音声:信仰の列伝(19) 天の故郷をあこがれる信仰(2) へブル人への手紙11章13~16節

2016年11月20日 (日) 午前10時半
礼拝メッセージ  眞部 明牧師

へブル人への手紙11章13~16節
11:13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
11:14 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
11:15 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
11:16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。

<インフォメーション>

そこで、アブラハムたちの信仰の内容を見てみましょう。

第一に、神の都を「故郷」と呼んでいます。

故郷は、ふるさとのことであり、それは「行く所」ではなく、「帰る所」です。「自分が出て来た所」です。ここでは「自分の存在の起源」を指しています。私のたましいに「いのち」を与えて下さったのは神です。私のたましいを救い、きよめ、導いて下さっているのは、主イエスです。その主イエスのいます所に帰るのが、天の故郷です。

「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ14:3)

ですから、主イエスを心に経験している人は、心の中に、天の故郷に、本能的に、なつかしさ、あこがれ、慕わしさ、やすらぎを感じています。天の故郷を、今、心の中で味わい知っているからです。ですから、旧約の聖徒たちも、「神の都」を「行く所」ではなく、「帰るべき故郷」だと言っています。

「神の都」は、もはや「未知の所」ではなく、毎日、神の国とその義を求めている人にとって、同じ味わいをしているので、親しく、慕わしく知っている所となっています。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

「『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか、言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:21)

「あなたがたのただ中に」とは、あなたがたの心の中に、神の国を持って営んでいる生活の中にある、と言われたのです。

心の中に、神の国を持つ生活をし、私の実際生活を神の国にふさわしい生き方をする時、神の都は全く未知の所ではなくなり、親しい、なつかしい、慕わしい、あこがれの所となり、その神の都は、たましいの故郷となり、行く所ではなく、帰る所となります。

彼らは、はっきりと、自分たちが出て来た地上の故郷と、天の故郷を区別しています。

聖書はこう言っています。

「もし、彼らが望むなら、その地上の故郷、即ち、異教の地、カルデヤのウルの生活でも、パダンアラムのカランの生活でも、すぐに戻って行くことが出来たのに、そうしなかった。」

彼らは、旅人の生活で、多くの苦難に出会ったのに、どうして異教の生き方に帰って行かなかったのでしょうか。

もし、彼らが、地上の幸せをと繁栄だけを求めていたら、昔の生き方に帰っていたでしょう。

<今週の活用聖句>
へブル人への手紙11章16節
「しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それ故、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」

地の塩港南キリスト教会
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