音声:信仰の列伝(16) サラの信仰(1) 「神は真実な方」 へブル人への手紙11章11~12節

2016年11月13日 (日) 午前10時半
礼拝メッセージ  眞部 明牧師

へブル人への手紙11章11~12節
11:11 信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。
11:12 そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天の星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。

<インフォメーション>
アブラハムとサラから、主の約束の子として生まれるイサクは、ただアブラハムとサラの夫婦の間に生まれた子であるというだけでなく、神の民の約束を受け継ぐ子孫、信仰を受け継ぐ子孫、神の御国を受け継ぐ子孫、天の故郷を受け継ぐ子孫であることを、アブラハムとサラに分からせるだけでなく、全ての人にイサクは、神の信仰を受け継ぐ子孫の始まりであることを分からせるためでした。
この目的のために、アブラハムとサラに、子どもを産む可能性が完全になくなることが、だれの目にも明らかになる日を待っておられたのです。
「ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、『あなたによってすべての国民が祝福される。』と前もって福音を告げたのです。そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。」(ガラテヤ3:7~9)と、パウロもこのことを重要視しています。
それ故、アブラハムとサラの直面した苦難は、私の信仰と深い関係があります。このことを、私は自覚すべきです。
そのような重要な理由と目的のために、主は、アバラハムとサラに人間的可能性がなくなるまで待っておられたのです。
人間的可能性が全く絶える時、即ち人間が誇るものが何もなくなる時が、神のみわざが行なわれる、神の時です。
人間の能力や努力では、どうにもならない状況に至る時、神の時なのです。その時、私には誇るものが何もなく、決して主の栄光を奪うことはありません。
「行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:9)
「これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。」(コリント第一、1:29)
信仰と愛の働きをして、少しも自分を誇らず、主をほめたたえ、主に栄光を帰しているなら、私たちも主の祝福を必ず受けるようになります。主は、私が自分を誇っているのを、最も嫌がられ、悲しまれ、祝福できないのです。
しかし、自分に力の可能性が全くなくなった時、大抵の人はどうするでしょうか。
アブラハムやサラのように、望み得ない時に、それでも望みを抱いて、神の約束を信じ続けて、主に従うでしょうか。
もし、そのように信じて従えば、周りの人々は何と言って嘲笑うでしょうか。きっと信仰を、けなし、私を愚か者扱いするでしょう。それ故、大抵の人は、いやほとんど全員が、諦めてしまい、神の約束を捨てて、不信仰になって、神から離れてしまうのです。
一度イエス様を信じたクリスチャンが、イエス様から離れて、不信仰になっているのは、神の約束のみことばを信じ続けていないからです。まことに残念ですが、このような人が多いのです。
しかし、サラは人間的に究極の不可能な状況に置かれたのに、「彼女は約束してくださった方を真実な方と信じた」のです。
サラは、真実な信仰は、人間的に全く不可能な状況の中でも、なお神のみわざが行なわれることを証ししたのです。
私たちの日ごとの生活の中での信仰の活用も、どんな状況の中でも、神がみわざを行なってくださることを証ししているのです。主はご自分の栄光を現わされるために、私の力の可能性がなくなる時を待っておられるようです。
私の努力や能力で手の届く可能性のある間は、神はみわざを行なわれないことが多いようです。

<今週の活用聖句>
へブル人への手紙10章35~36節 「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」

写真は、アメリカのthe Providence Lithograph Companyによって1906年に出版されたBible cardのイラスト「Sarah and Abraham hosting three angels(3人の天使をもてなすサラとアブラハム)」 (Wikimedia Commonsより)

地の塩港南キリスト教会
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