐに得られる、現実の事実として信じて、死に着いたのです。

私の信仰も、今、天の故郷が現実のものとして信じる信仰になっていなければなりません。

「約束のものを手に入れることはありませんでしたが、」は、先にもお話しましたが、旧約聖書の聖徒たちはまだ、イエス・キリストを見ていなかったからです。神の約束は、イエス・キリストによって、すべてが成就するからです。

「神の約束はことごとく、この方によって、『しかり、アーメン』と言い、神に栄光を帰するのです。」(コリント第二、1:20)

旧約聖書の聖徒たちも、私たちも、キリストのみわざが完成するまで待たなければなりません。

私たちはすでに、イエス・キリストの地上での購いのみわざ、即ち、十字架と復活とご昇天、聖霊降臨と内住のみわざを見ています。成就しています。

ですから、霊的な神の約束、即ち、たましいの生まれ変わりと、聖霊の満たしによるきよめの経験を受けています。

しかし、永遠の新しい天と新しい地での生活の実現は、もう一つのキリストのみわざ、即ち、キリストの再臨の日まで待たなければなりません。

「私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再びこられるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それから、キリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(テサロニケ第一、4:14~17)

「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリスト再臨のとき責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」(テサロニケ第一、5:23)

主イエスが再臨されるに先立って、今、眠りについている聖徒たちは、長く生きたか、非常な病で死を遂げたかは、問題ではなく、ただ、一つの点で、重要ないっちがあります。

それは、「これらの人々は、主イエスを信じて、心に宿して、天の故郷を待ち望んで」死を遂げたことです。

ですから、聖徒の死は主の御前に尊いのです。

彼らの信仰の記録、あかしは尊いのです。

彼らは信仰によって生きた義人です。

信仰が、内なるキリストが彼らのいのちであり、慰めであり、生きる動機と力でした。

<今週の活用聖句>

詩篇16篇8~9節
「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは喜んでいる。私の身もまた安らかに住まおう。」

地の塩港南キリスト教会
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