音声+文書:信仰の列伝(14) アブラハムの信仰(4)「定住の信仰(2)」
アメリカのthe Providence Lithograph Companyにより1906年に出版されたバイブル・カードより「The Camp of Abraham(アブラハムの天幕生活)」
2016年10月30日 (日) 午前10時半
礼拝メッセージ 眞部 明牧師
へブル人への手紙11章9節
11:9 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。
はじめの祈り
「信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。」
恵みの深い天のお父様、こうして今年も10ヶ月の間お守りくださり、この締めくくりの聖日を、豊かに祝して導いて下さり感謝いたします。
一年もあっという間に過ぎてしまいますけれども、その間にいろいろな出来事がありました。神様が一つ一つを乗り越えさせてくださり、また、信仰のよき証しの時としてくださったことを感謝いたします。
今年もあと二ヶ月ですけれども、クリスマスも近づいていますが、イエス様が、それぞれの立場で、恵みを豊かに注いでくださり、私たちもまた、信仰の働きをして、この地上にあっては他国人のように住み、天幕生活をさせていただき、同じ約束を相続する者として、良き交わりを進めていくことができますように、深めていくことができますように、顧みてください。
尊いキリストのお名前によって、お祈りいたします。アーメン。
今日は「信仰の列伝」の14回目になります。
「アブラハムの信仰」の4回目。「定住の信仰」の2回目になります。
現代に生きる人々は、アブラハムよりもずっと、目先の肉の欲のために生きているように思います。今年もノーベル賞が発表されて、科学、医学、生物学、そしてコンピューターの発達は目まぐるしく進んでいるように見えますが、人々の魂は、ゲヘナの一歩手前で呻いているようであります。
毎日ニュースを見ると、「これが人間の生き方か」と思うような出来事が見聞きされるわけですけれども、その中には魂の呻きが聞こえてきます。この状況は、経済発展した社会で人々が争い、妬み、憎み合い、殺し合うことによって、魂が呻き声をあげて、外側に現れてきているわけであります。そして人々は、露骨に快楽を求めるようになっております。
それは、人間の本能が肉の欲望に支配されているからであります。それがますます露骨になってきていて、もはや恥ずかしいことではないかのように、表面化しています。
それが子供の世界にまで現れてきている、そういう時代であります。
肉の欲の価値観によって生きている人は、非常に自分中心になりやすく、わがままで、身勝手に振る舞います。聖書に記されているように、互いに助け合ったり、赦しあったり、重荷を負いあったりはしません。わがままな人は、自己制御する自制心を失っています。ブレーキが壊れた車と同じで、必ず、大事故を起こしてしまいます。自分で自分をコントロールする自制力を、失っているからです。
もしみなさんが、富を持ったら幸せになれると思っていたら、それが悲劇の始まりになります。
ある人は、大きな家を建てたら幸せになれると思っていました。それは間違っていたばかりではなくて、新しい争いを引き起こしてしまいました。
もし私が、エノクやノアのように、主とともに歩む生活を忘れたら、主とくびきを負う生活を忘れたら、私は必ず、肉の欲に執着した生活をしてしまうでしょう。誰でもがそこに陥ってしまいます。今のこの生活が、永遠に続くかのような錯覚に陥った生き方をしてしまいます。
しかしアブラハムは、そんな愚かな錯覚には陥らず、この世に対して、他国人のような生活をしました。アブラハムは、この世の富をどんなに持っても、信仰の父と呼ばれるようになっても、その地域で名士と呼ばれる人になっても、名誉から解放される生活を送っています。みんな、この富や名誉や地位に縛られて、ある人ない人、みな悩んで生きています。
パウロは、富、地位、名誉から解放された生活についてこう言っています。
ピリピ4:12 私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。
かつて日本が戦争に負けて、乏しさのどん底に陥った時に、貧しさの中にあることを知ったけれども、豊かさの中にあることは知らなかった。ですから豊かになってくると、みんな狂ってしまったわけです。今、豊かさの中にいる人は、乏しくなった時に、乏しくなった時の道がわからないので、滅びる人がいます。自殺する人がいたり、強盗を働いたり、様々な犯罪に走る人が少なくありません
アブラハムは、富に執着しなくなった時、すなわち、どんなに富んでも、いつでも主の思いのままに、手放すことができるようになった時、神様はアブラハムに巨大な富を任せました。
イエス様もこう言っていますね。「あなたは小さなことに忠実だったので、大きな町を任せよう」と仰いました。彼は自分の手の上に、巨大な富を置かれても、また、愛する子イサクが与えられても、自分の手で握りしめませんでした。神の前に、いつも自分の手を開いたままにしておいて、いつ主が取り去られても、いいようにしておいたんです。これが富に固執しない秘訣です。
ヨブは次のように言いました。有名なことばですね。
ヨブ1:21 そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
ヨブもこの秘訣を心得ていましたね。誰でもみな、母の胎から出てくる時は裸であります。ひと財産をもって出てくる人はいない。着飾って出てくる人もいません。このことをわきまえていますね。しかし、いつの間にか私たちは、そういう心の状態ではなくなってしまいます。
パウロは、富むことにも、乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ている、と言いました。彼は富んでもそれを握りしめず、それに固執せず、それを誇らず、高ぶらず、その富を、主の働きのために用いたわけです。
彼は乏しくなってもつぶやかず、嘆かず、卑屈にならず、でした。ご存知のように彼は、初期の頃は、自分の生活のためにだけでなく、同労者や自分の弟子のための必要の一切を、自分で天幕づくりをして働いて主から受けたのです。
しかし、失敗した人もいます。イスカリオテのユダも、マタイ19章の金持ちの青年も、紫の衣を来た金持ちも、金持ちの農夫も、彼らは自分の富に執着しました。自分が飲んで食べて喜んで楽しんで、生涯を過ごそうと思いました。今も多くの人がそのように考えております。自分の生涯に必要な富を得るために精いっぱい頑張っております。そして悲惨な滅びに陥りました。つまり、人のたましいは、富では救えなかったわけであります。
私たちは、富や名誉が売り買いされているこの世で暮らしていますから、私たちもそういうものの一部を使って、生活で利用していますけれども、それらを握り締めてはいけません。自分の人生の目的にしてはいけない。それらを自由に振り回して生活することが、人間の生涯の目的となってしまってはいけない。それらは、私たちが地上で生活するために使う道具でしかありません。それらのものが、私たちを幸せにし、満足させるように錯覚させますが、実際は、ますます欲張りにし、争いや滅びをもたらせるものであります。
このような警告のお話をしても、富を求め続けている人が大勢います。大部分の人は、本気で心に留めないで生活しています。「そうは言っても」、「そうは言っても」と言うばかりです。それほどに人は、神様から遠く離れてしまっている。自分の生き方が分からなくなってしまっている。
主は、「富が生活上必要ない」と言われたのではありません。「神と富とに兼ね仕えることはできない」と言われたのです。「富を頼りにすれば、霊とまことをもって礼拝できない」と言われたのです。
マタイ6章24節を読んでみたいと思います。
マタイ6:24 だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。
アブラハムが天幕生活をした、というのは、一時この地上に住み、やがてはこの地上を去っていく、天の故郷、神の都をめざしている旅人である、ことを表しています。
全ての人は旅人であるけれども、旅人であることを忘れてしまっています。
天幕生活をしたという意味は、天幕は移動が容易なことから、神の導きに従順に従うことを表しています。
モーセの時代に、シナイの荒野を旅した時、雲の柱や火の柱が登ると、天幕をすぐにたたんで移動しました。雲の柱や火の柱がとどまると、そこに定着して、天幕を張って生活しました。これはモーセの時代ですけれども、その前から神様は導いておられます。
ですから、もし、アブラハムがパダン・アラムのカランの地で、大きな立派な石造りの、鉄筋コンクリートの家を建てて住んでいたら、果たして神様のご命令が下った時に、すぐに従ってカランの地を離れることができたでしょうか。
私たちは、いつでも主の導きに従うことができる様に、備えておきたいものです。
主は私の仕事を変えるかもしれませんし、住む所を変えるかもしれません。
私も仕事を変えましたし、住むところも何度も変えました。
あるいは、新しい友達が出来たり、ピリポのように新しい求道者に導かれることもあると思います。
全く予期していないことに、導かれることもあるでしょう。私やあなたを伝道者やキリストの証人として召されることもあるでしょう。その時、私は戸惑うかもしれませんが、すぐに従う信仰の準備が必要であります。
伝道者ピリポは、サマリヤでリバイバルの真最中に、主からガザの砂漠の道に行くように命じられました。ピリポはサマリヤのリバイバルに用いられていた中から、躊躇なく従ってガザに行きました。人里離れたガザに行って、そこでイザヤ書を読んでいたエチオピアの高官を救いに導き、エチオピアの教会の発端となりました。
もし、ピリポが躊躇していたら、エチオピアの高官と会う機会を逃して、エチオピアの教会の歴史は、大きく立ち遅れていたでしょう。
私たちは、自分が神様に従うことによって、どれほど大きな神様のご計画に組み込まれているか、を悟ることはできません。しかし、一人の人の忠実な従順な信仰が非常に大切なことは分かります。
アブラハムの生涯は、この地上のどんなものにも縛られていない、天幕生活であります。すなわち、主のご命令に従った移動の生涯でありました。
最後に、アブラハムはだれと一緒に生活したかを、お話します。
彼は、離別の生涯をたどりましたけれども、決して孤独で寂しくはありませんでした。
離別の生涯の中に、喜びと笑いとがあり、恵みと祝福が満ちております。
私たちは不信仰になると、神様に従う生活は孤独や悲しみや寂しさに取り囲まれているのではないかと思います。
しかし、そうではありません。喜びや笑いや祝福に満ちています。なぜでしょうか。それは、「同じ約束をともに相続するイサクやヤコブ」とともに生活していたからです。
3つほど聖書を読みましょう。
ガラテヤ6章10節「ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。」
自分中心になって人を批判したり、争ったり、分派したり、ということをすれば、この恵みは失われてしまいます。機会あるごとに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行なう。善とは、神の御心ですね。争いとか分裂とか、そういうことではない。良き交わりと、助け合おうとすることを、言っているんです。
第二テモテ2章22節「それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」
ここでも、「義と信仰と愛と平和を求めなさい」と言いました。それも、「主を呼び求める人たちとともに」です。私たちは、友人とする人を間違えてはいけません。本当に心から主を追い求めている人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい、と言っています。
本当にきよめの信仰を求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい、と言いました。
マタイ18章19~20節「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」
ここでも一人ではなくて、主にある交わりが大切ですね。心を一つにして、祈りあえる人が必要であります。二人でも三人でも、本当に心から主を礼拝する、共に礼拝する人が必要です。心を一つにして祈り、主の御名によって礼拝している者と共にいるべきです。
トマスは、主の復活の日の朝、どこに行っていたか分かりませんけれども、そこにいませんでした。ですから、主の復活を信じることができなかった。私たちは、いるべき時にいるべき所にいる、ということはとても大事なことであります。
共に交わる人を間違えることによって、信仰が曲がってしまう危険があります。ガラテヤのクリスチャンたちはパウロがいなくなると、そのあとに侵入してきた偽りの教師に従い、再び、ユダヤ主義の割礼に頼るようになっていきました。
どの人が偽りの教師なのか分からない人が、たくさんいます。自分に都合の良いことを言ってくれる人が、まあ、偽りの教師だと言って良いでしょう。自分が行き詰っている時、自分に都合のよいことを言ってくれる人を、素晴らしい先生だ、と慕っていきます。そうすることによって、信仰の道を間違えてしまう。
コリントの信者は、異教の習慣から離れなかったために、多くの人は回心したにも関わらず、異言とか分派意識によって分裂して、盛んだったにも拘わらず、ほとんど福音宣教に貢献しませんでした。共に交わる者を間違えてしまったからです。共に交わる者は、誰でもいいというのではありません。
アブラハムは「同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに」と言いました。
同じ約束を相続する者でなければならない。同じ約束というのは、天の故郷を意味しますけれども。新生経験もきよめの信仰もともに相続する、イサクやヤコブですけれども。そこのところを間違うと、とんでもないところに行ってしまいます。
イサクはどういう人だったでしょうか。
イサクは、主の約束の子供ですけれども、創世記22章のモリヤの山でのイサク献上の出来事では、お父さんのアブラハムの態度は、主への全き献身と、全き信頼のきよめの状態に達していただけではなくて、お父さんだけでなくその子イサクも、祭壇の上で自分のいのちを全く主に委ねきっている、きよめの状態に達しています。同じ約束をともに相続する人ですね。
親子ともどもに、きよめの恵みの信仰に立って、神の復活の約束を相続しています。こうでなければ、信仰生活で心からの祝福、恵みを経験することはできません。天の故郷を求める気持ちにならない。信仰にならない。この地上のものに、心を奪われてしまいます。
創世記22章7~12節を読んでみましょう。その時の場面が書いてあります。
創 22:7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」
22:8 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。
22:9 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。
22:10 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。
22:11 そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」
22:12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
このところに、言葉に書かれていない雰囲気が良く伝わってきますね。イサクもアブラハムも、心の中で何か通じているものがあります。
アブラハムは余計なことは、一切答えていません。話していません。その所の風景とか情景も、何も答えていません。ただ必要なことだけですね。「神様がいけにえを備えてくださる」と、そう言っただけであります。
全焼のいけにえとして捧げられる前のイサクも、神の約束の子どもでしたけれども、モリヤの山で祭壇のうえにささげられた後のイサクは、きよめられた信仰によって与えられた、約束の相続の子であります。ささげる前のイサクも約束の子ですけれども、ささげた後のイサクは、復活された約束の子であります。
ローマ8章17節をご一緒にお読みしたいと思います。
ローマ 8:17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。
これによって分かるように、同じ約束をともに相続するアブラハムとイサクは、同じ信仰の約束を相続していたことが分かります。
私たちも、なんでもいいから教会に来ていればよい、というものではありません。明確に、同じ約束を共に相続する、これが大事なことですね。
もう一方、ヤコブの方は、お兄さんのエサウから豆スープ一杯で、神の権利である長子の権利を買い取りましたけれども、創世記32章24節~31節で、受肉前の、人となられる前のイエス様と格闘して、もものつがいを外されました。ぺヌエルの経験と呼ばれていますけれども、そこでも、確かな約束の相続者になったことは確かです。
ヤコブは、豆スープ一杯で神の権利を買い取りましたけれども、それだけではなくて、イエス様と格闘することによって、ぺヌエルの経験によって、確かな約束の相続者になりました。このぺヌエルの経験も、きよめの経験です。
創世記32章24節~31節を、読んでみたいと思います。
創32:24 ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
32:25 ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。
32:26 するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなけ れば。」
32:27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」
32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」
32:29 ヤコブが、「どうかあなたの名を教えてください」と尋ねると、その人は、「いったい、なぜ、あなたはわたしの名を尋ねるのか」と言って、その場で彼を祝福した。
32:30 そこでヤコブは、その所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味である。
32:31 彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に上ったが、彼はそのもものために足を引きずっていた。
ここでも、同じ約束を相続した、と書いてありますけれども、ぺヌエルの経験をした。確かな、きよめ、の経験をしています。
アブラハムもイサクもヤコブも、三代揃って、同じ信仰の約束を継承しております。
アブラハムの家族が、信仰の一致を結んだことは、大事なことであります。
家族揃って教会に行っている、というだけではなくて、すべてのクリスチャンが目指すべきことであります。このことが、アブラハムの信仰生涯の恵みと勝利の鍵となっています。
家族を信仰に導くのを、難しいようにいう人もありますけれども、それが難しいのは、救いの教理を教え込んで説得しようとするからです。それは非常に難しいわけですね。心を開いていない人に、教理を詰め込んで、説得して納得させて、救われたことにしてしまう、それは不可能なことであります。難しいことをしようとするから、信仰を導くのが難しくなってしまうんです。当たり前のことであります。
家族を信仰に導くには、二つのことを家族の前に明らかにしておくことです。
一つは、いつでもみことばを信じて従っていることを見せておくことです。
つまり、イエス・キリストを信じるとは、実際に、具体的にはどうすることなのか。
イエス様のみことばを信じておればいいんだ、ということを見せておくことであります。
ことばの上で、「イエス様を信じなさい」と、いろいろ言っても、実際どうしてよいか分からない。本人も分からないし、聞いている人も分からない。それで救いの確信に到達しろ、というのは難しいことです。それで救いの教理を教え込んで、説得しようとします。そうじゃない、ということですね。
私が信じているのは、イエス・キリストのみことばを信じているんだということを、家族によく分からせておくことです。そうすれば聖霊が働いてくださいます。
教理の知識だけでは、聖霊が働くことができません。
もう一つは、教会に行っていればいいとか、洗礼を受ければ救われるという考えに陥らないで、神の愛を持って家族に表わすことであります。
そのようにして育てられた家族は、必ずイエス様を信じるようになります。同じ信仰の約束を相続することになります。
先ほどのアブラハムとイサクの会話のところを見ても、アブラハムは「神様が備えてくださる」と言いました。しかしアブラハムは、いつでもそうしていたわけではありません。アブラハムの家庭建設の面でも、エジプトの女奴隷ハガルを入れて、神の約束の子ではないイシュマエルを生んでしまいました。彼は信仰的にパーフェクトな生き方をしたわけではありません。
それでも、ここで三代にわたって、同じ信仰の約束をともに経験する者とともに生活できたことは幸いでした。このことは注目すべきですね。
これができるためには、毎回お話しているように、アブラハムもイサクもヤコブも自分中心の性質から解放されて、きよめられた信仰に到達しているからです。
これに対してアダムとエバは、神を恐れない息子のカインのゆえに、アベルを殺され、カインの子孫は暴虐の民になってしまいました。
敬虔な預言者のサムエルや、ダビデも、神を恐れない不信仰な息子たちによって、イスラエルの国にわざわいをもたらすほどの、大きな悲劇を経験しました。サムエルやダビデは、代表的な聖徒ですけれども、息子たちを信仰に導くのに失敗しております。
だから、難しい、というのかもしれませんが、私たちは、みことばと、聖霊と、神の愛を現わすことによって、必ず成功させていただけることは、新約の聖霊による特権的恵みであります。家族が、信仰で心が結ばれていることは、大いなる祝福を見ることになります。
そうした上で、信仰をともにする教会の家族との交わりも大切です。キリストの教会の交わりは、ただ集まってくる集会ではなくて、キリストの十字架の血によって買い戻された神の家族であります。
エペソ人への手紙2章19節を読んでみたいと思います。
エペソ2:19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。
アブラハムは寄留者と言っていますが、ここでは、もはや寄留者ではない、と言っています。神の家族になる。
つまりここで、霊的な神の国の模型が見られるわけです。アブラハムが到達しようと求めていた、神の家族がここにあります。
この世的な教会の姿ですけれども、永遠的な神の御国の前味わいであります。
また、キリストの教会の交わりは、キリストのからだ、だとも言いました。
エペソの4章15,16節を読んでみましょう。
エペソ 4:15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。
4:16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。
素晴らしいことが書いてありますけれども、ここに記されている「結び目」をしっかり結んだり、組み合わせたりする、というのは実際にはどのようにすることなんでしょうか。それが分かっていないと、この大切なみことばを活用することができません。
そしてそれは、すでにお話してきていることです。
「結び目」をしっかり結んだり、組み合わせたりする、というのは、
・互いに愛し合うこと
・互いに赦しあうこと
・互いに分かちあうこと
・互いに助け合うこと
・互いの重荷を分かちあうこと
・互いに徳を建てあうこと
・主を喜ばせること
・何をするにも、主に仕える心ですること
これが「結び目」をしっかり結んだり、組み合わせることであります。なんだ、そんなことか、と思われるでしょう。そういうことを何百回と聞かされてきていることです。しかし、これを一つ一つ実行することが、「愛の結び目」をしっかりと結ぶことになります。
そのようにして、キリストのからだは成長していくんです。私たちは、具体的にすることを通して、キリストのからだがしっかりと結びついていきます。
そうでないと、言葉や口先だけの信仰は、熱心で話が一致しているように見えていてもバラバラであります。キリストの血潮による結び目がないんです。
確かに私たちはこれを実行しています。しかし、その一方では、他人の弱点や、欠点や、駄目な点を批判しやすいし、裁いてしまいやすくはないでしょうか。
それが愛によって、徳を建てる上げるために活用されるなら、素晴らしいことです。しかし大半は、うわさ話や批判で終わってしまいやすい。キリストの身体を立てあげるために活用されていないなら、まさに残念なことであります。
他人の欠点をあげつらうようになれば、喜びも平安も愛も失われていきます。そして互いにこう言うんです。「そういうあなたにも、こういう欠点がある」と、言い争いが始まります。
マタイ7章1節、2節を読んでみましょう。
マタイ 7:1 さばいてはいけません。さばかれないためです。 7:2 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
こう警告されています。なかなか信仰が活用されないと、結び目がしっかりと結びあわないんです。ですから、毎日、愛の結び目をしっかりと結びましょう。
アブラハムの信仰は、マタイ19章の金持ちの青年のように、儀式や戒めを規則として守っていたのではなく、主に対して愛を現わす行為を行っていました。
ガラテヤの3章7節~9節も読んでみたいと思います。
ガラ 3:7 ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。
3:8 聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される」と前もって福音を告げたのです。
3:9 そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。
聖書の啓示は、アブラハムの時代からすでに、異邦人もその信仰によって義と認められる、ということを知っていたんだと書いてあります。旧約だから、啓示が定まっていたわけではありません。アブラハムの時代からすでに、異邦人も信仰によって救われることが、神様の御心の中に計画されていたことが分かります。
ガラテヤの6章9節、10節を読んでみましょう。
ガラ 6:9 善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。
6:10 ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。
アブラハムの時代に、全ての人にそう言ったわけですが、特に信仰の家族の人達に善を行いましょう、と言いました。それが証しになるからですね。家族の人たちや、周りの人たちへの証しになるからです。
私たちは、アブラハムの信仰を受け継ぐ、神の家族の人々との交わりによって、大いなる慰めや励ましや、祝福を受けてきました。
特に教会の集会は、みことばを通しての交わりがあります。
最近85歳の姉妹から、お手紙を頂きました。その中にこういうことがありました。
「・・・・聖書は読むだけではなく、聖書と交わりたい。・・・・」と言われておりました。聖書を通して、神様と交わりたい、ということですね。
「聖書通読」と言って、読むだけで終わっていない、こういう事が分かっておられる方がいるというのは、嬉しいことです。
祈りを通しての交わりもあります。祈りは、神との交わり、いのちの交流であるとともに、とりなしの祈りを、お互いの重荷を、分かち合う交わりでもあります。これらが中断すると、信仰は急速に衰えます。霊のいのちの交流が、断たれてしまうからです。
もし教会の集会を休んでも、イエス様に対して何も感じなかったり、教会に来ているあの人どうしているかなと、それが気になるだけであるならば、その人の魂は死んでいるかもしれません。生けるイエス様にお会いできなかった一週間は、心に大きな空洞を感じるはずだからであります。
ですから、イエス様は「2,3人がわが名によって集まるところに、わたしもそのなかにいる。」と仰いました。信仰は、一人だけでは全うできません。
それでクリスチャンは、家庭においても教会においても、「共に礼拝をささげる、共に祈りあう、共に重荷を分かち合う神の家族、信仰の家族」の交わりを持つことが大切です。
アブラハムの定住の生活から三つのことをお話しました。
第一は、神のみことばに従い、イエス・キリストにとどまる生活をすること。
実を結ぶためにはキリストにとどまり続けること。キリストのみことばと十字架の愛にとどまり続けること、であります。これは「まことの葡萄の木」の話のところでもイエス様は仰いました。
第二は、この世の形あるもの、富や地位や名誉に心をとらわれない生活をすることです。これには、肉の欲からきよめられなければなりません。
アブラハム、イサク、ヤコブは、ともに、それぞれのきよめの経験を持っていたことは非常に大切な要素であります。そのために主は、創世記17章1節後半で、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」と命じられました。このみことばによって、主はアブラハムとの契約を更新されました。
「全き者であれ」とは、きよめられた者であれ、ということであります。真の幸福の源である神様は、私たちに、主にとらえられた生活をすることを求めておられます。
ダビデが言ったように、いつも「自分の前に主を置いた生活」をすることであります。
第三は、信仰の家族の交わりを絶やさないことであります。
聖書を読むだけでなく、覚えるだけでなく、理解するだけでなく、先ほどの方と同じように、みことばを味わい、みことばと交わり、祈りによる主との交わりを、現実にコツコツとやっていくことであります。
互いに批判するのではなく、互いに赦しあい、助け合い、重荷を負いあい、主に仕えるように、互いに仕えることを通して、私たちは主の愛を証しすることができます。
主の栄光を現わすことができます。
これらの三つの点は、私たち信仰生活を最も実り多きものにするのに、欠かすことができない要素であります。
今週も新しい月が始まりますけれども、私たちもこのことをやらせていただきたいと思います。まさに神様が共に歩いてくださる。
同じ信仰を相続する者として、良き交わりと信仰の証しをさせていただきたいものです。
お祈り
恵みの深い天のお父様、こうして私たちを信仰の道に導いて下さり、また、共に交わり、イエス様とともに歩んでいく信仰の道を示してくださって、心から感謝いたします。
クリスチャンは、思いの中だけで信じているのではなくて、その生活全体を通して、主とともに歩む生活、共に交わり、共に重荷を負いあう生活を通して、主を証しすることができます。
私たちの家族や周りの人達にも、あなたの恵みを必要としていますので、通りよき管となってご奉仕ができますように助けてください。
私たちの信仰の明確さが証しとなりますように、助けてください。
また今週も、いろいろな出来事が起きると思いますけれども、聖霊の助けが与えられますように。
尊いイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン。
地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明
<今週の活用聖句>
創世記17章1節
「・・・わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」
地の塩港南キリスト教会
横浜市港南区上永谷5-22-2 TEL/FAX 045(844)8421