週報No.2187 涙の預言エレミヤ書(94)「イシュマエルの罪」エレミヤ書41:1~5

2019年6月23日 (日) 午前10時半

礼拝メッセージ  眞部 明 牧師

エレミヤ書41章1~5節
41:1 ところが第七の月に、王族のひとり、エリシャマの子ネタヌヤの子イシュマエルは、王の高官と十人の部下を連れて、ミツパにいるアヒカムの子ゲダルヤのもとに来て、ミツパで食事を共にした。
41:2 そのとき、ネタヌヤの子イシュマエルと、彼とともにいた十人の部下は立ち上がって、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤを剣で打ち殺した。イシュマエルは、バビロンの王がこの国の総督にした者を殺した。
41:3 ミツパでゲダルヤとともにいたすべてのユダヤ人と、そこに居合わせたカルデヤ人の戦士たちをも、イシュマエルは打ち殺した。
41:4 ゲダルヤが殺された次の日、まだだれも知らないとき、
41:5 シェケムや、シロや、サマリヤから八十人の者がやって来た。彼らはみな、ひげをそり、衣を裂き、身に傷をつけ、手に穀物のささげ物や乳香を持って、【主】の宮に持って行こうとしていた。
【新改訳改訂第3版】

<礼拝メッセージの要点>

 イシュマエルのゲダルヤ暗殺事件は、次のイシュマエルの大量虐殺事件を引き起こしてしまいました。

 一つの罪を犯すと、次の罪につながりやすいことを示しています。最初の罪を犯す時は非常に緊張して、恐怖におびえていますが、二回目になると、それほどの緊張なしに犯罪に手を染めると言われています。

 現代も、簡単に人のいのちを殺害してしまう世の中ですが、どうしてこのようなことが起きるのでしょうか。その大きな原因の一つは、聖なる神様を畏れなくなっているからです。宗教と言えば、自分の希望、欲、願いをかなえるための手段、方法、儀式にしてしまっているからです。

 罪に対する刑罰を、死刑をもって最高刑とすることは、間違っています。人の中には、自殺や死刑をもって、苦しみからの解放の手段に選ぶ者がいるからです。

 聖書は明らかに、死刑が罪に対する最高刑罰にしていません。死後に、神のさばきがあることをはっきりと宣告しています。

 「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、」(へブル9:27)

 「死後のさばき」を、この世の苦しみと比べて考えてはなりません。

 ルカ16:24後半で、ハデスの苦しみを、「私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。」ルカ16:28「私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように。よく言い聞かせてください。」と言っています。

 アブラハムはここに来ないためには、「しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。」その言うことを聞くべきです。』」(ルカ16:29)

「アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」(ルカ16:31)

「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれ、また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書き記されているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名の記されていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」(ヨハネの黙示録20:11~15)

 これが、死後のさばきについて記されている聖書の記述です。

 それ故、人の心が聖なる神様を畏れかしこむようになるまで、罪から離れません。

 人の心に、神のみことばと聖霊が働いて下さる時、私の心は聖なる神様を畏れかしこむようになるのです。

<今週の活用聖句>

コリント人への手紙第二、7章1節
「愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。」

<集会案内>

◇6月26日(水) 聖別会 午前10時半
  「福音的基盤の上に(11)」

地の塩港南キリスト教会
横浜市港南区上永谷5-22-2 TEL/FAX 045(844)8421