週報No.2190 涙の預言エレミヤ書(97)「偽善な民」エレミヤ書42:18~22

2019年7月14日 (日) 午前10時半

礼拝メッセージ  眞部 明 牧師

エレミヤ書42:18~22
42:18 まことに、イスラエルの神、万軍の【主】は、こう仰せられる。『わたしの怒りと憤りが、エルサレムの住民の上に注がれたように、あなたがたがエジプトに行くとき、わたしの憤りはあなたがたの上に注がれ、あなたがたは、のろいと、恐怖と、ののしりと、そしりになり、二度とこの所を見ることができない。』
42:19 ユダの残りの者よ。【主】はあなたがたに『エジプトへ行ってはならない』と仰せられた。きょう、私があなたがたにあかししたことを、確かに知らなければならない。
42:20 あなたがたは迷い出てしまっている。あなたがたは私をあなたがたの神、【主】のもとに遣わして、『私たちのために、私たちの神、【主】に祈り、すべて私たちの神、【主】の仰せられるとおりに、私たちに告げてください。私たちはそれを行います』と言ったのだ。
42:21 だから、私は、きょう、あなたがたに告げたのに、あなたがたは、あなたがたの神、【主】の御声を聞かず、すべてそのために主が私をあなたがたに遣わされたことを聞かなかった。
42:22 だから今、確かに知れ。あなたがたは、行って寄留したいと思っているその所で、剣とききんと疫病で死ぬことを。」
【新改訳改訂第3版】

<礼拝メッセージの要点>

 神は私たち一人一人に、自分の地上の生活と、永遠の運命、即ち神の御国か、地獄か、どちらかを選ばせるのです。

 自分中心の肉の欲をキリストとともに十字架につけないと、永遠のいのちの国を受け継ぐことができません。

 ユダの人々がエジプトを選んだ理由は、「戦いに会わず、角笛の音も聞かず」(エレミヤ書42:14)即ちバビロンの報復を免れると考えたことです。しかし、バビロンの剣は、エジプトに逃げた彼らに追いつくのです。もう一つの理由は、「パンにも飢えることがないから」です。これに対しても、17節で「ききんと疫病で死に、わたしが彼らに下すわざわいをのがれて生き残る者はいない。」

 結局、彼らはエレミヤが祈りのうちに与えられた神の約束を、全部信じていなかったのです。

 「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」(ガラテヤ6:7~6)

 およそ九百年も前に、奴隷として苦しめられていたエジプトから救い出されて、神の約束の地に来たイスラエル人が、約束の地を偶像礼拝で汚れさせ、今や自ら、奴隷だった地、偶像礼拝の地に帰ろうとは、何という堕落でしょうか。神があわれみ深くないというのは、全くのうそです。人が不信仰で、不服従なだけです。

 悪魔はパンに満ちあふれた繁栄を見せて、神による約束を軽んじさせるのです。不安、恐れをあおりたてて、心配させ、神による救いの平安を失わせようとするのです。

 「あなたがたの恐れている剣が、あのエジプトの国であなたがたに追いつき、あなたがたの心配しているききんが、あのエジプトであなたがたに追いすがり、あなたがたはあそこで死のう。」(エレミヤ書42:16節)

 預言者エレミヤは鋭く語りました。神のみことばへの不服従は、彼らが求めている平和と豊かさの代わりに、剣とききんと疫病による滅亡が来るだけです(エレミヤ書42:17節)。これは神の啓示によってだけ、知ることができるのです。

 「まことに、イスラエルの神、万軍の主はこう仰せられる。『わたしの怒りと憤りが、エルサレムの住民の上に注がれたように、あなたがたがエジプトに行くとき、わたしの憤りはあなたがたの上に注がれ、あなたがたは、のろいと、恐怖と、ののしりと、そしりになり、二度とこの所を見ることができない。』」(エレミヤ書42:18節)

 17~18節のことばの中に、エレミヤはユダの残りの者たちが、エレミヤが語った神のことばに逆らって、エジプトに行こうとする動きがあることを見て取ったのです。

 「あなたがたは迷い出てしまっている。」(エレミヤ書42:20節)は、七十人訳では「悪をなしている」となっています。口先だけの言葉の熱心が剥がれ落ちて、反逆の動きがあらわになってきています。

 エレミヤはあくまでも神のみことばを語り続けました。
「あなたがたがエジプトに行くなら、直ぐ前に経験したエルサレムの住民の上に注がれた神の怒りと憤りがあなたがたの上に注がれ、あなたがたはのろい、恐怖、ののしり、そしりとなり、二度と神の約束の地に戻ることができない。」と、言われています。

 「一度、痛い目に会えば、もう愚かなことはしないだろう。」と言う人がいますが、ユダの残留者たちはつい最近、自分の身をもって、エルサレムの悲惨な姿を見たのに、再び同じ罪を犯しているわです。

 自分中心の肉の性質を持っている者は、神に従うことができないのです。

 「というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にあるものは神を喜ばせることができません。」(ローマ8:7~8)

<今週の活用聖句>

ガラテヤ人への手紙2章20節
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

<集会案内>

◇7月17日(水) 聖別会 午前10時半
  「福音的基盤の上に(14)」

地の塩港南キリスト教会
横浜市港南区上永谷5-22-2 TEL/FAX 045(844)8421