週報No.2191 涙の預言エレミヤ書(98)「エジプト行を主張」エレミヤ書43:1~7

2019年7月21日 (日) 午前10時半

礼拝メッセージ  眞部 明 牧師

エレミヤ書43:1~7
43:1 エレミヤはすべての民に、彼らの神、【主】のことばを語り終えた。それは彼らの神、【主】が、このすべてのことばをもって彼を遣わされたものであった。
43:2 すると、ホシャヤの子アザルヤと、カレアハの子ヨハナンと、高ぶった人たちはみな、エレミヤに告げて言った。「あなたは偽りを語っている。私たちの神、【主】は『エジプトに行って寄留してはならない』と言わせるために、あなたを遣わされたのではない。
43:3 ネリヤの子バルクが、あなたをそそのかして私たちに逆らわせ、私たちをカルデヤ人の手に渡して、私たちを死なせ、また、私たちをバビロンへ引いて行かせようとしているのだ。」
43:4 カレアハの子ヨハナンと、すべての将校と、すべての民は、「ユダの国にとどまれ」という【主】の御声に聞き従わなかった。
43:5 そして、カレアハの子ヨハナンと、すべての将校は、散らされていた国々からユダの国に住むために帰っていたユダの残りの者すべてを、
43:6 男も女も子どもも、王の娘も、それに、侍従長ネブザルアダンが、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤに託したすべての者、預言者エレミヤと、ネリヤの子バルクをも連れて、
43:7 エジプトの国に行った。彼らは【主】の御声に聞き従わなかったのである。こうして、彼らはタフパヌヘスまで来た。
【新改訳改訂第3版】

<礼拝メッセージの要点>

神のみことばに耳をふさごうとする者は、誰かのそそのかしだとか、嫌がらせだとか、民衆を惑わす偽りの言葉を用いて、預言者のことばが神のみことばであることを認めようとしません。しかし、内心は、アザルヤとヨハナンはバビロンの侵略攻撃を恐れて、震えていたのです。どんな偽善的言葉を使って、神のみことばを拒んでも、否定しても、神のみことばの権威をなくすことはできません。神のさばきを受けるだけです。

人の心がどうして、こんなにも頑ななのかと言うなら、それは生まれながらの自分中心の罪の性質を持っているからです。この性質を持っている限り、神に従うことはできません。「というのは、肉の思いは神に反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」(ローマ8:7)

「カレアハの子ヨハナンとすべての将校と、すべての民は、『ユダの国にとどまれ』と言う主の御声に聞き従わなかった。」(エレミヤ書43:4)

なぜ、ユダの民はこんな偽りの論理に従ってしまったのでしょうか。それは、バビロンを恐れたことと、安易な安息を求めたからです。人の欲は、自分の都合の好い事に容易に従うからです。その結果、もっとひどい、わざわいに陥るのです。「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(テモテ第二、4:3~4)

「そして、カレアハの子ヨハナンと、すべての将校は、散らされていた国々からユダの国に住むために帰っていたユダの残りの者すべてを、」(エレミヤ書43:5)

ヨハナンと将校たちは、自分たちがエジプトに移るだけでなく、外国に離散していた者たちがわざわざユダの地に住むために帰って来た者たちをも、引き連れてエジプトに下るのですから、もっとわざわいが広がります。

バルクを謀叛人として告発し、エレミヤにも責任を取らせようとして、6節でこの二人をもエジプトへ連れて行っています。

人々はなぜ、アザルヤとヨハナンに反対しなかったのでしょうか。人々は信仰によって判断せず、見えるバビロン軍によって判断し、自分の知恵と肉の欲によって、エジプトの繁栄を見て判断したからです。

大抵の人がこのような選択をし、行動をとっています。私たちは賢くなりましょう。サタンの差し出す安全や、繁栄には、わざわいが伴っていますから、それを見抜いて、みんなが従って行っても、従ってはなりません。

「男も女も子どもも、王の娘も、それに侍従長ネブザルアダンが、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤに託したすべての者、預言者エレミヤと、ネリヤの子バルクをも連れて、」(エレミヤ書43:6)

結局、彼らは、「神のみことばに従います」と言いつつ、自分中心の、自分に都合の好いほうを選んで行ったのです。

罪の性質を持ったままの状態では、いつもそうであるように、「イエス様と一緒に死ぬことがあっても、主を知らないとは言いません。」と、一大決意を告白しても、数時間後には不信仰な態度を取ってしまいます。そういうことはありませんか。「神に従う」とは、神のみことばとみこころを、愛を持って行うことです。

気の弱い人は、「私にはとてもできません。」と言われるでしょう。大事なことは、できるかどうかではなくて、失敗しても、うまくいかなくても、神のご命令に従順に従うことです。結果は、神が安全に、お救い下さるのです。それを自分の知恵と考えで、エジプトの繁栄を求めてエジプトに逃げて行くことは、神への反逆となるのです。

「エジプトの国に行った。彼らは主の御声に開き従わなかったのである。こうして、彼らはタフパヌヘスまで来た。」(エレミヤ書43:7)

すっかり怖気づいたユダの民は、エジプトに向かって急いで逃げ、国境を十六キロ越えた、タフパヌヘスに落ち着きました。

彼らの頑迷な反逆によって、エレミヤの苦しみは更に増し加わり、彼の十日の祈りも、神のみことばもすべて反故にしてしまったのです。                               j
四十年以上も、神のみことばを語り、救い主なる神を信じて従うように教え続けた神のしもべエレミヤを「偽りの預言をした」と中傷したというのは、彼らの裏切り行為であり、何と恐ろしい冒涜でしょうか。

<今週の活用聖句>

ガラテヤ人への手紙2章20節
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

<集会案内>

◇7月24日(水) 聖別会 午前10時半
「福音的追求(1)」

地の塩港南キリスト教会
横浜市港南区上永谷5-22-2 TEL/FAX 045(844)8421