聖書の探求(214,215) ヨシュア記24章1~13節 ヨシュアの告別の言葉(過去の歴史の回顧)

24章は、イスラエルの歴史の回顧と奨励を行なっています。これは23章とは、別の機会に語られています。


上の写真は、ゲリジム山(左)とエバル山(右)の間の山麓の町、現在のナブルス(古代のシェケム)(Wikimedia Commonsよりהר עיבל והר גריזים .jpg)


分解

1~13節、過去の歴史の回顧
14~15節、契約更新の訴え
16~28節、契約更新
29~33節、ヨシュアとエルアザル(指導者たちの死)

1節、場所はシュケムです。

シェケムは地形的な音響効果から、大会衆に語るのに適していたので、この地が選ばれたものと思われます。

ヨシ24:1 ヨシュアはイスラエルの全部族をシェケムに集め、イスラエルの長老たち、そのかしらたち、さばきつかさたち、つかさたちを呼び寄せた。彼らが神の前に立ったとき、

ヨシュアは先ずそこに「イスラエルの長老たち、そのかしらたち、さばきつかさたち、つかさたちを呼び寄せ」て、神の前に立たせています。その上で、すべての民に最後の勧告を行なったのです。ですから、ヨシュアは威儀を整えて、最後通告を行なったものと思われます。

彼は、この最後の告別の辞の中で、
アブラハムの召命からヨシュア自身の時代までのことを語り、
その間に行なわれた神の救いのみわざを語り、
そこで起きた不思議な神の奇跡のみわざを語りました。

これらを語り聞かせることによって、神の民の信仰が鼓舞され、勇気づけられ、この神に忠実に従って歩むなら、神は彼らに対しても、すべての必要を喜んで与えてくださることを確信させようとしたのです。この目的は、一応、成功しています。ただ、民の信仰が更新継続できなかったところに問題があるのです。

2~13節、過去の歴史の回顧

この歴史の回顧の中で、ヨシュアが信仰者に教えようとしていることは、神の忠実は永遠に変わらないことです。このことさえ、心の奥でしっかり信じて、握り続けていれば、これから先、どのような事態の中に置かれても、案じることはありません。

この歴史の回顧は、「イスラエルの神、主はこう仰せられる。」という言葉で始まっています。それ故、この回顧は、ヨシュア自身が回顧して、歴史的意味を述べているのではなくて、神ご自身が、神の民に回顧させて、その歴史的意味を悟らせようとなさっている意図があります。これを見ると、今日の私たちが歴史を学ぶ時も、その中に神の忠実さがいかに表わされているかを悟ればいいのだなと分かります。

ここで扱われている歴史の一コマは、テラから始まりカナン入国後の生活までを取り扱っています。

その中で、神が、神の民をどのように取り扱われたか、また、敵対者たちが、どのように襲いかかって来て、彼らがどのように撃退されていったかを記しています。その中に、神のご忠実を見るようにと意図されているのです。

この歴史の記述が、アブラハムからではなく、その一世代前のテラから始まっているところに特徴があります。

ヨシ 24:2 ヨシュアはすべての民に言った。「イスラエルの神、【主】はこう仰せられる。『あなたがたの先祖たち、アブラハムの父で、ナホルの父でもあるテラは、昔、ユーフラテス川の向こうに住んでおり、ほかの神々に仕えていた。

テラについて言えば、

1、「ほかの神々に仕えていた。」(2節)すなわち、偶像礼拝者であった。そしてテラは、「あなたがたの先祖たち」と言われて、イスラエルの民の先祖の一人に加えられています。これが神の選民としてのイスラエルの歴史のスタートとして描かれています。このことを考えるなら、私たちの一世代前の親たちの中には偶像礼拝者であった人たちも多いのではないでしょうか。(もし、あなたの両親が主を信じる者となられていて、あなたをその信仰で育てて下さったのであれば、最高の特権を相続させていただいたことを、感謝してください。)しかし神は、そのような中から、あなたを取り出して神の民をお造りになっておられるのです。このことを悟って、ますます信仰に励もうではありませんか。

2、彼は「昔、ユーフラテス川の向こうに住んでおり」「昔」と言ったのは、その後、「カランの地まで来て、そこに住みついた」(創世記11:31)ことを含んでいると思われます。しかしテラは、神の約束の地のカナンにまでは来なかったのです。テラは、カランで死んでいます。彼は偶像礼拝の地を出たのだけれど、神の約束の地まで到達しなかったように暗示しています。

イスラエル人にとって、「川を越える」ことは、大きな意味を持っているように思われます。

ユーフラテス川を越えたこと、
紅海を渡ったこと、
ヨルダン川を渡ったこと、

これらは、どれも、イスラエルに大きな転機をもたらしたのです。川の向こうにとどまっているか、こっちに渡っているかは、信仰的に全く違った意味を持っていたのです。それは信仰者の将来と永遠の運命をも決定する重大な意味を持っているのです。

3、ヨシュア記24章2節では、テラは「アブラハムとナホルとの父」と記されています。

しかし、創世記11章27節では「テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生んだ。」とあります。テラには三人の息子がいたことが分かります。この三人の記述の順序が生まれた順であるとすれば、アブラムは長男だったことになります。そして最後のハランはロトを生んだ後、カルデヤのウルで死んでいます。それで、テラは、ウルを出る時に、死亡したハランの代わりにその家督を受け継いでいたと思われる孫のロトを連れて行ったのです。

創世記11章29節では、ナホルは多分弟であり、ウルで死んだハランの娘のミルカと結婚していますが、ナホルがテラと一緒にウルを出発したことが記されていません。後の記事を見ると、ナホルも同伴したことは明らかですが、ナホルは聖書の中心からはずれて行っているために記録されなかったのでしょう。

しかし創世記29章5節で、ヤコブがカランに行った時、「あなたがたはナホルの子ラバンをご存じですか。」と尋ねています。そして、やがてヤコブは、ナホルの孫娘にあたる、ラバンの二人の娘レアとラケルと結婚することになるのです。

創世記31章53節では、ラバンは「どうかアブラハムの神、ナホルの神-彼らの父祖の神-」と言っていますから、まだ幾分か、信仰を保っていたものと思われますが、ラケルが父ラバンの所有のテラフィム(カランの偶像)を盗み出していたことを見ると、それほどの信仰があったとも思えません(創世記31:19,30)。

テラが川向こうの偶像礼拝者として記されているのに対して、アブラハムはユーフラテス川の向こうの偶像礼拝者たちの地から神によって取り出された人物として描かれています。

24:3 わたしは、あなたがたの先祖アブラハムを、ユーフラテス川の向こうから連れて来て、カナンの全土を歩かせ、彼の子孫を増し、彼にイサクを与えた。

そして2節では「あなたがたの先祖たち」となっていたのに、3節では「あなたがたの先祖アブラハム」と単数形になっています。2節の「先祖たち」は血筋の上での先祖たちでしょう。しかし3節は「信仰者の祖」としての先祖を意味しています。もし、あなたが家族の中で最初の信仰者なら、アブラハムのように信仰者の祖となって下さい。祖の祝福は千代にまで及ぶ(出エジプト記20:6)と言われています。

神は彼をカナン全土を歩かせたと言っています。これが信仰です。
「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。」
「歩く」ことは、信仰の実際的活用、行動を意味しています。神の約束があっても、あなたの信仰の服従がなければ、神の約束はあなたの上に実現しません。信仰が実際生活のあらゆる面で活用される時、どんな敵対者の妨害があっても、神の約束は実現するのです。

4節、アブラハムの約束の子イサクは、双子のヤコブとエサウが「与え」られています。

ヨシ 24:4 ついで、わたしは、イサクにヤコブとエサウを与え、エサウにはセイルの山地を与えて、それを所有させた。ヤコブと彼の子らはエジプトに下った。

二人とも、神によって与えられた子どもです。そしてエサウが兄なのに「ヤコブとエサウ」となっているのも、エサウが信仰の道からはずれていったからでしょう。彼は神の祝福を受ける長子の特権よりも、空腹を満たすスープを選ぶことによって、彼の肉的性質を現わしてしまったのです。後にヤコブに神の家督の祝福を奪われてしまった時、泣いて神の祝福を求めても、彼は神の祝福を永遠に受け継ぐ長子の権利を回復することができなかったのです。彼の、この世の富に執着する肉的性質が変わらなかったからです。彼が神の国と神の義よりも、この世のものを第一に求め続けたために、永遠の恵みを失ったのです。エサウは、セイル山の一帯を彼の相続地として与えられ、一時、繁栄し、その地一帯の支配者となりましたが、今や彼の民族エドム人は地上に存在しません。

ヤコブは摂理の下でエジプトに下って行ったのです。ここにはヨセフのことは何も書いていません。神の民の繁栄は、セイル山においてではなく、皮肉にも異教の地エジプトにおいてだったのです。

しかしアブラハムが偶像の町から連れ出されたように、イスラエルも偶像の地エジプトから連れ出されなければなりませんでした。そのために神はモーセとアロンを遣わされました(事実上、遣わされたのはモーセでしたが)。

ヨシ 24:5 それからわたしは、モーセとアロンを遣わし、エジプトに災害を下した。わたしがその真ん中で行ったとおりである。その後、あなたがたを連れ出した。

そして、心を頑なにして、主のご命令に従順に従おうとしなかった(すなわち、心から喜んで、イスラエルを解放して、カナンの地で主に礼拝をささげることを許さなかった)エジプト人に対して、神は災害を下したのです。

このことは、神に従おうとしている民にとっては、救いとなったのです。神のみわざ
が災害となるか、救いとなるかは、あなたが神に対して、心を頑なにしているか、それとも喜んで従順に従おうとしているかによって決まるのです。

その後、神が、「あなたがたを連れ出した。」と言っています。

モーセとアロンを遣わしたのも神、
エジプトに災害を下したのも神、
イスラエルをエジプトから連れ出したのも神。

主はこれらのことについて、こう言っておられます。「わたしがその真中で行なったとおりである。」と。神の臨在こそ、すべてのみわざの源泉、原動力なのです。

イスラエル人は、エジプトの奴隷生活から解放されて、神の約束の国で生活するようになるまでに、多くの敵対者に出会ったのです。
最初はエジプト人です。エジプト人はその時代に最強の権力を誇示していました。

彼らは十の災いの後、イスラエルを解放した後も、彼らを追跡しました。エジプト人にとって、イスラエルは最も安い、そしてどんなに過酷にでも使える労働力だったからです。

ヨシ 24:6 わたしが、あなたがたの先祖たちをエジプトから連れ出し、あなたがたが海に来たとき、エジプト人は、戦車と騎兵とをもってあなたがたの先祖たちのあとを追い、葦の海まで来た。

イスラエルが「海に来たとき、」それは通常の方法では、もうそれ以上、前に進めない絶体絶命の岸に立たされた時、人間の知恵と力では万策尽きた時です。しかも、うしろにはエジプトの軍隊が戦車と騎兵をもって目前に迫っていたのです。その時が神の時であったのです。

この時も、神がイスラエル人とエジプト人の間に入られ、神の臨在が勝利の鍵となったのです(出エジプト記14:19,20)。

それでも、神は無条件にこのみわざを行なわれたのではありません。「あなたがたが主に叫び求めたので、」 神は民に叫ばせました。民が叫び求めるのを待たれたのです。すべての恵みは、「求めの切なるにより」(文語訳ルカ11:8)て与えられるのです。

「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。」(ルカ18:7)

ヨシ 24:7 あなたがたが【主】に叫び求めたので、【主】はあなたがたとエジプト人との間に暗やみを置き、海に彼らを襲いかからせ、彼らをおおわれた。あなたがたは、わたしがエジプトで行ったことをその目で見てから、長い間、荒野に住んだ。

主はイスラエルの民の叫びに答えて、一瞬の遅れもなく、みわざを行なわれました。エジプト人の前には暗やみが置かれ、彼らは突然暗やみの中で前進できなくなったのです。そして今まで両側に分かれていた紅海の水が彼らの上に襲いかかり、彼らはその水に飲まれて鉛のように沈んでしまったのです。

イスラエル人はこれらの出来事の一部始終を自分の目でしかと見ていたのです。それなら神の御力を信じて、魂は大いに勇気づけられたでしょうし、また、神は自分たちの求めに従って、決して遅れることなく、すべての必要を忠実に満たしてくださることを信じることができたでしょう。それなのに、彼らが真っすぐ、カナンの地に入らないで、長い間、荒野に住んでいたことは異常なことです。

私たちは、自分が経験した信仰は、それをよく悟って、その後の毎日の生活に活用すべきです。イエス様の救いを経験した後、ずっと魂が荒野の状態の生活をしているなら、それは健全な信仰ではありません。

第二の敵は、「ヨルダンの向こう側に住んでいたエモリ人」です。

ヨシ 24:8 それからわたしはヨルダン川の向こう側に住んでいたエモリ人の地に、あなたがたを導き入れた。彼らはあなたがたと戦ったが、わたしは彼らをあなたがたの手に渡したので、あなたがたはその地を占領した。わたしが、あなたがたの前から彼らを根絶やしにしたからである。

イスラエルはエモリ人の地を通って、ヨルダン川の岸に向かい、カナンの地に入って行こうとしていたのです。イスラエルはエモリ人の王シホンに、「あなたの国を通らせてください。私たちは畑にもぶどう畑にも曲がってはいることをせず、井戸の水も飲みません。あなたの領土を通過するまで、私たちは王の道を通ります。」(民数記21:22)と頼みましたが、シホンは通ることを許さず、エモリ人を集めてイスラエルを迎え撃ったのです。その結果、神はエモリ人をイスラエルの手に渡し、彼らは根絶やしにされ、その地を占領したのです。

第三の敵は、モアブの王ツィポルの子バラクです。

ヨシ 24:9 それから、モアブの王ツィポルの子バラクが立って、イスラエルと戦い、ベオルの子バラムに人をやって彼を呼び寄せ、あなたがたをのろわせようとした。
24:10 わたしはバラムに聞こうとしなかった。彼は、かえって、あなたがたを祝福し、わたしはあなたがたを彼の手から救い出した。

彼は、シホンのように直接イスラエルと戦おうとせず、ベオルの子バラムを雇って、イスラエルをのろわせて、勝とうとしたのです。優柔不断なバラムは、自分の欲と神に対する良心の間を散々、さ迷いました。人はそのように肉の心を持っているので迷いますが、神は迷わなかった。バラムが神にどんな訴えをしようと、どんな願いをしようと、神はバラムによって左右されることはなかった。神はイスラエルをのろいのワナの中から救い出されたのです。

第四の敵はエリコの人たちと、カナン七族です。

ヨシ 24:11 あなたがたはヨルダン川を渡ってエリコに来た。エリコの者たちや、エモリ人、ペリジ人、カナン人、ヘテ人、ギルガシ人、ヒビ人、エブス人があなたがたと戦ったが、わたしは彼らを、あなたがたの手に渡した。

これはヨシュアをリーダーとして戦ったカナン全土の攻略の戦いのことを言っています。この戦いは多部族との長い期間にわたっての激しい戦いでしたが、神は敵対者をみな神の民の手に渡されたので、勝利を続けることができたのです。もし、あなたが困難を一つ、また一つと乗り越えることが出来ているなら、それは主ご自身が戦ってくださっているからです。このことを忘れてはなりません。

神は、これらの過去の神の救いのみわざをイスラエルに聞かせることによって、二つの大切なことを悟らせようとしておられます。

第一は、これらの勝利が実現したのは、「あなたがたの剣にもよらず、またあなたがたの弓にもよらなかった。」(12節)

当時、イスラエルはエジプトの奴隷状態から解放されたままで、さらに四十年間の放浪生活を終えたままで、戦いの訓練を受けていたわけでもなく、戦いのための技術も、武器も、勇気も、何も持っていなかったのです。彼らは、戦いにおいて勝つことができる可能性をどこにも見い出せなかったのです。

「あなたが彼らの地を所有することができるのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。それは、これらの国々が悪いために、あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。また、主があなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブになさった誓いを果たすためである。
知りなさい。あなたの神、主は、あなたが正しいということで、この良い地をあなたに与えて所有させられるのではない。あなたはうなじのこわい民であるからだ。」(申命記9:5,6)

「権力によらず、能力によらず、私の霊によって。」(ゼカリヤ書4:6)

勝利の秘訣は、神であられる「わたし」、すなわち、神の御霊によってなのです。敗北した民は、いつでも神がご計画を果たされようとすることを妨害し、神と神の民に敵対したからです。神の民が真実に神のご計画を実現しようと働いている時に、それを妨害し、敵対する者は、必ず敗北することは今も同じです。

「わたしは、あなたがたの前にくまばちを送ったので、くまばちがエモリ人のふたりの王をあなたがたの前から追い払った。」(12節)

ヨシ 24:12 わたしは、あなたがたの前にくまばちを送ったので、くまばちがエモリ人のふたりの王をあなたがたの前から追い払った。あなたがたの剣にもよらず、またあなたがたの弓にもよらなかった。

この「くまばち」が何を意味しているのかは、いろいろな意見があります。確かにパレスチナにはスズメバチが沢山いることは知られていますが、大方の解釈は、このスズメバチを比喩的表現に用いて、ある勢力を言い表わしていると考えています。

ガースタングは、この「くまばち」の侵攻は、パロ・トゥトメス三世が紀元前1479年に、メギドを侵略し、その後六十年間、侵略を続けたことだと言っています。それは、イスラエルがヨルダン川を渡って、エリコの城壁の前に現われたのが、そのパロによる六十年間の侵略に続いた直後だったからです。

この意見は、出エジプト記23章28節、
「わたしは、また、くまばちをあなたの先に通わそう。これが、ヒビ人、カナン人、ヘテ人を、あなたの前から追い払おう。」
をよく説明しています。29、30節を見ると、ヒビ人、カナン人、ヘテ人を追い払うのに長期間必要であることが言われているからです。パロ・トゥトメス三世は、六十年間侵略を続けています。

しかし、申命記7章20節では、
「あなたの神、主はまた、くまばちを彼らのうちに送り、生き残っている者たちや隠れている者たちを、あなたの前から滅ぼされる。」

これは、くまばちの侵略が、イスラエルがパレスチナに侵入する前に行なわれていなければならないこととは限っていません。イスラエルがパレスチナに定住して後も、主がくまばちを用いられた可能性が十分にあります。それ故、この「くまばち」を、ガースタングが言うように、パロ・トゥトメス三世に限ってしまうことには、問題点が残るのです。

第二の、主が悟らせようとしている点は、「わたしは、あなたがたが得るのに労しなかった地と、あなたがたが建てなかった町々を、あなたがたに与えた」ことにあります。

ヨシ 24:13 わたしは、あなたがたが得るのに労しなかった地と、あなたがたが建てなかった町々を、あなたがたに与えたので、あなたがたはそこに住み、自分で植えなかったぶどう畑とオリーブ畑で食べている。』

このことは、過去においてだけでなく、今、現在も、神の民に対して、神は愛の配慮をしてくださっており、神の国とその義とを第一に求める者に対して、必要なすべてのものを与えて下さることを証ししているのです。私たちは努力して働いていますが、すべて神の備えなしには、何も与えられないことを悟って、自らの働きを誇って、高慢にならないように自戒したいものです。

このような恵み深い、また約束を忠実に果たして下さった神のみわざを目の前に突きつけられた神の民は、どうすべきだったのでしょうか。ひれ伏して、感謝をささげるほかに何があるでしょうか。そして、そういう神様に対して呟(つぶや)いたことを深く悔い改め、再度、献身と信仰を更新し、二度と不信仰に陥ることのない神への信頼と確信と希望とを、神に表わすべきではないでしょうか。

このような神の忠実な、恵みに満ちた歴史を見るなら、これから先の信仰生活において、心配することは一つもなく、安心して主に従っていくことができます。

あ と が き

初春や みことばにぎり 光りみつ

昨年、ちょっと俳句の手ほどきを受けまして、へたな一句を書き添えさせていただきました。お笑い下さい。
今年も、主にある家族としてのお交わりをさせていただきたいと思っています。
この世にあって、信仰を全うしようとすると、嘲りやののしりが押し寄せてきますが、今年もお互い、重荷も痛みも分ち合って前進する年にしたいと思っています。
昨年は、ギックリ腰など、痛い思いもずい分しましたが、その分、喜びもお分ち出来て感謝です。
聖書の探求のヨシュア記の原稿は完了しています。今年は士師記に入ります。
申命記まで生きていられるかと思ったこともありましたが、主のあわれみです。

(まなべあきら 2002.1.1)
(聖句は新改訳改訂第三版より)


「聖書の探求」の目次


【月刊「聖書の探求」の定期購読のおすすめ】
創刊は1984年4月1日。2023年5月現在、通巻471号 エステル記(9)5~6章
まだまだ続きます。

お申し込みは、ご購読開始希望の号数と部数を明記の上、振替、現金書留などで、地の塩港南キリスト教会文書伝道部「聖書の探求」係にご入金ください。
一年間購読料一部 1,560円(送料共)
単月 一部 50円 送料84円
バックナンバーもあります。
(複数の送料) 3部まで94円、7部まで210円.多数の時はお問い合わせ下さい。
郵便振替00250-1-14559
「宗教法人 地の塩港南キリスト教会」


発行人 まなべ あきら
発行所 地の塩港南キリスト教会文書伝道部
〒233-0012 横浜市港南区上永谷5-22-2
電話FAX共用 045(844)8421