音声+文書:信仰の列伝(4) 「信仰による悟り」 へブル人への手紙11章3節

フランスの版画家Gustave Doré (1832–1883)による創世記1:3の「Let there be light(光があれ)」 (Wikimedia Commonsより)


2016年8月21日(日)午前10時半

週報No.2037:信仰の列伝(4) 「信仰による悟り」

へブル人への手紙11章3節
信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。

お祈り

「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り」
恵みの深い天のお父様、こうしてイエス様のお力をいただき、みことばによる真理を語らせてください。
毎日毎日、生活の中であなたが支えてくださるところ、行くところ行くところにおいて、導いてくださることを、心から感謝いたします。
暑さが続いておりますけれども、霊肉整えられて、今日も、主を礼拝させていただけることを感謝いたします。
みことばを祝してください。悟りの霊を与えて、私たちに真理を体験させてください。
今日もイエス様の光を経験できますように、助けてください。
尊いキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

今日は、信仰の列伝の4回目になりますが、「信仰による悟り」という題でお話しさせていただきます。

3節をお読みさせていただきましたが、このみことばは、
信仰は、真理(聖書が真理という時は、神のみことばと、イエス・キリストと、聖霊であります)に対する深い悟りを与える、ということを示しています。
ここでの大切なことは、私たちの信仰は、聖書が意図しているようにふさわしく、健全である、ということであります。
私の信仰が、自分の知恵と考えによる自己流のものであれば、真理の受け止め方も、その活用方法も誤ってしまいます。

ここでは、信仰は、二つのことを悟らせてくれる、と言っています。

Ⅰ.まず、第一の悟りは、

「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り」であります。

私たちは、イエス・キリストを信じることによって、初めて、知的にも経験的にも分かるようになったことが、たくさんあります。

第一には、目に見えない、生ける、霊の神がおられることを悟りました。

イエス様を信じるまでは、漠然とした神観は持っていたかもしれませんが、この私を愛してくださる神がおられることは、知りませんでした。ですから、神様を畏れた生活をしていませんでしたし、自分を誇る、自分中心の生活を繰り返していました。
イエス様を信じないと、神様は分かりません。イエス様を信じないと、神様を体験できないからです。
イエス様を信じると、心のあり方とか、性質とか、生き方が変わってきます。変えようとしなくても、変わってしまいますね。

第二に分かるようになったことは、自分の罪であります。

罪を悔い改めて、イエス様を信じて救われるわけですけれども、たいていの場合、最初はそんなに深く罪が分かっていないことが多いようであります。
罪の性質、罪の根まで分かってくるには、イエス様を信じて後、聖霊の光を心に受けるようになってからです。ですから、きよめを求めるのも、謙遜や従順を求めるのも、イエス様を信じて、聖霊に心が照らされるようになってからです。それによって、自分の罪深さを悟るようになります。

第三に分かったことは、イエス・キリストが私の罪の身代わりになって、十字架にかかって死んでくださったこと、それによって、私の救いが約束されていることです。

人間の知恵の哲学をどんなに尽くしても、聖なる神様ご自身が、私の罪の身代わりになって、人となって降ってくださり、苦しみ、嘲り、罪の刑罰、を受けられ、死の代価を払ってくださる救いの道、贖いの奥義は、人間の知恵からは出てきません。
これまでの人間の哲学の中に、人の知恵から、キリストの十字架の贖いの奥義が出てきたことはありません。
ですから、聖書が示す真理は、ただの哲学や理論ではなくて、神の愛とあわれみから出ています。このことを経験したのは、イエス・キリストを信じたからであります。みなさんも、そのことを経験しておられると思います。

第四に分かったことは、この天地宇宙の世界が、偶然、自然に出来たのではないことです。

偶然の度重なりで、進化して出来たのではないことです。
この世の中では、「科学」と称して、偶然の度重なりで何でも出来てしまったかのように言う人がいますけれども、その根拠はまったくありません。
この天地宇宙の存在と運行の中に、神様によって造られた目的と秩序が、はっきりと現わされています。
ここで言う「この世界」とは、いつまでも山がそこにあるような、不動に見える世界のことではありません。刻々と変化しています。
地震や、津波や、噴火など、大異変によって一瞬に姿が変わってしまう、私たちの住んでいるこの世界のことであります。
全宇宙を含めて、私たちの住む世界はみな、神のみことばによって造られたことは明らかであります。

人間が自然を破壊し、排気ガスを無限に放出し、地球に温暖化を引き起こし、空気中に粉塵をまき散らし、人間が住めなくし、ノアの洪水を思わせるような、大雨や氾濫や洪水が毎日のように起きています。
それらによって、神様が設計して創造された世界は、人と生き物が暮らしていくのに必要なすべての条件が備わっていたことがよく分かります。その状態を人間が壊しているわけです。
特にこの地球は、人が住むために設計されていることが分かります。設計者がいなければ、こんなに整った宇宙を創ることはできません。人間が、自然界の秩序を壊せば壊すほど、神が設計され創造された、微細なまでの秩序が明らかになってきております。

また、人間は、神によって造られたことがよく分かります。
人の欲が富を求めるようになると、人の心は神の愛と平安を失います。サタンの性質に近くなります。
心にイエス・キリストを持つようになると、宝を天に積むようになり、隣り人を愛するようになり、神のご性質に近づきます。これは確かな事実であります。
私が便利さを求めれば求めるほど、快楽を求めれば求めるほど、神と人との交わりはしなくなってしまいます。楽しんでいる、と言いながら、自閉的孤独に陥り、悩みを打ち開ける友達もいなくなってしまいます。聖書が言っているように、人間の飽くことなき欲望は、ますます顕著になっております。

ヤコブ1章14~18節をお読みしたいと思います。
ヤコブ 1:14 人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。
1:15 欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。
1:16 愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。
1:17 すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。
1:18 父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。

時代が、世の終わりに近づけば近づくほど、聖書のことばが示す人間の堕落の姿と、現実の社会とが一致してまいりました。聖書の言う人間の堕落の姿が、目の前に現れて来たんです。
すなわち、人が神と神の救いを必要としていることが、ますますはっきりしてきました。人は、神なしには生きてはいけないことがはっきりしてきました。まともな生き方ができなくなってしまっています。

次に、「神のことばで造られた」というところに注目してください。これは、造られた材料のことを言っているのではなくて、創造された神の主権、権威のことを言っています。

マルコの11章22節に、「イエスは答えて言われた。『神を信じなさい。』」という短いみことばがあります。
この意味はすでにお話ししましたけれども、「神がご自分に対して持っておられた信仰を持ちなさい」という意味であります。
すなわち、神様が「光よ。あれ。」と命じられた時、神様は光が生じることを信じて命じられたのです。主は、ご自分の、無から有を創造する権威、を信じておられたんです。
その信仰を、「あなたも持ちなさい」、というご命令であります。神を信じなさい、というのは、そういう意味であります。

ヨハネの黙示録10章6節を読んでみたいと思います。
黙10:6 永遠に生き、天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを創造された方をさして、誓った。「もはや時が延ばされることはない。

ここでも、神様はご自分を指して誓っておりますね。ご自分の主権を信じておられるからです。

この点で、マタイ8章8節で、ローマ人の百人隊長は、主のみことばの権威の信仰を全面的に信頼して、確信して使っております。彼の信仰はイエス様を驚嘆させて、しもべの病を癒されました。マタイの8章8節~10節を読んでみましょう。
マタイ 8:8 しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。
8:9 と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」
8:10 イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。

この百人隊長は、ローマ人で異邦人でしたから、ユダヤ人の会堂で旧約聖書を教えられたり、モーセの律法を教えられたりはしていません。
教えられていないのに、なぜ、みことばの権威の信仰を持っていたんでしょうか。
それは彼が、主イエス様を見続けていた、御業を見続け、みことばを注意深く聞き続け、みこころに従い続けてきたからであります。これは大事なことですね。
見続ける、聞き続ける、従い続ける。「求めなさい、そうすれば与えられます。」と、同じことであります。もし、私が行くところにおいて、イエス様を見続けていれば、また、主のみことばを信じ続け、従い続けていれば、主のみことばの権威を知ることになります。

何回もお話ししていることですけれども、ダビデは、詩篇16篇8節であかししています。
詩16:8 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。

「私はいつも」と言っていますが、1回や2回ではない、「いつも」ですね、「私の前に主を置いた」
「主が私の右におられる」とは、右や左のことではなくて、主が、私の力となってくださっているということです。「右」とは、力とか主権を表す言葉です。

ですから、私が、百人隊長やダビデのしたことと同じことを実行することによって、私たちが生活している世界の一つひとつに、神の意志、神のみ思い、神の意図、神のご目的、神の設計された秩序、神の愛の動機を見出すことができます。これが見えてくることは、私たちが信仰生活を送る上で、非常に重要です。なぜなら、神のみこころの道だけが恵みの道であり、神様にまっすぐに向かう祝福の道だからです。

箴言3章6節を読んでみましょう。
箴3:6 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

主が見えていなかったとき、どこに行っても主を見つけられなかった時、私はどんな道を歩んできたのでしょうか。
主を見いだせなかった時、自分中心の道、自己主張の道、貪欲の欲望の道、見栄っ張りの虚栄の道、あせりや頑固や辺境の道です。これらはみな罪の道で、滅びに至る道です。

箴言14章12節もお読みいたしましょう。
箴14:12 人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。

イエス様を信じていなかった頃の、私たちの歩みはどうだったでしょうか。自分の目で見て真っすぐに見えた道は、しかし、それは自分中心の滅びに至る道であったと、今は気づいております。

それでは、どのようにして、恵みの道、祝福の道を、速やかに知ることができるでしょうか。それは、「わたしが、道である」と記している、神のみことばによってです。
私は、みことばを毎日の生活の足のともしび、道の光として歩むことによって、実際に歩みをすることによってですね、私の生涯の目的、生きてきた意義、これから歩むべき道筋、どういう心を持って生きていけばよいのか、これまでに出会った困難、これから出会う苦難の意味や価値を悟るようになります。
みことばに従った生活をする時に、それらの実際的な価値を知るようになります。

こうして私たちは、神のみことば、聖書を正しく学び、信じて、イエス様とくびきをともに負うことによって、真理(すなわち、みことばと、イエス・キリストと、聖霊)を、より深く経験して、キリストの平安が、ただものでないことを悟ります。

信仰は、知識や納得にとどまらず、神の栄光の輝きを、心に経験するようになります。
これが、ヘブル人への手紙が言っている、「信仰による悟り」であります。
「悟り」とはただのひらめきではありません。それは心に、神の国を経験していることです。
その信仰を活用して、恵みの道を歩んで行けば、この地上の生活においても神の勝利を獲得できます。

しかし、神のみことばを、このように学ぼうとする者は、そう多くはありません。
多くの人々は、日曜日に教会に行って、自己満足するだけの安易な生活を送りやすいのです。教会から帰った後、みんな自分中心の生活をしております。それが信仰生活だ、と思い込みやすいんですね。

マタイの6章33節を読んでみましょう。有名な聖書のことばが書いてあります。
マタイ6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

このみことばを、日曜日に教会に行くことによって全部果たしていると、私は立派に果たしていると、自己満足している人も少なくありません。
しかし、このみことばは、そういうことを言っているのではありません。

まず、「神の国」とは何か。
これはイエス・キリストご自身のことですね。
日曜日の礼拝の儀式のことではありません。日曜日の礼拝の儀式に出席しても、イエス様と出会っていない人がいれば、神の国を持っていないことになります。

「その義」とは何か。
これはイエス・キリストのご性質のことです。

それゆえ、「神の国と神の義とをまず第一に求めなさい。」ということは、私の心の中に、キリストご自身と、キリストのご性質とを第一に求める、ということです。そうすれば、毎日の生活は守られる、と言われています。
こうして、私たちは、「信仰による悟り」を持つことができます。

Ⅱ.信仰によるもう一つの悟りは、

「したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」
ということです。

ちょっとわかりにくいことを、これからお話ししなくてはなりません。
この「したがって」とは、これまでお話ししてきました3節の前半の悟りが働いて、これからお話しする第二の悟りが生まれることを示しております。ですから、最初の悟りが大切なことですね。

ヘブル11:3 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。

すなわち、神のみことばによる悟りが必要で、それが、私たちの悟りを深め、拡大します。第二の悟りは応用編のようなものですね。

まず、このみことばでは、この世界に存在するものを、見えるものと見えないものとに分けて、区別しています。目に見えるものと、目に見えないもの。イエス様はこの二つを、からだと、たましいに区別しています。
マタイの10章28節を読んでみましょう。イエス様はここで、からだとたましいを区別しておられるのが分かります。
マタイ10:28 からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

「からだを殺しても、たましいを殺せない。」
しかし神様は、「からだもたましいも、ゲヘナで滅ぼす」と言っています。からだとたましいを、区別していますね。

パウロは、この二つの区別を、朽ちるものと朽ちないもの、という表現で区別しています。ちょっとこれも読んでみたいと思います。第一コリントの15章50~54節、
Ⅰコリ15:50 兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。15:53 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。
15:54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。

まだ、みことばが実現していないものがありますね。
「死ぬものが不死を着る」、終わりのラッパが鳴る時、主の再臨の時ですね。
ここでは、見えるものが、朽ちるもののことを指しています。死にゆく血肉のからだは、このことを指していますね。どんなに頑丈なからだを持っていても、どんなに立派に鍛えていても、神の国を相続できません。血肉のからだは、神の国を相続できない、と言っています。人間が誇るのは血肉のからだです。
見えないものは、朽ちないものであります。終わりのラッパとともに、一瞬のうちに変えられるよみがえりのことです。これはみことばが約束し、保証していますけれども、これは主を信じるすべての人に実現します。

ところで、ここではちょっと変わったことが表現されています。
「見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」と言っています。
普通、私たち人間が造る目に見える世界は、目に見える物質の材料によって造られています。
しかし、天地創造の時の神の創造は、そうではなかった、ということですね。見えるものが、見えないものによって造られている。創世記1章の最初の神の創造のみわざには、ヘブル語の「バラ」が使われています。ヘブル語の「バラ」は、無から有を創造することを意味する特別なことばです。

パウロは、新約聖書において、無から有を作り出すことばを第二コリント5章17節で使っています。
Ⅱコリ5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

「新しく造られた者」、そこに新創造があります。これはキリストによる、無から有を生み出す新創造です。

創世記1章27節も読んでみましょう。人間の創造のことが書いてあります。神様はどのようにして、人間を造られたか。
創1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

「神のかたち」とはシェイプのことではありません。霊的、人格的存在のことを指しています。神のご人格のことです。神は、ご自分の息を人の内に吹き込まれていますから、神の霊のいのちを持って、人を創造されています。

そのように、神はまた、御子イエス・キリストのいのちをもって、罪あるものを救い、神の国に入れてくださるのです。私たちも、そのようにして、御子キリストの霊、御子キリストの息でもいいですね、救われて神の国に入れていただきます。
この神の創造には、神が私と交わりたい、という並々ならぬ愛と、創造の目的、神の意志、主権が働いています。神は、是非、神と交わることができる人を造りたいという強い意志、意欲、実際に造りだしているという実行する意志が働いています。

目に見える人間を、目に見えない霊のいのちをもって造られたことを言っています。ですから、「目に見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟る」、とはそういうことであります。少し回りくどい言い方をしておりますけれども、目に見える人間を、目に見えない神の霊のいのちの息をもって造られた、ということですね。

お分かりいただけたたでしょうか。目に見える私たちのからだも、この物質的世界も、宇宙も、目に見えない神の意図と権威と力によって造られていることを悟る、ということです。

しかしここで、私たちにとって問題になるのは、私たちが見えるものへの欲によって、神と交わる霊的意志や意欲が支配され、引きずり回される時であります。目に見える私たちが、目に見えない神と交わるために造られている、その霊的営みが、目に見えるものに心が惹かれ、目に見えるものへの欲の支配によって引きずり回される時が問題になります。

例えば、ヨシュアの時代のアカンは、美しいシヌアルの衣服や金の延べ棒を見て欲しくなり、盗んで隠しました。
ダビデは、美しいバテシェバが水浴する姿を見て、罪を犯しました。
金持ちの青年は、幼い頃から戒めを守り、永遠のいのちを求めて、イエス様のもとに走り寄ってきました。しかし主は、彼の心に真の信仰と愛がないのを見抜かれて、彼の持ち物を全部売り払って、貧しい者に施すように命じました。金持ちの青年の心は試みられました。彼が多くの富を持っていたからです。彼は選択を迫られました。彼はイエス様よりも、永遠のいのちよりも、目に見える自分の多くの富を選んで、悲しげな顔をしてイエス様のもとを去りました。

私たちは、目に見えるものが目に見えないものによって造られている、ということが分からないと、道を外してしまいます。

マタイ6章24節を読んでみましょう。
マタ6:24 だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。

このみことばは真実ですね。ほとんどの人が神を軽んじて富に仕えております。もちろん、富を持ってはいけない、と言っているのではありません。神を軽んじるところに問題があるわけです。

ヤコブ1章14節~15節では、こう言っています。
ヤコブ1:14 人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。
1:15 欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。

問題は、目に見える富に欲が惹かれてしまうことですね。その時に、目に見えるものは滅びに行ってしまう。

マタイ4章8~9節を読んでみましょう。サタンがイエス様を誘惑した時です。
マタイ 4:8 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、4:9 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」

逆の理論を打ち立てていますね。もしひれ伏して、私を拝むなら(霊的にサタンを拝むことによって)、目に見える富をあげましょう、と言っているんです。

今も、この世の富と栄華を求める肉の欲の支配は、終わっていません。人の心に目に見える欲、富の欲の支配が強烈になっているわけです。むしろ激しくなっています。朽ちる快楽を追い求めることに、心が支配されています。これによって罪を犯しているんです。罪とは、悪いことをすることだけではありません。神様が創造されたご目的ではないところに、自分の快楽の欲の道をもっていってしまう。支配されてしまうことです。

私たちは。みことばと、主イエスの血と、聖霊を信じる信仰によって、自分の意志が神の恵みと力によって満たされている間は、物質欲に支配されずに、天に宝を積むように、幸福に暮らすことができます。

マタイ6章19~21節をご一緒に読んでみたいと思います。
マタイ 6:19 自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。6:20 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。6:21 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。

ここでは、宝と天、宝と心、目に見えるものと見えないものが対照されていますね。
非常に大事なことであります。
目に見えるものを、目に見えない価値あるものに変える方法を、イエス様は教えてくれました。自分の宝を天に貯えることです。
「盗人が穴をあけて盗む」、盗人とは、誰のことでしょうか。それは、自分の心の中に住んでいる盗人ですね。欲望であります。

「信仰によって」とは、みことばと、主の血潮と、聖霊を受けて、私の心が主の恵みと力に満たされている限り、私のたましいは、目に見える肉の欲に従わず、支配されず、主を喜ばせる意志を持って、主の栄光を現わす方をいつも選ぶことができます。そうすることを通して、目に見えるものを目に見えない価値あるものに変えることができます。

私たちはこの地上に生きている間は、目にみえるものの世界に住んでおります。ですから、自分中心の肉の欲では、目に見えるものに支配されて振り回されてしまう危険性があるわけです。

これまでお話ししてきたことは人の世界のことですが、聖書は本質的に、他の生き物に対してではなく、人間に対して語られている神のメッセージであります。ですから、「世界」とは、人間の世界を中心に受け止めるべきであります。

Ⅲ.最後に、この3節のことばは、もう一つのことを示していることをお話ししたいと思います。

ヘブル11:3 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。

それは、神による物質世界の創造の目的です。それは少なくとも、この地球環境は、人間が住むのに最適の条件を備えていることはお分かりの通りであります。
この世界の物質を感謝して使わせていただき、主と愛の交わりをし、礼拝し、隣り人を愛し、主をたたえて、主の栄光を現わすために、この物質世界を使うように造られております。

しかし残念ながら、人間は世界をそのように使ってきませんでした。人は地球を戦争の場とし、今も戦争を繰り返していますが、核のゴミ捨て場とし、罪をたくらみ、神に反逆する場として使ってきました。光の世界として造られたのに、闇の世界に変えてしまいました。

しかし、主イエスを信じる者は、この世に生じる食べ物を食べております。主に感謝しております。この世で働いて富を得て、天に宝を積んでおります。この世で得たお金で教会の働きを支え、この世界の人々に福音宣教の働きのためにささげております。宝を天に積んでいるわけですね。

クリスチャンは、この物質世界のものを使って、霊的な働きをしているんです。朽ちるものを信仰で使って、朽ちない永遠に至る糧のために働いている。それがクリスチャンです。

ヨハネ6章27節を読んでみましょう。
ヨハネ6:27 なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。

もちろん、なくなる食物も必要ですけれども、本質的に、みことばの糧、なぜ聖書を読み、礼拝をするんでしょうか。いつまでも保つ永遠のいのちに至る糧のためであります。
人はそれを侮っていますし、それがあることすら知らない人がたくさんいます。ですから、それに気づかせたり、食べさせるのは非常に大事な仕事なんです。そのために働きなさいと仰いました。

「人の子があなたがたに与えるものです。」「人の子」とはイエス様です。
イエス様はもちろん、私たちがこの地上で必要なものは与えてくださいますけれども、本質的に神様が与えてくださるものは、永遠のいのちに至る食物であります。
ですから、この世の、「朽ちるもの、目に見えるものを、朽ちないものに変える」、そういう働きをしなさい、と仰いました。

ここで、私たちの心を支配しているものは何なのか。
真理に基づいた信仰であることを、はっきりと知っておく必要があります。このことが不鮮明になってくると、肉の欲に引かれて、朽ちる富を求めてしまうようになります。朽ちる富を求めてはいけない、と言っているのではありません。しかし、支配されてしまうんです。

今日は、「悟り」、のことをお話ししてきました。
正しい信仰を正しく実際に働かせて、神のみわざを経験することです。
私たちはこの地上に生きております。朽ちるものに取り囲まれ、目に見えるものに取り囲まれ、物質に取り囲まれております。
ですから私たちが心の中にイエス様を見出さなかったなら、私の行くところどこにもイエス様を見出さなかったら、私たちは肉の欲、目に見えるものに支配されてしまいます。無くなる食物のためだけに働いて、永遠の価値あるもののために働かなくなってしまいます。
神様が私たちの信仰を義と認めてくださるのは、私たちが、目に見える朽ちる世界に住んでいながら、朽ちないものを、目に見えない神を、信じているからですね。その信仰を、神様は義と認めてくださいます。喜んでくださっています。

私の信仰は、神様がみわざを行ってくださることによって、そのことが分かる。私が神のみことばを信じて生活をする、永遠のいのちに至る復活のために働き続けるならば、目に見えるものを目に見えないもののために働くならば、神様はそれに応えてみわざを行ってくださいます。そのことによって神の義が表されてきます。それは難しいことではありません。

みことばを宣べ伝えたり、神様の恵みをあかししたり、祈ったりすることを通して、私たちは、人々の心の中に、神の光が射しこんでいくことを経験します。それは神様が喜んでくださっていることを表しています。
ですから私たちは、行くところどこにおいても、主を認めることが必要であります。

実際の霊的勝利は、神のお答えです。

ですから、

1.第一に、神のみことばの光によって、この世のあらゆるものを見るようにしましょう。

この世には、光り輝くように見える物がたくさんあります。それに惑わされないようにして、あなたの行く所、どこにおいても、主を見い出せば、真理を悟るようになります。神様を悟るようになります。信仰の悟り、を得ることができます。
ですから私たちは、大きなことだけでなく小さなことに、慰めの言葉や、共に祈ったり、助け合ったり、親切にしたり、そういう小さなことの中に、主を見い出すことが大事なことであります。

2,第二に大事なことは、富や物によって心が支配されないようにすることです。

たくさんの富や物を見れば、心を動かされるかもしれません。しかし、富や物を道具として支配して用いる信仰を持つことです。それらを、自分の肉の欲を満足させるための、自分中心のために使うのではなくて、目に見えない永遠のいのちに至る糧のために使う。
そうすることによって、富や物は神の道具となり、神の栄光を現わすことができます。永遠の価値を持つようになります。

3,さらに神のみ旨によって、世界が動かされていることを悟りましょう。

私たちは小さな働きでありますけれども、世界を動かす神様を信じていることを悟らなければなりません。
ですから、神のみ旨を動かす信仰を、持たせていただきたいと思います。
あのローマ人の百人隊長のように、みことばの権威を悟って、みことばだけをいただいて生活させていただく、そのことを主は喜んでくださいます。

神のみ旨を悟るには、神のみことばを信じて学ぶしかありません。学ぶとは、勉強することではなくて、主とくびきを負ってともに歩むことであります。みことばを、足の灯として、道の光として、毎日歩くことであります。
行くところ主を認める生活を通して、だんだんと主のみ旨が、はっきりと見えてまいります。神のみことばによる悟りを持たせていただきましょう。
みことばの糧がなくなると、私たちはたましいがやせ細ってしまい、光を失い、希望を失います。

今私たちが住んでいる世界は、暗黒の中であります。世の終わりがますます近づいています。そういう時代が来ておりますので、悟らなければなりませんね。
信仰による悟りを、今日もう一度持たせていただいて、この世の目に見える世界は、目に見えないものによって造られていることを悟らさせていただいて、信仰の道を歩ませていただきたいと思います。

お祈り

「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物の糧のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。」
恵みの深い天のお父様、私たちはこの目に見える世界、物に取り囲まれた世界、富を中心にして生きている世界に生活をしております。
しかし、そのことを通して、そのことを使って、目に見えない永遠のいのちに至る価値のために働くことができます。
朽ちるものを、朽ちないものに変える秘訣を教えてくださいました。宝を天に積め、と仰いました。そのことを通して、私たちは神の永遠の価値を知ることができます。
また、そのことをすることを通して、イエス様が現実に働いてくださり、恵みを与えてくださることを、私たちは体験させていただけることを感謝いたします。
金持ちの青年はそこに届きませんでした。人の心が肉の欲に支配されていたからです。
危険な生活の中におりますけれども、御霊と、みことばによって霊の目が覚まされて、導かれて、光を経験できますように、そしてよき証し人になるように、助けてください。
尊いキリストの御名によって、お祈りいたします。
アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明

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音声と文書:信仰の列伝(全51回)へブル人への手紙11章 目次


<今週の活用聖句>

箴言3章6節
「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」

地の塩港南キリスト教会
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