福音の中心

私の兄は、
「キリスト教には、何があるのか?」
と尋ねて、キリストの福音を求め始めました。
イエス・キリストには、赦しと救い、永遠のいのちと復活、新しい天と地が約束されています。


今から約二千年前、ローマ帝国は最も残酷な死刑の十字架刑を採用しました。
この恐ろしい、のろわれるべき十字架にイエス・キリストがおかかりくださったのです。なぜでしょうか?
キリストはどんな罪のために、ローマの十字架刑にかけられたのでしょうか?


聖書は、
「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見い出されませんでした。」(ペテロ第一 2:22)
と言っています。

キリストを裁いたローマ総督ピラトも
「私は、あの人(キリスト)には罪を認めません。」(ヨハネ 18:38, 19:6)
と二回も証言しています。

またキリストご自身も、
「あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。」(ヨハネ8:46)
と無罪を証言されました。

それではキリストは、なぜ?
何のために十字架にかかったのでしょうか?
聖書は、当時のユダヤの祭司長、律法学者たちのねたみによるたくらみだったと記しています。


しかし、キリストは逃げることができたはずです。
弟子のイスカリオテのユダが裏切ることも、祭司長らのねたみによって十字架にかけられることも、ご自分で預言しておられます。
それなのに逃げずに、何の抵抗もせず、捕えられてしまいました。

真夜中に行なわれた不法な裁判の時も、なぜ黙っておられたのでしょうか?
十二軍団以上の御使いを指揮することのできるキリストが、なぜ、無罪なのに、十字架刑を受けられたのでしょうか?


弟子のペテロは、次のように言っています。
「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。
それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。」(ペテロ第一2:24)

ここにキリストの十字架の奥義があります。
キリストの十字架の死は、全く罪のないお方の、身代わりの死です。
この死には、永遠に無限の救いの力があります。

聖書は、
「キリストはご自分の罪のために死なれたのではなく、すべての人の罪を負って、
身代わりとなって十字架にかかってくださった。」
と言っています。


それでは、私たちは、罪を犯しているのでしょうか?
ある人に、このことを尋ねると
「私は罪を犯してなどいません。」
と言われました。

それでは
「嫉妬、怒り、愚痴、欲張り、自分中心、怠惰、ひがみ、偏見、偽り、などはどうですか?」
と尋ねると、
「そういうものなら、売るほどあります。」
と言われました。


こういう心の中にある思い、口から出た言葉、行ないは、心が清い神から離れているからです。
聖書は、これを罪と呼んでいます。
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」(ローマ 3:23)
と言っています。

そして
「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、
私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ 6:23)

と言っています。

これを与えるために、イエス・キリストは、私の罪を負って
代わりに十字架にかかってくださったのです。

だれでも、このイエス・キリストを心に受け入れるなら、すべての罪が赦され、
永遠のいのちを受けて神の御国に入ることができるのです。
あなたの人生にキリストの希望の光を求めてみませんか。

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