週報No.2189 涙の預言エレミヤ書(96)「エレミヤの不変の警告」エレミヤ書42:1~17

2019年7月7日 (日) 午前10時半

礼拝メッセージ  眞部 明 牧師

エレミヤ書42:1~17
42:1 すべての将校たち、カレアハの子ヨハナン、ホシャヤの子イザヌヤ、および身分の低い者も高い者もみな、寄って来て、
42:2 預言者エレミヤに言った。「どうぞ、私たちの願いを聞いてください。私たちのため、この残った者みなのために、あなたの神、【主】に、祈ってください。ご覧のとおり、私たちは多くの者の中からごくわずかだけ残ったのです。
42:3 あなたの神、【主】が、私たちの歩むべき道と、なすべきことを私たちに告げてくださいますように。」
42:4 そこで、預言者エレミヤは彼らに言った。「承知しました。今、私は、あなたがたのことばのとおり、あなたがたの神、【主】に祈り、【主】があなたがたに答えられることはみな、あなたがたに告げましょう。何事も、あなたがたに隠しません。」
42:5 彼らはエレミヤに言った。「主が私たちの間で真実な確かな証人でありますように。私たちは、すべてあなたの神、【主】が私たちのためにあなたを送って告げられることばのとおりに、必ず行います。
42:6 私たちは良くても悪くても、あなたを遣わされた私たちの神、【主】の御声に聞き従います。私たちが私たちの神、【主】の御声に聞き従ってしあわせを得るためです。」
42:7 十日の後、【主】のことばがエレミヤにあった。
42:8 彼はカレアハの子ヨハナンと、彼とともにいるすべての将校と、身分の低い者や高い者をみな呼び寄せて、
42:9 彼らに言った。「あなたがたが私を遣わして、あなたがたの願いを御前に述べさせたイスラエルの神、【主】は、こう仰せられる。
42:10 『もし、あなたがたがこの国にとどまるなら、わたしはあなたがたを建てて、倒さず、あなたがたを植えて、引き抜かない。わたしはあなたがたに下したあのわざわいを思い直したからだ。
42:11 あなたがたが恐れているバビロンの王を恐れるな。彼をこわがるな。──【主】の御告げ──わたしはあなたがたとともにいて、彼の手からあなたがたを救い、彼の手からあなたがたを救い出すからだ。
42:12 わたしがあなたがたにあわれみを施すので、彼は、あなたがたをあわれみ、あなたがたをあなたがたの土地に帰らせる。』
42:13 しかしあなたがたが、『私たちはこの国にとどまらない』と言って、あなたがたの神、【主】の御声を聞かず、
42:14 『いや、エジプトの国に行こう。あそこでは戦いに会わず、角笛の音も聞かず、パンにも飢えることがないから、あそこに、私たちは住もう』と言っているのなら、
42:15 今、ユダの残りの者よ、【主】のことばを聞け。イスラエルの神、万軍の【主】は、こう仰せられる。『もし、あなたがたがエジプトに行こうと堅く決心し、そこに行って寄留するなら、
42:16 あなたがたの恐れている剣が、あのエジプトの国であなたがたに追いつき、あなたがたの心配しているききんが、あのエジプトであなたがたに追いすがり、あなたがたはあそこで死のう。
42:17 エジプトに行ってそこに寄留しようと決心した者たちはみな、そこで剣とききんと疫病で死に、わたしが彼らに下すわざわいをのがれて生き残る者はいない。』
【新改訳改訂第3版】

<礼拝メッセージの要点>

 ユダの残留者たちは、更なる悲しい思いをした後に、総督ゲダルヤを失った今、ヨハナンたちと集まっていましたが、何を、どうしたらいいのか、どこから手をつけたらいいのか分からず、混乱と動揺の中で、エレミヤに相談に来ました。

 苦難の時、誰に相談するのかは非常に大事な点です。自分の知恵に頼る人に相談すると、悲劇を見ることになります。主と交わっており、主の光を心に持っている人に尋ねるのがよいのです。

 何でも「神様に任せていれば、大丈夫」と、無責任に言う人に相談しても、何の根拠もありません。結論として神にすべてを任せるにしても、安易な気持ちで任せるのではなく、みことばの約束と継続的な祈りに支えられていることが大事です。

 ヨハナンたちは困惑の中で、主なる神が何をしようとしているのかを、知ろうとしたのです。そのためには、自分たちで話し合っていても、道を間違えるばかりです。

 「預言者エレミヤに言った。『そうぞ、私たちの願いを聞いてください。私たちのため、この残ったみなのために、あなたの神、主に、祈ってください。ご覧のとおり、私たちは多くの者の中からごくわずかだけ残ったのです。』」(エレミヤ書42:2)

 彼らはエレミヤに、礼儀正しく、真実を持って、頼んでいます。そして、「あなたの神、主が、私たちの歩むべき道と、なすべきことを私たちに告げてくださいますように。」(エレミヤ書42:3)と、彼らは敬虔な態度で預言者エレミヤに求めています。

 しかしこの残留者の小さい集団は、エレミヤを通して語られた神のみことばをほとんど実行できなかったのです。動機は良かったのですが、それを実行する信仰の力がなかったのです。

 マルコ10章の、見かけだけ真面目に見える、金持ちの青年と同じです(マルコ10:17)。まっすぐイエス様に走り寄って来る、真面目な熱心さ、ひざまずいている、謙遜で敬虔な姿、永遠のいのちを求めている、求道の目的の正確さ、こんなすばらしい求道者を見たことがありません。ところが主のみことばを聞いて、彼は悲しい顔をして、主のもとを立ち去って行ったのです。彼は多くの財産を持っており、主がその財産を売り払って、貧しい者に施しなさい。」と言ったからです。

 これは、クリスチャンが財産を蓄えてはいけないと言われたのではありません。これは彼が、モーセの十戒を幼い時から全部守っていると言ったのに対して、律法の完全である神の愛を持って、隣人を愛することを教えられたのです。彼が主のみことばに従って、真実と行いを持って隣人を愛すれば、彼の信仰は生きたものとなったのです。取税人ザアカイは、これを実行したので、主に喜ばれたのです。

 エレミヤに相談を持ちかけたユダの残りの者たちは、熱意に満ちていましたが、主がエレミヤを通してみこころを語られると、彼らは反逆して、神に従うことを拒んだのです。

 エレミヤの「何事も、あなたがたに隠しません。」(エレミヤ書42:4)という答えは、人々に同情的というより、「神のみことばに忠実でありさえすれば、大丈夫」というメッセージです。こういう時、人情に流されてしまうと危険です。神の道から外れます。「承知しました。」は、エレミヤが内心、相談を受けるかどうか、相当祈ったか、考慮したことを暗示しています。そして、神の預言者としての自覚と確信を保っていることを示しています。

 神のみことばを取り次ぐ人は、人々が求めているもの以上に、人々が本当に必要なものは何かを悟っていなければなりません。「私は…主に祈り」と言ったのは、エレミヤと主との親密な交わりが続いていることを指しています。エレミヤはエルサレムが陥落して大ショックを受けても、捕らわれの身となっても、どんなひどい状態に置かれても、神との生きた交わりは途絶えたことがなかったのです。

「主があなたがたに答えられることはみな、あなたがたに告げましょう。」は、ただの知識を教えるだけでなく、人々の本当の必要を知り、それを神に執り成して、神のみことばを受けてこそ、人を恐れず、人のたましいを生かす、神のメッセージを語ることができるのです。これは学んで知識を解説するだけではできません。聖霊が働いて下さる時、人のたましいの内に永遠のいのちの泉が湧き出るようになります(ヨハネ4:16,7:38)。みことばを知っていて、理解していても、聖霊のみわざは行われません。聖霊を自分の内に受け入れて、その信仰を実際に働かせる時、永遠のいのちの水が湧き出るようになるのです。

 それ故、ユダの民が存続するには、神のみことばに従う以外にないことを、改めて確信したのです。

<今週の活用聖句>

テモテへの手紙第二、4章2節
「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりや
りなさい。寛容を尽くして、絶えず教えながら、責め、戒め、ま
た勧めなさい。」

<集会案内>

◇7月10日(水)聖別会 午前10時半
   「福音的基盤の上に(13)」

地の塩港南キリスト教会
横浜市港南区上永谷5-22-2 TEL/FAX 045(844)8421