音声+文書:信仰の列伝(13) アブラハムの信仰(3)「定住の信仰(1)」

アメリカのthe Providence Lithograph Companyにより1906年に出版されたバイブル・カードより「The Camp of Abraham(アブラハムの天幕生活)」

2016年10月23日 (日) 午前10時半
礼拝メッセージ  眞部 明牧師

へブル人への手紙11章9節
11:9 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。


はじめの祈り

「信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。」
恵みの深い天のお父様、こうして一週間の旅路を守られて、再び礼拝を捧げて新しい週の旅路に入ろうとしていますけれども、私たちもまた他国人のようにこの世に住み、天幕生活をするような生活をさせていただいております。
約束をともに相続する者として共に集まって、礼拝を捧げることの幸いを経験させていただいて、その恵み深さを感謝いたします。
このみことばを祝して、私たちの心をきよめて、新しいキリスト経験をすることができますように助けてください。みことばの経験をすることができるように助けてください。
これからの時を主の御手にゆだねて、尊いキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


今日は、アブラハムの信仰の3回目、「定住の信仰(1)」という題でお話しさせていただきます。いろいろな題が付けられますけれども、いろいろな題を付けると、そこに強調点が行ってしまって、信仰の言わんとしている所に到達しにくいかと思って、「定住の信仰」という題にさせていただきました。今回と次の回で、お話させていただきます。

9節では、アブラハムの定住の信仰を学びたいと思います。これは私たちクリスチャンにとって、イエス・キリストを信じて救われた後、信仰を持った後、毎日の生活で、信仰をどのように活用するかを、意味しています。

9節をみると、3つのことが記されています。

第1は、どこに住んだか。
「約束された地に」住みました。

第2は、どのように住んだか。
「他国人のように」「天幕生活をしました。」

第3は、誰と一緒に住んだか。
「同じ約束を、ともに相続するイサクやヤコブとともに」です。
これも大事なことですね。
誰と一緒にともに歩んでいるか。
どういう友達を持っているか。
どういう信仰を持つ友達と交わっているか。
これは同じ約束を共に相続するイサクやヤコブとともにであります。

定住の信仰では、この三つの点をお話しします。

今日は第1の、「どこに住んだか」からお話しします。

それは、約束した地に住みました。ですから、神様が命じられた地から外れていません。ご存知のように、イスラエルのルベン、ガド、マナセの半部族は、神様の約束の地の目の前まで来ましたけれども、ヨルダン川の東まで来ましたけれども、ヨルダン川を渡りませんでした。アブラハムはそうしませんでした。

しばしばクリスチャンの中には、新生経験をして、きよめの恵みの近くまで来て、主の約束であるきよめの生活に入ろうとしない人が、大勢います。この人達は、神の約束の地、カナンに住んでいません。信仰生活は、明確に、正確に、神が約束された地に住んでいなければ、主を喜ばせることはできません。信仰がなければ、神に喜ばれることがない、と書いてある通りです。多くの人は、その近くまで来ている。99.9パーセントは、神の約束の地の近くに来ています。そして、その近辺で宿営しています。多くの人が、聖霊が働く恵みの御座近くまで来ております。そしてその雰囲気に酔ったりして、近くまで来ていますけれども、十分ではありません。

アブラハムが、「約束された地」に住んでいたことは、二つのことを意味しています。

第1は、アブラハムは、出発した時の信仰を最後まで貫き通し、生かされて継続されて行なったことであります。

途中でやめなかった。これは人の側の、信仰の条件を果たしたことですね。信仰は途中でいろいろな迷いがあるかもしれませんが、大事なことは、最後まで貫くことです。パウロは「信仰を戦い抜きました」と言いました。約束の地に住むということは、そういうことです。

第2は、神の約束されたみことばが実現し、成し遂げられたことです。

神は、アブラハムに約束の地に行くように命じました。その途中守られ、導かれ、養われて、ついに約束の地に着きました。神の約束されたみことばが、実現したことです。これは神の側のことですね。

信仰生活には、二つの面があることがわかります。

人間の側の信仰が忠実であること。従うこと。
神様の側では、そのみことばが実現されること。

聖書は新約聖書とか旧約聖書とか、契約のことが書いてありますが、「契約」は二人の間の問題であります。神と人とが結び合わされることによって契約が成り立ちます。

アブラハムは、パダン・アラムのカランの地に、十年くらい住んだことがありました。
父のテラが亡くなるまでであります。しかし、カランの地では十分な満足はありませんでした。パダン・アラムのカランまでは、主なる神さまに半分しか従っていませんでした。それは実に、中途半端な信仰状態でありました。ですから、十分な祝福を受けることができませんでした。

さらに彼は、神の約束の地に来てから、そこに飢饉が起きた時に、約束の地を離れて、エジプトのパロの地に下って行ったことがあります。
そのことが、創世記の12章10節から20節に書いてありますけれども、そこにおいて、アブラハムは、エジプト人を恐れて、妻のサライを妹だと偽ってしまいました。
サライはアブラハムの異母妹でしたから、まったくの偽りではありませんが、実際は妻でしたから、エジプト人の王様のパロには妻だというべきでした。
箴言に、「人を恐れるとわなにかかる」という言葉がありますけれども、そういう状態に陥りました。このようにアブラハムは、神の約束の地を離れることによって、エジプト人を恐れて、偽りごとを使い、妻を危険におとし入れ、そればかりではなく、サライから生まれる男の子が神の約束の子となるという、神のご計画を破棄してしまう危険を冒したのです。こうして、神様の約束を妨害するようなことをしてしまいました。

神の約束の地にとどまるとは、どんな信仰を意味しているんでしょうか。
・  新約的な意味では、「キリストを信じる」信仰に満ちていること。「信仰の満たし」ですね。
・  イエス様がヨハネの15章で語られたように、「キリストの愛」にとどまっていること。
・  「キリストのみことば」にとどまっていること。
・  「キリストの平安」にとどまっていること。キリストの平安がこころを支配するようにしていなさい、とパウロは言いました。これこそ、きよめのめぐみです。ここから離れることは、恵みを失うことを意味します。

アブラハムが、神の約束の地を離れて、神の全き愛と、全き平安を失うと、エジプトのパロを恐れる恐れが、心に侵入してきました。全き信仰を失うと、神様がイサクを与えるという約束のことばを疑うようになって、エジプトの女奴隷ハガルからイシュマエルを生んでしまいました。

これと同じようなことが、きよめの恵みを失うと、私たちにも起きてしまいます。心が動揺して、恐れて、不安で、確信がなくなってしまって、何もかもが面倒くさくなってしまいます。それゆえに主は、アブラハムが99歳の時、イサクの誕生の約束の更新の時に、創世記17章1節で、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」と命じられました。

全能の神とはエル・シャダイですね。エルとは神です。シャダイとは「いのちを与える神」。日本語では「全能の神」と訳していますけれども、本質は「いのちを与える神」であります。ですから「復活の神」もエル・シャダイですね。聖霊がのぞまれて、死人からイエス様はよみがえられましたけれども、聖霊ご自身もエル・シャダイです。
聖書を読むと、そのようなことが分かるわけですけれども、私たちが信じている神様は、エル・シャダイだということを忘れないようにしたいと思います。

「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」
・いのちを与える神様の前を歩みなさい。
・そのお方をいつも自分の前において歩みなさい。
・自分の心に持って、神とともに歩みなさい。

「全き者であれ」というのは、迷ったり離れたりしないようにということです。これは13年間の沈黙の後に語られました。これは、ただの、きよめの信仰に立つだけではなくて、「歩みなさい」ですから、毎日の生活を、愛と平安と信仰に満たされて、それを活用しながら、心の力としながら歩みなさい、というご命令です。

私は、神の約束の地を離れ、きよめの恵みを活用する生活をしなくなると、必ず人を恐れ、課題を恐れ、主の約束を疑うようになり、主に忠実でなくなります。忠実でなくなった時は、必ず、恐れや不安が心を占めています。その時、取る行動は、自分の知恵と力に頼ったものか、他人の入れ知恵に従ったものであります。
人は自分で考えて自信がない時は、無責任な人のことばに従ってしまいやすいものであります。しかしその責任は、言った人にあるのではなくて、それに従った自分自身が問われることになります。ですから、人に責任をなすり付けることはできません。

アブラハムの場合も、ハガルを入れたのは、妻サライの提案によったものであります。サライはカルデヤのウルの異教の習慣から、女奴隷から世継ぎを得るという、異教の人達がやっていることを提案しました。
こうして主の恵みと祝福を失い、13年間、主の臨在を失い、家族の中でも、ハガルが女主人サライを見下げるようになり、民族の中でも、イシュマエル民族は、イスラエル民族に延々と続く争いを持ち込んでしまいました。それは今日も続いているわけです。

こうして、神様のご計画を壊そうとするサタンのわなに陥ってしまったのです。アブラハムは、出発の時の信仰を、最後までしっかりと成し遂げるべきでした。
幸いなことに、アブラハムは神の助けを得て、自分の失敗や罪にすぐに気が付いて、神の約束の地に帰ってきて恵みを回復しています。エジプトから帰ってきました。

信仰生活において、まず大事なことは、神の約束の地にとどまり続けることです。
詩篇37篇3節を読んでみたいと思います。
詩37:3 主に信頼して善を行え。地に住み、誠実を養え。

「善を行え」とは、神の御心を行え、ということであります。
「地に住む」とは、約束の地に住む、ことです。
「誠実を養え」とは、御霊の実は誠実でありますから、それを養えということですね。

文語訳聖書では「この国にとどまり、真実をもって糧とせよ」となっています。
「この国」とは約束の地ですね。ですから、神の国にとどまりなさいということ。
「真実をもって糧とせよ」は、みことばの光を毎日の糧として生活しなさいということ。

ヨハネ15章4~10節を読んでみたいと思います。まことのぶどうの木の話です。
ヨハネ 15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
15:6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。 15:8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。
15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。
15:10 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。

ここを見ますと、「とどまれ」という言葉が、11回繰り返されております。これが実を結ぶ秘訣だとも仰いました。
私たちに与えられている約束の地とは、キリストの御霊に満たされた霊的にきよめられた恵みの状態のことをさしています。主は、その状態を保ち続け、生活のなかで活用するように、と言っておられます。

「わたしにとどまれ」とは、みことばと、祈りと、賛美と、思いと、動機と、主に仕える行ないを通して、キリストと人格的に交わることを指しています。
7節では、「わたしのことばが、あなたがたにとどまるなら」と言いました。これは、主のみことばが、心の中で生きて働いている生活をすることです。覚えているだけ、理解しているだけではなくて、実際の生活のなかで、足のともしび、道の光として、心に光を照らしてくださっている、そういう経験をすることであります。

・「わたしの愛のなかにとどまりなさい」とは、ローマの5章5節にあるように、聖霊によって神の愛を心に注いで頂いている、その愛を自分の動機として、主の愛を現わす生活をし、となり人を愛する生活をすることを指しています。

・「愛の中にとどまる」とは愛がなくならないように、一生懸命に愛するという、そういう主観的なものではなくて、実際の生活の中で、それを活用することです。

・「わたしの戒めを守る」というのは、互いに愛し合うことが、キリストの戒めを守ることですね。誰が正しいか議論したり、言い争うのではなくて、互いに赦しあったり、助け合ったりすることです。

コロサイ3章13節、互いに愛し合うことの意味が書かれています。
コロ3:13 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。

これらのみことばは、キリストの愛によって、実際の生活をすることを指しています。
これによって、キリストのいのちが私の内に働き、確実に実を結んでまいります。

第二テモテの3章14節も読んでみたいと思います。
Ⅱテモ3:14 けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。

ここにも、「とどまっている」ことが書いてありますが、「とどまっている」というのは何もしないで、じっとしているということではありません。「疑ったり」、「迷ったり」、「逆らったり」しないで、みことばに確信をもって、主を証しする生活をすることです。それには忍耐が必要です。

ヘブルの10章36節を読んでみましょう。これも非常に大切なみことばです。
ヘブル10:36 あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。

「神のみこころを行っているんだから、いいじゃないか、すぐに与えてくださったっていいじゃないか、すぐに実現してもいいじゃないか」と思われますけれど、神のみこころを行って、約束のものを手に入れるには、なお、忍耐が必要であります。

アブラハムは、主に従ってまいりました。カルデヤのウルからパダン・アラムのカランから、神に従ってまいりました。もうそれだけで十分ではないかと思われますけれども、そのあと彼は、約束のものを手に入れるために、忍耐を求められました。そこで失敗してしまったわけですね。それがイシュマエルの誕生に繋がってしまいました。忍耐できなかったからであります。

物に満ち足りた生活をしている時には、物の豊かさの誘惑を感じないかもしれません。しかし、アブラハムのように旅人の生活をしている時、その神の約束の地で深刻な飢饉にあったら、隣の豊かなエジプトに行きたくなる誘惑を受けるでしょう。

ルツ記のナオミ一家も、飢饉のときになると、神の約束の地ベツレヘムを離れて、異教の地のモアブに移住して、そこに十年住みました。その十年間の間に、ナオミの家族は悲惨な目に合っています。夫のエリメリクは死に、二人の息子、マフロンとキルヨンも死んでしまいました。神の約束の地で、敬虔に神を畏れて生活していても、飢饉にあったり試練が襲ってくることがあります。
イエス様を信じて信仰生活を始めている、忠実に守っている人にも試練に遭遇することがあります。しかし、その時こそ、堅く主を信じて、約束の地に踏みとどまる信仰が必要であります。

ヨハネ16章33節を、ご一緒に読んでみたいと思います。
ヨハネ16:33 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

先ほどお話ししましたように、アブラハムもナオミも、飢饉のときには豊かさを求めて、エジプトやモアブに移住しましたが、彼らは異教の地で、繁栄することはありませんでした。彼らは、神様の約束の地に帰ってくることによって、繁栄することができたわけです。

神様を信じていても、こんな目に会うのかと思う場合があります。それで、異教の地に行きたがる人は少なくありません。しかし、異教の地では決して繁栄しなかった。このことを深く心に留めておきたい。
クリスチャンの人の中には、異教の人達の生活を羨んでいる人が少なくありません。アブラハムもナオミも、神の約束の地に帰って後に祝福を受けたのです。私たちも、異教の豊かさに目を奪われないようにしなければなりません。

今日の第一の話は、「どこに住んだか」でありました。

第二に、アブラハムは「どのように住んだか」を、見てみたいと思います。

そして、現代の信仰生活の秘訣を、見つけたいと思います。

9節では「他国人のようにして住み、・・・・天幕生活をしました。」と言っています。
「他国人のようにして住み・・・」とは、アブラハムの心の中でとらえられていた信仰生活の原理を表しています。すなわち、この地上での生活がすべてではない、ということ。そして、この世での生活は、その後に来る永遠をどこで、いかにして過ごすかを決定するテスト期間であることを悟っていたのです。

クリスチャンもこのことを悟る必要があります。つまり、この地上での死、肉体の死は、すべての終わりではありません。身体の死は、永遠の始まりです。その永遠の生活をどこで過ごすか。ラザロのようにアブラハムの懐に行くか、すなわちパラダイスで過ごすか、それとも紫の衣を着た金持ちのように、火の燃えるゲヘナで苦しんで過ごすかは、そのどちらを選ぶかは、この世で生きている間に、イエス・キリストを信じて、主とともに歩む生活を全うするかどうかによって、決まります。

この信仰の原理は、アブラハムの時代も、私たちの時代も同じです。
ガラテヤの3章9節で、パウロはこう言いました。
ガラ3:9 そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。
ここには旧約も新約も区別はありません。信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるんです。

天幕生活はその生活様式をあらわしています。それを、13節の終わりでは、「地上では旅人であり、寄留者であることを告白していた。」とあります。
大事なことは、私たちは、この地上で永遠に住むのではないことを、はっきりと悟らなければなりません。日本人はよく「終の棲家」と言いますけれども、この地上の生活が最後ではありません。「終の棲家」ではないんです。
私たちのこの地上の生活は、旅人であり、寄留者であり、一時の宿りでしかないことをはっきりと自覚して、毎日の生活を営むことが必要です。そうすれば、宝を天に積むことができます。

マタイの6章19節~21節を読んでみたいと思います。
マタイ6:19 自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。
6:20 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。
6:21 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。

人は、肉体にある生活は、僅か80年、90年、100年、で飛び去って行きます。
詩篇90篇9節~10節で、モーセが言いました。
詩 90:9 まことに、私たちのすべての日はあなたの激しい怒りの中に沈み行き、私たちは自分の齢をひと息のように終わらせます。
90:10 私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。

ですから、私たちはみな、永遠の住まいに向かって、毎日を生きていることを覚えなければなりません。

ヨハネの福音書14章2節~3節もご一緒に読んでみたいと思います。
ヨハネ 14:2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

イエス様が備えに行ってくださいます。私たちはこの地上だけがすべてではないことを、聖書は明らかにしています。そのことを心に留めて、今日の日を過ごさなければなりません。

第一コリントの15章26節を読んでみたいと思います。
Ⅰコリ15:26 最後の敵である死も滅ぼされます。

「死は最後の敵」だと、言われていますね。死は滅ぼされるんです。死が私たちを滅ぼすんではなくて、死が滅ぼされるんです。
聖書が言っていることを、心に留めて読んでいただきたいと思います。
死が私をダメにするんじゃなくて、私たちはイエス様の十字架の恵みによって、死を滅ぼす力を与えられているんです。

同じく、第一コリントの15章54節~58節を読んでみたいと思います。
Ⅰコリ15:54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。
15:55 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」
15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
15:57 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
15:58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

「死のとげは罪であり、罪の力は律法」だと言いました。
イエス・キリストの十字架と贖いの恵みによって、罪を解決している人にとっては、死は恐れるべきものではありません。死のとげは罪であり、罪の力は律法です。律法に縛られて生きているのではなくて、信仰によって生きている人は、死を恐れる必要はない。私たちの主イエス・キリストによって勝利が与えられているからです。ですから私たちは、日々の生活を通して、証しをしているその働きや、祈っていることや、固く立って動かされないことなど、主のわざにいつも励みなさい。
私たちのしている信仰の労苦は、主にあって無駄ではありません。それが輝く日が来る。必ずやってくる。神の栄光を現わす日が、やってくるということですね。

マタイ10章28節を読んでみたいと思います。
マタイ10:28 からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

主は、肉体の死よりも、たましいの滅亡をもたらす神様を恐れる様に命じました。
このことを忘れてはならないと思います。

ピリピ3章10節~11節を読んでみましょう。パウロが求めているもの、めざしているものが書いてあります。
ピリピ3:10 私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、
3:11 どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。

第二テモテの4章8節も読んでみたいと思います。パウロの絶筆と言われている、死の直前のことばです。
Ⅱテモテ4:8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。

「義の栄冠」とは復活のことですね。パウロだけに与えられるのではなく、主の現れを慕っている者には、誰にでも授けてくださる、と書いてあります。ですから私たちも漏れていません。これが、地上で旅人の生活をし、天幕生活をする信仰の奥義であり、原理であることが分かります。
このことが明確でないと、肉の欲の御利益宗教になってしまいます。ですから、この世の富と、この世の成功、繁栄がすべてではないことを自覚しておく必要があります。
それらが、肉の心にどんなに魅力的であっても、真の意味において、神の御前に高く評価されるものではないことを、悟らなければなりません。
サタンがイエス様を誘惑した時、この世のすべての国々とその栄華を見せて、「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」と言いました。
しかし、サタンが見せたものは、この世にあって真の繁栄を与えることはできない、ということであります。

私たちも、この世でどんなに繁栄しても、それを持ち続けることはできません。これらのことが、はっきりと分かっている人と、分からない人とでは、毎日の生活様式が全く異なってしまいます。

この世の富のために、永遠を失ってしまう人は少なくありません。分からない人は、金持ちの農夫のように、富を自分が満足するためにだけ使い、神のために備えず、突然、たましいが滅ぼされてしまいます。
この地上では、この世の富の繁栄を求めてせっせと働き、築き、家を建てることを人生の目的にしている人が、ほとんどであります。彼らがサタンに騙されていることに気づく時は、もう遅すぎるのです。

ルカの16章29節で、アブラハムは、「彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。」と警告しています。
「モーセと預言者」というのは聖書のことですね。私たちは聖書の言うことを聞くまでは、サタンの惑わしから目を覚まして、解放されることはありません。

詩篇の49章11節から13節も読んでみたいと思います。
詩49:11 彼らは、心の中で、彼らの家は永遠に続き、その住まいは代々にまで及ぶと思い、自分たちの土地に、自分たちの名をつける。
49:12 しかし人は、その栄華のうちにとどまれない。人は滅びうせる獣に等しい。
49:13 これが愚か者どもの道、彼らに従い、彼らの言うことを受け入れる者どもの道である。

「滅びうせる獣に等しい」と書いてあります。もし、私が、キリストの福音を信じることを、この地上の幸せを求めるためと思っているなら、それは完全に福音を誤解しております。このような誤解をするのは、この世の価値観しか持っていないからです。この地上の生活以外に、永遠の御国の生活があることを知らないからであります。
しかし、この地上の生活における幸せだけを求めることが、いかに多くの人達の生活を狂わせてきたか、私たちは今もその悲劇を見ております。

現代の学校教育は、神のアガペを持つためではなくて、永遠のいのちを持つためではなくて、高い給料取りになるためだけであります。日本における高校教育や大学教育は、高い給料を取るためだけの準備機関でしかない。高い給料を取ることが、悪いわけではありませんけれども、それが人の貪欲をエスカレートさせ、永遠の目的を見失わせていることは、重大な問題です。
誰もが、富を求めて競争し、争い、富が得られないと、敗北者か価値のない脱落者のように思い込むのは、人生を間違って歩ませてしまいます。
反対に、富を築いて誇り、自慢している人も滅びの道を歩んでしまいます。
福音書の中では、多くの富を持っている金持ちが、永遠のいのちを受けられずに、ゲへナに行っている話が記されています。これは、肉の欲で富を得ることを、人生の目的としている人への警告であります。

マタイ福音書の19章23節から24節を読んでみたいと思います。
マタイ19:23 それから、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国に入るのはむずかしいことです。
19:24 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」

らくだの針の話はもう何回か話しましたけれども、これはエルサレムの都で商売する商人の話ですね。エルサレムに入る人も出る人も、日没になると、城の門が閉じられるので、それまでに商売を終えて、門の出入りを終えておかなければならなかったのです。
ところが多くの商人たちは、欲張りのために日没後も商売を続けて、門から出られなくなりました。門の横には、やっと人が通れるような「針の穴」と呼ばれていた小さな門がありました。その小さなところを、荷物をたくさん背負わせたらくだを、無理やり通らせようとする貪欲な商人たちを風刺して、非難した主イエス様のお話です。

みんな、肉の欲に悪魔の惑わしを受けて、富を集めることを自分の生涯の目的にしております。人類はみな、この欲に引きずり回されています。この惑わしは、神のみことばと聖霊によらなければ、目覚めません。
イエス様の弟子であったイスカリオテのユダも、この惑わしで滅んでしまいました。
サタンはイエス様をも、この惑わしに陥れようとしました。私たちは、サタンに油断も隙も与えないように、みことばと聖霊によって目を覚まさせて頂きましょう。

天の御国は、教会に行って入れば、なんとなく自然に、入れるものではありません。マタイの11章12節を、ご一緒に読んでみたいと思います。
マタイ11:12 バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。

ここを見ると、天の御国は、教会に行っていれば自然に転がり込んでくる、とは言っていません。むしろ、「激しく攻めている」とか、「奪い取っている」と言っています。そこで、この目的を達成するために目指す、積極的な信仰が必要です。

「奪い取る」とは、どういうことをするのかと言う人もいるかと思います。
これはすでにお話していることですが、

第一に、自分の罪の性質との戦いです。

きよめの恵みを失わないことですね。
そのためには、自分の前に主を置くこと。
自分の行くところどこにおいても、主を見つけること。
主イエスから目を離さないこと。
自分の出来具合を見ずに、心を尽くして主を愛し、まったく信頼していること。
たとえ罪を犯しても、すぐに、私のために十字架に架かってくださった義なるイエス・キリストを心で信じることです。いつまでも嘆いて、つぶやいていてはいけません。すぐに、イエス様を見上げましょう。

第二には、この世の敵意や困難と闘うことです。

主イエス様は、「あなた方はこの世にあっては、患難があります。しかし勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」と仰いました。
困難にぶつかった時、自分の知恵や他人の助言に従うと、キリストの真理から離れてしまう危険があります。先ほどの、ブドウの木のところでもお話ししましたけれども、ヨハネ15章で「わたしにとどまっていなさい」と繰り返されました。キリストから離れないことですね。

第三の戦いは、サタンとの戦いです。

サタンは直接誘惑もするし、偽りの教師を使って惑わすこともあります。
主はゲッセマネの園で、弟子たちに「惑わしに陥らないように祈っていなさい」と警告されました。サタンに勝つためには、みことばと聖霊と神の武具を活用するほかありません。多くの聖徒たちは、このようにして天の御国を勝ち取ってきました。私たちも、この道を忠実に歩んでいるわけですけれども、確実に御国を勝ち取りたいと思います。

アブラハムとサライもこの道を歩んで行きました。いろいろな困難があり、惑わしにも陥りましたけれど、大事なことは信仰を最後まで全うすることであります。
私たちも天の御国を目指して、今日も、明日も、今週も、信仰の道を辿らせていただきたいと思います。

お祈り

恵みの深い天のお父様、私たちのこの一週間の旅路をもお助け下さい。
行くところ行くところ、いろいろな出来事に出会うと思いますが、私の前には大きな問題も小さな問題も次々と置かれると思います。
イエス様、あなたの導きを、光を、みことばを、聖霊を、私たちに与えて、あなたに従う信仰を与えてください。
そして困難を乗り越えて、主の栄光を現わすことができますように。
また兄弟姉妹一人ひとり、置かれている所で、信仰をしっかり心に受けて、恵みの中を経験できますよう助けてください。
今週の旅路を、主が導いてくださいますように。
尊いイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明

<今週の活用聖句>

ヨハネの福音書15章9節
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」

地の塩港南キリスト教会
横浜市港南区上永谷5-22-2 TEL/FAX 045(844)8421