聖書の探求(216,217) ヨシュア記24章14~33節 ヨシュアの告別(契約の更新)、ヨシュアの死
上の絵は、アメリカのProvidence Lithograph Companyが1907年に発行したバイブル・カードの一枚「Joshua renewing covenant with Israel(ヨシュアはイスラエルの人々と契約を更新する)」(アメリカの国会図書館蔵)
14~15、信仰更新のチャレンジ
ヨシュアは民に、神が恵み深い忠実なお方であることを歴史的事実をもって教えた後、彼らが銘々、心の中に受けた信仰の光りによって、神に対する信仰の更新をするようにと挑戦したのです。
「今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。」(14節)
ヨシュアが民に求めた信仰は、形式的な、儀式的な信仰ではありません。内的に神を畏れ敬う、敬虔さに打ち抜かれた霊的信仰です。生活面では誠実と真実をもって神に応えて、主に仕えていく信仰生活です。パウロが教えたように、「人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。」(コロサイ3:22,23)という生活をすることです。
ヨシュアはここで先祖の偶像礼拝をきっぱり除き去ることを求めています。これは神の民がなお先祖の偶像礼拝を持ち続けていたことを暗示しています。
「川の向こう」とは、2節のテラが仕えていた偶像のことでしょう。さらに、イスラエルはエジプトでの四百年の生活の間にもエジプトの偶像を取り入れていたようです。先に挙げられた神のみわざを見ていても、またモーセを通して神の律法を教えられていても、先祖の偶像礼拝を引きずっていたのです。先祖を大切にすることは大事ですが、先祖の誤った偶像礼拝を引きずれば、子孫が災いを受けることになります。私たちの世代をもって、責任をもって、先祖から引きずっている偶像礼拝を取り除く必要があります。これは、先祖を敬わないというのではありません。人は、先祖を尊ぶことと、偶像礼拝とを混同しているのです。先祖を大切にすることは主に喜ばれますが、先祖の偶像礼拝を引きずることは主を怒らせます。
ヨシュアは、イスラエルの民の中になお、先祖からの偶像を引きずっていることを見抜いていたのです。それが、将来、イスラエルの子孫の上に神の怒りを引き起こし、災いをもたらすことを知っていたので、この警告をしたのです。
15節では、もう一つの偶像礼拝の危険性を指摘しています。それは、「今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々」です。
ヨシ 24:15 もしも【主】に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、【主】に仕える。」
私たちは自分の内にしっかりした確信ある信仰を持っていないと、人を恐れ、周りの状況に左右されやすくなるのです。特に宗教においては、周りから攻撃や迫害を受けないために、見境なく周囲の宗教に同化してしまいやすいのです。
ヨシュアの心配していたことは当たりました。ヨシュアの死後の士師の時代はすぐに周囲の異教の偶像を取り入れていますし、ソロモンの時代にはソロモンの外交政策によって、ソロモン自身、偶像礼拝を取り入れ、国中、偶像解禁政策を取ったのです。これによって、周辺諸国の偶像は自由自在にイスラエルに入ってきたのです。こうしてイスラエルは神の激しい怒りをかうようになり、捕囚の刑罰へと突き進んで行ったのです。ヨシュアはそのことをイスラエルのカナン定住の初期に警告していたのです。
14節で、ヨシュアは、「主に仕えなさい。」と二度、勧告していますが、15節では、「きょう選ぶがよい。」と言っています。そして自分の模範を示して、「私と私の家とは、主に仕える。」と証ししたのです。信仰は命じられてするものではありません。信仰は自分の意志で選択するものです。それは本人自身の責任においてするものです。そして、どの神々を選ぶのか、それとも主だけを選ぶのかによって、私たちは災いを選ぶのか、それとも主の恵みを選ぶのかを同時に決定することになります。そればかりでなく、永遠の御国を選ぶのか、永遠の滅亡(地獄)を選ぶのかをも決定してしまうのです。あなたがだれに、どの神に仕えるのかは、あなた自身が、あなたの責任において、きょう選ぶことなのです。あなたが災いに会っても、滅びに行っても、あなたはそれを誰かのせいにすることはできません。たとい、だれかがあなたに偽りの教えを教えたとしても、あなた自身がそれを選び、それに従ったことは、あなた自身の責任であって、他人の責任にすることはできません。
ヨシュアは、「きょう選ぶがよい。」と言いましたが、信仰の選択はいつも「きょう」です。昨日でも、明日でもありません。そして「きょう」とは、毎日、更新していくことを意味しています。「きょう」でない日は、一日もないし、「きょう」は毎日やって来るのです。「きょう」という新しい一日がやって来れば、信仰もきょうの信仰に更新しなければなりません。私たちは毎日毎日、新しい信仰で生活していくのです。
ヨシュアが「私と私の家」と言ったのは、信仰は個人だけでなく、必ず個人の信仰は家族の者に浸透していくことを示しています。パウロも、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)と言いました。
ヨシュアは、主である神の偉大さと恵み深さと、契約を成し遂げられるのにいかに忠実であるかを示し、その反対に、不信仰になって異教の神々に仕えたら、どんなに神の民であっても、見捨てられてしまい、敗北していくかを示しました。異教の神々は決して私たちを助ける力を持っていないことを証明し、人の良心と知性を悪に変質させ、その魂の力をむなしいことのために費やさせ、その人の人生を滅びへと追いやっていくかを立証して見せた後、彼ら自身でどの神に仕えるかを、選び取らせようとしたのです。しかし彼らがかつて打ち破ったエジプトの神々やカナン七族の神々やあるいはメソポタミヤの神々に忠誠を誓って仕えることを選ぶことが、果たしてできるでしょうか。もしそうするなら、イスラエルは致命的な罪を犯すことになります。クリスチャンが一旦、この世から救い出された後、再びこの世の生活に帰っていくなら、その人は致命的な神への反逆をしているのです。そのような人が滅亡するのには、明確な原因があるのです。
ヨシュアは、これだけ明らかな歴史的事実で証明し、また自分の信仰の選択も模範も示しておいたので、神の道の真価はすべての民に理解されていると確信し、だれ一人として、正しい選択をするのに失敗することはあり得ないと考えたのです。
このことは、主イエス様が、「狭い門からはいりなさい。」(マタイ7:13)と言われた選択においても、同様のことが言えます。
1、イエス・キリストを選ぶことは、だれでも少しの洞察力のある人なら、最も道理にかなった、筋道の通ったことであることが分かります。ある人いわく、「ここ(教会)では、いつでも本当のことが言われている。」
2、その道を選ぶか選ばないかは、永遠のいのちか永遠の滅亡かに関わる重大な選択です。
3、その選択は、主の恵みに満ちた生活ができるか、それとも自己中心の生活をするかを決めます。
4、それは、あなたが霊的に最高の行き方をどれくらい熱望しているかと関係があります。
もし、キリストを選ぶ生活をするなら、あなたは生涯を通して、更に最高の行き方をするようにチャレンジを受けるでしょう。
5、キリストの愛を持っている者は、いつもキリストの道を選び続ける強い動機を持っています。この世を愛する者は、いつもこの世の友となる道を選ぶ動機を持っているのです。
それ故、私たちはいつでも本物の真理を選択し、真理のすばらしさを具体的に生活をもって証し、最も幸いな復活について確信をもって証しすべきです。主イエスが与えて下さる真理は至高のものなので、これに対して、明確にキリストを選ばず、この世とキリストとの間の中間に立とうとすることは、キリストに敵対することになるのです。
16~28節、民の信仰の選択
16節、イスラエルの民は、15節でヨシュアから「もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。」と言われたことに、ショックを受けたようです。
ヨシ 24:16 すると、民は答えて言った。「私たちが【主】を捨てて、ほかの神々に仕えるなど、絶対にそんなことはありません。
ヨシュアが、このようにイスラエルの民が主を捨てて、偶像を選んで背教することをも含めて警告したことに衝撃を受けたようです。ですから、すぐに「私たちが主を捨てて、ほかの神々に仕えるなど、絶対にそんなことはありません。」と答えています。しかし事実、ヨシュアがいなくなって士師の時代になると、イスラエルの民は、主を捨てて、偶像を選んでしまったのです。ヨシュアは民の人間的決意を信用しなかったのです。彼らの頑なな性質も見抜いていたのです。
これはペテロが、「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」(マタイ26:35)と告白して、数時間後に、三度も誓って、イエス様を知らないと言ったのと同じです。全き献身と全き信仰を告白しつつ、「聖霊のバブテスマを受けています。」と告白していつつ、「受けるよりも与えるほうが幸いである。」(使徒20:35)と告白していながら、自分のことだけを心配し、自分にしてもらうことだけを求め、言い訳を続け、「自分には愛がない。」と言って、祈っているのを聞く時、これらの人は本当に信仰があるのだろうかと思ってしまうのです。彼らの「信仰」と言っているものは、知識と口先だけのものでしかないのでしょうか。しかしヨシュアの時代も、ペテロの時代も、口先だけ熱心な人が大勢いたことは事実です。ですから、そういう人が現代、沢山いても不思議ではないでしょう。しかし、口先だけの信仰ではなく、本当に主を経験し、困難に対しても信仰を持って乗り越え、死に至るまで神の国と神の義だけを求めてやまない、忠実で従順な信仰者が多く起こされてほしいものです。
私たちは、どんなすぐれた人間の知恵も決意も信じるわけにはいかないのです。それらは、人を欺くものでしかないのです。
17.18節、イスラエル人は、エジプトの奴隷の状態から救い出され、カナン占領までの数々の戦いで勝利をすることが出来たのは、あわれみに満ち、力に満ちた神のみわざであったことを認めました。ですから、彼らは、主を拒んで、偶像に走っていくことなど、考えられなかったのです。
ヨシ 24:17 私たちの神、【主】は、私たちと私たちの先祖たちを、エジプトの地、奴隷の家から導き上られた方、私たちの目の前で、あの数々の大きなしるしを行い、私たちの行くすべての道で、私たちの通ったすべての民の中で、私たちを守られた方だからです。
24:18 【主】はまた、すべての民、この地に住んでいたエモリ人をも、私たちの前から追い払われました。私たちもまた、【主】に仕えます。主が私たちの神だからです。」
彼らが民族としても、個人としても、経験してきた勝利は、すべて主によるものでした。ですから、彼らが主から離れようという動機は全く持っていなかったのです。それで、「私たちもまた、主に仕えます。主が私たちの神だからです。」と告白したのです。しかしそういう動機がなくても、考えや意識がなくても、自分中心な性質があり、頑なな心の性質が残っているなら、それは必ず、外に現われてくるのです。苦しい時に、主が助けてくださり、勝利を与えてくださった時には、だれが主から離れようと思うでしょうか。主が自分によくしてくださったと思っている時、「主に仕えます。」と言っている人で、やがて、不満が生じてくると、主を捨てて離れて行った人は沢山います。彼らにも、祝福を受けている間は、主から離れる動機も考えも全くなかったのです。「主に仕えたい。」という思いで一杯だったのです。しかし実際には、彼らは主を捨ててしまっています。なぜでしょうか。彼らの心の中に自分中心の性質が残っていたからです。
19,20節、ヨシュアはイスラエルの民が「主に仕えます。」と誓ったことを信用していません。いかに口で約束し、誓約しても、人の決心と努力では決して守り通すことはできません。
ヨシ 24:19 すると、ヨシュアは民に言った。「あなたがたは【主】に仕えることはできないであろう。主は聖なる神であり、ねたむ神である。あなたがたのそむきも、罪も赦さないからである。24:20 もしあなたがたが【主】を捨てて、外国の神々に仕えるなら、あなたがたをしあわせにして後も、主はもう一度あなたがたにわざわいを下し、あなたがたを滅ぼし尽くす。」
ヨシュアのこれまでの勧告に対して、イスラエルの民は、あまりに真実そうに、誠実そうに、言葉上手に答えています。それが上手であればあるほど、ヨシュアは、彼らが容易に不信仰になるだろうと感じ取ったのでしょう。19,20節のヨシュアの言葉は、民がその性質の故に、「主に仕えることができないであろう。」と確信有り気に語っています。
クリスチャンの中には、何の失敗もなく、非の打ち所のないあかしをする人がいますが、それがあまりにうま過ぎれば、うま過ぎるほど、偽りに聞こえてくるのです。
主は、私たちに一時的な、感情の発奮などを求めておられるのではありません。説教やあかしを聞いて、一時、やる気を起こしたくらいで、生涯、主に従って行くことはできません。19節の「できないであろう。」は、断定的な言い方ではなくて、今、彼らが言い表した以上の、本当に真実な信仰から出た忠誠心と献身の心を持つのでなければ、できないという、条件付きの意味です。これはイエス様がルカの福音書14章26,27節で、「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」と言われた「できません。」と同じ意味です。ここでの「憎まない者」とは、憎悪することではなくて、イエス様より自分や自分の愛する家族を優先する者、それらの者をイエス様より上におく者のことです。弟子たちも、聖霊のバプテスマを受けるまでは、弟子の立場にありながら、主を捨てて逃げてしまい、死に至るまで忠実な本物の弟子にはなれなかったのです。
この世の人々は、この世の神々に仕えつつも、イエス様を同時に信じることができるのではないかと考えます。しかし主はこう言われました。
「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:24)
もし、あなたが、「いいではないか。」と言われても、イエス様は「いやだ。」と言われているのです。なぜなら、「主は聖なる神であり、ねたむ神」だからです。
罪とは、道徳的に悪いことをすることだと思っている人がいるかもしれません。それも確かに罪ですが、それは罪の結果でしかありません。罪の本質は、「神を神としてあがめず、感謝も」しないことです(ローマ1:21)。「キリストから離れ」(エペソ2:12)、「自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行な」っていることです(エペソ2:12)。
一言で言うなら、「イエス・キリストを信ぜず、イエス・キリストを受け入れないこと」これが罪の根です。
キリストから切り離されているなら、私たちの心も生活も、神が創造してくださったご目的にふさわしく生きることができません。これが罪の状態なのです。
このような罪深い者が、そのままの状態で聖なる神の前に立つことができるでしょうか。それができるようにしてくださったのが、イエス・キリストの身代わりの十字架です。主は、私やあなたの罪の代価を払うために、身代わりとなって十字架にかかって死んで下さったのです。このお方を信じるまでは、聖なる神の御前に立つことができません。
もし、このイエス・キリストを信じて、心に迎え入れたら、このイエス・キリストと一緒にこの世の神々にも仕えることができるでしょうか。私たちは良心的にもできないし、主を愛すれば、愛するほど、この世の神々に仕えることができなくなります。さらに、それ以上にあなたを愛しておられる主は、あなたが二人の主人に兼ね仕えている姿に我慢していることができるでしょうか。これが「ねたむ神」という意味です。あなたを愛し、あなたのために十字架にかかられたイエス様は、ねたむ神であることを忘れてはなりません。ですから、神にささげるべき愛と忠誠とを他のものに向けてはならないのです。主の愛が深ければ深いほど、敢えて、その愛を主以外のものに向けようとする者に対して、神は御怒りを表わされるのです。その怒りが、偶像礼拝から離れようとしなかったイスラエルとユダの民の上に下り、アッシリヤとバビロン捕囚となって表わされたのです。
「あなたがたのそむきも、罪も赦さないからである。」ここで言う「そむき」も「罪」も、主以外の外国の神々を拝むことを指しています。主は、二心の忠誠や熱心を決して大目に見ることはありません。しかし二心は、しばしばクリスチャンの心の中に残っている罪なのです。それがどんなに恐ろしいものであり、自分に災いを招くかを知らなければなりません。
ヨシュアがなぜ、ここで重ねて、はっきりと背教の危険、偶像礼拝の危険を警告しているのでしょうか。それは、モーセが申命記で何回も同じことを警告しているのと同じです。人は、教えられ、聞いている間は、何も魂の中に入っていないのと同じです。聞いても、聞いても、聞いても、まだ自分のものとなっていないのです。実際にその事態に直面した時に、その聞いていた警告を実行するか、どうかです。実行した人だけが、助けられるのです。大抵の人は、メッセージを聞いても、たいして自分の魂にとどまっていないのです。一週間もすれば、ほとんどすべてを忘れてしまっています。実行しないからです。
マタイの福音書24章15~18節で、主は、
「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば(読者はよく読み取るように。)、そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。」
と警告しています。
このことばはほとんどすべてのユダヤ人が知っていた思われます。しかし第一世紀のユダヤの歴史家ヨセフスによると、ローマの将軍ティトゥスがエルサレムに侵入して来た時に、この主のご警告に従って、すぐに山に逃げた者だけが助かったと記しています。物を取りに家に戻った人はみな殺されたと記しています。このご警告に忠実に従った人は、この時だけ従ったのではないと思われます。毎日、主のみことばに従っていたので、この時も、すぐに従ったのだと思われます。さて、私たちは、どうでしょうか。毎日、聞いている神のみことば、毎日、読んでいる神のみことばに従う生活をしているでしょうか。
ヨシュアはイスラエルの民が忠実そうに、熱心そうに、「主に仕えます。」と言っていても、安請け合いにしか聞こえなかったのです。ヨシュアは長い間、イスラエル人と共に働いたので、特に戦いが終わって後のイスラエル人との交わりからは、彼らの真実性を汲み取ることができなかったのです。彼らがすぐに妥協してしまう性質を持っていることと、困難をも一時しのぐことが出来れば、それでいいとしてしまう安易な性質とに、気づいていたのです。ヨシュアの忠告に対して、彼らは主に対する忠誠を約束しましたが、ヨシュアにはそれが安易なものであることを感じとっていたのです。ヨシュアは、そんな安易な心での忠誠では、必ず、神の怒りを受けるようになることを知っていたので、度重なる警告をして、彼らの献身と信仰が、真剣な、真実な、深い確信の伴うものとなることを求めたのです。
20節では「赦さない」という言葉から変わって、もっと厳しい「あなたがたにわざわいを下し、あなたがたを滅ぼし尽くす。」という言葉を使っています。
ヨシ 24:20 もしあなたがたが【主】を捨てて、外国の神々に仕えるなら、あなたがたをしあわせにして後も、主はもう一度あなたがたにわざわいを下し、あなたがたを滅ぼし尽くす。」
たとい今、主が自分を祝してくださって、どんなに幸せな状態になっていたとしても、例外はなく、特別扱いはなく、主を捨てて、外国の神々に仕えるなら、神の審判に容赦はないのです。キリストの弟子だったイスカリオテのユダは滅び、主のあわれみを求めた十字架上の犯罪人にはパラダイスが約束されたのです。今も、信仰を捨ててこの世の神々に帰っていく者が少なくありませんが、この原則は今も変わっていませんので、よくよく心に留めておかなければなりません。
「しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐強くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。 このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。」(ペテロ第二 3:7~11)
神は、一時の熱心や、自分の都合のいい時だけの忠誠や人情的な献身を求めておられるのではありません。こういう人々は、やがて信仰を捨てて、主のもとを去る人です。
もし、ヨシュアの警告に対して、真実な意味で「主に仕えます。」と告白したのであれば、イスラエル人が今すぐにでもしなければならないことがあります。それは、やがて彼らのわなとなるであろう(ヨシュア記23:12,13)、彼らの間に残っているわずかの異教の人々を根絶することでした。このことを実行しないで、いくら「主に仕えます。」と言って忠誠を告白しても、それは偽りの忠誠でしかありません。ヤコブは、「信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。・・・行ないのない信仰は、死んでいるのです。」(ヤコブ2:17、26)
もし、私たちのうちに自己中心の性質を残したままで、「主に仕えます。」「神の国とその義をまず第一に求めます。」「キリストの弟子となります。」と告白しているなら、神に対して偽りの忠誠を告白していることになります。その告白を神に対して真実なものにしたいのなら、自分中心の性質を残しておいてはいけません。もし、あなたが、「自分中心は取り去られ、聖霊によって潔められました。」と告白しているなら、残っていた、あのわずかの異質の残留物を捨ててしまわなければなりません。すなわち、なおこの世に対して残しておいた未練、嫉妬やねたみの心、尚もこの世の富や地位、名誉にすがろうとする心を取り除いておかなければなりません。これらをそのまま残しておいて、主に仕えようとするなら、神に対して偽りの忠誠を実行しようとしているのです。それはやがて、イスラエル人と同じ、バビロン捕囚と同じ結果に至るのです。
神のご計画では、神の民の中から神に逆らう民を完全に拒絶することでした。
「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」(エペソ5:26,27)
もし、神の民が彼らのうちから、しみやしわを取り除くことを拒み、少しでも、肉の性質を残しておくなら、神は神の民にも、滅亡を刈り取らせるのです。
「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」(ガラテヤ6:7,8)
こうして、イスラエルは残しておいた異教の偶像を採り入れるようになり、それが原因で歴史上何度も、民族ごと破滅に追いやられているのです。それは彼らの祝福の源である主の警告を何度も聞きつつ、それに忠実に従わず、彼らの生活の中に、神の嫌われる性質をわずかに残し続けていたからです。それによって、神の祝福の契約は破られ、滅びの道をたどったのです。神は今も、生ける神です。あなたが神に真実に忠誠を尽くせば、神は必ず答えて下さるお方です。それが生ける神との契約です。それは人間が経験できる最も重要なことです。
この、度重なるヨシュアの警告に対して、民は、「いいえ。私たちは主に仕えます。」(21節)と告白を繰り返しています。
ヨシ 24:21 それで民はヨシュアに言った。「いいえ。私たちは【主】に仕えます。」
これは、ヨハネの福音書21章で、主がペテロに、アガペで「あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」(15節)とたずねられたのに対して、ペテロがむなしく三回、フィレオで、「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存知です。」(15節)と答えているのと同じです。
22節、ヨシュアは、もうそれ以上、警告を繰り返すことを止めて、「あなたがたは、主を選んで、主に仕えるという、自分自身の証人である。」と言いました。民も、「私たちは証人です。」と告白しました。
ヨシ 24:22 それでヨシュアは民に言った。「あなたがたは、【主】を選んで、主に仕えるという、自分自身の証人である。」すると彼らは、「私たちは証人です」と言った。
これで、民は、自分たちの責任において、主に仕えることを選んだことを明らかにしたのです。この告白の上で、主を捨てて、この世の神々に行くなら、自分のした信仰告白が永遠に自分の敵となって、自分をさばく証人となるのです。自分が日頃、言っている証しを軽く考えていてはいけません。それがあなたをさばく証人になることもあるのですから。
23節、ヨシュアは、民の告白が真実なら、それが真実である証拠として、「今、あなたがたの中にある外国の神々を除き去り」なさいと命じています。その後で、「イスラエルの神、主に心を傾けなさい。」と言っています。
ヨシ 24:23 「今、あなたがたの中にある外国の神々を除き去り、イスラエルの神、【主】に心を傾けなさい。」
ここでは、ヨシュアは異教の神々(偶像)と、イスラエルの神(真の神)とをはっきりと区別させて印象づけています。当時は、戦いも終わって、相当、年月も過ぎており、残留していた異教の偶像がどれくらいイスラエル人の間に広がっていたかは分かりませんが、ヨシュアが何度も、外国の神々を取り上げていることは、異教の偶像がイスラエルの民の間に一般化する兆を見せていたのだと思われます。それが士師記の中に見られるようになります。
「主に心を傾け」ることができるようになるためには、その前にあらゆる心の中の偶像をいさぎよく捨てて、主だけが、自分の心を占領している状態にしておかなければなりません。しかし、イスラエルの民が、ヨシュアの警告を聞いて、外国の神々の一つでも捨てたという記録は、どこにも見られません。
「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、着物を着替えなさい。そうして私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。」(創世記35:2,3)
神を礼拝する前に、異教の神々を取り除かなければならないのです。
「だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」(マタイ5:23,24)
24節からは、第三回目の民の宣言を記しています。
ヨシ 24:24 民はヨシュアに言った。「私たちは私たちの神、【主】に仕え、主の御声に聞き従います。」
結局、今すぐ、外国の神々を取り除くという行動を取らないで、言葉だけの忠誠を繰り返したのです。彼らは、ヨシュアが警告していることの重大さと、その危険性を今なお実感していなかったのです。このことは、すでに彼らが背教し始めている兆候であったのです。彼らの答えは、口先だけの忠誠ではなく、主が喜ばれないものはすべて取り除くという行動をもっての答えでなければならなかったのです。彼らが、「これから真実に主に仕える生涯を送ります。」と言うのなら、その前にすべての偶像を取り除いて、その信仰の決意が真実であることを証しすべきなのです。
25節、ヨシュアは、この口先だけの忠誠に不満を抱いていたでしょう。しかし民は一歩も行動に移そうとしなかったので、仕方なしに、その日、民と契約を結び、おきてと定めを定めています。
ヨシ 24:25 それでヨシュアは、その日、民と契約を結び、シェケムで、おきてと定めを定めた。
しかし背教をもてあそんでいる者がする契約も、おきても、定めも、何の価値もあろうはずがありません。それがどんなに厳粛な内容を含んでいたとしても、契約者自身に厳粛な、本当にそれを守ろうとする信仰がなければ、その契約はむなしく、わざわいを招くだけになります。
26、27節、ヨシュアは、この仕事を彼の生涯の最後の神聖な公務としようとして、「これらのことばを神の律法の書にしるし、大きな石を取って・・・立て、・・・見よ。この石は、私たちに証拠となる。・・・」と宣言しました。
ヨシ 24:26 ヨシュアは、これらのことばを神の律法の書にしるし、大きな石を取って、【主】の聖所にある樫の木の下に、それを立てた。
24:27 そして、ヨシュアはすべての民に言った。「見よ。この石は、私たちに証拠となる。この石は、【主】が私たちに語られたすべてのことばを聞いたからである。あなたがたが自分の神を否むことがないように、この石は、あなたがたに証拠となる。」
このことは、ヨシュアが、いかにもして、民の心の中に、神との契約の重要性を深く刻みつけようとしている気持ちが表わされています。しかしそれはまた、ヨシュアの心の中にあった、民への不安とあせりでもあったかのようです。いかにもして、民が将来においても、主から離れていかないようにというあせりさえ見せています。どんなに大きな声で宣言しようとも、どんなに大きな石を立てようとも、またどんな板に神のみことばを書きつけようとも、人の心に書きつけられる以上に確かなものはないのです。
「わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、私の定めを守り行なわせる。」(エゼキエル36:27)
「あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。」(コリント第二 3:3)
このことは歴史が証明しています。エルサレム会議が行なわれ、ニカヤ会議が行なわれ、カルケドン会議が行なわれて、どんなに正しい信条が成文化されても、またどんなに私たちが聖書の知識をノートに書き記し、聖句を記憶しても、クリスチャンの背教は繰り返されて来たのです。神のみことばが人の心の奥深くに神の御霊によって書き記されない限り、人は背教する危険性を持っているのです。
ヨシュアは、民が主に忠誠を尽くすために、彼の出来る限りのことをしました。確かに、彼は勤勉でした。彼以上に努力し、戦った人もいないでしょう。彼の生涯は、私たちが最も模範とすべき価値高いものです。しかし、彼が勝ち取ったカナンの地は、やがて失われ、彼が警告した最大の労力は、たちまち反古にされてしまったのです。ですから、永遠に残るものは、神のなされたみわざだけなのです。パウロは、「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。」(コリント第一 13:13)、と言って、いつも永遠のものを求めて、働いていたのです。あなたが一生涯、働いて永遠に残せるものは、一体何でしょうか。そのことを考えて働くなら、有意義な生涯となるでしょう。
「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。」(ヨハネ6:27)
28節、ヨシュアは、民をそれぞれ自分の住まいである相続地に帰らせました。
ヨシ 24:28 こうしてヨシュアは、民をそれぞれ自分の相続地に送り出した。
ヨシュアの生涯での最後の集会が終わったのです。ヨシュアのすべての仕事は終わったのです。あたりは静かになり、人々の足音も消え、ヨシュアは一人になりました。彼が命をかけ、生涯をかけて戦って来た人々は去って行きました。各々の思いを抱いて去って行ったことでしょう。ヨシュアは、これらの人々のことを何十年も心に抱き、心を砕き、指揮して来たのです。そして、その仕事を今、終えたのです。ヨシュアは感慨深く、一人たたずんでいたでしょう。そして自分を育ててくれたモーセを、思い出していたかも知れません。また、これまで力を与え続け、みことばを実現して下さった主に感謝をささげ、頭を垂れていたかも知れません。彼の長くのびた白髪は風になびいてゆれていたように、彼の心は、その生涯に出会った思い出が心の中を通っていたことでしょう。どの思い出も、その一つ一つが神の愛で、彼の心を熱くしたでしょう。神の老兵が一人立っていたのです。
彼の生涯は確かに勝利に満ちていました。しかし、彼の心には、一抹の心配があったのです。それは、神の民が、まっすぐ神の道を歩んでくれるだろうか、という心配です。しかし彼はそのすべてを永遠の指揮者であられる主に、お委ねしたのです。そしてきっと、彼がこれまで何度も聞いていた、あのお約束のみことばを聞いたに違いありません。
「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(ヨシュア記1:9)
このヨシュアの最期を書きつつ、私の最期も、斯くの如くありたいものだと思うのです。
29~33節、三人の指導者の死と埋葬
29~31節、ヨシュアの死と埋葬
29節、ヨシュアは、百十才で召されています。
ヨシ 24:29 これらのことの後、【主】のしもべ、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死んだ。
彼の人生の前半はモーセの従者として、後半は孤独な戦いの指揮者として。彼の生涯は戦いで色どられています。
彼は、モーセの死の時と同じように、「主のしもべ」という称号を受けています。それは彼の師がそうであったように、彼もまた、その全生涯を通して主に忠実であったことを物語っていlます。
彼はまた「ヌンの子ヨシュア」と記されています。彼は父の信仰を正しく継承し、父の信仰を裏切らなかったのです。
もし、私たちがこの二つを全うできたら、どんなに幸いでしょう。生涯を通して主に忠実であり、主を信じる信仰を正しく継承することができたら、これ以上の生涯は他にはありません。
31節には、ヨシュアの影響力が記されています。
ヨシ 24:31 イスラエルは、ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って、【主】がイスラエルに行われたすべてのわざを知っていた長老たちの生きている間、【主】に仕えていた。
ヨシュアがイスラエルの民に与えた訣別の言葉は、警告とともに、真心のあわれみが満ちていました。
彼の言葉には、慈父としての勧めがあり、軍隊の司令官としての命令もあり、彼の決断は高貴な模範でした。
ヨシュアの霊的、信仰的影響力は、ヨシュアとともに戦った長老たちの生きている間、続きました。その影響力は少なくとも、ほぼ半世紀は続き、主に仕える忠誠を保ったと思われます。もし、そうであるとすれば、最低限、五十年に一人は霊的に強力な影響力のある神の器が起こされる必要があります。
しかし、もっとよいことは、ヨシュアのように、偉大な影響力を持つリーダーでなくても、普通の一般の信仰者が毎日、子どもや孫たちの前に、主に対する真実な忠誠を表わしている生活をしていくなら、このほうがずっと安全で、堅固に信仰を継承することが出来ます。私たちは、すぐれた指導者を求めることに気を取られて、毎日、自分たちが継承していくべき信仰生活を忘れてはなりません。
32節、ここでは突然、挿入的にヨセフの骨の埋葬のことが記されています。
ヨシ 24:32 イスラエル人がエジプトから携え上ったヨセフの骨は、シェケムの地に、すなわちヤコブが百ケシタでシェケムの父ハモルの子らから買い取った野の一画に、葬った。そのとき、そこはヨセフ族の相続地となっていた。
おそらく、ここに偉大な指導者の死と埋葬のことを記しているので、ヨセフのことも列記したものと思われます。
創世記50章25節(ヘブル11:22)で、ヨセフはイスラエルの子らに、主がイスラエルを顧みてくださるから、エジプトを出る時には自分の遺体もエジプトから携え上ってくれるように頼んでおきました。おそらくモーセも、ヨシュアもこのことを忘れず実行したのです(出エジプト記13:19)。ミイラになったヨセフの遺体を、出エジプトの忙しい脱出の時にも忘れず、運び出していたのです。旅の途中も、ずっと携えていたのです。
おそらく、ヨセフの遺体の埋葬は、ヨシュアの死のずっと前に行なわれていたものと思われます。しかし、それをここに記したのは、偉大な指導者たちの死と埋葬を並べたこととともに、ヨセフの名前がイスラエルに記憶されて、その尊敬を表わす意味があったと思われます。それは、ヨセフはその兄弟たちを救うことによって、イスラエル民族を救った人物であり、ヨセフの頼んでおいたことがきちんと守られたことは、神のご目的に従順に従っていく信仰がどんなに重要かを民に示すのに役立っていると思われます。
ヨセフの骨が葬られた所がヨセフ族の相続地となっていたことは、神の家族の地位も、名誉も、相続財産も、注意深く守られていることを示しています。ヤコブがシェケムの父ハモルの子から野の一画を買い取ってから、五百年以上も経っていたのに、その場所がすぐに判定できたことは、昔の制度も、そんなに好い加減でなかったことを示しています。
33節、アロンの子エルアザルの死と埋葬
ヨシ 24:33 アロンの子エルアザルは死んだ。人々は彼を、彼の子ピネハスに与えられていたエフライムの山地にあるギブアに葬った。
エルアザルの死は、当時の、霊的指導者を失った民を暗示しているかのようです。人々は彼の子ピネハスに望みをおくしかなかったようです。
エルアザルは目立たなかった祭司ですが、モーセとヨシュアと、二人の偉大な指導者のもとにあって、自分の責任を果たしていた人です。彼の功績はあまり聖書に記されていませんが、イスラエルの相続地の分割の時、ヨシュアとともに働いていました(14:1)。彼の存在は、ヨシュアの大きな助けとなっていたでしょう。アロンとフルがモーセの腕を支えていたように、エルアザルはヨシュアの片腕となって働いたのです。
こうして、ヨセフも、モーセも去り、ヨシュアも、エルアザルも地上を去り、なにか物悲しい寂しさを感じさせますが、一方、年は取っても意気盛んなカレブは元気ですし、勇敢なピネハスもいます。歴史は少しずつ、主のご計画に沿って進んで行っているのです。
しかし、こうして高貴に、勇敢に信仰の道一筋に生きた人の生涯を見る時、主は私たちにも同じ人生を約束して下さっていることを深く思わせられ、信仰を奮い立たせられるのです。
(ヨシュア記 終わり)
あ と が き
初春や みことばにぎり 光りみつ
昨年、ちょっと俳句の手ほどきを受けまして、へたな一句を書き添えさせていただきました。お笑い下さい。
今年も、主にある家族としてのお交わりをさせていただきたいと思っています。
この世にあって、信仰を全うしようとすると、嘲りやののしりが押し寄せてきますが、今年もお互い、重荷も痛みも分ち合って前進する年にしたいと思っています。
昨年は、ギックリ腰など、痛い思いもずい分しましたが、その分、喜びもお分ち出来て感謝です。
聖書の探求のヨシュア記の原稿は完了しています。今年は士師記に入ります。
申命記まで生きていられるかと思ったこともありましたが、主のあわれみです。
(まなべあきら 2001.1.1)
(聖句は新改訳改訂第三版より)
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