音声+文書:信仰の列伝(16) サラの信仰(1) 「神は真実な方」へブル人への手紙11章11~12節

アメリカのProvidence Lithograph Companyによって1906年に出版されたBible card「Sarah and Abraham hosting three angels(3人の天使をもてなすサラとアブラハム)」 (Wikimedia Commonsより)

2016年11月13日 (日) 午前10時半
礼拝メッセージ  眞部 明牧師

へブル人への手紙11章11~12節
11:11 信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。
11:12 そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天の星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。

はじめの祈り

「彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。」
恵みの深い天のお父様、恵みの内に一週間の旅路をお守りくださり、もう一度主を礼拝する場に導いてくださって、新しい礼拝の祭壇を築いて、この年末の時を迎えようとしています。クリスマスの時に近づいていますが、御霊が働いて下さり、この一週間の旅路へと導いてください。
いつでもあなたは、みことばを行って下さり、真実なお方であります。
今日も、そのお方が私たちを導いてくださることを感謝いたします。
また、この時、困難の中にある方にも助けを与えてください。
イエス様を、渇いて求めることができ、あなたの御心のなすべきことができますように、真実な方を信じることができますように、顧みてください。
この時を主の御手にゆだねて、尊いキリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン。


これからサラの信仰についてお話ししますが、今日は「神は真実なお方」という題でお話しします。

サラも多くの試みを経験して、神様は約束されたことを必ず成就される真実なるお方である、人には不可能なことでも可能にしてくださるお方である、そういう神様を信じる信仰に、サラは到達しました。これは簡単に到達したわけではありません。多くの試みを経験しております。

聖書は、簡潔に結論だけを書いていますが、アブラハムもサラも、多くの失敗を繰り返して後、この重要な信仰に到達したわけであります。
ですから、私たちは、信仰を安易に考えないようにしたいと思います。安易な信仰に陥らないようにしなければなりません。安易な信仰とは、教会に行っているから大丈夫だろう、とか、洗礼を受けたから信仰がある、とか、そういうことだけで自己満足に陥らないようにしていただきたい。

アブラハムやサラは、決して安易な信仰に満足していたわけではありません。この点で、私たちは、何も困らないような思いの中で生活していて、安易な信仰に陥ってしまいやすいわけであります。

約束を守られる真実な神を信じる信仰と、人にはできないことを成就される全能の神を信じる信仰は、聖書全巻を通して流れている中心メッセージです。
アブラハムが不信仰になって、主の約束を待てずに、エジプトの女奴隷ハガルからイシュマエルを産んでしまった時、主はアブラハムに13年間沈黙されました。その後、突然、主はアブラハムに「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」(創世記17:1)と仰せられました。

主は、私が主に不信仰になり、不服従になると、アブラハムの時と同じように、祈っても聖書を読んでも、熱心に御心を行っても、答えてくださらなくなります。
イスラエルの初代の王のサウルが、神様に不従順になった時、祈っても何をしても神様は答えてくださらなくなりました。彼は、くちよせにも、地上を去ったサムエルにも頼っておりますけれども、何をしても、かにをしても、神様は答えてくれなくなりました。

みことばの光も消えてしまい、神様との愛の交わりも消えてしまい、こころの平安も失われてしまいます。それは神様が沈黙されているからであります。髪の毛を切られたサムソンのようになってしまうわけです。
しかしそれでも、主は、アブラハムとサラを見捨てられたわけではありません。

主は13年も沈黙を守られました。
祭壇を築いても、祈っても、いけにえを捧げても顧みてくださらない日々が続くと、神様はもう見捨てられたのではないかと、大方の人は思ってしまうでしょう。

主は13年の懲らしめの後、アブラハムに再び御声をかけてくださいました。神の沈黙を、私たちは、神に見捨てられた、と思いやすいですが、そういう誤った考えにも、陥らないで頂きたいと思います。

まあ、13年も沈黙を守らなければならないような罪の生活を送ることは、危険でありますけれども、しかし、この間のアブラハムたちの生活は、毎日毎日が虚しかったでしょう。この虚しい期間を、短くする方法を私は知りません。ただひたすら、忍耐して、主に忠実に歩むしかない。
しかし、大方の人は、この13年の間に、信仰を失い、主から離れていってしまう、そういう危険があります。教会には繋がっているかもしれませんけれども、心の中から、神の神殿の栄光が失われてしまう。

エゼキエル書の中には、神の栄光が失われて、また回復する記事が出ておりますけれども、信仰を失って主から離れてしまう、そうならないように罪を犯さないようにしたいものです。
それでも罪を犯してしまったらどうするか。第一ヨハネ2章1節にありますように、私たちを弁護してくださる義なるイエス・キリストを信じて仰ぐことですね。すぐに、間を置かずにキリストを仰ぐことであります。

さて、サラの話に帰りたいと思います。
創世記の18章9~15節で、主がアブラハムに「あなたの妻サラには、男の子ができている。」と言われた時、サラはそれを天幕の入口で聞いておりました。
そして心の中で笑ったわけです。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」と言って心で笑ったと、書かれています。

これに対して主は、「主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」と言われました。
サラは慌てて、「私は笑いませんでした」と主を恐れて打ち消していますけれども、主は「いや、確かにあなたは笑った。」とサラの心を見抜いておられます。
サラは、不信仰の思いに取りつかれていたんですね。
ここで主はご自身を、「主に不可能なことがあろうか」と、ご自身が、必ず約束を成就される全能の神、エルシャダイであることを明確に啓示されました。

ここで、民数記の11章23節をお読みしたいと思います。これはイスラエル人が肉を求めた時の話であります。
民11:23 主はモーセに答えられた。「主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる。」

イスラエルの民がシナイの荒野を旅していた時、毎日与えられていたマナに飽きて、「ああ肉が食べたい。エジプトでは良かった」と言ったとき、主は、「一ヵ月間も、鼻から出て来て、吐き気を催すほどまで、肉を食べさせる」と言われました。
肉を与えられることは祝福ではありません。
「それは、あなたがたのうちにおられる主をないがしろにして、御前に泣き、『なぜ、こうして私たちはエジプトから出て来たのだろう』と言ったからだ。」

これに対する神のお怒りが、うずらの肉を食べさせられる記事になったわけです。
これに対してモーセは、人間的判断をしてこう言いました。
「私といっしょにいる民は徒歩の男子だけで六十万です。しかもあなたは、彼らに肉を与え、一か月の間食べさせる、と言われます。彼らのために羊の群れ、牛の群れをほふっても、彼らに十分でしょうか。彼らのために海の魚を全部集めても、彼らに十分でしょうか。」とモーセは、主に申し上げたわけです。

これに対する主のお答えが、「わたしの手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる。」というみことばでした。
このみことばは、全能の神を啓示しております。このみことばには、イスラエルの民に対する神の怒りを感じます。また、モーセの人間的計算に対して、主が不満を現わしているようにも感じます。六十万の人に、連れている羊や牛の肉じゃ足りないし、海の魚を獲っても十分でしょうか、と言っています。全能の神を侮ることに対する不満を、表わしているようにも見えます。

これと同じことが、ヨハネ6章1節~13節でも記されています。
よくご存知の、一人の少年が五つのパンと二匹の魚を主イエスにささげたとき、弟子のアンデレは人間的な計算をして、イエス様にこう言いました。「こんなに大勢の人々では、それが何になりましょう。」

とかく私たちも、同じような計算をしてしまいがちであります。
主イエス様が、全能の神様であられることを忘れがちになってしまう。これは主を悲しませることであります。大変申し訳ないことであります。

この点で、サラの信仰は見事でありました。神様は、信仰が足りない、不足している部分を、神のみわざを受けるにふさわしい者になるために、サラの信仰を成長させてくださっておりますね。これには、きよめの信仰が必要であります。

マタイ19章の金持ちの青年が、悲しんでイエス様のもとを去って行った時に、イエス様は有名な言葉をお語りになりました。「金持ちが天の御国に入ることは難しいことです。金持ちが神の国に入るより、ラクダが針の穴を通る方がもっとやさしい。」

それを聞いた弟子たちは、主の救いを受ける困難さに驚いて、「それでは、誰が救いを受けることができるのですか」と言いました。多分弟子たちの心には、あの青年のような模範的な人が救われないとしたら、一体だれが救われるのだろう、と困惑したのです。教会で、聖書をよく読んでいる、律法も守っている、献金もしている、お祈りもしている、そういう人が救いを受けるのは困難だと言ったら、一体どのような人が救われるのだろうかと、困惑したわけであります。これもまた、人間的な目で判断しております。イエス様は、罪びとを救うために来られた、と仰いました。取税人のザーカイが救われ、姦淫の女の人が救われ、ベテスダの男も救われている。

これに対する主のお答えは「それ(主の救い)は、人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできるのです。」と仰いました。
ここでも、イエス様が全能の神であることを啓示されています。私たちは、人間的な知恵と考えで、あんな立派な人が救われないなら、誰が救われるだろうかと考えやすい。ですから私たちはみな、全能の神様を信じなければならないことが分かります。

マルコの9章16節~27節でも、重症の病の息子を持つ父親がイエス様に言いました。「この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に放り込みました。もし、おできになるのなら、私たちをあわれんで、お助けください」と言いました。
するとイエス様は言われました。
「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」と、お叱りに似たことばを仰いました。
するとすぐに、その子の父親は叫んだんです。「信じます。不信仰な私をお助けください」と叫んだんです。

彼の叫びが変わっていることが、分かりますね。
最初の求めは、息子の病が癒されること、しかも、おできになるなら憐れんでお助けください、と言っていますが、二番目の求めは違いますね。「不信仰な私をお助け下さい」と叫んでいます。もはや息子のことが問題になっているのではなく、自分のことが問題になっています。

主は、期待するだけでは、みわざを行うのに十分な信仰になっていないことをお示しになりました。
また、この父親は、息子の病気に困難な原因があると思っていて、自分の内に全能の神である主を信じきっていない不信仰があることを示されております。自分の不信仰に気づいておりませんでした。

エリサベツは次のように言いました。ルカの1章45節を読んでみましょう。有名なことばです。旧約聖書も、新約聖書の聖徒たちもこのことばに達した時にみわざが行われています。
ルカ 1:45 主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」

「必ず実現すると信じ切った人」というのは、期待の信仰ではありません。
「もしできることなら」というのは、期待を含んでいる信仰かもしれませんが、期待の信仰では、全能の神の御手を動かすことはできません。

私のみことばの信じ方は、期待の信仰にとどまってはいないでしょうか。
私の祈りは、「こうなったらいいな」という願いで、とどまっていないでしょうか。
これでは、主から「できるものならと言うのか。」「どうして信じ切らないのか。」「不信仰が残っていませんか。」「信仰が薄いのではありませんか。」と言われてしまいます。
私の信仰と見られるものの中に、わずかに不信仰が残っていると、全能の主はみわざを行うことができません。

しかし聖書の記録は、全能の神のみわざで満ちております。
どの一つも、盲人の目を開かれたり、足の不自由な男を立ち上がらせたリ、ザアカイをお救いになったり、ラザロをよみがえらせたり、どれもこれも全能の神の力が満ちておられます。
主は、主のみことばを信じ切った信仰によってしか、みわざを行ってくださいません。
私は、この信仰を用いる特権を持っているのに、自分の考えと力に頼って、「もし何かできるのでしたら」と言ったら、神様の力を用いていないことになってしまいます。
私の信仰が、知識や納得で止まってしまっていて、毎日の生活の小さなことの中に、実際に活用されていないからではないでしょうか。

ヨハネが言ったように、ことばや口先だけの、いわゆる主知主義の信仰には、力がありません。
第一ヨハネの3章18節をもう一度、読んでみたいと思います。
Ⅰヨハネ3:18 子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。

イエス様の全能の力を経験するには、どうしたらよかったのでしょうか。
あの一人の少年は、二匹の魚と五つのパンを、自分のお弁当を、イエス様にお捧げしました。そのことによって、彼は主の全能の力を経験しました。彼は、難しいことや大がかりなことをしたのではありません。本当に小さなことをしたんです。
ですから私たちは、毎日の生活の中で信仰を活用することで、日常の小さな出来事の中に信仰を活用することを通して、誰でもが主の全能の力を経験することができます。
考えていることではなくて、理解や納得でとどまっているのではなくて、あなたが今、持っていることを通して、信仰を活用することであります。

聖書中の信仰者は、人間の作家が創作したドラマの主人公ではありません。彼らは私たちと同様に、実際にこの世に生き、悩み、苦しみ、迷い、怖れ、不安になり、失敗し、誘惑に負け、罪に陥り、わざわいや苦難を受け、祈っても祈っても答えのない暗い、長いトンネルを経験してきた人達です。私たちは聖書の中の人物を、特別な人と思いがちですけれども、そう思ってはなりません。その中で、信仰によって生きる、信仰によって苦難を一歩一歩乗り越えていく、迫害を耐え忍び、信仰によって神の都を待ち望んだ人達、それが聖書の中の人々であります。彼らは私たちと同じ道を歩んでいるんです。
聖書中の信仰者たちは、どんなに困難な障害物があっても、信仰を最も大切なものとして手離しませんでした。これが「神の国と神の義とを第一に求める」ことです。

このように信仰を大切にし、手離さず、神の国とその義とを第一に求めていけば、主は私の歩む道をまっすぐにし、歩きやすいように平らにしてくださるでしょう。
箴言3章6節を読んでみましょう。よく知っていることばです。
箴言 3:6 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

どこかに行かなければならない、というのではありません。あなたがすること何でも、あなたが考えること何でも、あなたが期待すること何でも、そこに主を認めよ。主の臨在を経験しなさい、ということです。そうすればあなたが、歩きやすいようにしてくださる。全能の神を見出すことができます。

さてここで、サラの記事から四つのことをお話したいと思います。

第一に、サラは、どういう状況にあったか。
第二に、サラは、どういう信仰を持っていたか。
第三は、何を受けたのか。
第四は、その結果は何であったか。

まず第一に、サラは、どんな状況にあったのでしょうか。

アブラハムとサラは、二人から神の民という新しい民族が生まれてくる、という神の約束を受けていました。しかし現実には、サラには、その神の約束を実現させるための子供が、一人もいませんでした。
神様のお約束をちょっと読んでみたいと思います。創世記12章2節です。
創 12:2そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。

繰り返されていますね。大いなる国民とする、祝福する、あなたの名を大いなるものとする、あなたの名は祝福となる、こう言われています。

創世記の17章2節~7節も読んでみましょう。ちょっと長いですけれども。
創17;2わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」
17:3 アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。
17:4 「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。 17:5 あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。
17:6 わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。
17:7 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。

おびただしく増やそう。多くの国民の父とする。あなたの子孫をおびただしく増やし、幾つかの国民とする。一民族だけではありませんね。あなたから王たちが出て来よう。支配者たちが出てくる。永遠の契約、ということです。後の子孫の神となる。繰り返し繰り返し、アブラハムとサラから生まれてくるその子の子孫がどういう祝福を受けるか、という約束をしておられます。
それなのに、その約束を実現する一人の子供もいなかったわけです。

創世記17章15節~16節も読んででみましょう。
創17:15 また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。
17:16 わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」

「彼女は国々の母となる。国々の王たちが彼女から出て来る」、と言っています。
このサラの経験を通して学ぶべきことは、真実な信仰者にとっても、自分に与えられた神様のお約束がなかなか実現しないと、どんな人でも危機に陥るということです。
やがて、自分の知恵と力と考えに頼りやすくなります。こういう事ではないか、ああいう事ではないかと、推測するようになります。この危険は誰にも起きうることです。ですから、毎日、毎瞬、みことばと聖霊に信頼していることが必要であります。主から目を離さないでいなさい、とヘブル書には書かれています。目を離すとそこに陥ってしまいます
主は、時には、私たちの信仰の限界までも試みられることがあります。聖書に書かれていることは、特別な実例ではなくて、いつでも私にも起きうることを教えているんです。このことに心を留めておいてください。

さらに、サラには第二の状況がありました。ヘブル11章11節には、「サラもすでにその年を過ぎた身であるのに」と書いてあります。

創世記17章17節では、彼らの年齢が書いてあります。
アブラハム100歳、サラ90歳。当時としても、この年齢はすでに子供が生まれる年齢を過ぎている、と考えられていました。

ヘブル11章12節では、アブラハムについて「しかも死んだも同様のアブラハムから・・・」と言っています。
ローマの4章19節では、アブラハムとサラについて、「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても・・・」と記されています。
アブラハムとサラは、二人とも、自分のからだが年齢的に、死んだも同然であることを認めざるを得ない状況にあったことを知っていました。

このことは、アブラハムとサラの信仰にとって、どんな意味を持っているのでしょうか。どんな打撃を与えたんでしょうか。どんな信仰が要求されているんでしょうか。
神様が、ここまでアブラハムとサラを試みられた理由、目的は何だったのでしょうか。
なぜ、アブラハムとサラがもっと若い時代に、神様はイサクを与えなかったのか。

後世の私たちが、こうしてお話をするだけなら、考えるだけであるなら、それはたやすいことですが、当事者にとっては、アブラハムとサラは百歳と九十歳で、言うに言われぬ苦難であったはずです。
私たちは聖書を学ぶ時、ただ考えるだけの考察に終わらせるのではなくて、実際に地に足をつけて歩いた人物がいた、ということを忘れないようにしたいと思います。

その答えはこうです。

第一に、アブラハムとサラから、主の約束の子として生まれるイサクは、ただアブラハムとサラという夫婦の間から生まれた子どもである、というだけではないということです。イサクは第一に、神の民の約束を受け継ぐ子孫です。
第二に、信仰を受け継ぐ子孫である。
第三に、神の御国を受け継ぐ子孫である。
第四に、天の故郷を受け継ぐ子孫である。

このことを、アブラハムとサラに分からせるだけではなくて、後世の私たちにも、すべての人に、イサクは神の信仰を受け継ぐ子孫の始まりであることを、よくわからせるために、ここまで、アブラハムとサラの信仰を試みられたのです。
この目的のために、アブラハムとサラに、子どもを産む可能性が完全になくなっていることが誰の目にも明らかになる日を、主は待っておられました。

ガラテヤの3章7節~9節をご一緒に読んでみたいと思います。これは簡単なことではありません。
ガラ3:7 ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。
3:8 聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される」と前もって福音を告げたのです。
3:9 そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。

パウロもこのことを重要視しております。そうでなかったならば、アブラハムとサラのあいだに生まれた子どもさんだけだったら、神の祝福を受け継ぐ、信仰を受け継ぐ子孫でなかったら、私たちはアブラハムとなんの関係もなくなってしまいます。
それゆえ、アブラハムとサラが直面した苦難は、今の私の信仰と深い関係があります。
このことを自覚するべきです。そのような重要な理由と目的のために、主はアブラハムとサラに人間的可能性が全くなくなるのを待っておられました。

人間的可能性が全くなくなる時、すなわち、人間が何も誇ることがなくなる時が、神様のみわざが行われる神の時です。その時を待っておられました。人間の能力や努力ではどうにもならない状況にいたる時、その時が神の時であります。その時、私には何も誇ることがなく、決して主の栄光を奪うことがありません。

2箇所、聖書を読みましょう。

エペソの2章9節 「行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」

第一コリント1章29節「これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。」

信仰と愛の働きをしていて、少しも自分を誇らず、主をほめたたえ、主に栄光を帰しているなら、私たちも主の祝福を必ず受けるようになります。なぜなら私たちはアブラハムの子孫だからです。
主は、私が自分を誇るのを、最も嫌がられ、悲しまれ、祝福できなくなります。

自分に力の可能性が全くなくなった時、大抵の人はどうするでしょうか。
アブラハムやサラのように、望みえないときに、それでも、望みを抱いて、神の約束を信じて、主に従うでしょうか。もしそのように信じて従えば、周りの人は何といって嘲笑うでしょう。きっと、信仰をけなして、私を愚か者扱いするでしょう。ですから,大抵の人は諦めてしまい、神の約束を捨てて、不信仰になって、神から離れてしまうのです。自分の都合のいいことを言ってくれる人のところへ、行ってしまうのです。

一度イエス様を信じたクリスチャンが、イエス様から離れて道を外してしまうのは、神の約束のみことばを信じ続けていないから、毎日の信仰生活で信仰を活用しなかったからです。真理のみことばを、聖霊のみわざを体験することができなかったんです。自分の知恵と力で考えて理解しようとし、納得しようとしたんでしょうけれども、残念ながら、こういう人が多いのです。

しかし、サラはそうなりませんでした。人間的に究極の不可能な状況に置かれたのに、「彼女は約束してくださった方を真実な方と考えた」と記してあります。

神様のみわざは行われない、そういう恵みはないんだ、とか、そういうふうに言わなかったんです。サラは、真実な信仰は、人間的に全く不可能な状況の中でも、なお神のみわざが行われることを証ししました。

ですから、私たちの日ごとの生活の中での信仰の活用も、二匹の魚と五つのパンの信仰の活用も、冷たい水一杯を与える信仰の活用も、どんな状況の中でも、神がみわざを行ってくださることを証ししているものなんです。

主はご自分の栄光を現わすために、私の力の可能性がなくなる時を待っておられます。
私が雄弁で、どう説明したらよいかすべて分かって、いつも適切な言葉を語る、そういう状況になったら自分を誇るかもしれません。
何を話していいか分からないし、何を祈っていいか分からないし、どうしたらよいか分からない。そういう時は神が働くチャンスであります。
私の能力や努力で手が届く可能性がある間は、神はみわざを行われないことが多いようであります。なぜでしょうか。それは、私がこんなによく働いたから、私の説明が上手だったからと、神のみわざを、私がやったと言いやすいからです。私が神の栄光を奪いやすいからです。

これで、神様がなぜ、アブラハムが百歳になるまで、サラが九十歳になるまで、待っておられたのか分かります。主はご自分の栄光を現わすために、人間的可能性が全くなくなる時が来るのを待っておられたのが分かります。このことは、アブラハムとサラの信仰を激しく、厳しく、揺さぶり、試み、信仰の試練となり、訓練となりました。
神は、私が、神を選ぶか、自分の知恵と力を選ぶかを、試みられるお方であることを知らなくてはなりません。私の選び方次第で、神の約束の祝福を受けるか、遠く離れさせてしまうかが決まります。

ヘブルの10章35節~36節をお読みさせていただきましょう。
ヘブル10:35 ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。
10:36 あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。

アブラハムとサラは神様の召しに従って、カルデヤのウルから出て、パダン・アラムのカランからも出て、荒野と砂漠の旅をつづけました。これだけでも、みこころに従う信仰が必要です。その信仰の先に、さらに大きな報いが備えられています。
私たちの信仰にも、義の栄冠が備えられている、とパウロは言いました。しかし、その大いなる約束の報いを実際に手に入れるためには、最後の信仰の試練を、成し遂げる忍耐が必要です。

アブラハムとサラの信仰の究極の学課は、後でまたお話しすることですけれども、イサクをモリヤの山でささげる愛の試みでしたが、イサクを受けるための信仰の学課は、忍耐であります。
イサクを受ける時に試みられ、イサクを捧げる時もまた試みられています。

忍耐は、信仰の究極に近い学課のひとつであります。アブラハムの信仰は、極まりつつあります。アブラハムとサラは、真実に神のみこころを行ったうえで、さらに忍耐の試練を受けたのです。これは知識や理解の学びではありません。もはや聖書研究ではありません。

私たちは、毎日、主のみこころを行っていても、主に従っていても、何も神のみわざが行われない。毎日祈り続けても何も答えられない。苦難の中で、一人取り残された状態が続く。その中でひたすら、主に信頼し、信仰を積極的に持ち続けることが、忍耐です。忍耐は、信仰の働きによって訓練され、成長する、とパウロは言いました。

最後にローマ5章 3節~5節をお読みしましょう。
ローマ 5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

ここには試練の訓練の道筋が記されていますね。まず患難があり、忍耐があり、品性が練られ、希望があり、信仰の活用を通して訓練されていく。最後は、聖霊によって神の愛が心に注がれる、と書いてあります。
アブラハムがイサクをささげる時に、最後に試みられたのは神の愛であります。

この学課はまだ続くわけでありますけれども、私たちも自分の力を誇らないで、自分が何をしているか分からないし、何をしたらよいかも分からないし、そういう時に、私たちはどうすればいいのか。そこから逃げ出してしまうのではなくて、捨ててしまうのではなくて、神の時、全能の神様が働いて下さる時であることを、深く信頼して、自分の目の前に置かれている信仰を、活用させていただきたいと思います。

お祈り

恵みの深い天のお父様、私たちにも、日々に与えられている信仰を活用する機会がたくさんございます。
苦難にぶち当たっても、どうしていいか分からなくなった時、それを投げ出すことではなく、立ち去ることではなく、イエス様から目を離すことではなくて、より深くイエス様に従い、イエス様に信頼して、与えられた働きを信仰を持って証ししていくことでございます。
御霊が働いてください。
神様はアブラハムが百歳になるまで、サラが九十歳になるまで待っておられました。
そのことを通して、神はご自分の計画を必ず成し遂げられますので、神の栄光を現わすために、その時を待っておられたわけです。
私たちもその真理を深く悟って、今も変わらない神様を証しさせていただきたいと思います。
今週の旅路もお守りください。
病の中にある者にも一人ひとり、助けを与えてください。
心渇いている人達もお救いください。
尊いキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明


音声と文書:信仰の列伝(全51回)へブル人への手紙11章 目次


<今週の活用聖句>
へブル人への手紙10章35~36節 「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」

地の塩港南キリスト教会
横浜市港南区上永谷5-22-2 TEL/FAX 045(844)8421