音声+文書:信仰の列伝(5) 「すぐれたいけにえ」 へブル人への手紙11章4節
アメリカの Providence Lithograph Companyから1906年に出版されたBible cardsの一枚「The Story of Cain and Abel(カインとアベルの物語)」 (Wikimedia Commonsより)
2016年8月28日(日)午前10時半
礼拝メッセージ 眞部 明牧師
週報No.2038 信仰の列伝(5) 「すぐれたいけにえ」
へブル人への手紙11章4節
11:4 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。
お祈り
「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。」
恵みの深い天のお父様、一週間の旅路、また今年8カ月の間、主がいろいろな課題や困難を乗り越えさせてくださり、私たちの信仰を守り、秋に入ります前に、締めくくりの聖日を、主が祝してくださる礼拝を持ってこの月を締めくくらせていただけることを感謝いたします。
イエス様の恵みによって、さらに信仰の奥義を身に付け、イエス様の栄を現わすことができますように、みことばを祝してください。
聖霊の働きによって霊が一新されて、新しい一週間、新しい月を迎えることができますよう助けてください。
これからの時を御手にゆだねて、尊いキリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン
信仰の列伝の5回目、「すぐれたいけにえ」
1節~3節でこれまで話してきましたが、信仰の原則が語られておりました。そして信仰の列伝の最初の人物として、アベルを挙げています。
アベルの記事はご存じの通り、カインとアベルの事件として創世記4章に記されております。
まず、ヘブルの11章4節から、アベルの信仰の特徴を三つ拾い出してみましょう。
第一は、信仰によって、アベルは、カインと違って、主に受け入れられるすぐれたいけにえをささげたことであります。
第二は、そのいけにえによって、アベルが義人であることの証明を得たことです。「義人は信仰によって生きる」からです。
第三に、アベルは、彼の死後も、信仰によってメッセージを語り続けているということです。信仰は死によって終わらない、ということですね。
今日はそのうち、第一の部分をお話します。
まず第一に、アベルは神に受け入れられる、主が喜ばれる、すぐれたいけにえをささげたことです。
すぐれている、ということは、神様に受け入れられることを意味しております。アベルの信仰の特徴は、彼のささげたいけにえにあります。
パウロも、ささげるものの重要性を教えています。
ローマ12章1節を読んでみたいと思います。
ローマ12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
アベルは、彼の慈善事業のために、彼の信仰が神に認められたのではありません。自分の罪の贖いのためにささげたいけにえが、神のみこころにかなっていましたので、神に受け入れられ、喜ばれたのです。
創世記4章4節も、彼がささげたいけにえのことが書いてありますので、そこも読んでみたいと思います。
創4:4 また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。(新改訳1970)
アベルは、なぜ、主にいけにえとして、小羊をささげたのでしょう。
それは、アベルが羊飼いであったからではありません。そうだとすると、非常に表面的なことになってしまいます。アベルは、はっきりとした目的意識を持って羊を選んでいます。
創世記4章4節を注意深く見てみますと、まず、いけにえにささげる羊を、その羊が最初に生んだ初子の中から選んでいます。初子は、神から与えられる最初の力を意味する、特別なささげもので、神に属する聖なるものを意味します。
そのことは、民数記の18章17節に記されていますので読んでみたいと思います。
民18:17 ただし、牛の初子、または羊の初子、あるいはやぎの初子は贖ってはならない。これらは聖なるものであるからである。あなたはそれらの血を祭壇に振りかけ、その脂肪を火によるささげ物、主へのなだめのかおりとして、焼いて煙にしなければならない。
初子は神様のものだということですね。ですから初子は、聖別して神にささげるということであります。アベルはそこまでわかっていて、初子を選んでいる、ということですね。
第二に、「最良のもの」を選んでいます。主なる神様を強く意識して、信仰と崇敬を表している最も良いものをささげています。
第三に、「自分自身で」と書いてあります。自分で選んで、自分で持ってきています。
つまりこれは、はっきりと自分の罪のための身代わりのいけにえとして、他人に任せず、使用人に任せず、儀式的にささげるのでもなく、真実で純粋な自分の信仰の行為として、自分の手でささげています。
これらのみことばが示している行為は、今日でいえば、「日曜日だから教会に行く」というような習慣的行為とは異なります。また、「正しい儀式だから行う」というものでもありません。宗教は、キリスト教は、とかく儀式主義に陥ります。儀式を行うことが宗教になります。
しかし、イエス様のおことばによれば、霊とまことを持って礼拝することが最も重要なことであります。自分が羊飼いで、多くの羊を持っているから、その中から一番良いものを選んだ、という簡単なことではないということがわかります。目的意識とは、そういうことですね。
自分の罪の贖(あがな)いのために、身代わりのいけにえをささげるために、心を尽くして、主に受け入れて入れていただくために、初子の中から、最良のものを、自分の手で選び、自分でささげております。
アベルより後の時代になって、モーセの時代には、律法で人の罪の代価として、獣のいけにえをささげることによって、罪は赦されると定められています。しかしそれはモーセの時代に始まったことではありません。罪は、いのちの代価を払われることによって赦される、という原理は、モーセ以前にも神によって定められていたわけです。これはやがて、イエス・キリストの十字架によって私の罪の代価が払われる、ということのひな形です。
そのことをバプテスマのヨハネが語っております。
ヨハネ1:29 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」
「神の小羊」というのはいけにえのことですね。ここでは。イエス・キリストが、アベルがささげた小羊のいけにえのように、人の罪の身代わりになって、十字架の死の代価を払われた神の小羊として語られております。
ですから、これは、非常に旧約的な意味で、アベルがささげた小羊は、イエス・キリストを指していることが明らかになってまいりました。
ペテロは、キリストの血の尊さについて次のように語っています。
Ⅰペテロ 1:18 ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖(あがな)い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、1:19 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。
ここではさらに、素晴らしいことが言われていますね。
旧約の先祖から伝わっていたむなしい生き方、律法を守ることですね。そこから贖(あがな)い出されたのは、傷もない汚れもない小羊のようなキリストの尊い血によったと、ですからキリストの血は、無限の代価の価値を持っているわけですね。
ですから、アベルが自分の罪のためのいけにえとしてささげた小羊は、私の罪を除く神の小羊のイエス・キリストを表しています。
アベルはこの時、イエス・キリストの十字架を経験していませんでしたけれども、彼は自分の罪のために、小羊のいけにえをささげなければいけない、というこの原理を知っていたと、両親のアダムとエバから教えられていたはずですね。
このことは、聖書には明記されていませんが、十分に暗示されています。それゆえにアベルのささげものは、神様に喜ばれ、受け入れられているわけです。
聖書のどこにそれが暗示されているかというと、創世記3章7節を読んでみましょう。
創3:7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
アダムとエバは、罪を犯すとすぐに恥を感じて、いちじくの葉で覆い隠したのです。
彼らは神の知恵を失って、自分の考えで作ったのがいちじくの葉の覆いでした。しかしそれは枯れて、すぐに役に立たなくなります。しかも、罪を外見的に覆い隠すだけで、罪を赦すことも、きよめることもできません。
つまり人のできることは、せいぜい罪の恥を覆い隠すことだけです。罪を犯した者はすぐにそれを隠す。その特徴が、いちじくの葉で表わされていますね。
本質的に罪を覆い隠してしまう。アカンも盗んだものを隠していますね。
しかし、神の処置は違っていましたね。創世記3章21節を見てみましょう。
創3:21 神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。
「皮の衣を作り、彼らに着せてくださった」のは、神のみわざですね。
ここには、これだけのことしか書いてありませんけれども、このことが暗示されている、ということですね。身代わりの子、小羊のいけにえの暗示である、ということですね。
神は、罪を犯して堕落したアダムとエバを、エデンの園から追放する時に、罪のためのいけにえとして小羊をほふり、その贖(あがな)いの意味を教えたのです。この皮の衣は、アダムとエバの罪のためにほふられた小羊の皮です。これを身に着ることによって、いつも、自分の罪のための身代わりに、小羊がいけにえにささげられたことを意識していたんです。
このことをアダムとエバは、息子のカインとアベルに話していたはずであります。そうすることによって、自分にとって何が一番大事なことか、身に染みて覚えたことであります。
ですから私たちも、いつもイエス様の十字架の恵みを、身に付けていることが大事なことであります。
アベルはこの真理を悟って従って、忠実に、初子の小羊の中から最良のものを選んで、自分の罪のためにいけにえとしてささげたわけですね。
この大切な真理は、お兄さんのカインも聞いてよく知っていたはずです。教えられても、知っていても、それが知識として納得でとどまっているか、それともたましいの現実の事実としてとどまっているかによって、違いが出てきますね。
しかし、真面目によく働くカインは、知っていたけれどもそれに従わなかった。自分の考えと自分の力に頼って、この大切な神の贖(あがな)いの真理を深く心に留めていなかったのです。
今も、真面目に一生懸命に働き、富を蓄えているけれども、自分のたましいの救いのために心を用いないカインのような人はたくさんいます。
真面目なんです。生活も正しい。富も蓄えていて、他人に迷惑もかけていない。しかし、自分のたましいの救いのために、全く心を用いていない人が大勢います。残念なことですけれども。
しかもそのうえ、イエス様の十字架の話も知っているかもしれません。聖書も読んでいるかもしれない。しかし、自分のたましいに当てはめて、クリスチャンの十字架の救いを経験していない。そういう方は非常に残念であります。何も知らなかった異邦人ではありません。
しかし羊飼いだったアベルは、毎日、主にささげる羊を見ていると、自分が愛して育てている可愛い小羊が、自分の罪のために身代わりとなってほふられ、いけにえにささげられることは、ただの儀式ではなくて、神の受け入れられる信仰であることを、悟ったのです。
ただ儀式で満足している習慣ではなくて、信仰は文化だ、なんていう人がいますけれども、そうではなくて、自分の心が神に受け入れられる信仰であることを悟りました。
こうしてアベルは、毎日、主を見上げる信仰を働かせていたわけです。
私たちは、毎日、自分の罪を思って悩む必要はありません。すでに、主イエス様が、私の罪のために十字架に架かってくださっているからですね。
私の罪を取り除く神の小羊を、毎日、朝に、昼に、夜に、仰ぎみることが必要ですね。そのことを知るように、神様は皮の衣を与えたんですね。そのことを通して、贖(あがな)いのいけにえがささげられているんだよ、ということを心に覚えていることが求められています。
ある人は、「私はきよめられたので、救いの讃美歌は要りません」と、私に言ってきた人がありましたけれども、これは高慢です。
私たちは、イエス様の血潮による救いがもう必要なくなる、ということはありません。
正しいことをしているから、イエス様の救いはもういらない、とか、イエス様の救いは罪人を救うためで、私はもう罪人でなくなったから必要ない、ということはあり得ません。
パウロも第一テモテの1章15節でこう言っています。
Ⅰテモテ1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
神の使徒として働いているパウロ自身が、「私はその罪人のかしらです」と言っています。
きよめを強調することによって、救いを軽視することはできません。私たちはどこまできよめられて成長しても、イエス様の血潮によって救われている、贖(あがな)われている罪人でしかないということを、忘れてはならない。日ごとに、イエス様の十字架の血潮を仰いで、感謝しようではありませんか。
もう救いは必要ない、という高慢で愚かなことを言わないようにしたいと思います。
信仰を理詰めで納得しようとすると、このように変なことを言う人になってしまいます。
カインとアベルは兄弟であっても、心の中で求めているものと、その生き方は全く異なってしまいました。
どちらにしても、真面目で熱心に働く人でありました。しかしアベルが、神の国とその義を第一に求めたのに対して、カインは、持ち物、暮らし向き、富、財産を築いて誇らしかったわけであります。
第一ヨハネの2章16~17節を読んでみましょう。
Ⅰヨハネ 2:16 すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。
2:17 世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。
これは、精神論や道徳論から言っているのではありません。
アダムとエバ以来、自分の欲を求め続けてきた人間は、権利や富を得るために、不幸な争いを繰り返してきました。
その発端は、カインが弟アベルを殺してしまったところから始まっています。つまり、肉の欲は滅びを招いてしまったたわけですね。聖書が言っている通りであります。
ですから、私たちは、イエス様の十字架を忘れることはできない。日々に仰いで、罪を犯した時だけ仰ぐのではなくて、罪を犯していようといまいと、イエス様の血潮なしに私たちは、神の光の中を歩むことができないからです。キリストの平安を持って生活することができないからです。
創世記4章3節を読んでみましょう。
創4:3 ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来たが、
「ある時期になって」と書いてあります。おそらく作物を収穫する時期になったんでしょうね。カインにとって最も喜びの多い、誇りの多い時期が来た。自分の働きの報酬を得られる時が来た。
カインがささげたものは、それは主に贖(あがな)われた者が感謝のささげものとしてささげるならば、神様は喜ばれますが、カインは自分の罪のためのいけにえをささげないで、自分の働きの収穫を誇ってささげたのです。
罪のためのいけにえなしに、自分の努力の誇りを捧げました。
つまりこれは、イエス・キリストの十字架の血潮を信じないで、神の国に入ろうとするのと同じであります。
イエス様は、垣根を乗り越えて入ろうとする者は、盗人や強盗だ、と言いました。
真実に心から、イエス・キリストの身代わりの十字架を信じない者にとっては、しばしば自分の働きの収穫は、自分の自慢の種となり、高慢を現わすようになります。地位や名誉や権力も、自慢の種となります。
人間は愚かですから、自分がそれほどのものを持っていなくても、親類の誰かが財産を持っていたりすると、それを誇りにしようと思って、話に持ち出す人がたくさんいます。おじさんがどうだとか、息子がどうだとか、そういう話をたくさん聞いてまいりました。それを話せば話すほど、自分は高慢な人間で恥ずかしい人間だということに気づいていない。
イエス・キリストの十字架を信じない者は、自分の収穫は自分の自慢の種になります。
ですから、カインも、まず最初に、アベルのように自分の罪の身代わりのいけにえとして、初子の小羊をささげるべきだったんです。
そのあとで、へりくだって、心からの感謝のささげものをささげれば、主は受け入れてくださいました。
へりくだるためには、自分の罪の身代わりの十字架を、代価を信じなければなりません。
そうしないと人は、へりくだることができません。イエス様の十字架が心の中に突き刺さって初めて、感謝のいけにえをささげる資格というか、心の状態が出来上がってきます。
しかし、真面目によく働くカインは、自分が罪深い者であり、自分の罪のために身代わりのいけにえが必要であることを、認めたくなかったんです。その結果、カインは高ぶりを神の前に差し出してしまいました。主が、そのカインの心とささげものを、受け入れられるはずがありません。
創世記4章5節から7節を読んでみましょう。そこにカインの怒りが記されています。
創 4:5 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。
4:6 そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。4:7 あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」
これは、どういうことを言っているか、ということを少しお話ししたいと思います。
父なる神様は、カインにもう一度やり直すチャンスを与えたんです。もう一度、罪のためのいけにえをささげるところから始めなさい、と諭してチャンスを与えております。
カインは、神に精いっぱいのささげものをしたのに、受け入れられなかったことに激しく怒ったのです。ですから、神様の警告というか、勧告を聞く耳を持たなかったんです。
人間は怒りの感情が爆発すると、聞く耳を持たない状態になります。自己主張だけを激しくするようになります。
主はなだめるように言いました。「あなたが正しく行ったなら、受け入れられる。あなた自身も、あなたのささげものも、受け入れられるはずだ。」と言いました。
しかし、受け入れられなかったのだから、カインの心とささげものは神のみこころにかなわなかった、正しくなかった、ということを悟りなさい、ということを言っています。
何が間違っているのか、それを知りたければ、弟のアベルを見なさい、そうすればわかるでしょう。あなたは入り口を間違ったんだ、ということですね。
それは非常に大事なことであります。
しかし、この神の警告に素直に従うには、へりくだる心が必要であります。
何もかもが分かっていても、理屈が全部分かっていても、「じゃあ、私はやりなおします、自分の罪のためにいけにえをささげます、イエス・キリストの十字架を信じます」と言うのは簡単かもしれませんが、心の底から言える様になるにはへりくだりが必要です。
そのへりくだりがないために、30年も40年も、うっかりすると生涯、信仰に立てない人が出てくるのは、残念なことであります。
カインの高慢と、激しい妬みと怒りの罪は、カインのすぐ近くで、カインの心を飲む尽くして、滅ぼそうとして待ち構えていると、カインのたましいが非常に危険な状態にあることを神様は警告しました。
カインは素直になってへりくだって自分の心を治めるべきだ、と言われております。自分の心を治めて、もう一度やり直しなさい、と言っています。
しかしこのことは、聖霊によらないと、容易に怒りや高慢な心を治めることができません。私たちが、心からへりくだって、素直に従順になって、神のみことばに従うことができるのは、聖霊の働きによらなければできません。
カインは、主から憐み深い警告と勧告を受けても、素直に聞き従うことをせず、かえって心を頑なにし、神様ではなくアベルを恨み、妬み、憎み、アベルをだまして殺してしまっています。
これは、明らかに、カインの心に罪の根が支配しており、サタンに支配されていることが分かります。
イエス様は、門から入らない者は盗人や強盗だ、と言われましたが、自分の罪の身代わりのいけにえとして、イエス・キリストの十字架を信じる門から入ることをしないで、洗礼を受けて信仰者になっているつもりの人は危険です。自分の罪の解決をしないまま、クリスチャンを名乗っているからですね。
私たちにとっては、すでにイエス・キリストの十字架の贖(あがな)いが完成しているのですから、主イエス様を信じて、罪の赦しときよめの恵みを受けましょう。もうすでに受けておられることと思いますが、念のために。
これらのこと分かってくると、カインのささげものとアベルのささげた小羊のいけにえと、どちらがすぐれているかは、すぐにお分かりいただけると思います。
それは、ささげた物の物質的価値ではなくて、どちらが主のみこころにかなっていたか、ということであります。
主のみこころにかなう、ということをよく使いますけれども、よく訳が分からない状態になっている人がいます。
主のみこころにかなうとは、主が定められた道である、「わたしが道である。いのちである。真理である」と仰ったイエス様を通して、神に近づいているかどうか、ということであります。
ルカ18章9節から14節までを読んでみたいと思います。パリサイ人の祈りと取税人の祈りのところです。
ルカ18:9 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
18:10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
18:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
18:14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。
人の目から見れば、週に2回断食して、十分の一をささげている人が、立派な人のように見え、そちらの人の方が優れていると判断するかもしれません。
しかし、イエス様の判断はそうではありませんでした。14節でイエス様は、「この人が、義と認められました。パリサイ人ではありません」と仰いました。なぜなら。誰でも自分を高くするものは低くされ、自分を低くする者は高くされる、からです。
取税人はありのままの姿で祈ったんです。「神さま、こんな罪人の私を憐れんでください」と祈りました。
立派な祈りかどうかわかりませんけれども。パリサイ人は心の中で祈っておりますね。
なぜ、心の中で祈ったのか。
「他人と比較して、私の方が優れています」というような祈りは、人に聞かれたら恥ずかしいということを自覚していたんでしょうね。でも高慢な人には、それが取り除けない。
本当の心の中の祈りは何なんでしょうか。言葉に出てきた祈りだけではなくて、本当の祈りは何なのか。これですね。
ダビデは詩篇51篇17節で、
51:17 神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。
と言いました。これが大事なことですね。
人の前でどんな立派なことをしているかではなくて、神の前で悔い改めて砕かれているかどうかです。どんな立派なことを言えるか、ではありません。
カインは立派なささげものをしましたけれども、神に受け入れられませんでした。
――ある人のところに、一頭のろばの子が生まれました。
生まれたのは駿馬ではなかったので、主人は喜びませんでした。
ろばの子は、来る日も来る日も、綱につながれていました。
ろばの子は、大きくなったら、大きい重い荷物を運んで、主人のお役に立ちたいと思っていました。
しかし、いつまでたっても、なんの役にも立ちませんでした。
ある日、二人の男の人が尋ねてきて、「主がお入り用なので、そのろばの子を貸してください」と言うのでした。
主人は「どうぞ。どうぞ」と言って、ろばの子の綱を解いて、渡しました。
こうして、誰からも必要とされなかったろばの子は、救い主イエス様をお乗せして、エルサレムの都に入っていったのです。沿道の人々は、「ホサナ、ホサナ」と叫びました。
主は、人に期待されていない、見捨てられていたろばの子を選ばれたのです。
ろばの子は、誇るところは何もありません。――
このことは、今日の私たちにも当てはまります。
自分が罪深い者であることを認めず、イエス・キリストの十字架の救いを拒む人にとっては、自分の仕事の成功と繁栄は、自分の誇り、自慢、高慢の種となり、わざわいをもたらす原因になります。教会に来られていると、建前の上では、へりくだることを口にしますけれども、本音のところでは、地位も名誉も学歴もなにもかも欲しい、そういう思いを抱きつつ、何もいりません、ということを言っている。
それはただの偽善だけではありません。それは神も欺き、自分も欺いているんです。
ですから、私たちが、アベルのように感謝に溢れる生活をするためには、何度も言うようですけれども、まず、私の罪のためのいけにえの小羊になってくださった、イエス・キリストを信じて、受け入れることが必要です。信じるというのは、ただ知識として納得しているのではなくて、心に受け入れることが必要です。実際経験をすることですね。
その後、私たちは喜んで、感謝の供え物をささげることができます。
イエス・キリストを自分の救い主として信じて、内に受け入れて後、私は、イエス・キリストのへりくだりを自分の心に持つようになり感謝の生活ができるようになります。
イエス様は、「私はへりくだっているから、わたしのくびきを負って学びなさい」と仰いました。
そして、一度、祭壇にささげられたいけにえは、神に属するものとなっていますから、祭壇から取り戻すことができません。旧約聖書の中に、祭壇にささげられたいけにえが、取り戻された、という記事は一つもないんです。
それなのに新約では、一度自分自身をささげた祈りをしたのちに、自分中心の生活を取り戻している人がたくさんいます。
その人の信仰は、不真実だったことになります。信仰ではなかった。嘘だったということですね。イエス様を欺いたことになります。
私の心をキリストとともに、神の祭壇にささげたならば、神の火、聖霊の火がすぐにくだらないように思えても、一度祭壇にささげた心を、祭壇から取り戻してはいけません。
周りの人を見て、自分は主にすぐに受け入れられないからと言って、主を疑ったり、「自分はだめなのか」と不信仰な思いを抱かないでいただきたい。
カインのように主に対して、心を閉ざさないでいただきたいんです。そして、こう祈り続けていただきたい。
―― 主よ。私の心をあなたの祭壇にささげ続けています。しかし、神の火がいまだ降らず、私のたましいは神の火で焼き尽くされず、神の火で満たされていません。私のたましいはくすぶり続け、煙を上げています。失敗、つまづき、冷たさ、疑い、半信半疑で、欠けだらけの者、それが私です。全き救いを与える与え主よ、このような私をささげていますから、神の火を私に下して、お答えください。――
こういう祈りをささげて欲しいんです。
聖霊の火がすぐに降らないから下ろす、というのではない。祭壇にささげたたましいが、湿っていて、くすぶっていて、煙を吐いて、不満足な状態であっても、一度祭壇にささげたたましいはささげ続けていると、たましいは渇いてきて、やがて聖霊の火が降り、満たされる経験をします。そのことをして頂きたい、ということですね。
カインのように、神のことばを無視して、警告を受けて、待っていてくださる神様に背を向けて、拒んだりしないで頂きたい。
先ほどお話した祈りをささげて、神の火を待ち望んで頂きたいんですね。
私のささげた心は、まだ神の炎に包まれていなくても、煙の中にいます。
神の光が射しこんでくるような窓がまだ見えなくても、煙っている限り、私の心は神の祭壇の上にあります。自分の心がまだ祭壇の上にあること、この事実を信じ続けましょう。
恐れずに、心を祭壇の上に留め続けましょう。祭壇にささげた心は、聖霊の火によって必ず焼き尽くされて、満たされる時がきます。
無限の満たしに向かって、信仰と希望と愛の窓が、ひとつずつ開いてくるのを感じます。
今までくすぶっていた分だけ、心の中は深く焼き尽くされて、澄み切った心になります。
私の心はいつも、神の祭壇にささげられています。それゆえ、イエス・キリストの贖(あがな)いによって、主に受け入れられています。
私には、神の宮を飾る宝石はありません。
誇れるような供え物もありません。
ただ、震えるこのたましいと、日常の生活、普段と同じ生活をささげるばかりです。
主は、そのことを全部ご存じです。
そのような私が、全部、主にゆだねていることを見抜いておられます。
肉の欲との戦いも、主にゆだねている。
この世の楽しみを慕う心が隠されていることも、ゆだねております。
未来のむなしい希望も、
人間的情愛や尽きない欲も、
失われていく若さも、
涙や嘆きまでも、「みこころがなされますように」と、祈りをささげていることを、主は全部知っていてくださるはずです。
主は私の信仰を試みられますが、私の信仰が尽きないうちに必ず引き上げてくださいます。そのことを心に信じ続けていただきたい。自分の心を一度ささげた祭壇から下ろさないでいただきたい。
苦難の深みに置かれる時、主のみこころを知らせてくださいます。
そして私の心は、まったく変えられ、きよめられ、美しくされ、いやされ、キリストと一つにされ、神の平安に満たされます。
このことは、自分の知識として理解できなくても、主が私自身と私のささげた物を、受け入れてくださるからです。これがすぐれたいけにえのもたらすものです。
信仰は、神に受け入れられることによって、豊かな報いを受けることができます。神の平安に満たされます。主は、ささげ続けることによって、みわざを行ってくださいます。
カインにもチャンスがありました。遅くはないし、神様は待っていてくださるんです。
ですから、それを拒んだり、神様に向ける心を人に向けて反抗的になることは、恐ろしいことですね。神様がおっしゃることを無下にして、アベルを憎んで、弟を妬んで殺してしまう、そういう、方向を間違ってしまうような結論にならないでいただきたいですね。
とかく、誰かを批判することによって、神様の警告や勧告を拒んでしまう危険があります。
神様はいつでも、人ではなくて、神に対して真実な態度を取ることを求めておられます。
その面で、アベルは、すぐれた信仰、すぐれたいけにえをささげました。神様が喜んでくださるのは、アベルの場合は、ささげたものによってその信仰が表されました。
私たちも、イエス・キリストの血潮をささげることを通して、私の信仰はこれです、と言って主にささげる信仰を表すことができます。
私の純粋な信仰はこれでありますと、イエス様の十字架の血潮をささげることによって、主は喜んで受け入れてくださいます。このことを確信して、経験していただきたいと思います。いつもありのままの姿で主にお任せして、お祈りさせていただきましょう。
お祈り
恵みの深い天のお父様、こうして私たちは小さな者でありますけれども、どんなに小さな者でも、主に近づいていく者を喜んでくださいます。
イエス様は、ご自分の十字架の血潮を携えてくる者を決して拒むことはなく、喜んで迎え入れてくださいますから、感謝いたします。
この単純なことをするために、私たちには、心を砕かれる必要があります。
自分がどんなに正しいか立派か、ということではなくて、私たちにはキリストの血潮以外に必要なものはありません。イエス様が喜んで受け入れてくださるなら、キリストの血潮を携えている者であります。その信仰の本質を、アベルは心得ておりました。
カインは自分の正しさのことを、努力や成功や繁栄を手柄にしておりましたけれども、そうではないことをもう一度悟って、いつでもイエス様の十字架の血潮の権威を携えて、主の恵みの御座に近づくことができるように、この一週間、イエス様の血潮から外れることなく歩ませてください。
尊いキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
音声と文書:信仰の列伝(全51回)へブル人への手紙11章 目次
<今週の活用型句>
ローマ人への手紙12章1節
「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」
地の塩港南キリスト教会
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