音声+文書:信仰の列伝(3) 「信仰の称賛(神の証し)」 へブル人への手紙11章2節
2016年8月14日(日)午前10時半
礼拝メッセージ 眞部 明牧師
信仰の列伝(3) 「信仰の称賛(神の証し)」
まなべ先生の音声メッセージには、聞き逃せない大切な内容が多く含まれています。
下記に、音声を聞きとって文書化しましたのでお読みください。また、PDF文書は印刷することができます。
信仰の列伝(3) 「信仰の称賛(神の証し)」PDF文書
へブル人への手紙11章2節
11:2 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。
<礼拝メッセージ>
お祈り
「昔の人々は、この信仰によって称賛されました。」
恵みの深い天のお父様、暑い夏が過ぎていっておりますけれども、私たちの霊肉が支えられ、今日もイエス様を礼拝し、新しいいのちに満たされ、信仰を新たにさせていただけることを感謝いたします。
イエス様はいつも生きていて、私たちとともに歩み、信仰をお守りくださり、信仰の完成者でありますから感謝いたします。
今日もイエス様の新しい恵みを経験することができ、主のくびきを負って歩ませてください。
この一週間も、主の支えがなければ進めませんので、助けを与えてください。
これからの時を、主の御手にゆだねて、尊いキリストの御名によってお祈りいたします、アーメン。
今日は、信仰の列伝の3回目、「信仰による称賛、神の証し」という題でお話させていただきます。
2節では、「昔の人々はこの信仰によって称賛されました」とあります。
聖書の信仰は、旧約聖書の信仰者たち、アブラハムや、ヤコブ、ヨセフ、ダビデたちによって、また、福音書の中でも、ローマ人の百人隊長や、美しの門の乞食の男の人によって、数千年以来、実証済みであると言っています。そのことが、この2節の大きな意味であります。
詩篇46篇1節に有名な言葉がありますね。
詩46:1 神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。
ちょっと、訳が粗雑であるような気もしますが、「そこにある」というのは、もう少し言い方があると思うんですね。もちろん、「すぐに間に合う助け」という意味もありますが、それだけではなくて、無数の信仰者によって、すなわち、旧約でも、新約においても十分にテスト済み、試験済みの助け、つまり、決して失敗がない助け、決して失望させられない助けであります。
ペテロも、第一ペテロ2章6節で、
Ⅰペテ2:6 なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」
「決して失望させられることのない助け」と言っていますね。
その「助け」は、どういう助けであるかというと、「イエス様を信頼する者」ですから、イエス様を信じる信仰のことを指しています。
このように、旧約でも新約においても、星のように輝く聖徒たちが証しをしているのに、今日、信仰によって勝利を獲得しているクリスチャンが少ないのは、いったいなぜなのか。信仰に確信が持てないからでしょうか。もしかしたら、信仰が健全性を欠いているからかもしれません。
第二テモテ3章7節で、パウロは懸念しています。
Ⅱテモ3:7 いつも学んではいるが、いつになっても真理を知ることのできない者たちです。
「真理を知る」というのは、真理を理解することではありません。「真理」とはいつもお話していますけれども、みことばとキリストと聖霊のことであります。
「知る」とは体験することですね。いつも知識の理解で、議論をしたり納得したりしていますけれども、「いつになっても、真理を、イエス様を、体験することができない者たちよ」ということですね。どうして体験できないんでしょうか。
第二テモテの4章3~4節で
Ⅱテモ4:3 というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、 4:4 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。
今、世の中はバーチャルな世界だといわれています。空想の世界ですね。本当にはそこに存在しないのに、あるかのようにゲームをして遊ぶ時代ですね。教会にこういう人がいると、健全な信仰は育ちません。たとえ話の内容が正しくても、知識の理解や納得で止まっていたり、議論の材料にされているなら、信仰になっていません。
「聖書のいう信仰」は、毎日、生活の中で、隣り人を愛することに活用されることによって成長し、実を結び、継承されていきます。
イエス様が仰った言葉を読んでみたいと思います。マタイ7節24章で、
マタイ 7:24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
と言われましたね。イエス様のみことばを聞いた人は、たくさんいると思いますが、それを行う人は少ない。
ヤコブ1章22節も読んでみたいと思います。ヤコブも同じことを言っています。
ヤコブ1:22 また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。
ただ聞くだけの者は、自分を欺いていると言っています。聞いて理解して、知って、それで自分は信仰者になった、と思っている。自分を欺いていると、言っています。
これだけ警告が言われているのに、教会では、聖書のみことばが、各々一人一人の実際の生活の中で、活用できるように教えられていません。
原理が教えられれば、後は自分で行えばいい、という人もいます。原理しか教えない人もいます。原理主義者かもしれませんけれども。
イエス様はそうではないですね。イエス様は、「よきサマリヤ人」の話のように、「あなたも行って同じようにしなさい」と、具体的に教えました。キリストの弟子であり、キリストの子供であるなら、同じようにすべきではないでしょうか。
今、お話したのは教会での話ですけれども、第二に、各家庭において、子供たちに、みことばの信仰が正しく受け継がれていないことです。
申命記6章4~9節を読んでみたいと思います。モーセの時代から家庭教育、家庭の信仰を強調していることが分かります。
申命記 6:4 聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。
6:5 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
6:6 私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。
6:7 これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。
6:8 これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。
6:9 これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。
信仰が正しく受け継がれていくためには、教会と家庭が二つの大きな要になっています。ですから、まず、教会ではただプログラムを行うだけではなくて、イベントを行うだけでなくて、聖書の話を聞くだけではなくて、賛美や祈りを捧げるだけではなくて、申命記で言っていることは、みことばと聖霊の光が、まず自分の心の中を照らされるという経験をする、心の中が明るくされること、主の愛と力が与えられて、今日、主を証しする力を経験をすること、主と交わる経験をすることが、大事なことであります。
日曜日に教会に集って、プログラムだけを行って、あとは信者の顔を見て挨拶して帰った、というだけに終わらないようにしたいですね。
心の中が照らされて、愛と力を受けて、それを家庭に持ち帰って、職場に持って帰って、証しする力となって、そういう経験をしたいものであります。この経験を持って、一週間を生活することです。こうすれば、毎日の生活が主の栄光を現わすようになります。教会と家庭は、このことを中心にすべきであります。
信仰を、富の繁栄や、欲の満足の道具にしてはいけません。物質的な繁栄は、人は喜びますし、いくらでも肉の欲を増やしてしまいますけれども、そのために、信仰を利用する道具にしてはいけない。
儀式や戒めを守る手段になってもいけない。儀式を守っていれば信仰を果たしている、と思い違いをしてはいけない。
モーセが教えたことは、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛する」ことです。心を尽くして主を愛する愛は、必ず、良いサマリヤ人のように、隣り人を愛して助け合うことに現れてきます。
パウロは、この礼拝について、ローマ12章1節で、こう言いました。礼拝とは、日曜日の10時ごろから、教会で1~2時間座っていることではありません。
ローマ12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
「あなた方のからだを」の「からだ」は、ボディのことではなくて生活の全般のことを指しています。信仰は私たちのからだを通して、生活に表れてくるからですね。
「聖い、生きた供え物」というのは、死んだ供え物、いけにえはイエス様の十字架で贖(あがな)いが十分に完成していますから、私たちは、自分の罪のためにいけにえを主に捧げることはできません。イエス様の十字架を信じるだけであります。
私たちが捧げるいけにえは、聖い生きたいけにえ、つまり、毎日の生活であります。それこそが霊的な礼拝だと言いました。
毎日、自分の生活を神にささげて、神の前に行っている人は、もちろん日曜日に集うことで素晴らしい礼拝が行われます。
しかし、毎週日曜日に教会に行っています、と、それだけで良しとせず、満足せず、家庭でも、親子、兄弟姉妹、夫婦が主に仕える思いで、互いに支えあい、助け合うこと、毎日の生活をそうすることが、礼拝なんだ、ということですね。
もちろん家族そろって教会に行っている、ということは素晴らしいことです。否定するものではありません。しかし、家族全員が教会に行っていることが、信仰のすべてではありません。家族は、苦難の中で助け合うために、家族になっているわけです。苦難がなければ、助け合わなくてよいというのではありません。この重大なことを、教会は、この世の人々に対して証ししていく使命と責任があります。
キリスト教って何だ、というと、言葉の説明ではなくて、こういう生活、こういう生き方をすることなんだ、ということを具体的に生活で示していきましょう。
「これが、イエス・キリストを信じる信仰だ」という生活の証しを、具体的に示していきましょう。旧約の時代から、そのことを教えられていたわけですね。
さて、もう一度、2節に目を留めておきたいと思います。
「11:2 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。」
今日の中心聖句ですけれども、「昔の人々」というのは、おもに旧約の信仰者たちです。
彼らの名前は、4~40節に挙げられています。彼らの中には、品行方正な人ばかりではなく、罪や、不信仰、問題点も多くある人が含まれています。しかし、主と聖書は、彼らの信仰に注目しております。
この世に罪のない人は、神様が人となられたイエス・キリストしかいません。人間の努力や、熱心さ、行いで、罪のない人になることはできません。
ですから、神の注目点はどこにあるのか。罪人である者が、いかに信仰を持って、主に仕えて歩むか、というところに示されております。
アブラハムは、神様からイサクを約束されていたのに、約束を待てずに、エジプトの女奴隷ハガルから、イシュマエルを産んでしまいました。これは不信仰でありますね。
しかし、アブラハムの全生涯の特徴は、カルデヤのウルから神の約束の国まで、信仰に従い通したところにあります。
もう一つのアブラハムの特徴は、主のご命令に従って、最愛のひとり子イサクを、モリヤの山に、信仰によって、全焼のいけにえに献げたことです。もちろん神様は返してくれましたけれども、これらの信仰が主を喜ばせました。アブラハムは素晴らしい人間だったからではなくて、彼の信仰が義と認められたわけです。
ヤコブの名は「押しのける者」という意味で、その名の通り、そういう性質を持っていました。
双子の兄のエサウから、豆スープ一杯で、神の家督を受け継ぐ長子の権利を買い取りました。兄のエサウは騙されたんですね。父イサクを欺き、長子の受けるすべての祝福の祈りを受けてしまいました。このことが原因で、長い間ヤコブとエサウの間には憎しみが生まれて、ヤコブはエサウから憎まれるようになり、母リベカの里、パダン・アラムにいる叔父のラバンのところに逃げて行きました。
ヤコブは、ラバンのところに行っても手回しよく、ラバンの羊飼いをしながら、自分の羊を増やしています。
さらに、ラバンの娘、レアとラケルを妻にして、イスラエルの十二部族の先祖となる子どもたちを産んでいます。
こういう事を通して、ラバンからも憎まれるようになってしまいました。
ヤコブはパダン・アラムから故郷に帰る途中、ぺヌエルで、受肉前のイエス様と格闘して、もものつがいをはずされております。
ヤコブは自分の知恵と力で生きた人です。ですから兄のエサウからも、叔父のラバンからも憎まれて、家族の中にも、妻のレアとラケルの間に争いがある生涯でした。
彼は自分の生涯を振り返って、こう言いました。
創47:9 「・・・・私のたどった年月は百三十年です。私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、私の先祖のたどった齢の年月には及びません。」
彼は、自分の生涯は短くてふしあわせだった、と言っています。自分の生涯は素晴らしかったと言えない、そんなヤコブなのに、なぜ聖書は、ヤコブを神の民の重要な族長として扱い、メシヤの先祖となっているんでしょうか。
ヤコブには多くの欠点があります。自分の知恵と力で他人を押しのけて、他人の権利を奪い取る、自分中心の欲がありました。
しかし一方では、一途に神の恵みを求めてやまない信仰の渇きを持っていたことも、明らかであります。神様はこのことに目を留めてくださいました。このことが、ヤコブを神の民の祖とし、キリストの先祖としたんです。
確かにすべての点において、落ち度のない人間はいません。
神様の目の付けておられる所がどこであるか、気をつけたいと思います。
この信仰の渇きを持たなかった、空腹だけを満たされて満足したエサウの子孫は、エドム人として死海の南の地域に住んでいて、いつもイスラエルを侵略するスキを狙っていましたが、民族ごと滅亡してしまいました。
主は何を尊く思っておられるんでしょうか。
何を見て義とされるのか。
主は罪や欠点があっても、信仰に目を留めてくださって、導いてくださることが分かります。
ヘブル書はとくに、「信仰によって」という言葉が繰り返されていますけれども、多くの罪や弱点を持っている人間が、なぜ神によって義と認められるのか。それは、「信仰による」ことが明らかにされています。
ご存じと思いますが、ダビデはエッサイの末の子で、子どもの頃の羊飼いの時に、サムエルを通して油を注がれています。
ダビデは子どもの頃から主を信じて従っています。石投げの名人でした。
少年ダビデは、その石投げを使って、万軍の主の御名に頼って、ペリシテの巨人ゴリアテを一撃で倒しています。
ダビデの登場は素晴らしいものでしたが、王様になってからは、バテシェバ事件や、息子アブシャロムの反乱という悲しい事件が繰り返されております。
国民の数を数える、という高慢な罪も犯していますが、主は、サウル王からの逃亡時代のダビデの命を守り、アブシャロムの反乱の時にはエルサレムから逃げ出しましたが、主は彼を守ってくださいました。
何度も危機を通過しておりますけれども、それだけではなく、さらに主は、ダビデの子孫としてメシア、キリストが来られることを、明確に契約してくださいました。
ダビデの生涯も罪が多いです。
子供たちも争い、問題をおこし、戦争が起きています。
それにも拘わらず主は、ダビデの生涯に一貫して握られているダビデの信仰のゆえに、主はダビデを愛され、祝福され、ダビデの末として、救い主イエス・キリストがご降誕してくださっております。
このようにアブラハムも、ヤコブも、ダビデも、彼らが正しい立派な人間だったから、義と認めれらたのではありません。
彼らが神を信じた、その信仰を、主は義と認められたのです。その信仰を喜ばれたのです。
ローマ人への手紙4章22節~25節を読んでみたいと思います。新約聖書はこのことをはっきりと示しております。
ローマ 4:22 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。
4:23 しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、4:24 また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
4:25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。
このようにアブラハムやヤコブやダビデが、信仰を義と認められたというのは、彼らのためだけではない、アブラハムの民だけではない、私たちのためだ、と言っています。
しかもここで、「私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです」と言っています。パウロは特にイエス様の復活を強調していますね。
イエス様は、罪のために十字架の死に渡されました。けれども、「義と認められるために、よみがえられた」と書いてあります。
「よみがえられた」ということは、イエス様に罪がないということですね。
「よみがえる」ということは、「義と認められる」ということは、「よみがえる」ことを意味しております。
「信仰義認」というのは、「信仰によって義とされた者」は、「よみがえる」ということです。キリストの「復活のいのち」が与えられることを、意味しています。
今日、クリスチャンは、「信仰義認」というのは、洗礼を受けることだと思っているかもしれませんけれども、そうではなくて、私たちの信仰が「義と認められる」ということは、「よみがえりのいのち」が与えられることであります。そのことを私たちは、よく体験しておく必要があるでしょう。
イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たち、罪のために十字架に架かってくださったことをもちろん信じるわけですけれども、死からよみがえってくださったイエス様を信じることが大事なことであります。
ルカ18章 9節~14節もお読みしたいと思います。二人の人が祈るために、宮に上っております。
ルカ18:9 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
18:10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
18:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
18:14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。
このパリサイ人の祈りは、言葉に出していませんね。11節を見ると、「心の中で、こんな祈りをした」と書いてあります。
イエス様は全知全能のお方ですから、心の中の祈りも聞いていますね。
いつもこのパリサイ人は、他の人と比較していますね。「こんな人でなくて良かった」、と言っています。
儀式も守っています。週に二度断食してささげものもしている、と言っています。律法を全部守っています。金持ちの青年と似ている所がありますね。
しかし彼は義と認められなかった。復活のいのちを与えられなかった。神の前に立つ人ではなかった。イエス様はそう仰いました。
自分を義人だと自認しているパリサイ人です。ゆする者でもなく、姦淫もせず、取税人のようでもなく、週に二度断食し、自分の収入の十分の一を捧げています、と自慢げに心の中で言っていますね。彼は、その見かけだけの正しさと、自信ありげな高慢のために、義と認められませんでした。
神様は、私たちが言葉に出す以上に、私たちが心の中で、他人を見下していたり、そして自分は自慢していたり、そういう思いを知っておられて、そのゆえで、義とされるか、義とされないかを、決めておられるようです。
もう一人は取税人です。
取税人とは税金を取る人のことですが、当時は罪人の代表者として扱われていました。
税金を取る人が悪い、と言っているわけではありませんが、みんなから毛嫌いされていました。
彼は、「遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず自分の胸をたたいて、言った。『神様、こんな私を憐れんでください』」と、ありのままの自分をさらけ出して、告白していますね。
なんと義とされたのは、この罪人である取税人でした。人の目で判断すれば、見かけの正しいパリサイ人が義と認められると思われるかもしれませんけれども、神様が義とされたのはこの取税人でした。彼が自分を低くして、神のあわれみを求めたからですね。
この話からも、主が、どのような心を持つ人を愛するか、義とされるかが分かるでしょう。
ですから私たちは、みんなよりも自分は正しいんだ、という思いあがった気持ちを捨てましょう。
神様の前で私たちは、ただの罪人でしかないことを、心低くして憐みを求めたいものです。
パウロが「私は、罪人の頭だ」と言ったのは、そういう意味であります。
次に、「この信仰によって」とヘブル人の手紙では言っていますけれども、ここに注目していただきたいと思います。
「この信仰」とは、1節の「信仰」のことです。もう一度復習しますと、この「信仰」は二つの意味がありました。
一つは、「望んでいる事がらを保証し」です。
これは、すべての人に約束されている普遍の神の約束を、私個人、私自身のものにする信仰のことです。
みんなが持っている普遍的な信仰ではなくて、私個人のものになる、ということです。
もう一つの信仰の意味は、「目に見えないものを確信させる信仰」です。
お話しましたように、感覚や感情によらないで、主の約束のみことばと、イエス・キリストの十字架の血潮と、聖霊を信じる信仰、つまり、真理を信じる信仰のことです。
先程の第二テモテのところで、「真理を体験することのできない」と言っていますが、聖書は学んでいるだけではなくて、「真理を体験する」ことが大事です。
Ⅱテモ3:7 いつも学んではいるが、いつになっても真理を知ることのできない者たちです。
この二つですね。普遍的な神の約束を自分のものにすることと、真理を体験する信仰です。この二つが、信仰を働かせるときの基本ルールです。
聖書の信仰は、自分勝手に考えて熱心にやっても、正しく機能しません。むやみやたらと熱心に激しくやっても、主なる神様には、自己流の信仰は通用しないんです。パリサイ人の祈りの態度でも見えますように、自己流の信仰は通用しません。
ヨハネ福音書14章6節を、読んでみたいと思います。有名な言葉です。これは自己流ではだめですよ、と言っています。
ヨハネ14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
ここで一番大事なことばは何かというと、「わたし」であります。
「わたしが道であり、真理です」、「わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに出ることはできません」とあります。
ヨハネの福音書で大事なことは、「わたし」であります。自己流ではなくて、「わたし」です。
ヨハネ15章5節も読んでみたいと思います。ぶどうの木の話ですね。ここでの大事な点も「わたし」であります。
ヨハネ「15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」
ここの強調点は「わたし」ですね。
「わたしはぶどうの木」、「わたしにとどまり」、「わたしもその人にとどまり」、「わたしを離れては」と、「わたし」が続いています。
原理がここに記されていますね。自己流の信仰では、聖書が約束しているきよめの恵みも、御国を相続することもできません。
聖書が何を言っているかは、自分の感じ方や、判断や、知恵で理解してはいけません。
また、聖句の一部だけを強調するのも危険です。聖書全体を通して貫かれている中心メッセージから、外れないようにしましょう。
旧約聖書でも新約聖書でも、「御子イエスの血によって、きよめられなさい」と言っているのですから、「きよめはない」とか「きよめられない」と言ってはならない。そう言ってしまったら、異端と同じになってしまいます。主イエス様の十字架の血を、侮ることになります。主の約束のみことばを、偽りもの、と言っていることになるからです。
私たちは、牧師や教師たちの個人的な発言よりも、聖書を聖霊に導かれて健全に正しく学ぶことが大事です。
聖書を正しく学び、聖霊に導かれない限り、私たちは、人の言葉やさまざまな教えの風に吹かれて、道を誤ってしまいます。
箴言を二つ読んでみましょう。
箴12:15 愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。
この愚か者とは、自分を正しいと思っている人のことですね。本当に自分が知恵あり正しいと思っている人が本当の愚か者だと言っています。
箴14:12 人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。
自分の知恵で考えると、これが正しい道だと思う。しかし、その道の終わりは死の道であると言っています。自分の知恵で考えることの恐ろしさが書かれていますね。
私は、みなさんが聖書を学ぶ手助けになればと思って、「聖書の探求」を書き始めてから、相当になりますけれども、聖書の解説や聖書全体を解き明かすことに、努めてきました。
聖書が信仰の基礎となるからですね。
聖書を、自分にとって都合のよいものに変えてはならない。都合の良い信仰は異端ですから、必ず主の裁きを受けることになります。
ですから、お互いにもう一度、「聖書の示す信仰」を確認させていただきたいものであります。
次に、「この信仰によって」の「よって」に、心を留めていただきたいと思います。
この「よって」とは、ことばや口先だけの熱心さではなくて、知的な理解や納得や議論ではなくて、戒めや儀式を守って自己満足するのでもなくて、毎日の生活の中で、実際に信仰を活用させ、働かせ、主に仕える思いをもって、毎日の仕事をしていくことを指しています。
「よって」ということは、「使う」ということですね。教会に行って、学んで知っていることだけではありません。
熱心な人の中には、教会で学んだことをすぐに夫や妻や家族に教えて、嫌がられている人がたくさんいます。聖書のメッセージは万人に当てはまりますが、他人に当てはめていると、自分の信仰にはなりません。
自分に当てはめて用いると、有効な信仰の活用になります。
みことばだけを求めたローマ人の百人隊長の信仰は、イエス様を驚かせました。
マタイ8章10節を読んでみましょう。
マタイ8:10 イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。
ローマ人の百人隊長ですから、旧約聖書のモーセの教えとか戒めを教えられていない人です。「イスラエルのうちに」というのは、そういうのを教えられて訓練されている人の中にも、ということです。「このような信仰」というのは、みことばを信じる信仰、ですね。イエス様のみことばの権威を信じる信仰、であります。
だから、教育とか、知識とか、議論とかは役に立たないということであります。
13節も読んでみたいと思います。
マタイ8:13 それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。
これは、しもべがいやされたことを言ってるだけじゃないんです。
みことばの権威が、信じた通りに働いたことを示しています。これが「信仰によって」ということであります。
「小犬も、主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」と、へりくだって執拗に求めたカナンの女の信仰も、称賛されました。マタイ15章28節も、お読みしたいと思います。
マタイ15:28 そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。
「あなたの信仰はりっぱです」と称賛されていますね。その信仰を称賛されています。
みんな自分自身に当てはめて、信仰を働かせています。他人に教えることができても、自分に当てはめて活用しないと、信仰が絵に描いた餅になってしまう。ただの信仰の論理になってしまいます。信仰の真の価値を経験することができません。
ですから、いつもお話しているように、毎日、どんな小さな生活上のことでも、実際に信仰を当てはめて、使ってみましょう。
イエス様に仕えるつもりで、そういう思いを持って行なってみたいと思います。その時、実際に、信仰の真価を知ることになります。
最後に「称賛されました」に注目したいと思います。
これはただ、主から良い評価を受けた、ということだけではなく、たましいのうちに、神の御霊の証印を受けた、ということであります。証印というのは、ハンコのことですね。印鑑証明のようなものです。
二つ聖書を読んでみましょう。
ローマ8:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、証ししてくださいます。
私たちのたましいに、御霊がハンコを押すように働いてくださって、ともに証ししてくださいますね。
エペソ 1:13 この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。
1:14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。
真理のことば、福音を聞いた、それを信じたことによって、約束の聖霊をもって、証印を押されました。
約束の証印を押されるきっかけ、その原因は、真理のことば、福音を聞いた、ということですね。そして、信じた。みことばと関係しております。
聖霊を内に持っていない者は、御国を受け継ぐ保証はありません。贖(あがな)いの完成にはならないのです。ですから御霊を内に持つ、ということは大事なことですね。
神は、聖徒たちの信仰を義と認められた。彼らの信仰が、喜ばれたことであります。
彼らの信仰に応えて、大いなるみわざを行なわれました。
私たちに必要なのは、人からの称賛ではなくて、神様からの称賛であります。
イエス様は百人隊長の信仰に驚嘆されて、あの驚嘆のおことばを言われました。
主は、私たちの信仰の称賛を御霊の証印として、私たちのうちに与えてくださいます。
これを聖霊の証しとも、内なる証しとも呼んでいます。
有名な話ですけれども、ジョン・ウェスレーのお父さんのサムエル・ウェスレーが臨終のときに、息子を枕元に呼んで、「ジョン、内なる証しこそが、信仰の証拠だよ」と言い残しました。そのころ若かったジョンは、そのことが分からずに、お母さんのスザンナ・ウェスレーに「内なる証しとはなんですか」と、尋ねたと言っています。非常に正直な人ですね。後に、この「内なる証し」が、彼の重要なメッセージになっています。
この聖霊の証印は、信仰に対して与えられる聖霊のみわざです。
聖霊の証印が与えられたから、信じるのではありません。その順序は逆であります。
私が真理のみことばを聞いて、救いの福音を聞いて、それを信じたことによって、聖霊の内なる証印が与えられるのです。信仰が先であります。
それはまた、具体的な問題が解決したり、困難に対する具体的な勝利として与えられます。
これは、実際に生活の中で、主イエスに仕える信仰を活用している人にだけ、与えられます。
議論している者とか、納得して理解して喜んでいる人ではありません。
ですから、毎回お話しているように、一人ひとりの生活の中で信仰を活用してほしいと、訴えているわけです。その時に神の称賛が、心の内に与えられます。
この幸いな内なる御霊の証しは、真にイエス・キリストを信じている人なら、切実に求めているものです。なぜなら、この聖霊の証しなしには、霊的な成長もないし、御霊の実もないし、乏しいものになってしまう。御国を受ける確証もなくなってしまいます。
内なる信仰の確信なしに、戒めを守ったり、儀式を守っているだけなら、神様を「アバ、父」と呼ぶことはできません。それを真の信仰と言えるでしょうか。
またヨハネは、第一ヨハネ4章18節で、有名な言葉を語りました。
Ⅰヨハネ4:18 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。
ある姉妹がこう告白しました。
『私は、時々刻々、主イエスの血を信じて全く信頼している時、私から恐れがとり除かれました。「全き愛」を味わったのです。罪を犯すことから守られ、キリストを証しする力が与えられました。私は、「全き愛」を味わい知るまでは、キリストの血を、単純に信じる信仰に、これほどの価値があるとは知りませんでした。
主は私に、なんの慰めもない時に、イエス様を強く信じることができるようにしてくださいました。その結果、ついに私の心に喜びが満ちあふれるようになりました。私の内に強い確信が与えられ、私の信仰は不動の岩のようになりました。真昼に輝く太陽のようになりました。』と、告白しています。
このような証しをもたらしたのは、信仰だけです。
何の慰めもないときに、何も感じないときに、イエス様を強く信じることができるようにしてくださったのは、聖霊であります。そのことによって、強い喜びに満ち溢れ、強い確信が与えられた。岩のうえに立てられた家のような、不動の信仰になっていった。そう告白しています。これが信仰ですね。
このような証しがあったから信じるのではありません。
この聖霊の証しを私たちが持つことは、神のみこころです。主イエスを信じる私たちの特権であります。
信じる者に、この内なる証しを与えられることは、御霊の喜ばれることです。
昔の聖徒たちは、この内なる証しを持っていました。
アベルの信仰は正しい、義と証しせられました。彼がささげた供え物も主に受け入れられております。
エノクも、これからお話しますけれども、主に喜ばれる内なる証しを持っていました。
いつかお話しましたけれども、アブラハムもダビデも、預言者たちも、主が喜んでくださっている確証を持っていたのです。
そうであれば、新約の聖霊の時代に生きている私たちは、イエス様を堅く信じて、全面的に信頼して従うなら、この証しが与えられるのは間違いありません。
この一週間も、イエス様とともに歩んで、内なる証しを持って歩ませていただきたいと思います。
人の言葉による称賛よりも、神の称賛を、聖霊の証印を、求めさせていただきたいと思います。
お祈り
恵みの深い天の父なる神様、あなたは私たちに、御霊による証印を与えて、贖いを完成させてくださる私たちの心の中に、どんな時にも、何も感じない時にも、全き愛を求めて、イエス様の血潮を単純に信じる信仰、みことばを、福音を聞いたら信じる信仰、従っていく信仰、イエス様に仕える思いで行う信仰、それらがどれほどのものをもたらすかを、私たちは測り知ることができません。
どうぞ私たちに深い憐みを加えて、あなたのみわざを行ってください。
聖霊の証しなしには、御国の相続の権利を失ってしまいますので、イエス様が助けを与えて、この恵み深いあなたのみわざを、一人ひとりの内にみわざを行ってください。
尊いイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン。
地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明
音声と文書:信仰の列伝(全51回)へブル人への手紙11章 目次
<今週の活用聖句>
エペソ人への手紙1章13~14節
「・・・キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。・・・」
地の塩港南キリスト教会
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