音声:信仰の列伝(3) 「信仰の称賛(神の証し)」  へブル人への手紙11章2節

2016年8月14日(日)午前10時半
礼拝メッセージ  眞部 明牧師

週報No.2036 信仰の列伝(3) 「信仰の称賛(神の証し)」

へブル人への手紙11章2節
11:2 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。

<インフォメーション>

自己流の信仰では、聖書が約束しているきよめの恵みも、御国を相続することも、できません。

聖書が何を言っているかは、自分の感じ方や自分の知恵による判断で、理解してはいけません。また聖句の一部だけを、強調することも危険です。聖書全体を通して貫かれている、中心メッセージから外れないようにしましょう。 旧約聖書でも、新約聖書でも、「御子イエスの血によって、きよめられなさい。」と言っているのに、「きよめはない」と言ってはいけません。それは異端と同じになってしまいます。主イエスの十字架の血を侮るからです。主の約束のみことばを偽りものと言っていることになるからです。

私たちは、牧師や教師たちの個人的発言よりも、聖書を、聖霊に導かれて、健全に、正しく学ぶことが大事です。聖書を正しく学び、聖霊に導かれないかぎり、私たちは人の言葉や様々な教えの風に吹かれて、道を誤ってしまいます。

「愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。」(箴言12:15)

「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」(箴言14:12)

私は、皆さんが聖書を学ぶ手助けになればと思って、聖書の探求を書き始め、聖書の解説や、聖書全体を説き明かすことに努めて来ました。少しでも信仰の役に立つようにと、努めて来ました。聖書が信仰の基礎となるからです。

自分にとって都合の良い信仰は異端です。必ず主のさばきを受けます。お互い、もう一度、聖書の示す「この信仰」を確信させていただきたいものです。

次に、「この信仰によって」の「よって」に、心を留めて下さい。この「よって」は、ことばや口先だけの熱心さだけではなく、知的な理解や納得や議論ではなく、戒めや儀式を守って自己満足するのでもなく、毎日の生活の中で、実際に活用すること、信仰を働かせること、主に仕える思いを持って、毎日の仕事をしていくことです。

教会に行って、学んで知っただけではありません。熱心な人の中には、教会で聞いで学んだことを、直ぐに夫や妻に教えて、嫌がられている人がいます。聖書のメッセージは万人に当てはまりますが、他人に当てはめると、自分の信仰になりません。自分に当てはめて用いると、有効な信仰の活用になります。

みことばだけを求めたローマ人の百人隊長の信仰は、イエス様を驚嘆させ(マタイ8:10、13)、小犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます、とへりくだって執拗に求めたカナンの女の人の信仰も、称賛されています(マタイ15:28)。みんな自分自身に当てはめて信仰を働かせています。

他人に教えることが出来ても、自分に当てはめて活用しないと、真の信仰の価値を経験することが出来ません。

ですから、自分のどんな小さい生活上のことにも、実際に信仰を当てはめて、使ってみましょう。その時、実際的な信仰の真価を知ることが出来ます。

<今週の活用聖句>

エペソ人への手紙1章13~14節
「・・・キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。・・・」

地の塩港南キリスト教会
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