音声+文書:信仰の列伝(15) アブラハムの信仰(5) 「神の都を待ち望む」

フランドル(ベルギー西部を中心とする地方)の画家 Petrus van der Borcht (c. 1530–1608)により描かれた「A new heaven and new earth(新しい天と新しい地)」。(Phillip Medhurst Collection。Wikimedia commons より)


2016年11月6日 (日) 午前10時半
礼拝メッセージ  眞部 明牧師

へブル人への手紙11章10節
11:10 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。

はじめの祈り

「彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。」
恵みの深い天のお父様、今もイエス様は、私たちを住まわせるために神の都を建設中であります。それがすべて備えられて完成したならば、「迎えに来る」と約束してくださいました。
私たちもまた、その信仰を身に着けて日々の歩みをさせていただいていることを感謝いたします。
今年ももう10カ月過ぎました。あと2カ月ですけれども、主のお出での日を待ち望みつつ、私たちは信仰の歩みをさせて頂きます。
今日もみことばを祝して、私たちの歩みを導いてください。
また、今、お齢を召されている方々、私もだんだん齢をとってきましたけれども、ホームにいらっしゃる方々や周りにいる方々、イエス様の助けを必要としているお一人お一人に、豊かな助けと恵みをお与えください。
みことばを祝して、私たちの霊の目を開いて、神の国を見ることができますよう助けてください。
尊いキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


今日は「アブラハムの信仰」の5回目で、「神の都を待ち望む」というお話をさせていただきます。

先に、アブラハムの出発の信仰と、定住の信仰のお話をしてきました。もうすでに信仰を実行しておられる方は、主の栄光のみわざを見ておられると思います。

私たちが信仰を学んでいるのは、学ぶことが目的ではなくて、
主の栄光を現わすことが第一です。
第二には、共に喜びに満たされることです。
第三には、その喜びをお互いに分かち合いたいし、
第四には、私たちの周りの家族や友人、知人たちにも分かち与えたい。
第五には、主をほめたたえる、
そういう目的であります。

信仰は、聖書を学び、聖霊の働きによらなければ、信仰を持つことも、信仰が実ることもありません。聖書を学んで理解したら、信仰を持った気分になりますけれども、それは信仰を持つための入り口が開いただけであります。

みことばが開かれると、愚かなる者の目を開いて悟くさせる、と書いてあります。見えるようにはなるけれども、歩みはこれからであります。「足のともしび・道の光」として歩むことは、その後に続くわけであります。

信仰を持つとは、主のみことばを自分の心に、「心」とはすなわち、自分の人格の内に受け入れて、実際の生活で行う時に、信仰が自分の内に完結して、働き始めます。始動するわけですね。この時に「信仰を持った」ということができます。「持った」ということは、「使い始める」ことを意味します。

使わない間は、信仰は観念論でしかありません。議論の好きな人はここで止まってしまって、ほとんど、お互いに助け合ったり、他の人の徳を建てたり、重荷を負いあったりはしません。ですから自慢話はしても、主の栄光は表わされていません。

よく言われる言葉に、台湾のクリスチャンは、よく賛美する、と言われます。韓国のクリスチャンは、よく祈る、と言われます。日本のクリスチャンは、議論ばかりしていると、そういうふうに非難されたことがありますけれども。それは、あまりはずれていないことでありましょう。ですから自慢しても、神の栄光を現わすことができない。学んでいることが実を結ばず、主を証しできません。

しかし、隣人を愛して、愛を行なっている人は、神の愛に満たされていますから、自分自身に喜びがあり確信があります。冷たい水一杯を与えた人も喜びがあるし、五つのパンと二匹の魚をささげた少年も、主に仕える喜びに満ちています。聖書に出てくる小さな器たちがみな喜びに満ちているのは、そういう面があるからですね。
議論好きの律法学者たちやパリサイ人たちが、喜びに満たされていることは、記されておりません。いつも忌み嫌われております。

主に仕える思いで働いている人は、キリストとともに御国を相続する確信に満ちております。私たちはそういう人になっているわけです。
しかし、もし私の心がなおも肉の欲に支配されているなら、いくら信仰について学んでも、すべてが虚しくなってしまいます。いくら努力をしても、実を結んでこない。自分の心に平安も喜びも恵みもなくなってしまいます。

信仰が実を結んでくるためには、いつもお話している通り、必ず、信仰を日常生活の中で活用しなければなりません。

アブラハムは旅の途中、様々な不信仰な失敗を繰り返しましたが、とにかく、彼は、心の中で決心した信仰を、生涯、実行し続けたところに、彼の信仰が実を結んだ秘訣があります。つまり信仰の勝利が与えられたのです。ダビデも同じですね。

そこで今日は、アブラハムが決心した信仰を、毎日実行し続けた動機は何であったか、そのお話をしましょう。

アブラハムが決心した信仰を、毎日実行し続けた動機は何であったか

それはただ一つ、「神の都を待ち望んでいたからです」と記されているところにあります。

信仰を実際に実行するかしないかは、つまり言葉や口先だけで終わってしまうかどうかは、私が本心で、何をどの程度に望んでいるか、によります。本当に何を求めているか、によります。
何を望むかは、私のたましいの性質によります。私のたましいがきよめられているか、いないかによるのです。

みなさんは今、何を求めているでしょうか。
教会で聞けば、「神の国と神の義です」と言うと思います。
でもそれは表面的な話でありまして、本心では何か、ということであります。本心で「神の国とその義」であれば、それは素晴らしいことですね。
私はこれまで、クリスチャンたちが模範的な祈りを主に捧げているのを、聞いてきました。しかしそのあと、実際の生活では肉の欲を求めているのを、見てきました。

第一ヨハネの5章14,15節を読んでみたいと思います。
Ⅰヨハネ5:14 何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。
5:15 私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。

このことは、自分の本心ではこの世の人と同じように、肉の欲の満足を求めているのに、聖書では、「狭い門から入りなさい」とか、「神の国とその義とを第一に求めなさい」と言っているから、「狭い門から入ります」と言って、無理して、給料の安い会社を選んだ人がいましたが、それは、神のみこころを選んだことにはなりません。なぜなら、本心は肉の欲の満足を選んでいるからです。

また別の人はこうです。日曜日の朝、教会に来る時、湘南海岸に遊びに行く人々を見て羨ましく思いながら、教会にやって来て、「私は神の国とその義を第一にします」と祈りましたが、この人の本心はすでにこの世の楽しみに惹かれてしまっています。親子で遊びに行きたいなあ、と思っているんです。遊びに行くのが悪いわけではありませんけれども、神様を礼拝するよりも、遊びに行く方を羨ましく思っています。

このような祈りは偽りの祈りであって、表面的には神のみこころにかなっているように見えますが、本心が神様から離れていますから、答えられないのが多いわけです。
また、本当はどっちでもいいのだけれども、とにかく祈っておこう、という祈りもあります。真実で真剣な信仰がこもっていない祈りですから、祈りは答えられません。
この礼拝メッセージも、「一応、聞いておこう」という人には、実を結ばないでしょう。自分の本心を、神の前に偽っているからです。

いつもお話ししますけれども、マタイ19章の金持ちの青年のように、幼い頃からモーセの戒めを守り、真面目で、熱心で、模範的で、永遠のいのちを求めてきた、見たところ申し分のない人でも、本心は自分の莫大な富に執着して、神の愛を求めず、持たず、行わない。そういう見かけだけの人は、永遠のいのちも神の国を持つこともできません。

私たちは、見かけだけのクリスチャンにならないようにしたいと思います。
上手か下手か、失敗するかは問題ではありません。上手な人は、しばしば見せかけが多いものです。祈りも丁寧ですし、賛美も上手です。お話も上手です。しかし、中身がない。口先だけなんです。このような人は、神に対して不真実な人ですね。
不真実とは、言葉で嘘をついている、ということではありません。心の本質では、本当に求めているのは神ご自身でないことがあります。それを、不真実、と言っています。
ことばから言えば、みんな真実に見えます。

これに対してアブラハムは、時に飢饉を恐れて、「約束の地」を離れてエジプトの豊かさを求めに行ったり、人を恐れたり、主の約束を疑ったりというような不信仰な態度を取りましたけれども、本心では、神を求め続け、愛し続け、従い続けました。ですから、それを指摘されると、彼はすぐに神に立ち返っています。

みなさんもご存知のように、サムエル記第一の16章7節の後半では、「人はうわべを見るが、主は心を見る」と書いてあります。どうしても私たちは、人のうわべを見てしまいます。行動や熱心さや、真面目さとか、正しさとか、知識が多いとか、身なりがいいとか、を見てしまいます。
しかし主は、その人の本心を見ます。だから惑わされません。人は惑わされても、神は惑わされることがありません。神を侮ってはなりません。

次にアブラハムは、何を求めていたでしょうか。
それは「堅い基礎の上に建てられた都」です。

アブラハムは、将来来る、実現する、霊的な永遠の都、今はまだ見ることも触ることもできない、その神の都の実体を求めてやまない信仰を持っていたのです。
こういう話をしても、「煮ても焼いてもどうにもならない話をしても、なんの得にもならない」と大方の人は言いますけれど、アブラハムはそうは思わなかったんです。

アブラハムは、永遠で朽ちることのない霊的実体、すなわち永遠の都、神の都を求めていました。アブラハムは、古代バビロンの繁栄を知っていましたし、「バベルの塔」の話も知っていたでしょう。今私たちが住んでいる世界では、世界一高いタワーを建てることを競っております。もう、「バベルの塔」の世界ですね。アブラハムは、自分の故郷のカルデヤのウルの繁栄も知っていたでしょう。しかし、それらの繁栄は一時的でやがて朽ちるもので、永遠の実体のないものであると見抜いております。そういう一時的なものを求めて、永遠の神の都がアブラハムから奪われてしまうことを、拒んだのです。

ご存知のように、アッシリヤのニネベも、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマも、滅びました。地上の都で朽ちて滅びなかったものは一つもありません。
今、世界のニュースを見ていると、世界で一番富んでいると思われていたアメリカが、大統領選挙で揺れ動いております。韓国の大統領も大変な目に合っていますね。韓国も揺れ動いています。ロシアも困難にぶつかっていますね。国々が揺れ動いています。中国は世界を制覇しようとして、企んでいます。しかし、これもまた、揺れ動いてしまうでしょう。日本だって、戦後の繁栄のなかで、この繁栄がいつまでも続くものではないことを考えなければなりません。

セナケリブも、ネブカデネザルも、アレキサンダーも、ネロも、ほとんどすべての皇帝は朽ちる都を求めておりました。
しかしアブラハムだけは、地上の繁栄を楽しむより、永遠に朽ちることのない天の都を求め、地上では旅人であることを証し、天幕生活をすることを選びました。
これは今でも、肉的な欲を持っている人は決して選ばない選択です。
私たちが住んでいる国も、やがて朽ちる国であることを忘れてはならないと思います。
アブラハムは信仰によって、死後の、永遠の神の都を見ていたんです。彼は、来る日も来る日も、天幕の中から神の都を待ち望んでいます。

ヘブル人への手紙の中に、このアブラハムの信仰が語られているのは、ヘブル人への手紙の読者たちが、アブラハムとは反対に、永遠の実体である神の都から、朽ちるこの世の生活に心が執着しそうになってしまっていたからであります。アブラハムとは反対の方向に心が向いていたからです。ですから、この神の都は、この世の都と対比して語られています。

マタイの4章8節~9節を読んでみたいと思います。イエス様が誘惑された時の話ですね。
マタイ 4:8 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
4:9 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」

サタンが示す都は、いつでも、この世の繁栄した都です。それが醜くも崩れていく、朽ちていく姿を隠しています。そしてその繁栄ぶりを見せつけて、これが最も堅固な永遠に繁栄する都であるかのように、誘惑するのです。
世界の発展途上国の政治家が日本にやってきて、戦後の日本の繁栄ぶりを見て、それに倣いたい、それを追い越したい、という希望を持つそうですけれども、幻想に取りつかれていますね。そんなことに惑わされないで、神の国にまい進することをお勧めします。

マルコの13章1節~2節をお読みいたしましょう。ここでもイエス様の弟子が目を眩(くら)まされています。
マルコ 13:1 イエスが、宮から出て行かれるとき、弟子のひとりがイエスに言った。「先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう。」
13:2 すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」

ここでは、弟子が誰であったかは記しておりません。弟子のひとりは、エルサレムの神殿の大きさと豪華さを見た時、その繁栄は永遠に滅びない、最も堅固な神殿であると思ったんです。しかし、イエス様はそれを否定しました。
それから三十数年後、ローマの将軍ティトウスによって、エルサレムも豪華な神殿も崩壊してしまいました。イエス様のおことばの通りです。
私たちの国も同じでありますから、安心しないようにしたいですね。

目の前にあるものはいつまでも続くように思います。肉の欲を持つものは、見える物に頼りやすく騙されやすいのです。
今、みなさんの生活をささえているものは何でしょうか。主イエスでしょうか。それとも富でしょうか。結局多くの人が、生活の保障を神様に置くよりも、富の基礎に置いて生きているんです。給料の上に置いて生きている、貯金の上に置いて生きている。

マタイ6章29節~33節を読んでみましょう。イエス様はどうするように仰っているでしょうか。
マタイ 6:29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
6:30 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
6:31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
6:32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

イエス様は、あなた方の信仰の基礎、生活の土台は、「神の国とその義」なんだ、と分からせようとしていますね。

次に、アブラハムが求めた神の都は、どんなに堅い基礎をもっていたか、そのことをお話したいと思います。

アブラハムが求めた神の都は、どんなに堅い基礎をもっていたか

ヨハネの黙示録21章12節を、見てみたいと思います。
黙21:12 都には大きな高い城壁と十二の門があって、それらの門には十二人の御使いがおり、イスラエルの子らの十二部族の名が書いてあった。

注目しておきたいことは、高い城壁の門に、イスラエルの子らの十二部族の名が書いてあった、ということですね。少し跳んで、14節を見てみましょう
黙21:14 また、都の城壁には十二の土台石があり、それには、小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。

ここには、十二使徒の名が書いてあった、とあります。つまり、ここには、神の都は旧約聖書と新約聖書の土台の上に建っている、ことを示しています。このことは、聖書の約束のみことばを信じる人が、神の都に入ることができることを表しています。

次に、ヨハネの黙示録21章15節~17節を見てみましょう。
黙 21:15 また、私と話していた者は都とその門とその城壁とを測る金の測りざおを持っていた。
21:16 都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。
21:17 また、彼がその城壁を測ると、人間の尺度で百四十四ペーキュスあった。これが御使いの尺度でもあった。
ここでは、この都が金の測り竿で測られています。これは神の保護を意味しています。

神の土台石は、第一に神のみことば、第二に神の保護でありますが、第三は何でしょうか。

第三は、ヨハネの黙示録21章19節~20節に書かれています。
黙21:19 都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイヤ、第三は玉髄、第四は緑玉、
21:20 第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。

もう一度繰り返しますが、神殿の土台石は、
第一は、神のみことば、旧約聖書と新約聖書でした。
第二は、金の測り竿ではかられて、神の保護が与えられております。

第三の、十二の宝石が意味するものは何でしょうか。
それは非常に大事なことですね。それは儀式や戒めのようなものではなくて、律法学者やパリサイ人が好むようなものではなくて、永遠に価値あるものです。永遠に失われないもの、ニネベやローマのような色あせて朽ち果てるものではありません。

それではこの「宝石」が意味するものはなにか。
まず、第一コリントの3章16節を読んでみましょう。そこから解き明かしていきましょう。聖書は聖書によって解釈することが大事であります。
Ⅰコリ3:16 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。

ここで、よく気を付けていただきたい。神の神殿とは何か。その土台は何か。神の御霊があなたがたに宿っておられる。これに気を付けてください。

次に第一コリントの6章19節、20節を読んでみましょう。ここにも気を付けていただきたいことばがあります。
Ⅰコリ6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。

この土台石は、「神の栄光を現しなさい」というものですね。

前にも書いてありましたように、神から受けた聖霊の宮、だということも書いてあります。これらの点に注目していただきたい。

パウロは、この土台石は、神の御霊が宿ることによって実るものだ、と言っています。
ですからもう、おおよそ気が付かれたと思いますけれども、これはガラテヤ5章22節~23節に書かれています。
「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」

御霊の実が、永遠の神の都の実際の土台であることが分かります。

パウロは、これをもっと経験的に分かるように話されたのが、第一コリントの13章4~8節です。御霊の実のことを経験的に語っているんですね。
Ⅰコリ13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
13:8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。

ちょっと飛びますけど、もう少し続けて、12節、13節も読んでみましょう。
Ⅰコリ 13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。

これでますます、神殿の土台石がはっきり見えてきました。
もう一つのみことばを紹介します。第二ペテロの1章4節から8節です。
パウロもヨハネもペテロも同じことを言っているわけですけれど、別々のことばで言っていますから、それが神殿の土台なんだということに気づいていないんです。ですから、それが信仰生活に生きてこないんです。

Ⅱペテロ 1:4 その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。
1:5 こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、
1:6 知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、
1:7 敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。
1:8 これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。

ここにも神の都の土台石が記されています。ヨハネの黙示録は、私の神の神殿の土台石を、象徴的に記しました。パウロやペテロ達はそれを経験的に記しています。

マタイの16章の15節~18節では、イエス様はもう一つ、今現在の私たちの信仰生活の土台石についても教えてくださいました。これも大事ですから、読んでみたいと思います。
マタイ 16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16:16 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
16:17 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。
16:18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。

イエス様は、キリストの建てられる教会の土台石は、神の御子イエスを信じる信仰である、と言いました。教会とは、教会堂の建物のことではなくて、真のキリストの信仰者の集まりのことです。
イエス様はここで、最初に「あなたはペテロです。」と言われた「ペテロ」は、ギリシャ語の男性名詞「ペテロス」を使われました。これは力強い大きな岩を意味しています。二番目に使われた「岩」では女性名詞の「ペトラ」が使われています。同じ言葉のように見えますが、違った意味で使われており、母なる巨岩、を指しています。

さて、この大きな岩とは何を意味しているでしょうか。
それは16節の「あなたはキリスト、生ける神の御子」と告白したペテロの信仰そのものを指しています。
私たちは、堅い基礎のある神の都を待ち望んでこそ、この地上での信仰生活を堅く貫いて、勝利を得ることができます。
金持ちの青年のように、本心が肉の欲のままに生きている人は、見かけでは信仰が熱心に見えていても、決して信仰を活用することができません。必ず崩壊していきます。彼の心は、ペテロスでもなくペトラでもなかったからです。
シモン・ペテロの心の状態も、この時期には、まだ到達していませんでした。やがて、聖霊に満たされる時に、ここに到達します。

最後に、ヘブル11章10節の終わりの部分をお話します。「その都を設計し建設されたのは神です」とあります。

ここには、二つのことが記されています。

第一は、設計したのは神であること。

神が設計者であるということは、神のみ旨、神のお考えが、充分に完全に盛り込まれているということです。
神に都に入る入口は、どこなのか。どんな人が、この都に入れるのか。どのような人が、この都に住めるのか。この都で、どんな営みをし、どんな生活をするのか、その喜びと満足とはどういうものか。
そういうすべてが、神のみこころによって設計されています。

都の入り口はどこか、どのような人がこの都に住むことができるのか。
それは、私の罪のために身代わりとなって十字架に架かってくださったキリストを信じて、自分の心に受け入れて生活する人ですね。それだけではなくて、主の約束のみことばを信じて生活に生かしていく人。その信仰を最後まで走り通す人。途中で信仰を自己流に変えたり、投げ出したりしなかった人です。

第二テモテの4章7節、8節をご一緒に読んでみたいと思います。
Ⅱテモテ 4:7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
4:8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。

ここで大切なことは何でしょうか。
「走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通した」、ということであります。これが神の国に住むことのできる神様のみ旨であります。

第二に、神はこの都の建設者だ、と言われています。

実際にお造りになった方、神様は設計者だけでなく、施工者でもあるということです。
ヨハネの14章2節から3節を読んでみましょう。イエス様ご自身が建設者であります。
ヨハネ 14:2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。 14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

「備えに行く」「備えたら」、と言っております。「備える」ということは建設している、ということですね。
神の都は、主ご自身が、新しい天と新しい地に建設される具体的な都であります。絵に描いたような架空の都ではありません。実際に住める、生活できる都です。

主はそこに、信仰を全うした人を迎え入れてくれます。多くの真実な聖徒たちは、この都に入るために殉教さえしたわけです。
もし私たちが、この世の富を捨てても、主は、私たちに決して損をさせません。決してみなしごにはしない、と言っておられます。

第二コリント8章9節を読んでみたいと思います。
Ⅱコリ8:9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

イエス様は神の御座に着いて、富んで栄光の中におられたのに、人となって貧しくなられました。そのことによって、私たちを栄光の都に住むことができる者とするためでした。このことを、心に留めさせていただきましょう。

エペソの1章18節~19節もお読みいたしましょう。
エペソ1:18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
1:19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。

私たちがまだ知らないものがたくさんあることが、ここで分かります。

三つのことが言われていますね。
・神の召しによって与えられる望みがどのようなものか。
・聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか。
・私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるか。

これらをはっきり経験できるようにと、パウロは祈っています。神様が造られた都がどんなに素晴らしいか、私たちは、はかり知ることができません。

最後に第二コリントの4章17節と18節をお読みいたしましょう。
Ⅱコリ 4:17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
4:18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

人は見える物に興味を示します。しかし、パウロは言っております。見えないものにこそ価値がある、と。信仰は、見えないものを引き継いでいくものですね。

アブラハムはなぜ、故郷のカルデヤのウルから出発したんでしょうか。
なぜ、異教の生活を捨て、パダン・アラムのカランでも安住せず、約束の地カナンに着いても、そこに、石造りの家を建てるのではなく、天幕で旅人の生活をつづけたのでしょうか。
彼は、はっきりと、永遠の神の都を待ち望んでいたからです。

彼が神の国を求め続けたのは、信仰的に正しかったからではありません。ある面では彼は不信仰に陥りましたけれど、彼が最後まで永遠の神の都を求めたのは、神の国を求めない人は、ゲヘナに投げ込まれて滅んでしまうからです。アブラハムは、この世の繁栄や安住では、たましいの満足を得られなかったからです。この世のものはどれも一時的で、飲むとまた渇き、朽ちるものです。

イエス様は、この世の与えるものはまた渇き、朽ちるものだ、と仰いました。しかしイエス様が与える水は、渇くことがないと仰いました。永遠のいのちの泉が湧き出ると、仰いました。
地上に生きている間は、この世に生きるために適度のものが必要ではありますが、それらのものは、マタイの6章にありましたように、永遠に求めるべきものではありません。彼は、永遠に朽ちることのない神の都を求め続けました。それは彼の現実の生活でありました。

私たちもこの地上に住んでいて、確かに毎日食べるパンも必要でありますし、飲む水も必要であります。着る服も住む家も必要であります。しかしそれらは、一時的な旅人の生活であります。
私たちが、本当に求めているものは、朽ちることのない、神が設計され、建設された堅い基礎のある都でなければならない。そうでないと、私たちは最後には滅んでしまうことになります。

どうぞ私たちが、見えるものではなくて、見えないものに、計り知れない永遠に栄光をもたらすものに心をとめて、信仰を向けて、求めさせていただきたいと思います。
信仰の人アブラハムの子孫となって、彼が受けた祝福と同じ祝福を、私たちにも、与えられると、パウロがガラテヤで語っているように、神の国を受け継がせていただきたいと思います。

お祈り

恵みの深い天のお父様、見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
私たちは、目に見える世界に住んでおりますけれども、しばしばこの世に心を囚われがちでありますけれども、神様はいつも「神の国とその義を求めなさい」と仰います。
見えないものにこそ永遠の価値があり、イエス様は富んでおられたのに貧しくなられて、私たちにその富を与えてくださいました。
自分の持っているこの世の富にしがみついて、神が与えてくださる富を失った金持ちの青年のような生き方をする者が大勢いる中で、真の信仰とは何かを体験させてくださって、この歩みを祝してください。
今週も私たちは、主を証しする生活をしますので、主が導いてくださるように、
私たちの心がいつも天に向けられていますように導いてください。
尊いキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明


音声と文書:信仰の列伝(全51回)へブル人への手紙11章 目次


<今週の活用聖句>

コリント人への手紙第一、6章19~20節
「あなたがたのからだは、・・・神から受けた聖霊の宮であり、・・・代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」

地の塩港南キリスト教会
横浜市港南区上永谷5-22-2 TEL/FAX 045(844)8421