週報No.2188 涙の預言エレミヤ書(95)「エジプトに傾く危険」エレミヤ書41:6~18

2019年6月30日 (日) 午前10時半

礼拝メッセージ  眞部 明 牧師

エレミヤ書41:6~18
41:6 ネタヌヤの子イシュマエルは、彼らを迎えにミツパを出て、泣きながら歩いて行き、彼らに出会ったとき、言った。「アヒカムの子ゲダルヤのところにおいでなさい。」
41:7 彼らが町の中に入ったとき、ネタヌヤの子イシュマエルと、彼とともにいた部下たちは、彼らを殺して穴の中に投げ入れた。
41:8 彼らのうちの十人がイシュマエルに、「私たちを殺さないでください。私たちは、小麦、大麦、油、蜜を畑に隠していますから」と言ったので、彼は、彼らをその仲間とともに殺すのはやめた。
41:9 イシュマエルが打ち殺した、ゲダルヤの指揮下の人たちのすべての死体を投げ入れた穴は、アサ王がイスラエルの王バシャを恐れて作ったものであった。ネタヌヤの子イシュマエルはそれを、殺された者で満たした。
41:10 イシュマエルは、ミツパに残っていたすべての民、すなわち王の娘たちと、侍従長ネブザルアダンがアヒカムの子ゲダルヤにゆだねた、ミツパに残っていたすべての民とをとりこにした。ネタヌヤの子イシュマエルは彼らをとりこにして、アモン人のところに渡ろうとして出かけて行った。
41:11 カレアハの子ヨハナンと、彼とともにいたすべての将校は、ネタヌヤの子イシュマエルが行ったすべての悪を聞いたので、
41:12 部下をみな連れて、ネタヌヤの子イシュマエルと戦うために出て行き、ギブオンにある大池のほとりで彼を見つけた。
41:13 イシュマエルとともにいたすべての民は、カレアハの子ヨハナンと、彼とともにいるすべての将校を見て喜んだ。
41:14 イシュマエルがミツパからとりこにして来たすべての民は身を翻して、カレアハの子ヨハナンのもとに帰って行った。
41:15 ネタヌヤの子イシュマエルは、八人の者とともにヨハナンの前をのがれて、アモン人のところへ行った。
41:16 カレアハの子ヨハナンと、彼とともにいたすべての将校は、ネタヌヤの子イシュマエルがアヒカムの子ゲダルヤを打ち殺して後、ミツパから、ネタヌヤの子イシュマエルから取り返したすべての残りの民、すなわちギブオンから連れ帰った勇士たち、戦士たち、女たち、子どもたち、および宦官たちを連れて、
41:17 エジプトに行こうとして、ベツレヘムのかたわらにあるゲルテ・キムハムへ行って、そこにとどまった。
41:18 それは、バビロンの王がこの国の総督としたアヒカムの子ゲダルヤをネタヌヤの子イシュマエルが打ち殺したので、カルデヤ人を恐れて、彼らから逃げるためであった。
【新改訳改訂第3版】

<礼拝メッセージの要点>

 「エジプトに行こうとして、ベツレヘムのかたわらにあるゲルテ・キムハムへ行って、そこにとどまった。」(エレミヤ書41:17)

 ヨハナンたちが取り戻して自由にした者たちは、すっかり失望して、誰一人、ミツパに戻ろうと言う者がいませんでした。彼らはおじけづいてしまって、祖国ユダを捨てて、エジプトの地に逃げようとして、南の方のベツレヘムの近くに引きこもってしまいました。ここにユダヤ人たちがエジプトに傾いていく傾向が見えています。

 エルサレムとユダの再建のために、新しい総督ゲダルヤが任命されて、ユダに残されていた民も希望を持ち始めた矢先、イシュマエルによって、次々と殺人事件が続いて、ユダの人々の心は不安になり、再びバビロンの厳しい攻撃を恐れて、エジプトに逃げることを考える人が多くなっていったのです。

 神のみこころと逆の方に行く傾向が止まらなくなっています。一旦、恐れや不安の感情が不信仰な方向に転がり始めると、人の努力では止まらなくなります。

 「それはバビロンの王がこの国の総督としたアヒカムの子ゲダルヤをネタヌヤの子イシュマエルが打ち殺したので、カルデヤ人を恐れて、彼らから逃げるためであった。」(エレミヤ書41:18)

 バビロンの王が任命した総督ゲダルヤが殺され、総督を補佐するはずのイシュマエルが反逆し、巡礼者たちの大量殺害を行なって、バビロンに反逆したことに対する、厳しい刑罰が下ることを恐れたのです。バビロンの仕返しを恐れたユダヤ人は、エジプトに逃亡しようとして、「ベツレヘムのかたわらにあるゲルテ・キムハム」に最初の宿営をしました。

 「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」(箴言29:25)

 私たちは恐れを抱くと、神よりも人に助けを求めようとしがちです。こうして道の選択を誤ってしまいがちです。

 「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」(詩篇50:15)

 「わたしを呼び求めよ。」は、ヘプル語で「パラカレオー」です。恐れや不安の日には「パラカレオー」をしましょう。

 「私は苦難の日にあなたを呼び求めます。あなたが答えてくださるからです。」(詩篇86:7)

 これらの悲惨な歴史的出来事は、バビロン捕囚後にユダの地に残されたユダヤ人の受けた悲惨な状況を示しています。

 その悲惨な状況の中でも、彼らにはかけがえのない一つの慰めがありました。それは、エレミヤという神の預言者がいてくれることでした。エレミヤの存在は、神がユダの民と共にいて下さるしるしであったのです。その頃、預言者エゼキエルは、捕囚の地バビロンにいる人々に神が彼ちと共におられることを教えています。

 モーセやヨシュアの時代、神のみことばが語られている時代、民が神のみことばに聞き従っている間は、民は祝福を受け、土師の時代になって神のことばを語る預言者がいなくなり、政治家やさばきつかさが支配するようになると、国は堕落していっています。サムエルとダビデの時代には、再び神のみことばが強調されて、国は祝福されています。しかし国王が支配するようになり、神の預言者に従わなくなる時、イスラエルは滅亡して行ったのです。これは近代国家においても同じです。戦争は神のことばが語られていない国から起こっています。私たちが生ける神のみことばを聞くことができるのは最も幸いな状態にあることを意味しています。

 預言者エレミヤは、ヨハナンに救出されたわずかな人々のために祈っていたのです(エレミヤ書42:4)。神のみことばを語り続け、神に祈る人がいる限り、神は共にいて下さっているしるしです。

 彼らは預言者エレミヤを連れて行くことにしています。彼らはエレミヤの祈りと常に真実を語る態度に信頼していたから、また彼の預言は事実となって起こり、実証されていたからです。またバビロンの王の厚い恩寵を受けていることを知っていたからです。彼らはエレミヤを、彼らの盾、とりで、希望の旗印のごとくに思って、エレミヤを使ったのです。

 しかし、彼らは二つの点で間違っていました。

 第一の間違いは、エレミヤの預言に従う時が遅すぎたことです。
 第二の間違いは、エレミヤをエジプトに連れて行って、祈ってもらおうとしたことです。

 「エジプトに帰ってはならない。」ということは神の変わらないご命令ですから、ユダの人々はユダにとどまって、預言者エレミヤの預言と祈りに従うべきだったのです。

<今週の活用聖句>

コリント人への手紙第二、7章1節
「愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。」

<集会案内>

◇7月3日(水) 聖別会 午前10時半
  「福音的基盤の上に(12)」

地の塩港南キリスト教会
横浜市港南区上永谷5-22-2 TEL/FAX 045(844)8421